ジョージ・A・ アカロフ、ロバート・J・シラー『不道徳な見えざる手』

 人間の持つ非合理性を経済学にと入り入れようとした『アニマルスピリット』の著者であるアカロフとシラーのコンビが、市場における詐欺的手法について分析しようとした本。
 アカロフは情報の非対称性の研究で、シラーは投機的な市場の研究でノーベル経済学賞を受賞しており、ともに「うまくはたらかない市場」を研究してきたわけですが、この本ではさらに踏み込んで、詐欺的手法が蔓延する市場を告発しています。
 クレジットカード、自動車、住宅、政治、食品、医薬品、たばこ、酒、金融市場と世の中は詐欺的手法に満ちているというのです。


 彼らはこの詐欺的手法を「釣り」と「カモ」という概念を使って説明しています。
 「釣り」とは、「釣り師の利益にはなるが、その標的の利益にはならないことを人々にやらせるという話」で、「カモ」は「理由はどうあれ、うまいことつられてしまう人物」です(10p)。
 そして、カモには心理的なカモと情報的なカモがいます。心理的なカモはギャンブルにはまったりポテトチップスを食べすぎてしまうような自分が抑えられなくなるタイプで、情報的なカモはエンロンの株価や格付け情報など、意図的につくられた誤解を招く情報によって行動してしまうタイプです(11p)。


 人間は合理的な判断をすることが出来ますが、常に出来るわけではありません。著者たちは「肩の上のサル」という表現を使っていますが、短期的な欲求や脊髄反射的な判断によってしばしば道を誤ります。
 そして、市場にはこうした「肩の上のサル」を利用して儲けようとする人々もいます。彼らは様々なテクニックを使って「肩の上のサル」を反応させ、人々をカモに仕立て上げようとするのです。


 この本では様々な分野のこうした釣りのテクニックが紹介されています。すべてを紹介知るわけにはいかないので、ここでは序章に載っているトレーニングジムの例と、第5章の政治、第6章の医薬品の例を紹介したいと思います。


 まず、トレーニングジムですが、その支払い方法にはだいたい、1.ジムに来場するごとに払う、2.クレジットカードによる月次の自動更新払い、3.年額払い、の3種類の方法があります。ほとんどの客は2の月次払いを選びますが、8割の客は1の来場するごとの支払が安くつくといいます。また、多くのジムでキャンセルがしにくい仕組みが取られています(33p)。
 多くの人は自分が規則正しくジムに通えると思っているので、月次払いを受け入れますし、キャンセルの方法が煩雑でも気にしませんが、実際にはそんなことはないのです。


 政治について、選挙とカネの問題をとり上げ、次のような選挙戦略を紹介しています(144p)。

1 公式には、典型的な有権者にとって重要で、みんなが情報を持っている分野では、かれらにウケるような政策を訴える。
2 でも典型的な有権者があまり詳しくなくて、選挙戦への潜在的な寄付者が詳しい他の問題では、その寄付者にウケるような立場を取ろう。この立場は寄付してくれそうな人には知らせても、世間一般に広める必要はない。
3 こうした「利益団体」からの献金を使って、一番ありがちな有権者、「テレビで芝刈りをしている」人物に投票したがるような人々にとって人気を高めるようなキャンペーンを打つ。

 3番目の「テレビで芝刈りをしている」人物というのは「普通の良きアメリカ人である」というようなイメージ戦略で、この本によると1920年の大統領選挙でハーディングがはやくも用いていたといいます(110ー111p)。
 

 こういった有権者の無知につけ込むようなイメージ戦略に対して、有権者を啓蒙すればいいかというとそう簡単なものではありません。現在の政治の問題は、時にあまりに複雑で、専門家ですらなかなか見通せないようなものも多いのです。
 この本では「2008年緊急経済安定化法(HR1424)についてとり上げられています。この法案はGMクライスラーの救済にも使われましたが、この法案によって銀行や自動車会社の救済が可能なのかどうかは著者たちにもわからなかったといいます。現在の複雑な法律などを正しく評価するには、かなりの専門知識や政策立案者の意図を見抜く力が必要となるのです(日本だとこの前の国会の共謀罪を巡る議論などが思い浮かぶ)。
 また、特定の企業や業界にはロビイストに巨額の報酬を支払ってもそれを上回る便益を引き出せることが多いですが、たとえロビイストが政治家に吹き込もうとししている政策が般的な有権者にとって有害だったとしても、一般的な有権者ロビイストを雇ってその政策をやめさせることは割に合いません。


 最後に第6章でとり上げられている医薬品のケースです。
 現在、アメリカで新薬を発売するには食品医薬品局(FDA)の承認が必要であり、その承認を得るためにはランダム化対照実験(RCT)を行ってその薬効を証明しなければなりません。効果のない薬を無知な患者に売りつけることはできなくなっているのです。
 しかし、それで問題が解決したわけではありません。1999年にマーク社が売りだした関節炎に効く薬「ヴィオックス」は、確かに効く薬で今までの薬にあった副作用を防ぐ薬でしたが、心臓発作などの別の重大な副作用を招く薬だったのです。
 ランダム化対照実験は薬の効能を見るには有効でしたが、心臓発作という低頻度の副作用を見るには期間が短すぎました。また、製薬会社は自分たちにとって都合の悪かった実験を隠すこともできます。さらに製薬会社は実験の母集団を自由に選択することで、都合の良いデータを引き出すことができるかもしれません(170ー173p)。
 製薬会社はさまざまな手を用いて、患者と規制当局を釣っているのです。


 このように現実世界に見られるさまざまな詐欺的手法を軽妙な語り口で紹介しているのが本書の魅力です。また、釣りに対抗するためにはやはり何らかの規制や監督機関が必要な場合が多く、この本を読めば市場経済における政府の役割を再認識できるでしょう。
 けれども、釣りの「理論化」という点では、まだまだ明確な形にはなっていないような気がします。一番最後の部分で著者たちは「本書には「新しい経済学」と見なせるようなものは何もないかもしれない」(306p)と述べているように、この本で打ち出されている新しい理論はありません。
 あくまで、釣り(詐欺的手法)が市場には付き物なのだということを指摘した本で、今まで人々が断片的にしっていたことをまとめてみせた本といえるかもしれません。
 ただ、読み物としては面白いので楽しく読める本だと思います。


不道徳な見えざる手
ジョージ・A. アカロフ ロバート・J. シラー George A. Akerlof
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