真辺将之『大隈重信』

 明治初期の日本の近代化を進めた中心人物であり、二度首相を務め、早稲田大学創立者としても有名な大隈重信。しかし、意外にも手に取りやすい評伝はあまり見当たらないのが現状です。
 そんな中で中公叢書から大隈の評伝が登場。本文だけで450ページ超というかなりのボリュームですが、大隈のさまざまな事跡を丁寧に拾い上げ、政治家としての大隈を総合的に描こうとしています。


 ちなみに大隈の評伝があまりない背景としては、大隈が「自ら文字を書かない人間であった」(4p)ということもあるそうです(記憶力が抜群によく、日記やメモなどを残す必要性をもっていなかったらしい)。


 目次は以下の通り。

第一章 近代西洋との遭遇――佐賀藩士・大隈八太郎
第二章 近代国家日本の設計―明治新政府での活動
第三章 「立憲の政は政党の政なり」―明治一四年の政変
第四章 漸進主義路線のゆくえ-立憲改進党結成から条約改正交渉まで
第五章 理念と権力のはざまで―初期議会期の政党指導
第六章 政党指導の混迷―第一次内閣以後の政党指導
第七章 日本の世界的使命―東西文明調和論と人生一二五歳説
第八章 世界大戦の風雲のなかで―第二次大隈内閣の施政
第九章 晩年の大隈重信―国民による政治と世界平和を求めて
おわりに―歴史の「大勢」のなかで


 さすがに大隈の生涯をまとめていくわけにもいかないので、興味深かった部分をいくつかあげていきたいと思います。


 まず、佐賀藩時代の大隈ですが、ここでは彼の要領の良さが目につきます。この本によると、大隈は分厚い良書はこれぞと思う読書家に「いいぞ」と吹聴し、貸してやって読み終わったらその大要を聞く(21p)ということをやっていたそうです。確かにこれは要領がいいですね。そして、要領だけではなく、良書に目をつけそれを仕入れる才能もあったことがわかります。
 おどろくべきことに大隈は洋行をしておらず、日本国内にいつづけたわけですが、それでも日本の近代化を主導することができたのは、この情報収集能力のおかげでもあるでしょう。


 幕末期には目立った活躍のなかった大隈ですが、新政府成立直後に長崎で各国領事との折衝にあたり、その長崎で井上馨(聞太)に出会ったことから運命が開けてきます。井上は大隈の才能を評価し、大隈を木戸孝允小松帯刀黒田清隆らに推挙します。
 井上はこの後もたびたび大隈を引き立てたり推挙したりしており、大隈の運命を変えた人物と言ってもいいでしょう。井上については新政府での汚職事件などから、司馬遼太郎には幕末に政敵から襲われて瀕死の重傷を受けたときに死んでおけばよかったなどと評価されている井上ですが、大隈を引き立てたというのは一つの功績でしょう。


 大隈はキリシタン問題でのパークスとの交渉で名を上げ、さらに財政問題でも活躍を見せ、「円」の誕生を主導します。
 大隈は1869年に上京すると築地に邸宅を構えます。この屋敷には井上馨伊藤博文五代友厚山口尚芳山県有朋といった若手政治家が毎日のようにやってきて議論を行い、「築地梁山泊」と呼ばれました(56p)。
 大隈は鉄道の敷設、電信線の敷設、工部省の設置など進歩的施策を断行していきます。これらの施策は大久保利通らの反発も受けましたが、木戸の後押しを受け大隈は新政府内で足場を固め、1870年には参議に就任します。


 この大隈と木戸、大久保の関係が岩倉使節団を境にして変化していくのも面白いところです。
 岩倉使節団に参加した木戸と大久保は、欧米での経験を通じて大久保は進歩的になり、木戸は保守化します。そして帰国後、木戸と大隈の関係は冷え込むのに対して、大久保と大隈の関係は緊密化するのです。
 大久保の帰国後は、大久保を中心にそれを大隈と伊藤博文が補佐する体制ができあがり、この体制のもとで日本の近代化が進められました。


