ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』

 イギリスのEU離脱国民投票トランプ大統領の誕生と、去年から「ポピュリズム」という言葉が世界の流行語大賞になるのではないかというくらいに使われていますが、では、「ポピュリズムとは何か?」と問われると意外にその答えは難しいと思います。
 去年の12月に出た水島治郎『ポピュリズムとは何か』中公新書)においても、それほど明確な定義をせずに「ポピュリズム」と呼ばれる現象を後半に分析していました。
 また、ポピュリズムに対する評価も、水島治郎『ポピュリズムとは何か』では副題に「民主主義の敵か、改革の希望か」とあるように両義的でした。


 一方、1970年生まれのドイツの政治学者ヤン=ヴェルナー・ミュラーによって書かれたこの本では、かなり明確に「ポピュリズム」の定義を行い、それに対して明確に否定的な評価を下しています。
 本文は130ページ弱とコンパクトな構成ですが、「ポピュリズム」という「敵」の実態をあばいた上で厳しい批判を行っています。


 ポピュリズムの定義について、著者は第1章で次のように述べています。

 ポピュリズムとは、ある特定の政治の道徳主義的な想像(moralistic imagination of politics)であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民――しかしわたしはそれを究極的には擬制的なものと論じるが――と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリートとを対置するように政治世界を認識する方法である、とわたしは提示したい。(27p)


 この「人民」と「エリート」の対置というのは、水島本でも同じような定義がなされていますが、ミュラーはこれに加えて「反エリート主義者であることに加えて、ポピュリストはつねに反多元主義者である」と強調します。ポピュリストは政権につくと反対派を認めようとせず、自分たちの支持者以外は「人民にふさわしい一員ではない」と言い放つのです(27p)。


 「真の人民」というのはポピュリストがよく使うロジックです。例えば、この本で紹介されている「ただ一つ重要なことは、人民の統一(the unification of the people)である――なぜなら他の人びと(the other people)などどうでもよいからだ」(29p)というトランプの選挙キャンペーンでの言葉はそれをよく表しています。
 ポピュリストはしばしば「人民」という言葉を使いますが、それは自分たちの支持者のことであり、それ以外の人々は「人民」のカテゴリーから弾かれていくのです。そして、この「人民」のカテゴリーから弾かれやすいのが移民やロマのようなマイノリティです。


 ポピュリストは仲介者を排除し人民と直接つながろうと考えます。そのため、複雑な政党組織は軽視され、政治家と人々を仲介する役割を果たすメディアはつねに非難されます(45p)。モンテスキュートクヴィルが、政治への人民の影響力を穏健化するものとして賞賛してきた仲介的な諸制度は、ポピュリストにとっては邪魔な存在なのです(46p)。
 

 では、実際にポピュリストが政権を取った場合はどうなるのでしょうか?この本の第2章では「三つの統治テクニック」を紹介しています。
 1つ目は「ポピュリストには、国家を植民地、あるいは「占拠(occupy)」する傾向がある」(58p)というものです。ハンガリーポーランドでは公務員法が改正されて党派的な任命が行われていますし、また、司法権やメディアに対し影響力を行使しようとしています。国家は人民のものであり、「人民が適切に国家を占有すべき」(59p)なのです。
 2つ目は「ポピュリズムは大衆恩顧主義に専心する傾向がある」(59p)というものです。ベネズエラチャベスが石油の富を使って人民にバラマキを行いましたが、著者はさらに「とくに中東欧の体制にとっては、EUからの基金が、一部の権威主義的なアラブ諸国にとっての石油に相当するものとなった」(60p)と述べています。EUからの基金が一種のレントとして機能しているという指摘は興味深いです(石油のもたらすレントについてはマイケル・L・ロス『石油の呪い』を参照)。
 3つ目は「政権を握ったポピュリストは、自分たちを批判する非政府組織(NGO)に対して(控えめに言っても)厳しくあたる傾向がある(62p)というものです。批判者に対して厳しくあたるのは当然のように思えますが、市民社会内部からの反対は自分たちだけが人民を代表するという主張を掘り崩すので、ポピュリストはNGOを厳しく攻撃するのです。プーチンハンガリーのオルバーンがその代表例です。


 ポピュリズムを「非リベラルな民主主義」と形容する論者もいますが、著者はこの主張に反対します。
 議会制民主主義を「自由主義(リベラル)」(多元主義)と「民主主義」の要素の複合物と捉える見方があり、その「自由主義(リベラル)」な部分を否定する民主主義がポピュリズムをだという理解があります。
 しかし、著者は、例えばキリスト教民主主義のような「リベラル」な価値観を否定する「非リベラルな民主主義」の存在を認めますが、ポピュリズムは言論および集会の自由やメディアの複数制やマイノリティの保護を否定していますが、それは民主主義自体を構成するものであり、その否定は民主主義そのものの否定だというのです(70p)。

  
 と、このようにはっきりとポピュリズムを否定する本書ですが、何がポピュリズムかということに関してはやはり判断が難しい局面もあります。
 例えば、王政や権威主義体制の妥当のために立ち上がった人びとは自分たちこそが「真の人民」だと主張しました。こうした局面があり得ることを著者は認めています。その上で、エジプトでのアラブの春を例にあげ、次のように述べています。

