小林道彦『日本の大陸政策 1895‐1914』

 副題は「桂太郎後藤新平」。桂太郎後藤新平、そして児玉源太郎が構想した大陸政策を検討し、大正政変の意味をこの構想の挫折に見出しています。
 著者の小林道彦については、『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』を読んだことがありますが、その膨大な史料を用いながら通説を覆していく叙述は非常に面白いものでした、この本はそれよりも前に書かれた本ですが、同じように史料を駆使して先行研究に疑義を突きつけています。


 しかも、この本がチャレンジすべき通説として「はじめに」であげているのは、北岡伸一日本陸軍と大陸政策』や三谷太一郎『日本政党政治の形成』といった、この時代の分析の枠組みをつくったような古典的な本。かなり野心的な内容と言えます(後述するようにこの本は現在、『大正政変』というタイトルの増補新装版が出ています。そこでの追記の部分で「表現が強すぎた」ようなことを述べていますが)。


 北岡本は読んでいないので、先日読んだ三谷太一郎『日本政党政治の形成』を例に出して、著者の狙いを説明します。
 『日本政党政治の形成』には後藤新平が推し進めようとした鉄道広軌化の挫折に関して次のような記述があります。

このようにして、後藤によって推進されてきた広軌化計画は、原政友会内閣の下で完全に挫折したが、その挫折はすなわち広軌化計画の推進者の政治的挫折を意味した。しかも、それは単なる政治的ストラテジーの挫折に止まらず、いわば政治的価値体系そのものの挫折を意味した。いいかえれば、広軌化計画の挫折は、後藤によって継承された明治寡頭制の論理(超然主義)とそれを支える理念(国家主義)の挫折にほかならなかったのである。(216p)


 これに対して、著者は後藤と山県閥を一緒くたにしてしまっては、大正政変や桂の新党構想が理解できないといいます。
 基本的に山県閥のNo.2と見られている桂太郎ですが、大正政変に際しては山県の嫌った政党をつくって新しい政治勢力を結集しようとしました。もし、山県と桂、そして後藤の考えが一致していたならば、桂はわざわざ新党結成に動かなくても良かったはずです。
 もちろん「山県の嫉妬」のような人間的な要素があるという可能性も否定はできませんが、やはり桂と山県の考えにはズレがあり(もちろん桂と政友会の間にもズレがある)、それが桂の背中を押したと見るのが自然であり、著者がいうにはそれが大陸政策なのです。


 目次は以下の通り。

第1章 日清戦後の大陸政策 1895‐1904年
第2章 日本の大陸国家化と国内政治 1905‐11年
第3章 国家経営構想の分裂 1911‐14年


 日清戦争の勝利によって日本は遼東半島を獲得するなど思いもかけず大陸に進出することになりますが、この大陸進出はロシアによる三国干渉によって打ち砕かれます。
 世間は「臥薪嘗胆」と色めき立つわけですが、政府上層部にロシアと軍事的な対決をしようとする考えはなく、むしろ清の混乱に乗じて中国南部に進出する「北守南進論」が出てくることになります。
 

 しかし、義和団事件後のロシア軍の満州占領と日英同盟の成立が日本に方針転換をもたらします。
 ロシア軍の満州占領とシベリア鉄道の建設は日本にとっては直接な脅威であり、これが日本をイギリスとの提携へと向かわせます。
 イギリスにとっても日本がどう動くかというのは重要でした。「日本がイギリス側につけば、極東海面において日英海軍勢力(戦艦九、装巡六)は、露仏海軍(戦艦六、装巡七)にたいして当面優位を保つことができるが、もしも、日本が露仏側についたらイギリス側の劣勢は決定的(戦艦一一対四、装巡一一対ニ)となってしまう」(48p)からです。


 日本は日英同盟以前から金本位制の導入によって経済的・軍事的依存(軍艦の購入)を強めていましたが、日英同盟の成立によって日本周辺の制海権の確保が可能になったことは陸軍の大陸攻勢作戦主義を勢いづけ、また、制海権確保のために海軍の拡張を陸軍が許容するという陸軍と海軍の協調を生み出しました。
 日英同盟にはこれによってロシアを抑止するという狙いがありましたが、同盟締結後もロシアの南下圧力は止まりませんでした。日本はロシアとの戦争やむなしという姿勢に傾いていきます。


