砂原庸介『新築がお好きですか?』

 副題は「日本における住宅と政治」。『地方政府の民主主義』『大阪―大都市は国家を超えるか』『分裂と統合の民主政治』などの著作で知られる政治学者の著者が日本の住宅問題と都市問題に迫った本になります。
 ただ、読んでみると意外と「政治」っぽくないです。著者が政治学者であることを知らなければ、社会学者が書いた本と言っても通るでしょう。
 読む前は、日本の住宅政策や都市計画の法制度などを追っていくような構成かと思いましたが、もう少し抽象的で広がりのある議論がなされており、政治だけではなく、経済的条件や人びとの期待など、さまざまな要因でつくり上げられる住宅の「制度」について論じた本になっています。


 目次は以下の通り。

序 章 本書の課題
第1章 住宅をめぐる選択
第2章 住宅への公的介入
第3章 広がる都市
第4章 集合住宅による都市空間の拡大
第5章 「負の資産」をどう扱うか
終 章 「制度」は変わるか


 住宅というと、「買うか、借りるか」論争といういつまでたっても決着のつかない論争があり、ネットなどでもたびたび話題となりますが、これはこの問題に絶対的な正解がなく、しかもその人の人生にとって大きな選択だからです。
 例えば、住宅を買った人が地震や洪水などで家を失い「やはり賃貸にしておけば…」ということも想像できますし、ずっと賃貸だった人が高齢になって立ち退かざるを得なくなり次の部屋を探すのに苦労して「やはり買っておけば…」というような状況も想像できます。しかも、住宅というのは大きな買い物で「じゃあ次からは賃貸(購入)で!」というわけにもいきません。


 この本では住宅をめぐる問題の難しさを「取引費用」という経済学の考えで説明しています。例えば、住宅を買うケースを考えると、多くの人はさまざまな物件を見て回り、ローンを組んで購入し、引っ越しをします。コンビニや自動販売機でジュースを買うような場合と比べると、「買う」という行為にさまざまなコストが付随していることがわかると思います。これが取引費用です。この取引費用が大きいため、何度も住宅を買い替えることは難しいのです。


 では、賃貸ではどうかというと、確かに買うよりも借りるほうが取引費用は少なくてすむのですが、この本では貸す側に取引費用がかかっていることを指摘しています。
 例えば、貸す側が借り手を探すには広告を打つ必要があるかもしれません。また、借り手がきちんと家賃を払ってくれる相手かどうかを見極める必要も出てきます。さらに借り手が問題を起こし周囲の住人が退去してしまうかもしれませんし、孤独死などのリスクもあります。
 この貸す側の取引費用は小さな住宅に比べて大きな住宅のほうが大きくなると考えられます。例えば、同じ大きさの建物を4部屋のファミリータイプか10部屋の単身者向けにするかを考えた場合、家賃の不払いが起きてダメージが大きいのがファミリータイプです。
 こうした取引費用の問題と、第二次世界大戦中から強められて借りて保護の政策もあって、日本ではなかなかファミリータイプの賃貸が供給されない状況となっています。その結果、日本の賃貸は都市部でも地方でも面積の狭い物件が多く、ファミリータイプ(70平方メートル以上)が少なくなっているのです(26p図1-1参照)。


 その結果、結婚して家族を持った人は住宅の購入を目指すことになります。建築学者の上田篤が1973年に発表した「現代住宅双六」では庭付き一戸建ての購入が「上がり」となっていますが(31-32p)、これは賃貸住宅が狭く、子どもができて十分な広さの住居を確保しようと思ったら一戸建てを購入するしかなかったからでもありました。
 また、住宅ローンに対してさまざまな優遇措置をとった政府の政策も、この流れを後押ししました。


 日本では中古住宅の流通も進んでいません。それもあってアメリカやイギリスでは70〜80年ある住宅の滅失期間が日本では30年程度となっており、多くの住宅が一世代限りのものとなっています。
 さらに情報の非対称性の問題もあります(本書では取引費用で説明していますが、経済学にある程度通じた人なら情報の非対称性のほうがわかりやすいでしょう)。中古住宅の品質(どの程度手入れがされているか)は買い手にはなかなかわかりません。欠陥住宅に近いものを掴まされる可能性もあります。そこで、買い手は住宅の品質が見た目よりも悪い可能性を織り込んで買う価格を決めます。そうなると、良質な住宅を売ろうとしている売りてにとっては安すぎる価格となり、結果として良い中古住宅が市場に出回りにくくなるのです。
 諸外国ではこの問題を解決するために取引に直接かかわらない専門家が検査などを行う制度がありますが、日本では不動産屋が取引を仲介するだけで中古住宅の品質を保証する仕組みはありません。


 結果として日本では、私鉄などによる沿線の大規模開発、近年では都心部タワーマンションなど、新築住宅が供給され続けてきました。
 一方で、賃貸住宅は零細事業者や個人によって供給されるケースが多く、「いずれは新築住宅」という流れが固定化されているのです。


