三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成』

 今年読んだ著者の『日本の近代とは何であったのか』岩波新書)が面白かったのと、たまたま手に取った岡義武『近代日本の政治家』の原敬について書かれた部分が面白かったこともあって、岡義武の弟子筋にあたる著者が原敬をどのように書いているのかに興味があったので読んでみました。

 岡義武が史料の中から原敬人間性を鋭く抜き出しているのに対して、この本が描くのは原敬人間性ではなく、原敬という政治家が直面していた政治的文脈です。
 原は基本的にイデオロギー色の薄い政治家で、加藤高明からは「白紙主義」、徳富蘇峰からは「今日主義」と言われましたし(67p)、原は自らの政策を正当化する際にしばしば「自然の趨勢」という言葉を用いました。
 原は確かに日本で初めて本格的な政党内閣を組織した人物ですが、デモクラシーの理想を追求したというよりは、立憲政友会という自らの権力基盤を強化するために行動したという面も強く、岡はそのあたりを批判的に書いています。


 しかし、それでも原がいてこそ日本で政党という組織が育ち、「憲政の常道」とよばれる政党内閣制が実現したのも事実でしょう。本書では、原がどのようにして政党という組織を、日本の政治に欠かせない存在に押し上げたのかということが分析されています。もともと1967年に出版された本で、今まで知らなかった新しい事実を知るようなことはありませんが、日本の政党政治の発展と、当時の外交のポイントが鋭い形で提示されていると思います。


 目次は以下の通り。

序論1 政友会の成立
序論2 政治的人格
第1部 政党政治確立過程における政治指導の展開
序章 日露戦後における権力状況
第一章 郡制廃止問題の政治過程
第二章 鉄道広軌化問題の政治過程
結章 「大正デモクラシー」状況への制度的対応
第2部 「転換期」の外交指導とその帰結
第一章 第一次大戦後における日本の国際的環境
第二章 ワシントン体制への外交指導


 序論1は政友会の成立について。立憲政友会伊藤博文によって設立された政党で、その後も日本の政党の中心であり続けましたが、伊藤自身憲法制定時は政党内閣制に否定的でした。一方、伊藤は天皇の親政にも否定的で、同時に天皇のもとに「覇府」が存在することも警戒していました。
 そこで、明治憲法では天皇大権を諸機関が分有するという構造になりました。これについて著者は次のようにまとめています。

 要するに明治憲法天皇主権の建前にもかかわらず、あるいはそれ故にその実質においては高度に分権主義的に構成されており、その結果として高度の政治的多元性をもたらすことになったのである。すなわち集権的一元的な天皇主権の背後には、分権的多元的な国家諸機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動しており、これらの諸機関の多元的均衡を求める政治力学が明治憲法体制の現実を形成していたのである。(5ー6p)


 しかし、やはりこれらの諸機関を何らかの形で統合することは必要なわけで、明治憲法ではその統合機能は憲法の外部に求められました。まず、その機能を担ったのが藩閥で、そしてその機能はやがて政党に期待されていくことになります。
 藩閥は大部分の国家機関に影響力を行使したものの、衆議院を完全に支配することはできませんでした。一方、衆議院を支配した民党も、その他の機関に影響をおよぼすことはできませんでした。
 「立憲政友会は、統治能力の限界を認識した藩閥と勢力拡大の限界を認識した政党との二重の要請によって構想された」(8p)存在なのです。


 藩閥と民党の協調は第2次伊藤内閣以降、何度か試みられましたがなかなか安定せず、また、民党勢力が結集した隈板内閣も短命に終わりました。第2次山県内閣は星亨率いる憲政党と提携し、長年の課題だった地租増徴を実現させるなど大きな成果を出しましたが、山県が憲政党からの入閣を断ったこともあって崩壊します。
 ここで星は伊藤と協調する道を選び、立憲政友会の結党に協力します。「衆議院ヘゲモニーを掌握するために常に与党たること、あるいは常に与党たるために衆議院ヘゲモニーを掌握すること、それが自由・進歩連合崩壊後の一貫した戦略」(41p)でした。


 伊藤が期待した有力実業家層の入党がなかったこともあって、党の実務を仕切ったのは星を中心とする旧憲政党勢力でした。伊藤は立憲政友会を率いて第4次内閣を組織しますが、貴族院の山県系勢力の反発は強く、特に逓相となった星に集中攻撃を浴びせ辞職に追い込みます。そして、この星の後をついで逓相になったのが原敬です。


 序論2では、その原敬のパーソナリティをとり上げています。
 ここでは原が一時期キリスト教徒として活動していたこと、原が『大阪毎日』の経営者として文章の平易化を押し進めたこと、農商務省では陸奥宗光の秘書として法科大学出身者を採用することによって藩閥の支配を打ち破ろうとしたこと、早くからアメリカの台頭を予測していたことまど、いくつか興味深いことが指摘されていますが、パーソナリティ論としてはやはり前掲の岡義武の本が鋭いと思います。


