『沈黙 −サイレンス−』

 ご存知遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシが映画化。ここ最近のスコセッシはそんなに好きではないので、上映時間約2時間40分というのを聞いてややためらう部分もあったのですが、さすが重厚かつ緊迫感のある作りで画面に集中させられました。
 撮影もよいですし、台湾ロケながら江戸時代の日本の様子もよく再現されていると思います。神父から習っていたという設定で隠れキリシタンの何人かが英語を話すというのにはリアリティがないですが、そこはアメリカ映画なのでしょうがない。
 イッセー尾形塚本晋也窪塚洋介浅野忠信といった日本人の役者もよく、「変な日本」が描かれていてしらけるということはまったくなかったですね。


 キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる島原の乱後の日本を舞台にして、師であるフェレイラ神父が棄教したとの噂を信じることのできないロドリゴ神父とガルペ神父は、キチジローという漁師の男を頼りに日本に密かに渡ってくる。彼らは日本で隠れキリシタンを導こうとするが、弾圧の手は彼らを匿っていた村にも及び、神父たちは村人たちが自分たちのために犠牲となることに苦悩する、というのがこの映画の設定。


 有名な「日本は沼地だ」とのセリフにあるように、キリスト教が根付かない日本の特殊性といったものもこのお話のテーマの一つなのですが、今回、この映画を見て強く印象に残ったのは「目の前の人の命を助けるのか?それともより大きな救済を目指すのか?」という問題。
 ケビン・カーターの「ハゲワシと少女」の写真なんかが代表例ですが、他にも「援助は援助を受ける人を帰って駄目にする」といった議論なんかでも、この「目の前の人の命を助けるのか?それともより大きな救済を目指すのか?」という問題は出てきます。
 この映画で神父は「キリスト教の教えに殉じるか?それとも棄教して目の前の人を救うか?」という判断を迫られます。これはクリスチャンにとっては本当に大きな問題なのでしょうが、クリスチャン以外の人にとっても、この問題は「目の前の人の命を助けるのか?それともより大きな救済を目指すのか?」という問題に変換でき、考えさせられると思います。

 
 あとこの映画で印象に残るのは弾圧する幕府の役人側の狡猾さ。
 彼らはさかんに「絵踏」(「踏絵)をさせます。幕府の役人自らが言うように、これは形式的なものであり、ちょっと踏めばいいだけです。
 キリスト教では内面の振興を重視するため、おそらく「問題ない」と答えるクリスチャンも多いのではないかと思われます。
 しかし、その内面は外からは見えないわけで、いくら内面では神を信じつづけていても、「絵踏」をすることで内面と外面の一体性は揺らぎます。
 「信仰か死か」といった二者択一を迫るのではなく、この内面と外面の一体性を揺さぶることで、「転ばせて」いくのです。キチジローはそういった中で、この内面と外面の一体性を失ってしまった人物なのでしょうね。


沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作
4101123152