 一方、日清戦争で獲得した台湾も当初は混乱が続きますが、台湾総督になった児玉源太郎とそのもとで民生長官となった後藤新平の手腕によってその統治は軌道に乗ります。
 1895年度の台湾関係費(臨時軍事費から支出)は2789万円と一般会計歳出総額8531万7千円の約33%に相当し(76p)、台湾統治は日本にとって大きな重荷でした。
 日本の議会では地租増徴を巡って議論が行われていましたが、当時の第二次松方内閣が地租増徴を提案した理由が台湾関係費の予想外の膨張でした。これに対して政党は地租の増徴を嫌って台湾統治の改革を要求します。
 このような藩閥政府側からも政党側からも台湾統治改革が求まられる状況で登場したのが後藤だったのです。


 後藤は旧慣温存=経常費節減構想による改革に着手し、成果をあげます。具体的には、台湾土着の自治的警察機関である保甲を再編・復活させ、これに警察をはじめとする末端の行政事務を分担させるとともに、行政の効率化を進めました。また、土匪への帰順政策を進め、従わないものを討伐するやり方で土匪の活動を終息させました。
 こうした後藤の政策によって、台湾関係費の国家負担額は急速に減少、1905年度には国庫補充金が全廃されました。後藤は見事に藩閥政府と政党の期待に応えたのです。


 しかし、後藤は効率的な植民地経営のみを志向したわけではありませんでした。後藤の持論は積極主義的植民地経営論であり、後藤は港湾や鉄道に投資することによって台湾をさらに発展させ、利益を上げることを考えてたのです。
 さらに後藤は台湾統治法案によって、帝国議会立法権や予算審議権から台湾を切り離し、総督府の権限を強めようとしました。この動きは「内地延長主義」(内地も植民地も議会が同じようにコントロールしようという考え)の考えを持つ原敬の反対の前に潰えましたが、後藤は満鉄総裁として、再び積極主義的植民地経営に乗り出そうとします。


 第二章では日露戦争後の動きが分析されています。
 日露戦争は日本の予期をこえる大勝に終わりました。この結果を受けて、山県有朋はロシアの復讐は必至とみて、平時13個師団をを25個師団に拡張する大軍拡を主張します。山県は満州経営に対しては消極的で、満州から経済的な利益をあげようとする視点はほとんどありませんでした。
 一方、満州でロシア軍と戦った児玉源太郎は対露戦に自信を持っており、19個師団もあればロシアに対処できると考えていました。児玉は山県と違って南満州の植民地としての価値に注目しており、列強や清国政府を刺激しないように「満州鉄道庁」を設けて経済的な利益をあげようと考えていたのです(108-110p)。
 また外務大臣小村寿太郎南満州の植民地としての価値を高く評価し、積極的な経営を行うべきだと考えていました。


 そんな中で、アメリカの鉄道王のハリマンが来日し、満州鉄道を日米共同出資で経営しようと提案します。この提案に、正貨危機回避のために外資の導入を求めていた大蔵省が飛びつき、満州鉄道の収益性に疑問を呈していた井上馨も積極的に反応します。
 しかし、小村寿太郎が強硬に反対したことや、ハリマンの融資よりも有利な条件で外資が導入できそうになったことが理由で、桂・ハリマン協定は破棄されます。日本の大陸政策において、まずは井上らの日米合弁案が葬り去られることになります(119p)。
 次にクローズアップされたのが、ロシアの復讐戦を恐れ満州経営に消極的な伊藤博文と積極的な満州経営を考えていた児玉の対立でした。この対立は「伊藤対陸軍」として捉えられがちですが、児玉を山県をはじめとする陸軍中央の人間がかばおうとしなかったことから、著者は「伊藤・陸軍中央対児玉・陸軍出先」の対立だったとみています(121p)。
  

 児玉と陸軍中央の対立は児玉と寺内正毅の対立でもありました。寺内は1902年に陸相に就任し、陸軍省の要職を自派で固めましたが、この寺内の力を脅かしたのが日露戦争の勝利で児玉が獲得した圧倒的な名声でした。
 前述の師団増設問題は、対露戦に対する構想の違いであると同時に、寺内と児玉の主導権争いという側面もありました。結局、田中義一の出した、第一期で平時20個師団、第二期で戦時40個師団動員体制、最終的には戦時45個師団をめざすという折衷案に落ち着きますが、日露戦争後のロシア軍の撤兵が予想以上の速さで進展し、師団の大規模増設の必要性は薄れていくのです(133-135p、こうした中、児玉は1906年の7月に急逝した)。
 
 
 一方、海軍の軍拡は当初は控えめなものでした。ロシア海軍を打ち破った今、極東において日本海軍に対抗できる勢力はイギリス海軍以外になかったからです。
 しかし、日英同盟が改定によって攻守同盟化したことによって、日本海軍がアジアのイギリス権益を守る必要も出てきました。このため、当面の敵が消えたにも関わらず、海軍は大艦隊を維持することとなったのです。


