清田耕造『日本の比較優位』

 「比較優位」は高校の政治経済の教科書などにも登場する経済学の理論であり、提唱者のリカードとともにそれなりの知名度はあると思います。
 しかし、一方で教科書の知識としては普及していても実際には理解されていない(現実の世界に当てはめられてない)理論だとも言えるでしょう。
 この本の冒頭にはサミュエルソンが「社会科学の中で真実であり、自明でない命題を一つ挙げてみたまえ」と言われ、しばらく後に「リカードの比較優位」を思いついたエピソードが紹介されています。サミュエルソンが言うには「比較優位は論理的には数学者の前で議論をするまでもなく正しい。しかし、何千もの知的な要人たちが理解できず、また説明されても信じることができない命題である」とのことなのです(2p)。


 そんな比較優位が実際に成り立っているとのかということを日本を事例として実証的に分析した本になります。
 具体的にはヘクシャー=オリーン・モデルを使った分析がメインです。理論としてはヘクシャー=オリーン・モデルは伝統的貿易理論と呼ばれ、「新」貿易理論や「新」新貿易理論に比べると目新しさはないですが、この本では比較優位をいかに実証するかということに主眼が置かれており、実証に適した理論としてヘクシャー=オリーン・モデルが選ばれています。
 

 やっていることは非常に興味深く、勉強にもなる本ですが、かなり難しい部分もあります。経済学の専門的なトレーニングを受けていない自分にとっては第III部は、正直、理解できない部分もありました。
 今までも計量経済学や計量政治学などの本を読んできて、「何をしようとしているのかはわかるものの、その数式や統計処理が妥当なのかはよくわからず、とりあえず著者を信頼するしかない」という場面は多々ありましたが、この本の第III部は著者が「何をしようとしているのかが掴み難い」というレベル。
 それでも第I部や第II部の分析は興味深いですし、読める人が読めば第III部も面白いのだと思います。


 目次は以下の通り。

第1章 なぜいま比較優位か

第Ⅰ部 わが国の貿易の変遷と比較優位
第2章 日本の国際貿易の変遷
第3章 比較優位は机上の空論か

第Ⅱ部 HO(ヘクシャー=オリーン)モデルと日本の貿易パターン
第4章 貿易と生産要素をつなぐメカニズム
第5章 日本の純輸出は今なお熟練労働集約的か
第6章 日本の純輸出はエネルギー節約的か

第Ⅲ部 拡張HO(ヘクシャー=オリーン)モデルによる日本の産業構造分析
第7章 都道府県の産業構造と賃金格差
第8章 日本の要素賦存と産業構造の変遷
第9章 日本の比較優位はどこにあるのか


 最初にも書いたように比較優位とはなかなか世間一般に理解されない考えです。
 この本の第1章ではクルーグマンの「他のすべての国が年に生産性を3%上げて、アメリカだけが1%生産性を上げていたらどうなるか?」という問をとり上げています。多くの人はアメリカは停滞するか、あるいは生活水準が下がると予想しますが、これは外れです。他の国がどうだろうとアメリカの生活水準は上がっていきます(10p)。
 世の中には「国際競争力」なる重要な概念があって、これがなければその国は輸出ができなくなるように考える人もいますが、「仮にすべての材の国際競争力を失ったとしても、すべての材の比較優位を失うということは起こりえ」(10p)ません。日本がすべての産業において競争力を失った(絶対優位を失った)としても、比較優位に特化して貿易したほうが、日本にも貿易相手国にもメリットはあるのです。


 この比較優位の考えを打ち出したリカードは労働という1つ生産要素のみに注目してモデルを構築しています。比較優位の源泉を労働生産性の差に求めているのです。
 このモデルにそって考えると、労働生産性の大きい相手、つまり先進国と途上国との間で貿易が活発になりそうですが、実際は労働生産性の差が小さいと考えられる先進国同士の貿易が活発です。リカード・モデルには現実をうまく説明できていない面もあるのです。


 一方、ヘクシャー=オリーン・モデルでは労働だけではなく資本という生産要素にも注目しています。このモデルは「たとえ二つの国の間で技術や選好がまったく同じであっても、それぞれの国が別の財に比較優位を持ちうることを示すことに成功して」(16p)います。
 しかし、後の実証において同じ産業内でも貿易が行われていることが明らかになってきました。そこでクルーグマンヘルプマンの「新」貿易理論が登場し、さらに「新」新貿易理論とも呼ばれるメリッツ・モデルが登場するのですが、この本で使われるのはヘクシャー=オリーン・モデルです。
 「なぜ古い理論を?」と思う人もいるでしょうが、分析に企業レベルのデータが必要なメリッツ・モデルでは、過去に遡って分析することが難しいです。一方、産業に焦点を当てたヘクシャー=オリーン・モデルを使えば、日本の貿易についてある程度遡って分析することが可能なのです。


