池内恵『シーア派とスンニ派』

 池内恵による『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』につづく、新潮選書【中東大混迷を解く】シリーズの第二弾。今回はシーア派スンニ派というイスラームの宗派対立について、単純にその歴史を紐解くのではなく、そもそも「宗派対立は存在するのか?」、「存在するとすればそれは原因なのか?結果なのか?」という本質的な議論を行っています。
 150ページに満たない本ですが、読み応えは十分です。


 「イラクが安定しないのはシーア派スンニ派の対立があるからだ」、「シリア内戦の原因はシーア派の一つの宗派である少数派のアラウィー派のアサド政権が多数派のスンニ派を抑圧していたからだ」、「トランプ政権のイラン敵視政策の背景には、スンニ派サウジアラビアシーア派のイランの対立がある」。
 これらの見方はまったくの間違いというわけではありません。ですから、「現在の中東の混乱のもっとも大きな要因はスンニ派シーア派の宗派対立である」とも言いたくなります。


 一方、スンニ派シーア派の間に大きな教義の違いがあり、どちらが正統なイスラームかをめぐって血みどろの抗争が繰り広げられているかというと、それも違います。もちろん、スンニ派シーア派の間には教義の違いというものもあるのですが、例えば、宗教戦争と言われたカトリックプロテスタントの対立のような、教義をめぐる決定的な対立点があるというものではありません。
 スンニ派諸国といっても一枚岩ではありませんし、シーア派といってもシリアのアラウィー派はかなり異質です。ですから、教義のもとに結束した宗派が争っているというわけではないのです。


 そこでこの本で打ち出されている著者のスタンスは次のようなものです。

 現象として「宗派対立」とみなされる紛争は、中等に実際に存在する。まずこれを認めよう。しかし同時に、そこから「宗派の相違」が中東の紛争の「原因」である、と考えてしまうことを、避けなくてはならない。宗派対立はしばしば何か別の要因による「結果」であり、必ずしも中東の様々な紛争の「原因」とは言えない。(32p)

 中東において昔からシーア派スンニ派が争い続けてきたわけではありません。もちろん、シーア派から見ると、アリーの暗殺やフサインの殉教以降、シーア派スンニ派から不当に弾圧されてきたということになるのですが、だからといってシーア派が「異端」とされてきたわけではありませんし、中東ではスンニ派と拮抗するグループとして存在し続けてきました(イスラームの中でシーア派が少数派になるのは、人口の多いインドネシア、マレーシア、インド亜大陸などにシーア派があまりいないからでもあります(53p))。


 このスンニ派シーア派の関係が「宗派対立」という形をとるようになったのは1979年のイラン革命以降です。
 ご存知のようにイランでは親米政権が倒され、ホメイニを中心にイスラーム統治体制が樹立されました。この革命は中東の人びとに当初は好意的に受け止められましたが、徐々にシーア派ペルシャ人への警戒感ももたらすようになります。
 この1979年には、それによるアフガニスタン侵攻、そして武装グループによるメッカのカアバ神殿を擁するアル=ハラーム・モスクの占拠事件も起こっています。サウジアラビア政府はこの事件を独力では解決できず、フランス部隊の助けを借りて鎮圧しましたが、この事件をきっかけにサウジの王政はより宗教的に保守化していきました(ただし、この1979年以前のサウジは自由だったというムハンマド・ビン・サルマーン皇太子(MBS)の話は、サウジ政府とアメリカのメディアの「合作」だと著者は釘を差している(83ー88p))。


 そして、中東において宗派対立を解き放ったのがイラク戦争でした。アメリカはイラクフセイン政権を打倒すると、イラク民主化を進めたわけですが、フセイン政権の権力構造が破壊される中で、民主政治におけるまとまりを形成したのがシーア派の信徒のつながりとシーア派の指導者の統率力の強さでした。
 イラクで多数派(人口の64~69%)を占めるシーア派が宗派として結束すると、シーア派が宗派として権力を握ることになります。民主主義において多数派が権力を握るのは当然ですが、宗派というなかなか変わらない属性にしたがって多数派が形成されると、少数派は永遠の少数派となります。ここから宗派対立が始まります。