 1878年、大久保が暗殺されると、大隈は参議筆頭格となり、内務卿となった伊藤とともに政権を主導する体制になっていきます。
 この時期、大隈を悩ませたのが西南戦争後のインフレでした。大隈は相変わらず積極財政を志向していましたが、伊藤はそのやり方に疑問を持ち始めるのです。
 また、議会開設をめぐっても大隈と伊藤・井上との間でズレが生じました。伊藤や井上が漸進的な議会開設を目指したのに対して、大隈は1年後の選挙、2年後の議院開会という急進的なスケジュールを示しました。これが明治14年の政変へとつながっていきます。
 大隈はこの意見書を伊藤や井上にはかることなく密かに提出しており、この意見書自体が大隈が伊藤や井上を出し抜く形の「陰謀」だったという考えもありますが、著者はこの意見書が有栖川宮に催促されてしぶしぶ出したものであることなどから「陰謀」だったという説には否定的です。
 ただし、伊藤や井上が大隈に不信感をもったのは事実であり、また井上毅がこれを問題視してさまざまな工作を行ったこともあり、大隈の政府での立場は悪くなります。さらに開拓使官有物払下げ事件が起こり、この払下げに大隈が反対したとの噂が流れます。実際に大隈が反対したのかどうかはよくわからないそうですが(130p)、大隈と関係に近い福沢諭吉門下が反対運動をしたことや、その一人でもあり大隈のブレーン的存在でもあった小野梓も反対の論陣を張ったこともあって大隈の立場は決定的に悪化し、大隈は政府を追われることになります。


 ご存知のように大隈は立憲改進党を結成し、自由党板垣退助とともに民権派のリーダーとなります。
 立憲改進党は入党にあたって党員三人以上の紹介が必要という厳しい入党資格を定めており(143p)、自由党よりも純化した政策集団を目指しました。
 また、この時期にのちの早稲田大学である東京専門学校を設立しています。東京専門学校の売りは「高等な学問を、外国語ではなく、日本語を用いて教授する」(147p)というものでしたが、政府は東京専門学校潰しのために、東京大学で英語で行っていた講義を日本語に改めます。母国語で高等教育が行われているのは日本の一つの特徴ですが、その裏には大隈の存在があったのですね。

 
 しかし、立憲改進党のほうは政府の度重なる妨害もあって順調には行かず、この局面を打開するために大隈は黒田清隆に接近します。開拓使官有物払下げ事件に見られるように黒田は大隈に良い感情をもっていませんでしたが、ともに行き詰まっていた大隈と黒田の間で協力関係が成立するのです。
 これが大隈の外相就任につながっていきます。条約改正交渉に行き詰った井上馨は後任に大隈を推挙、黒田が政府復帰交渉の仲介をしたこともあって大隈は政府に復帰、条約改正交渉を担当します。しかし、世論の反発の中、大隈は爆弾を投げつけられ右脚を切断する重傷を負います。
 こうして政府を去った大隈ですが、この本では憲法草案の審議において、大隈の働きかけもあって議会の法案提出権が盛り込まれたことが述べられています(172-173p)。


 政府とのつながりを再びつくった大隈でしたが、民意をつかむことはできず第一回の衆議院議員選挙で立憲改進党は300議席中46議席にとどまります。
 当初は自由党との民党連合路線をとりましたが、自由党の星亨が政府に接近すると改進党は存在感を失っていきます。改進党は対外硬派の諸党などと合同し進歩党となります。さらに大隈は松方正義と接近し、第二次松方内閣に外相として入閣します。いわゆる松隈内閣です。ここでも薩派と大隈の連携が成立しましたが、地租増徴をめぐる対立からこの内閣は短期間で崩壊しています。


 この後、第三次伊藤内閣は崩壊すると、大隈の首相の座がめぐってきます。自由党と進歩党が合同した憲政党による隈板内閣です。しかし、人事をめぐる対立や尾崎行雄の共和演説事件などであっさり崩壊。さらに、憲政党も星亨によって分断され、旧進歩党は憲政本党として再出発することになります。
 この後、伊藤博文立憲政友会をつくると憲政党の多くがこれに参加し、いわゆる桂園時代が出現します。桂園時代は、桂太郎と政友会の西園寺公望が情意投合することで政権を担った時代で、ここに憲政本党が付け入るすきはありませんでした。大隈の政党指導はうまく行かず、1907年に大隈は憲政本党の党首の座を去ります。
 