 第2章では過去30年の日本の貿易パターンをデータに基づいて確認しています。
 まず1980〜2009年にかけての輸入・輸出のシェアをほぼ5年おきに見ています。輸入において一貫してシェアのトップにあるのが鉱業です。この鉱業には原油天然ガスも含まれており、日本が天然資源の輸入国であることが確認できます。また常に輸入のトップ10に含まれているのが石油製品、非鉄金属製錬・精錬、繊維工業製品です。さらに近年は電子計算機・同付属装置、半導体素子・集積回路のシェアが高まっています。
 輸出で一貫してベスト5をキープしているのが、自動車、自動車部品・同附属品、特殊産業機械の3つです。一方、1980年には6位だった繊維工業製品は2009年ではシェア0.6%と大きく落ち込み、1980年にシェア0.3%だった半導体素子・集積回路は2009年にはシェア8.4%で自動車に次ぐ第2位となっています。
 また、全産業でも見ると、輸入内需比率は1980年の7.9%から2009年の16.2%へ、輸出生産比率も1980年の8.1%から2009年の17.9%に上昇しています。国内需要に占める輸入の割合、国内生産における輸出の割合はともに高まったいるのです(38p)。


 輸出入の相手国を見ると、これが意外に安定しています。輸入相手国において中国、米国、オーストラリア、サウジアラビア、韓国、アラブ首長国連邦インドネシア、ドイツの8カ国はずっとトップ10に入っています。また1985年以降は台湾も一貫してトップ10に入っており、トップ10のうち9カ国はほぼ固定されています。
 輸出においても、中国、米国、韓国、香港、ドイツ、台湾の6つの国と地域は一貫してトップ10に入っており、シンガポールとタイは1990年以降、継続してトップ10に入っています。そして輸出に関しては相手国が集中していてトップ10のシェアは1980年の54.9%から2009年には70.9%にまで伸びています(42p)。
 

 また、諸外国との比較から取り出された貿易パターンとしては、非耐久消費財は一人当たりのGDPの上昇とともに純輸入国から純輸出国に転じ再び純輸入国に転じる逆U字型の構造、資本財は一人当たりのGDPの上昇とともに純輸入から純輸出に転じるという右上がりのパターンが窺えます。ただし、米国はすでに資本財も純輸入に転じており、日本も純輸出から純輸入に向かう傾向にあります(47p)。


 そもそも比較優位の理論は成り立つのか? この問題にチャレンジしたのが第3章です。
 現在も日々貿易が行われていますが、それが比較有利の理論に基づいているのかを確かめるのは難しいことです。Deardorffは「比較優位の法則」と呼ばれる比較優位と貿易の関係を理論的に示しましたが、それを実証するには閉鎖経済下の価格情報、つまり貿易を行っていない時の価格情報が必要になります。
 この情報を手に入れるのは難しいように思えます。まったく貿易をしていないような未開社会では価格情報は集まらないだろうからです。しかし、実は使える例が存在します。それが江戸時代の日本です。


 鎖国下でも貿易がゼロであったわけではありませんが、その影響は無視できるほど小さく、江戸時代の日本は閉鎖経済といえます。
 Deardorffによれば、閉鎖経済下の価格が自由貿易下の価格よりも低い財を輸出する傾向があり、閉鎖経済下の価格が自由貿易下の価格よりも高い材を輸入する傾向(比較優位にある材を輸出し、比較劣位にある材を輸入する)があるとのことです(59p)。
 ここでの分析は具体的な品目をあげずに、主に数式を使って展開しているためにイメージは湧きにくいのですが、幕末の開国から明治初期の貿易パターンは比較優位の理論に基づいて変化しているとのことです。


 第4章では、ヘクシャー=オリーン・モデルと、それが実証されうるかが検証されています。
 リカード・モデルでは比較優位の源泉は労働生産性にありましたが、ヘクシャー=オリーン・モデルでは各国の要素賦存の差にあります。「各国の要素賦存」などというと大方の人には意味不明ですが、ヘクシャー=オリーン・モデルから導かれるヘクシャー=オリーンの定理とは次のようなものです。