 ある特定の主張が民主主義的かポピュリスト的かという問題は、つねに明白で分かりきったものではないだろう。たとえば、エジプトにおける、タハリール広場での初期の抗議から、緊張に満ちた憲法制定プロセスまでの時期において、どちらがどちらであるかを認識するのは必ずしも容易ではない(単に「人民」を引き合いに出したか否かをチェックすることで識別するのは不可能である)。しかし、2012年から13年の間に、ムスリム同胞団が、明らかにポピュリスト的で党派的な憲法を創ろうとしていた事実は残る。すなわち、純粋な人民についての自分たちのイメージを定義し、何が良きエジプト人を構成するかに関する、彼らの特殊な理解から導き出された制約を定める憲法を創ろうとしたのである。(91p)


 アラブの春におけるエジプトの一連の動きはかなり評価の難しいものであり(鈴木恵美『エジプト革命』中公新書)などを参照)、ムスリム同胞団の行動が正しかったとも思えませんが、このミュラーの評価はやや乱暴だと思います。ムスリム同胞団の主張を「彼らの特殊な理解」とすると、イスラーム原理に忠実であろうとする考えはすべてポピュリズムということになりかねません。
 
 
 また、ポピュリストの語源はアメリカの「人民党」にあるのですが、著者は第3章で「ここまでの分析結果のひとつは――おそらく直感に反するのだが――、アメリカ史において明示的に「ポピュリスト」を自称したひとつの政党[人民党]が、実際にはポピュリストではなかったということである」(106p)と述べています。人民党はすべての人民を代表すると言いはったわけではなく、平民を擁護したというのです(110p)。
 一方、「国民社会主義[ナチズム]とイタリアのファシズムはポピュリスト運動として理解する必要がある」(115p)といいます。これも理解はできるのですが、西欧民主主義にとって「悪いもの」が「ポピュリズム」という概念に押し込まれている印象も受けます。
 この本では、ポピュリストとしてエルドアンプーチンがあげられることがありますが(特にエルドアンの名前はよくあがる)、こうなってくると「ポピュリズム」という概念が「権威主義」と限りなく融合しているようにも感じます。


 ただ、著者のポピュリズム感というのは場当たり的なものではなく、「多元主義」へのかなり強い信頼に基づいたものです。

 結局のところ、正統な代表制議会が、1933年にはヒトラーに、1940年にはヴィシー・フランスの指導者となるペダン元帥に、あらゆる権力を手渡したのではなかったか。それゆえ、戦後ヨーロッパの議会は意図的に弱められ、抑制と均衡が強化され、選挙でアカウンタビリティを問われない諸制度(繰り返すが、憲法裁判所が最も重要な例である)が、個人の諸権利の擁護だけではなく、民主主義全体を守護する任務を課せられたのである。(116ー117p)

 この「民主主義」への不信と、「多元主義」(あるいは待鳥聡史『代議制民主主義』中公新書)の言い方だと「自由主義的要素」と言ってもいいでしょう)への信頼が著者のスタンスの特徴です。この流れの中で「ヨーロッパ統合は、この人民主権を抑制する包括的な試みの一部だった」(117p)とも述べています。
 

 もっとも著者は近年のEUの動きを手放しで褒めているわけではありません。次の部分などは、EU官僚主義への批判とも言っていいでしょう。

奇妙なかたちで、テクノクラシーポピュリズムは合わせ鏡の関係にある。テクノクラシーは、正しい政策的解決法はただひとつだと考える。他方でポピュリズムは、唯一の真正な人民の意志が存在すると主張する。最近では、両者は特性まで交換している。つまり、テクノクラシーが道徳化する一方(「ギリシャ人よ、汝の罪――すなわち過去の放蕩――を償わねばならない!」)、ポピュリズムはビジネスライクになった(たとえば、ベルルスコーニチェコ共和国のバビシュ[ビジネスマン出身の財務相]は、国家を自らの会社のひとつのように運営すると約束している)。テクノクラートにとってもポピュリストにとっても、民主主義的な議論は必要ない。ある意味で、両者は奇妙なほどに非政治的(apolitical)だ。それゆえ、一方
が他方の道を拓いていると想定するのは妥当である。(119p)

 
 このように一貫したスタンスでポピュリズム批判を行っているのが本書の特徴であり、ポピュリズムを考える上で読むべき本と言えるでしょう。
 多元主義ポピュリズムに対する批判の軸とする著者の考えは正しいとは思うのですが、ここまで多元主義に肩入れしていいものかという疑問も残りました。確かに司法による法の支配の擁護は必要不可欠ですが、新興国などでは裁判所が民主主義を抑えこんで既存のエリートを護ることだったあります。
 著者は「選挙でアカウンタビリティを問われない諸制度」の必要性を説いていますが、では、そのような機関がどのようにしてアカウンタビリティを果たしていくのかという問題は残るでしょう。
 最後に少し批判めいた事を書きましたが、それはこの本が読む人の「民主主義観」を問うような本でもあるからでしょうね。


ポピュリズムとは何か
ヤン=ヴェルナー・ミュラー 板橋 拓己
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