 しかし、ここから政治家としてもう一度復活するのが大隈のバイタリティ。1900年に政界を引退した板垣退助がそのまま政治家としては消えていったのに対して、大隈はもう一度首相になります。
 これは第二次内閣を組閣した1914年に大隈に対する国民的な人気があったからです。そして、それは政治活動というよりはさまざまな社会運動を通じて獲得したものです。
 憲政本党の党首の座を去った大隈は「文明運動」と呼ばれる東西文明の調和を理念とする運動を始め、教育に力を入れます。同仁会を援助し、国書刊行会の総裁となり(*現在の国書刊行会とは関係なし)、白瀬矗中尉の南極探検を後援し、日本自動車倶楽部会長となり、帝国飛行協会会長となり、帝国軍人後援会会長となり、スポーツ、特に野球の振興に努め、さらに人生一二五歳説を提唱しと、とにかく驚くほどさまざまな活動をしています。
 こうした活動や大隈の演説、そのポジティブな態度などが国民的な人気を生んでいくのです。


 この時期の記述で興味深いのが大隈の対中国観です。
 大隈は康有為や梁啓超を保護し、早稲田大学は多くの中国人留学生を受け入れました。孫文も保護しました、大熊は孫文について「大した人物でない」「康有為に比べれば人物は数等下だ」と評しており(330p)、革命ではなく清国政府の内部改革に期待を寄せていました。このような「新しい中国」に対する感度の鈍さが二一箇条の要求につながっているといえるのかもしれません。


 大隈に二度目の首相の座が回ってきたのは、元老側のある種の手詰まりからです。第一次護憲運動で桂内閣が倒れ、山本権兵衛内閣がシーメンス事件で退陣すると、元老たちは徳川家達を推挙しますが家達はこれを固辞、さらに清浦奎吾を推挙しますが清浦は組閣することができず、井上馨が推した大隈に首相の座が回ってくるのです。
 元老たちにとって混乱した政治に対処するために大隈の国民的人気は重要でしたし、また対政友会という面でも大隈と元老(山県)は協調できました。
 大隈はいずれ加藤高明に政権をゆずるねらいで加藤を副首相格の外相とし政権をスタートさせます。経済面では難しい舵取りが予想されましたが、それも第一次世界大戦の勃発によって吹き飛び、内閣は順調に船出します。
 1915年の衆議院選挙では、与党の立憲同志会が51議席増の148議席となり政友会を第一党から引きずり下ろし、大隈政権の基盤はさらに固まりました。


 しかし、問題となったのは加藤外相の外交です。加藤は外交政策について事前に元老に諮ることをせず元老の反発を買いました。
 そして、一番の大きな問題は二十一箇条の要求です。今になってみると大隈の政治家人生の最大の汚点とも言えるものですが、基本的には加藤外相のもとで進められました。著者は、対中強硬策は当時の民意であり、民意が頼りであった大隈はその民意を察知してこの政策を擁護したのではないかとしています(380p)。
 この第二次大隈内閣の一連の動きの中で目につくのが加藤の稚拙さです。加藤の行動はことごとく元老の反発を呼び、井上馨内閣改造時に「もし加藤が留任するなら大隈と絶縁し政界を引退するとまで述べていた」(387p)そうです。このあたりが山県を籠絡した原敬との違いでしょうね。
 大隈は自分の後継を加藤にするためにさまざまなはたらきかけを行いますが、元老(山県)の支持を最後まで得ることができず、後継は寺内正毅となります。
 ただ、首相の座を降りた後も大隈の人気は衰えず、1922年に行われ葬儀では日比谷公園に30万人の人が集まったといいます。


 このように大隈の人生をできるだけ克明に描こうとした本になっています。あまりに事績が多く、そのトータルな姿を捕まえづらい大隈ですが、この本を読めば、一貫した大隈のイメージを得ることができると思います。また、大隈を通して明治期のさまざまな政治家の姿も見えてきます(大隈も星亨も引き立てた井上馨の面白さとか)。大隈の人生とともに明治・大正期の政治史についての理解も深まる1冊です。


大隈重信 - 民意と統治の相克 (中公叢書)
真辺 将之
4120049396