 衣食住は人間の生活にとって必要不可欠なものであり、福祉国家であれば当然、住宅の保障というのもその役割となります。
 日本では20世紀になって東京や大阪において住宅問題が顕在化しましたが、政府は都市部での家賃高騰に対して借りての権利の保護と家賃の統制で対応しました。特に1941年の借地・借家法の改正による貸し手による解約権の制限は大きな影響を与えることになりました。
 また、公営住宅の建設も行われ1970年頃まで公営住宅は増加していくのですが、次第に中流階層の人々にとっては魅力的なものではなくなり、低所得者向けのものとなっていきます。こうなると地方自治体も公営住宅の建設を回避するようになり、70年代半ば以降、公営住宅の建設は急速に減少していきます(71p図2-1参照)。

 
 公営住宅低所得者向けとなる中で、メインストリームの人びとへの住宅を供給したのが日本住宅公団でした。日本住宅公団は団地や大規模なニュータウンを建設し、日本の住宅の一つのモデルを作り出しました。
 しかし、地価の高騰などもあって70年代半ば以降、建設戸数は減少していき、その役割を縮小させていきます。


 結局、日本の住宅政策の中心となったのが住宅金融公庫による住宅ローンの拡充です。公営住宅の建設が進まず、民間の賃貸住宅が相対的に貧弱な中で、持ち家を購入しようとする人への一種の補助が住宅政策の中心となったのです。
 一方、多くの国で採用されている賃貸住宅の利用者に対する家賃補助はほぼ採用されませんでした。政府の制度においても「持ち家の購入」を誘導するような仕組みになっているのです。


 ケメニーは住宅に関する国際比較を行い、政府などが供給する社会住宅と民間の賃貸住宅が異なるものとして分離される二元モデルの国と社会住宅と民間の賃貸住宅が同じようなものとして扱われる単一モデルの国に整理しましたが、日本はイギリスや南欧の国などと並んで二元モデルの国であり、持家率が高くなっています(92-94p)。
 ただし、近年においては住宅の金融資産としての性格が強まり、単一モデルの国も変化が見られます。


 ここまでが第1章と第2章の内容ですが、このあたりの問題については、読んだのはかなり前ですが平山洋『住宅政策のどこが問題か』光文社新書)でも論じられていたと思います。この本の特徴は第3章以降でさらに都市問題へと踏み込んでいくところにあります。
 住宅問題が起こるのは都市に人が集中するからです。都市に人が集中することによって集積のメリットが生まれ、生産性が高まります。しかし、人びとが集中することによって地価は高騰します。そこで都市は郊外へと拡大していくわけですが、郊外の拡大は通勤などの新たな問題を生みます。


 日本ではもともと都市とそれ以外の地域の境界が曖昧で、国や地方自治体が都市計画として道路や上下水道の整備を中心においたこともあり、都市は郊外へと無秩序に拡大していきました。また、日本では土地に対する私権が強いこともあって、都市計画法による開発の制限なども強くははたらかず、スプロール的な開発が行われていったのです。
 

 このように都市が発展していく中で、都市内部での対立も生まれてきます。新しい道路は郊外の住民の利便性を向上させるかもしれませんが、すでに住んでいる住民の一部にとっては迷惑施設かもしれません。保育所なども同じようにいえます。
 しかも、これまで見てきたように持ち家社会の日本では、持ち家という「上がり」にたどり着いた人は、もう移動しようとはしません。結果として、すでに開発された住宅地の再開発は難しくなります。
 東京の都心三区(千代田・中央・港)ですら容積率を使い切っていなかったということですし(132p)、日本の都市の中心部の再開発はなかなか難しいのです。だからこそ、郊外にショッピングモールが作られ、都市は外へと拡大していくことになります。
 また、日本の地方自治における地方議会の大選挙区制と、首長を別に選ぶという二元代表制のしくみも、都市全体の利益よりも一部の地域の利益を代表しやすいといいます。


 第3章では都市の水平方向への拡大がとり上げられましたが、第4章では垂直方向への拡大がとり上げられています。垂直方向への拡大のわかりやすい例がタワーマンションの増加です。
 高層の集合住宅は都市の土地不足の問題を解決するために必要不可欠な存在です。東京で高層の集合住宅がつくられはじめたのは関東大震災以降です。当初は公営住宅が中心でしたが、50年代後半以降は公団住宅が登場し、さらに60年代になると分譲というスタイルも現れました。70年代になると民間事業者が大量の分譲マンションを供給するようになり、00年代になると新設着工の20%近くが分譲マンションとなる年もありました(148p図4-1参照)。
 一方で、マンションは周囲の住民の日照権や景観権を侵害する、新たに社会資本の整備が必要となるなど、迷惑施設としての一面も持っています。


 また、集合住宅における意思決定をどうするかも問題になります。マンションに住み続けるには修繕が必要です。さらにエレベーターなどの共用部部の管理をどうするという問題もあります。
 分譲マンションの場合、新築当時は同じような世代、同じような経済力の人が集めっているので、それほど問題にはならないかもしれませんが、時が経つに連れ、一生そこに住み続けようとする人と将来引っ越しを考えている人、現役世代とリタイアした老人世代で、その考えは変わってくるでしょう(引っ越しを考えている人や老人世代は必要最小限度の修繕をのぞむはず)。
 さらに、集合住宅には問題のある住人がいると周囲も住みにくくなるという性格があります。例えば、騒音を出す人が居座れば、周囲の人が迷惑し、場合によってはそこを立ち去るかもしれません、空室が増えれば修繕費用の積立もままならなくなり、いわゆる「スラムマンション」が生まれる可能性もあります。