 この日英同盟の改定は1907年に策定された帝国国防方針にも大きな影響を与えました。この帝国国防方針の策定をもって「軍部の台頭」とみなす考えもありますが、著者は「1907年の帝国国防方針は”軍部の台頭”の所産などではなく、むしろ日英攻守同盟を支えるための陸海軍の合意枠組みだった」(144p)と考えています。 
 また、日英同盟の改定は、それまで海軍内にあった島帝国論(日本周辺の海域だけを守る)や、陸軍にあった北守南進論を葬り去ることになりました。陸海軍で大陸(満州)の権益を維持することが合意されたとも言えるでしょう。
 戦力的には、陸軍は平時25個師団戦時50個師団、海軍は八・八艦隊という大きな目標が掲げられましたが、陸軍の師団増設は「財政緩和スルノ時ヲ待テ」というものでしたし、海軍は1905年の時点で戦利艦を含めると九・九艦隊を実現している状態で、ただちに大軍拡を進めるというものではありませんでした(148-149p)。


 前述のように、児玉・後藤の軍拡抑制・積極的大陸政策は、山県・寺内の大軍拡・消極的大陸政策路線の前に一度は退けられますが、児玉の遺志を継いだ後藤は第二次桂内閣のもとで積極的な大陸政策を行おうとします。
 当時の満州関東都督府(軍)、南満州鉄道株式会社(満鉄)、領事館(外務省)の三頭政治のもとで経営されていました。満州は日本の領土ではなく、純然たる中国の領土で、拓殖務省のような期間が統括することは不適当だったからです。
 そんな中で、満鉄総裁に就任した後藤は満鉄を中心とした満州経営を画策します。当時の政府は財政状況の悪化に苦しんでおり、満州経営に大きな歳出を割く余裕はありませんでしたし、政友会も安上がりな植民地経営を望んでいました。その安上がりな植民地経営が行える人物として台湾統治を軌道に乗せた後藤の手腕が期待されたのです。


 積極的な植民地経営を持論とする後藤に安上がりな植民地経営を望むというのは、まさに同床異夢であり、後藤の構想は大きな抵抗に合うのですが、清国での利権回収熱の高まりが山県の態度を変えます。山県は満州の「大々的経営」を主張するようになり、ここに山県と桂・後藤の大陸政策が接近することとなります(178p)。
 一方、伊藤博文は日本が権益確保に走ることで第二次日清戦争を誘発することを危惧しており、満州経営に消極的でしたが、伊藤は1909年にハルビンで暗殺されます。伊藤の死は山県の発言力をさらに強め、日本の積極的な大陸経営を後押しすることになります。
 しかし、議会の政友会はあくまでも満鉄を営利会社として捉えており、満鉄を議会の監視下に置き、後藤の”放漫経営”に歯止めをかけようとします。桂・後藤の積極的な大陸経営路線は中途半端なものに終わったのです(184p)。


 この第二次桂内閣において、後藤と政友会(原敬)が対立したのが三谷太一郎『日本政党政治の形成』でもとり上げられた鉄道広軌化の問題です。
 後藤は第二次桂内閣で逓信相として入閣します。これは拓殖省を設置してその大臣に就任するためであり、この拓殖省の設置によって満州経営の多頭政治に弊害を取り除き、積極的な大陸政策を推し進めるのが後藤の狙いでした。そして、日本の鉄道を満鉄と同じ広軌にすることによって、軍事のみならず民間の輸送を活発化させ、日本の発展すべき方向を大陸へと向けようとしたのです。
 

 しかし、第二次桂内閣で鉄道広軌化は実現しませんでした。桂と政友会の「情意投合」によって広軌化は先送りされ、国内の新路線の建設が優先されたのです(また、対露戦を意識する山県が国内の広軌化よりも朝鮮半島の鉄道輸送力強化を主張したという理由もある)。この桂と政友会の関係、桂園体制について著者は次のようにまとめています。

 政党勢力の利害を代表する第一次西園寺内閣は政友会の要求を抑えて陸軍大拡張をおこない、官・軍の利害を代表する第二次桂内閣は軍備拡張を抑制・凍結して、 ー つまりは陸海軍の要求を抑えて ー 政友会の鉄道敷設要求に応える。この自己抑制的・相互補完的な関係が、桂園体制という比較的安定的な政治体制を実質的に支えていたのである。逼迫した財政状況にもかかわらず、桂園体制が存続できたのはそのためであった。(191p)