 生まれつきの属性によって常に負けることが決まっている選挙であれば、なぜそれに参加することに意味があるのか、と考えてもおかしくない。イラクでは人数で劣るスンニ派アラブ人が、勝てない選挙をボイコットする。するとボイコットされた選挙で選ばれた政府が、選挙に積極的に参加しなかったことでその分さらに少ない代表者しか国会や政府に送りこめなかったスンニ派アラブ人主体の地域の住民に、いっそう不利な政策を行う。それに対する反発からスンニ派主体の地域が中央政府に反旗を翻し、反体制組織を養うようになる。それを政府が弾圧し、住民は一層疎外され、中央政府への憎しみを募らせていく……この悪循環のサイクルが、急激に回り始めた。(90p)

 やがて政府に反発を覚えるスンニ派の中からイラクのアル=カイーダであり、やがてここからイスラーム国(IS)が生まれてくることになります。


 また、著者は日本ではあまり報道されることのないレバノンに注目しています。
 レバノンはシリアとともにフランスの植民地であったところですが、キリスト教マロン派が主導する国としてフランスが切り分けることによってできた国です。レバノンでは1932年に行われた宗派ごとの人口調査をもとに、大統領はマロンは、首相はスンニ派、国会議長はシーア派という形で割り振られました。これは宗派の協調を目指した制度でしたが、同時に宗派による政治を固定化した制度でもありました。


 しかし、、イスラームの人口が増えていく中で、スンニ派パレスチナ難民が大量に流入したことから宗派間の人口バランスは崩れ、宗派間の権力のバランスも維持し難いものとなりました。
 そこで、1989年にターイフ合意が結ばれ、イスラーム勢力の権限が強化されることになります。この合意を仲介したのはサウジアラビアであり、反対勢力を武力で押さえ込んだのがシリアでした(つまりこの時はスンニ派のサウジとシーア派アラウィー派)のシリアの利害は一致していたことになる)。


 ところが、2005年にスンニ派の有力政治家ラフィーク・ハリーリーが暗殺されたことによって、その黒幕とされたシリアへの反発が強まり、親シリア派の内閣が退陣を余儀なくされます、これがレバノン杉革命です。
 外からレバノンを支配しょうとするシリアを国民が追い出したという革命ですが、スムーズには進まず、ここからシーア派の政治集団・民兵組織のヒズブッラーの巻き返しが始まります。政治的な駆け引きや、2006年夏のイスラエルとの戦闘をヒズブッラーが耐えたと評価されたことから、ヒズブッラーがレバノン政治の主導権を握ることになるのです。
 「アラブの春」より一足先に民主化革命が起こったレバノンですが、結果として起こったのはイランの息のかかったシーア派勢力の拡大という結果でした。


 そして、このシーア派の伸長と宗派対立は、2011年の「アラブの春」以降も繰り返されることになります。
 「アラブの春」によって、フランシス・フクヤマの言うような「歴史の終わり」、つまり自由主義と民主主義の勝利が中東でも起こるかと思われましたが、現在のところその期待は裏切られています。一方、ハンチントンの言うような「文明の衝突」が起こっているわけでもなく、むしろ文明内で衝突が起こっているのが現在の状況だと著者は言います。
 そして、現在の状況を次のように診断しています。

 「アラブの春」の影響を受けて反体制運動がペルシア湾岸にも広がると、バーレーン、そしてサウジは、問題を「宗派主義化」していった。すなわち、問題は民主化でも権利要求でもなく、シーア派の異端の教説に基づいた反体制運動であり、敵国イランに内通している、という宣伝を行ったのである。宗派主義は一方で社会の低層から、他方で権力の上層から煽られていく。宗派主義は、「味方」の範囲を規定して動員するためにも、「敵」を名指すためにも、同様に都合の良い、有効な言説であることが、証明されていった。
 こうして宗派主義の言説が急速に中東を支配し始めた。当分の間これは誰にも止めることができないだろう。(133ー134p)


 このように、複雑な中東情勢を鮮やかに読み解いて見せている本なのですが、同時にここで分析されている問題は中東の宗派だけでなく、他の地域の民族問題などにも当てはめることができると思います。「民族」「部族」「人種」など、支配者によってつくり出されたものなのか、それとも確固たる歴史的な来歴がるものなのか判断が難しく、なおかつ、それだけで何でも説明できるように思える概念を扱おうとするとき、この本の分析は役に立つと思います。
 ですから、中東に興味がある人だけでなく、もっと幅広い人にとっても読む価値のある本になっているのではないでしょうか。


【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派 (新潮選書)
池内 恵
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