 実際、リゾートマンションや首都圏近郊のマンションでは、資産価値が落ち、資産価値が落ちたマンションに対して修繕費用を出し渋る人が増え、管理組合が機能不全に陥るという「廃墟マンション」が増えているといいます。このような負のスパイラルに入ると、もはやそのマンションを立て直す(建て直す)ことは困難です。
 建て替え直しに成功しているのは、土地に価値があり容積率に余裕のある都心部のマンションが中心で、建て替えに伴って部屋を増やすことで建て直しの資金を捻出していますが、そうしたことが期待できないマンションにおいて、多くの住民が建て替えのために資金を拠出するかというと、それはなかなか難しいでしょう。
 国は区分所有法を改正し、区分所有者の5分の4の特別多数決で建て替えを可能とする規定をつくりましたが、それでもやはり建て替え決議は困難です。
 将来、タワーマンションもこの問題にぶち当たると予想されます。町村ほどの人がいる規模、使い切ってある容積率、巨額の費用を考えると、タワーマンションの建て替えは不可能と思えるものであり、巨大な「廃墟」が出現する完成もあります。


 第5章でまずとり上げれれるのは空き家の問題です。日本では総住宅数が総世帯数を大きく超えているにもかかわらず、毎年大量の新築住宅が供給されています(178p)。
 空き家を有効活用すればいいようなものですが、住宅の所有者は、住宅を高い価格で売却できない、解体すると固定資産税が上がるし、解体費用もかかるといった理由で空き家を放置します。
 放置された空き家は火災の原因になるかもしれませんし、廃棄物が不法投棄されるようになるかもしれません。このように空き家には負の外部性もあり、自治体や国も取り組みを始めていますが、所有権の強さもあって空き家対策は思うようには進んでいません。
 また、近年話題になっているコンパクトシティに関しても、中心部を開発したからといって郊外の人が移り住むとは限りません。一般的に中心部の住宅の価格は高く、郊外の家を売って中心部に移り住むことは容易ではありません。著者は中心部に公営住宅を建設するというのもひとつの手だといいますが、同時にその費用負担をどうするかが新たな問題になるといいます。
 
 
 さらにこの章では災害時における問題についても言及しています。地震などでは古い木造住宅を中心に被害が出ます。政府や自治体は自力での住宅再建が難しい人に対して災害公営住宅の供給を行うのですが、家賃が上がってしまう、今まで住んでいた場所から離れた場所の公営住宅に住むことになってしまうといった問題を抱えていました。
 こうした問題を受け、東日本大震災では民間の賃貸住宅を「みなし仮設」として運用する制度が行われました。これは現物支給の原則から脱却し、被災者を機動的に支援するためのしくみで、しげんの有効活用という点でも優れた政策です。ただ、いつ一家賃補助を打ち切るのかという問題はありますし、コミュニティがバラバラにばってしまうという問題もあります。
 また、防災や減災の観点から木造密集地域の再開発が課題になりますが、さまざまな難しい問題を抱えています。


 ここまでが本論であとは終章です。政治学者が書いた本ということで、終章において法改正を中心とした今後の改革の方向性が打ち出されるのかと期待しますが、特に「この法律を改正すべきだ」といったことは書かれていません。
 これは著者が、現在の新築中心の日本の住宅に関する「制度」が、法律だけではなく経済的条件や人々の期待や予想といったものを含めて成立しているものだと考えているからです(この「制度」は青木昌彦が考えている「制度」に近い)。
 ここで思い出すのが解雇をめぐる議論です。いわゆる「改革派」の人の中には、「解雇制限の撤廃」こそ規制緩和の本丸であると考え、政府に対して「解雇制限の撤廃」を求める人がいますが、実は解雇をしてはいけないという法律はありません。日本の大企業において解雇がしにくいのは、法律のせいではなく、裁判の判例や企業の人事や労働者の期待などによって、そのような「制度」が出来上がっているからです。
 法改正だけで日本の雇用制度が激変するとは考えにくいように、住宅制度も法改正だけではなんともならないものなのです(もちろん、一定の方向に誘導することはできるでしょうが)。


 また、終章の記述からは、著者の関心は国が策定する都市計画などよりも、地方自治、さらにもっとミクロなマンションの管理組合などにおける意思決定やガバナンスにあることが窺えます。
 「まちづくり」という言葉は流行っていますが、現在のところ「まちづくり」が成功したか否かは経済的に活性化したかどうかで測られることが多いです。もちろん結果は大事ですが、人口減少によって「活性化」が難しくなり、場合によっては「負の遺産」の処理が中心となる中で、、今後は「まちづくり」の意思決定のあり方が問われることになるでしょう。
 この本はその第一歩となるものです。


新築がお好きですか?:日本における住宅と政治 (叢書・知を究める)
砂原庸介
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