ボラーニョの最初期の中編『象の道』(1981〜82年頃に執筆され94年に刊行)を、1999年に改稿・改題されて刊行された小説で、ボラーニョがそのスタイルを確立する前に書かれた中編です。
96年に刊行された『第三帝国』と『はるかな星』になると、以降のボラーニョ作品のモチーフ、「詩人」、「失踪」、「暴力」、「ナチス」といったものはほぼすべて出揃っており、ボラーニョが同じテーマを描き続けてきたことがわかるのですが、この『ムッシュー・パン』に出てくるのは「詩人」くらいで、ある意味で新鮮な印象を受けます。
主人公はメスメリスム(人間の周囲にある「動物磁気」なるものに触れたりすることで患者を治療するという一種の催眠術のようなもの)を信奉するピエール・パンという男。舞台は1938年のパリで第二次世界大戦が勃発する直前で、パンも第一次世界大戦の傷痍軍人という設定になっています。
そのパンのもとにペルーの詩人セサル・バジェホの治療をしてほしいという依頼が舞い込みます。バジェホはシャクリが止まらない謎の症状に苦しめられており、このままで長くは持たないと思われていたのです。
このバジェホは実在の詩人です。さらにピエール・パンも実在の人物だといいます。他にもキュリー夫人の夫であるピエール・キュリーなど実在の人物のエピソードが登場します。
このように書いていくと、かなりリアリティの強い小説を想像する人もいるかもしれませんが、むしろ描かれるのは主人公が巻き込まれていく不思議な世界で、パリの街や病院を彷徨うシーンなどは幻想的とも言えます。
また、主人公の前に現れる謎のスペイン人の二人組などは村上春樹の小説の登場人物を思わせるもので、日本人の読者にとっては読みやすいかもしれません。
ただ、読みやすくはありますが、やはりこれ以降の作品と比べると個人的には物足りない気がしました。『第三帝国』や『はるかな星』以降の作品が、ボラーニョにしかかけない作品であるのに対して、この『ムッシュー・パン』は他の作家でも書ける作品のように思えるのです。
つまらない作品ではないですが、ボラーニョの入門としては『はるかな星』か『通話』をお薦めしたいですね。
ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)
ロベルト・ボラーニョ 松本 健二