 第一部では、「大正デモクラシー」状況の前段階であった明治40年代の2つの政治問題、郡制廃止問題と鉄道広軌化問題に注目し、そこでの原敬と彼の率いた政友会の動きを分析しています。
 著者はこの2つの問題は「いずれも維新以来国家的利益によって抑圧されていた地方的利益の自己主張を背景として展開された」(84p)ものであり、政党はこの地方利益の媒介者として自身の勢力を拡大したのです。


 日露戦争と条約改正(関税自主権の回復)によって明治国家は当初の目標を達成しました。
 当時、日露戦争における増税有権者の数が増大したことや、専門官僚制の確立に伴う議員の任官ルートの狭隘化したことによって議員の地位は不安定になっていました。そのため、政党は彼らの安定を保証するためにある程度藩閥と妥協することが必要となりました。
 一方、日比谷焼打事件などの民衆騒擾は、藩閥側にも政党との妥協に傾かせる要因となりました。
 この2つの動きはともに政党指導者の党員に対する統制力を強めました。そして、それが「政党の政治的機動力を増大」(101p)させたのです。


 まずは郡制廃止問題です。郡制は山県有朋が主導した地方自治制度の創設によって生まれましたが、当初、モッセも郡は不要だと論じていましたし、井上毅も郡自治は「その実体的基盤、すなわち歴史的伝統的基盤、財政的基盤及び主体的基盤を欠き、他方でそれが封建的割拠主義の残滓と重合して「廃藩置県ノ反動ヲ来ス」虞れありとしてこれに反対」(122p)していました。
 しかし、山県が当時の町村では自治の単位として小さすぎ、今までの農村の自治とは違う、大地主を中心とする「自治」の体制をつくり上げるには郡という単位とそこにおける自治が必要だと考えたこともあって、住民からの直接選挙による郡会が設けられることになりました。
 しかし、郡長は次第に中央志向的性格を強め、また郡長の任用に内務省の資格試験が要件とされたこともあって、「地方名望家による郡自治」という当初の理想は次第に崩れていきます。
 こうした中、第1次西園寺内閣の内相として郡制廃止案を議会に提出したのが原敬でした。


 原の提案の背景にあったのが明治地方自治制度の基底的単位である町村の機能的な拡大でした。
 日露戦争において国税増税のかわりに地方課税と地方歳出は抑制されました。しかし、戦後はその反動として地方財政は膨張に転じます。また、町村への国政委任事務も増加していました。
 そこで、政府はそれに耐えうる財政基盤を持つ町村をつくり出そうとしましたが、そうなるとその存在意義が薄れるのは郡です。「郡制廃止は原にとって行政町村の機能的拡大とそれに応ずる空間的拡大という「自然の趨勢」に「順応」した政策にほかならなかった」(136p)のです。


 郡制廃止とは、郡自治の廃止を意味し、第一の目的は郡費の大部分を負担していた町村財政負担の軽減でした。しかし、それによって地方財政負担が全体として大きく減るわけではありません。郡の機能が縮小される分、町村の機能が拡大されるからです。
 原にとっての狙いは、この町村の機能の拡大であり、さらに町村長の権限と社会的地位を引き上げることでした。原はこの権現を拡大させた町村長に退職官吏をあてることを想定しており、これにより地域の発展と官僚の政党化をはかろうとしたのです。

 原によれば、郡制廃止後において、町村自治の制度的基軸としての町村長たるべきものは、もはや単なる自然村大の名望家ではなく。いわば全国大の名望家(「有位帯勲受恩給の町村長」)でなけらばならなかった。しかるに、このような全国大の名望家の地方化への要請は、原においては、「官僚の政党化」の要請につながっていた。すなわち、川村によれば、原は次のように述べている。「此退職官吏の町村長等からも衆議院議員を選出するやうにしたい。さうすれば政党員の事務才能不足を補ひ、官吏上がりの政党化と相俟って、県政は発達するだらう」。
 つまり、原によれば、町村長は、いわば「官僚」を「政党」の軌道へ導く転轍機たるべきものであった。ここに原が郡制廃止後の町村長の制度的比重を重視した所以があったのである。(145ー146p)


 また、同時のこの町村長は「選挙権拡張に伴って流動化する「選挙母体」の管理機構たるべきもの」(146p)でもありました。著者が表現するところによれば、「原が郡制廃止によって期待した究極の政治的利益とは、身分的機能的に強化された町村長を媒介とする政党化の貫徹」(147p)ということになります。