ヘクシャー=オリーンの定理:労働(資本)が相対的に豊富な国は、労働(資本)集約的な財を輸出する。(73p)

 つまり、資本に比べて労働が相対的に豊富な国は労働集約的な財を輸出し、労働に比べて資本が相対的に豊富な国は資本集約的な財を輸出するというわけです。この労働と資本のような2つの要素を組み合わせるのがヘクシャー=オリーン・モデルの特徴であり、この要素は労働と資本だけではなく他のものでも成り立ちます。
 また、ヘクシャー=オリーン・モデルの基本は二国・二財・二要素ですが、このモデルは後の拡張され、多要素・多国間を扱うようなモデルも構築されています。


 第5章では熟練労働/非熟練労働という2つの要素に注目し、本当に日本の貿易が比較優位に基づいているのかを検証します。
 日本は他国に比べて熟練労働が豊富な国と言っていいでしょう。ヘクシャー=オリーン・モデルによれば、日本は熟練労働集約的な財を輸出し、非熟練労働集約的な財を輸入するはずです。この章ではこのことを1980年から2009年までのデータを使って明らかにしようとします。
 

 ここでは専門的・技術的職業従事者、管理的職業従事者を熟練労働、事務従事者、販売従事者、サービス職業従事者、生産工程・労務作業者、保安職業従事者、農林漁業作業者、運輸通信従事者、分類不能を非熟練労働とし、産業別に熟練労働者の割合を調べます。すると教育や情報サービス業、医療、研究開発といった産業で熟練労働の割合が高いことがわかります。また、製造業において熟練労働の割合が高いのは機械産業、特に電子計算機・同付属装置、電子応用装置、電気計測器、通信機器などの電気機械産業のおいて熟練労働の割合が高くなっています(101p)。


 そうしてこうした分類に従って日本の貿易を分析すると、以下の3点の分析結果が出てきます(110p)。
 1 1980年から2009年にかけて日本は一貫して熟練労働集約的な財を純輸出していること。
 2 熟練・非熟練コンテンツ(熟練労働と非熟練労働の相対的な関係)1994年をピークに低下を続けており、2000年代には1980年代の水準を下回っている。これは日  本が熟練労働集約的な財の比較優位を失いつつあることを示唆する。
 3 日本の熟練・非熟練コンテンツの低下には輸入の変化が寄与しており、具体的には中国からの電気機械産業の輸入の拡大が影響を与えている可能性がある。
 

 第6章ではエネルギーに焦点を当て、日本の貿易構造が分析されています。
 日本は天然資源の乏しい国であり、エネルギー節約的な財に比較優位があることが予想されます。それが本当なのかということを確かめようとしたのが本章です。
 この章ではエネルギー節約的産業とエネルギー使用的産業を分類し、さらにエネルギーだけではなく、資本、熟練・非熟練といった要素も同時に考慮した分析を行っています。
 分析の結果、日本は資本集約的な財と熟練労働集約的な財を輸出し、非熟練労働集約的な財とエネルギー使用的な財を輸入する傾向にあることが明らかになりましたが、輸入については系統的な関係性を見いだせないこともあり、また輸出も2000年以降は系統的な関係を確認しにくくなっているとのことです。
 

 第7章から第III部になりますが、ここからは正直難しい。
 ヘクシャー=オリーン・モデルには、両国が両財を同時に生産しているときには、生産要素の価格は両国で同じになるという「要素価格均等化定理」があるわけですが(74p)、この仮定に関してはオリーン自身が現実にはありそうもないと述べています(140p)。
 そこでそのようなシングル・コーンの世界ではない、マルチ・コーンの世界を想定して分析してみようというのが第III部なのですが、このシングル・コーンとマルチ・コーンを説明する力が自分にはないですね。
 一応、第7章では日本の都道府県の産業構造と賃金格差と、第8章では日本の雁行形態的産業発展のパターンを分析しています。


 このように後半は理論的にちょっと手に負えないものでしたけど、やろうとしていることは非常に興味深いと思います。
 経済学の理論はどんどん複雑な数式を駆使するようになっていますけど、基本的な理論でもそれを現実の事象を使って検証していることは少ないと思います。以前読んだ神取道宏『ミクロ経済学の力』の中に、平均費用や限界費用の曲線を東北電力の実際の費用曲線を例にして見せてくれている部分があって感心しましたが、この本にも同じように抽象的な理論を現実に結びつけようとする姿勢があります。


日本の比較優位:国際貿易の変遷と源泉
清田 耕造
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