 第3章はいよいよ大正政変について。
 第二次西園寺内閣になると、陸海軍からの軍拡要求が強まります。
 ドレッドノート級、スーパードレッドノート級の戦艦がイギリスで相次いで竣工したことによって日本海軍の艦隊は旧式艦の寄せ集めになってしまいました。そこで海軍は戦艦12・装巡8隻の八・八・四艦隊の建設という大拡張計画を打ち出します。また、第三回日英同盟協約が対象としてアメリカを事実上除外するかたちで成立したこともこの大拡張計画の背景にあるといいます(245p)。
 一方、1908年から本格的に開始されたロシア軍の再編成が日本側の予想以上の規模で進んだことから、陸軍も軍拡要求を取り下げることはありませんでした。具体的には朝鮮の2個師団増設を強く主張するようになるのです。
 
 
 第二次西園寺内閣は、財政的な理由から1912年度の予算に2個師団増設のための費用を計上しないこととしましたが、ここで中国において辛亥革命が勃発します。
 当初、日本は日英で協調介入して立憲君主制の樹立によって清朝と革命派の妥協を成立させようと考えますが、イギリスは日本にはかることなく官革両軍の休戦を取りまとめ、袁世凱と提携して共和制を樹立させようとします。袁世凱の復帰は日本としては承服しがたいものでした(266-267p)。
 このイギリスの行動は陸軍に日英同盟に対する不信を植え付け、時の西園寺内閣に対する不信を強めさせます。


 この西園寺内閣に対する不信は陸軍だけでなく桂や後藤にも共有されました。西園寺内閣が軍拡要求を押さえながら国内の鉄道建設予算を通したことは、原が”自己抑制と相互依存”という桂園体制のルールを無視したものとも捉えられます(271p)。
 桂や後藤にとって、西園寺内閣は引きずり下ろすべき存在でした。
 しかし、西園寺を引きずり下ろして陸軍主体の官僚系内閣を樹立すればいいかというと、桂にとってそれも不十分でした。参謀本部の人事を巡って桂と山県は対立しており、山県系の武断派が力を握ることも桂にとっては不適当なことだったのです。
 そこで桂は積極的大陸政策を実現させるために、政友会でもない陸軍でもない第三の政治勢力の結集を考えるようになるのです。

 
 第二次西園寺内閣は陸相・上原勇作の帷幄上奏と単独辞任によって倒れます。これを著者は「西園寺は最後の段階で折れるであろうと考えていた、山県が引き起こした”不測の事態”」(281p)、山県の策謀によって宮中に押し込められていた桂にとっては千載一遇のチャンスでした。
 後継となるやいなや、桂は2個師団の増設の方針を撤回し、行財政改革と陸海軍の軍備増強の凍結によって予算を確保し、積極的大陸政策を推し進めようとしたのです。桂と逓信相となった後藤の間では、満州統治機構の民政庁化も視野に入っており(291p)、今までの山県・陸軍とはまったく違う大陸政策を構想していたのです。
 桂は、「新党結成によって山県閥から離脱し、さらに軍備計画を全面的に凍結することで、”西園寺内閣の毒殺”に激昂していた世論を沈静化させることも充分可能であると踏んでいた」(292p)と思われるのですが、世論はそうは動きませんでした。
 また、後藤らよる政友会の切り崩し工作も失敗し、すでに病魔にも侵されていた桂はわずか2ヶ月あまりで辞職することになります。桂は「山県の代理人」という民衆のイメージを払拭することはできなかったのです。


 このように、この本は「伊藤―西園寺ー原」VS「山県―桂―寺内」という二項対立で語られがちな明治〜大正の政治史の書き換えを迫り、同時に今までの「日露戦争意義の軍部の台頭」という政軍関係の捉え方の見直しを促す内容になっています。
 歴史の理解において、あるいは同時代的な政治の理解において二項対立というのはわかりやすい図式ですが、さまざまな利害を持つアクターがそんなに簡単に2つの陣営に整理できるかというとそうではないでしょう(逆に言うと、本来ならば二項対立にならない場面で二項対立をつくりだせる政治家(郵政解散の時の小泉純一郎や都議選の時の小池百合子など)には一種の才能があるといえるのかもしれない)。
 もちろんおおまかな理解のために図式は必要なのですが、この『日本の大陸政策 1895‐1914』やこの本の続編とも言える『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』は、そこで捨象されたものに重要なものはなかったのか? ということを改めて問い直してくれます。


 ちなみにはじめのほうでも述べたように、この本は現在品切れ中ですが、『大正政変』というタイトルの増補新版が出ています。自分は古本で安く見つけたのでこちらを買いましたが、それほど値段に差がなければ、追加の論文が入った『大正政変』のほうがお得でしょう。


日本の大陸政策 1895‐1914―桂太郎と後藤新平
小林 道彦
4816501940


大正政変 ― 国家経営構想の分裂
小林 道彦
4805110597