 結局、この郡制廃止は山県有朋が反対し、「山県は元老らしくもなく、頻りに反対の指揮をなした」(155p)こともあって貴族院で阻止されます(ちなみに反対の論陣を張った1人が一木喜徳郎で、彼は拡大された町村を共同親和の精神を壊すものとして批判している(147p))。
 しかし、この時に行われた貴族院の多数派工作は、のちの貴族院の政党化につながっていくことになります。そして、郡制廃止自体は大正10年に原内閣のもとで行われることになるのです。


 第2章でとり上げられるのは鉄道広軌化の問題です。よく知られているように日本において鉄道広軌化を熱心に主張したのは後藤新平であり、それに反対したのが原の率いた政友会です。政友会にとって地方での鉄道建設は地盤形成のための重要な手段であり、広軌化に予算を費やすよりも新路線の建設に予算を回したかったというのが基本的な説明ですが、著者はこれを「国家利益」対「地方利益」の対立、さらに藩閥勢力の退潮の象徴として分析を加えています。


 後藤は、広軌化によって外債の募集が可能になることや軍事上の必要性などを広軌化推進の理由としてあげています。広軌化によって新路線の建設は遅れますが、これは軽便鉄道を普及させることで対応するつもりでした。また、第2次桂内閣の総辞職に際しても、鉄道院総裁にとどまろうとするなど、鉄道院総裁の地位を「超然」的なものにし、継続的な鉄道政策を行おうとしました。後藤にとって鉄道とは政党の争いなどから距離を取り、国家利益を実現させるためのものだったのです。


 この後藤の構想を挫折させたのが原でした。原は地方路線の建設とともに、地方の港湾整備を主張します。鉄道の広軌化がなされなくても港湾が整備されれば貨物はさばけるはずだというのです。そして、もちろんこの港湾整備も地方が望んでいるものです。
 「原は、桂が「情意投合」に訴えて、「広軌案は五島の発案と云ふより、自分の発案故、通過を望む」と懇請したにもかかわらず、これを峻拒し、「政党員をして立場を失はしむるは、政党の発達を期する所以にあらず。然して、政党発達せずんば憲政の進歩見るべからず」と応酬」(206p)しています。原にとって鉄道建設を通じた地方利益の実現は決して譲れない一線だったのです。


 結局、軍部がそれほど熱心に主張しなかったこともあり鉄道広軌化は延期されます。一方、政友会は鉄道建設を武器に地方へと勢力を拡大し、「鉄道速成即政友会」ということまで言われます(211p)。
 こうした政友会の伸長は、井上馨に「政友会ニ向ツテハ大打撃ヲ加ヘナケレバ、国家ノ為ニナラヌ」と言わせるほどで、これが「政友会膺懲」を意図する井上によって推された第2次大隈内閣の成立につながっていきます(213p)。
 そして、再び鉄道広軌化計画は復活するのです。大隈内閣の後を継いだ寺内内閣では後藤が内相と鉄道院総裁を兼任、鉄道の広軌化を押し進めようとします。ところが、寺内内閣の与党は政友会であり、後藤も原の了解なしに計画を進めることはできず、米騒動を機に寺内内閣は崩壊します。


 この鉄道広軌化の挫折について著者は次のように述べています。

 このようにして、後藤によって推進されてきた広軌化計画は、原政友会内閣の下で完全に挫折したが、その挫折はすなわち広軌化計画の推進者の政治的挫折を意味した。しかも、それは単なる政治的ストラテジーの挫折に止まらず、いわば政治的価値体系そのものの挫折を意味した。いいかえれば、広軌化計画の挫折は、後藤によって継承された明治寡頭制の論理(超然主義)とそれを支える理念(国家主義)の挫折にほかならなかったのである。(216p)


 原の行った交通網の整備は、郡制廃止を可能にする条件も整えました。地方鉄道政策は利益誘導であるだけではなく、地方の政治を変えていきました。自然村の機能や地方名望家の地位は低下し、大町村がその機能を拡大させ、地方政治には全国大の名望家が進出していきます。そして、これに伴なって「官僚の政党化」も進んでいくのです。


 このあと、結章では原の推進した小選挙区制の意味を検討し、第2部では原の外交について分析しています。
 いずれも興味深いもので、辛亥革命以降の中国の日本離れとアメリカへの接近という背景のなか、原が中国問題を背景に対米協調をはかろうとしたこと、同時に対米協調がなければ中国問題を解決できないと考えたことが指摘されています。
 外務省には自らの利益を代弁してくれる有力な政治家が存在せず、原がそのポジションを期待され、また本人もそれに沿った行動をしようとしたという指摘なども含めて興味深い分析が見られます。
 ただし、さすがにこれ以上書くのも時間切れという感じなので、このあたりでやめておきます。
 最初にも述べたように、古い本ではあるのですが、色褪せない切り口を持った本であり、今なお十分に読む価値を感じさせる本です。


日本政党政治の形成―原敬の政治指導の展開
三谷 太一郎
4130300997


近代日本の政治家 (岩波現代文庫―社会)
岡 義武
4006030428