『15時17分、パリ行き』

 2015年8月21日、オランダのアムステルダムからフランスのパリへ向かう高速列車タリスの中で、銃で武装したイスラム過激派の男が無差別殺傷を試みる。しかし、その列車にたまたま乗り合わせていた米空軍兵のスペンサー・ストーンとオレゴン州兵のアレク・スカラトス、そして2人の友人である青年アンソニー・サドラーが男を取り押さえ、テロを未然に防ぎ負傷者を救助する。
 このあらすじからして、クリント・イーストウッドが好みそうな話であることは窺えますが、さすがにそれを本人たち(スペンサー、アレク、アンソニーの3人)に演じさせて、それをそのまま映画にしてしまうというは予想以上のこと。
 前作の『ハドソン川の奇跡』も実話を元にした映画で、撮り方はこの『15時17分、パリ行き』に近かったと思うのですが、『ハドソン川の奇跡』には機長のトム・ハンクス、副機長のアーロン・エッカートという芸達者がいました。
 しかし、年とともにますます迷いがなくなってきたイーストウッドは、もはやそうした上手い役者すら必要としないのです。


 物語は3人が中学校に上る直前から始まります。黒人のアンソニーは問題児ながらも少しイケている感じなのですが、スペンサーとアレクは迷彩柄の服を着て趣味はサバゲーというどう考えてもイケてないやつで、クラスでも浮いた存在です。
 その後、スペンサーは空軍のパラレスキュー部隊に憧れて猛特訓をするといったエピソードはあるのですが、基本的にはスペンサーとアレクの二人はミリオタがそのまま軍人になった感じですし、アンソニーもたんなるいいヤツでしかありません。
 おそらくテロ事件に出くわさなければ、まったく平凡な人生を送ったことでしょう。


 しかし、この「まったくの平凡」という部分にイーストウッドは惹かれたのだと思います。
 スペンサーはたびたび「自分は大きな何かに動かされている気がする」という予定説的な考えを披露するのですが(3人の通っていた学校は公立ではなくキリスト教系の私立の学校)、まさに彼らは導かれるようにして、「15時17分、パリ行き」の列車に乗り込み、テロを未然に防ぎます。そして、空軍で救急の訓練を受けていたスペンサーが負傷者を救います。
 もちろん、その瞬間に行動を起こせた彼らは賞賛に値するのですが、イーストウッドがそれ以上に注目するのは彼らがそこに居合わせた奇跡です。必ずしもスーパーマンでなくても神に導かれるようにして大きなことを成し遂げることがある。これがこの映画のメッセージでしょう。


 だから、主人公たちは平凡でもよく、スターでなくて本人に演じさせても良い、というよりも本人たちのほうがよりそのメッセージが伝わるのです。
 そして、列車に乗り込む前には主人公たちの平凡なヨーロッパ旅行のシーンが続くのですが、これも平凡でかまわない、むしろ平凡であったほうが良いというのがイーストウッドのスタンスなのだと思います。
 また、冒頭にスペンサーとアレクの母親が担任の教員との面談でADHDの薬を飲むことを勧められ、母親たちが断固として断るシーンがありますが、これもまた明快なメッセージに思えました。 


 この映画はシンプルな映画なのですが、そこに「この映画はシンプルに撮らねばならない」というイーストウッドの強い意志を感じました。