ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン編『歴史は実験できるのか』

 物理学や化学などの理系の学問では仮説は実験によって確かめられ、科学的な真理として定着していきます。一方、歴史学となるとどうでしょう?
 ある出来事の原因を探るために実験をすることはタイムマシンでもない限り不可能です。「明治維新の最大の立役者は西郷隆盛である」という命題を検証するために、過去に行って西郷隆盛を殺して明治維新が起きるかどうかを確かめるということはできません。
 そこで「歴史は科学ではない」、あるいは「文系の学問は科学ではない」という声が生まれてくるわけです(近年、経済学や政治学などの社会科学の分野では実験という手法が取り入れられるようになってきていいますが)。


 しかし、例えば進化生物学や天文学といった分野でも実験はできませんし、多くの人を伝染病にかからせたり、氷河を溶かす実験なども現実的とは言えません。
 そこで、これらの分野ではしばしば自然実験という手法が用いられています。たまたま起こった出来事を利用して、実験の代わりにしようというのです。
 そして、その自然実験であれば歴史学でも可能ではないかとして編まれたのがこの本です。歴史的な出来事について、場所や条件などの違いを考慮に入れることによって、あたかも自然実験のようにみなせるのではないかと想定のもと、7つの章に8つの研究が紹介されています。
 『銃・病原菌・鉄』でお馴染みの編者ジャレド・ダイアモンドだけではなく、ダロン・アセモグルやアビジット・バナジーといった有名な経済学者も参加しており、読み応えは十分です。以下、章ごとに紹介していきます。 

 
第1章 ポリネシアの島々を文化実験する(パトリック・V・カーチ)


 ポリネシア人は西暦700〜1000年ごろに西ポリネシアから東ポリネシアの島々へと移住し、そこでさまざまな社会を形成していきました。彼らは西太平洋から、ソシエテ諸島クック諸島、オーストラル諸島、マルケサス諸島、そしてハワイへと進出しています。
 もともとは同じ文化を持っていた彼らが1000年ほどの間に違った文化を発展させていくわけですが、その移り住んだ島と文化の違いが一種の自然実験とみなせるのではないかというのが本章です。
 比較してあるのはクック諸島のマンガイア島と、マルケサス諸島とハワイ諸島
 マンガイア島は溶岩に覆われた火山性の島で、耕作可能な土地は少なく、戦争や暴力が絶えず、またカニバリズムの証拠も見つかっています。
 マルケサス諸島はマンガイア島に比べれば耕作可能な土地も広かったのですが、干ばつに見舞われることが多く食糧生産は不安定でした。そのため、精神的指導者であるタウアの力が強く、そのもとで饗宴が行われ、また周辺の部族を襲撃して人身御供を調達するようなこともあったそうです。
 一方、ハワイ諸島のハワイ島マウイ島は農業に適しており、農業の集約化が進みました。それとともに首長が力を持つようになり、さらに王国へと発展していきました。ハワイでは当初のポリネシアの文化からもっともかけ離れた形の文化が発展することになります。
 さらにこの章では、それぞれの地域の言語の変化にも注目しています。


第2章 アメリカ西部はなぜ移民が増えたのか――19世紀植民地の成長の三段階(ジェイムズ・ベリッチ)


 1840年代後半のカリフォリニアにおける「ゴールドラッシュ」については知っている人も多いと思います。金を求めて多くの人が西海岸に殺到しました。実はそうした「ブーム」は「ゴールドラッシュ」にとどまらず、各地で起きています。この章では、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド南アフリカ、アルゼンチン、シベリアにおける26の事例を見ていきます(66−67p表2.1参照)。
 これらの事例はいずれも、ブーム、バスト、「移出救済」という3つの段階をたどっています。まず、その地方でブーム(にわか景気)が5〜15年ほど起こり10年ほどで人口が少なくとも倍増します。しかし、その後バスト、つまり深刻な不況が起きて農場や企業が倒産します。やがて「移出救済」という局面になると、過去の残骸からあらたな社会経済が生まれ、多くの場合、大都市に農産物や木材などを供給するスタイルが定着し、緩やかに発展します。
 ブームの特徴は、インフラ整備、あるいは農業よりも農場の整備が地域の主要な仕事になっている点で、それに伴って大量の木材が切り出され、馬などの使役動物が集中します。
 こうした経済は長続きはせず、バストします。多くの企業が倒産し、ゴーストタウンが生まれます。一方で、生き残った農家が近隣の土地を買い取り農地の集約化が進みます。
 移出経済の局面では、技術の発達、例えば冷蔵・冷凍技術の発達などが重要な役割を果たします。また、こうした地域でつくられた農産物が都市部の貧しい労働者の生活を支えたのです。
 この章は、移民はなぜ増えたのか、移民のイメージの変化といったものもとり上げており興味深いのですが、「実験」という点からすると、どういう「実験」になっているのかわかりにくい面がありますね。


第3章 銀行制度はいかにして成立したか――アメリカ・ブラジル・メキシコからのエビデンス(スティーブン・ヘイバー)


 銀行制度は経済発展に必要不可欠なものだと考えられています。例えば、2005年において民間銀行が企業や世帯に融資を行った割合は、対GDP比で日本が98%、スペインが131%、イギリスが155%ナのに対して、シエラレオネは4%、カンボジアは8%、メキシコは15%だそうです(99p、もっとも05年という時期を考えるとスペインはややバブルか?)。
 一般的に民主的な国ほど銀行制度が発展するといいますが、それをもう少し詳しく見ていくために、この章ではアメリカ、メキシコ、ブラジルという3つの国における銀行制度の発展を見ていきます。独立の時期には数十年の違いがありますが、植民地時代は宗主国によって銀行の設立が禁止されており、独立後に銀行制度が発展したという点は同じです。
 アメリカでは、当初、州ごとに銀行を認可する権限がありました。州政府は自ら株主となって発券銀行を設立するとともに、その独占を維持するために新規参入をなかなか認めませんでした。また、銀行経営者も州議会などにはたらきかけて独占を維持しようとしました。
 しかし、1820年代に選挙の財産資格が撤廃されると銀行の設立許可数を制限するのは難しくなり、銀行数は急増します。南北戦争を機に連邦政府の統制が強まりますが、それでもその後に州立銀行が再び増加し、1914年の時点でアメリカには2万7349行の銀行が存在していましたが、ほとんどは支店を持たない銀行という特異な状況が生まれました(110p)。
 一方、ブラジルでは大農園主や商人、資本家らが大衆の政治参加を制限していました。1889年に君主制が打倒された直後こそ銀行設立がほぼ無制限に許可されましたが、数年もするとかつての制度が復活しました。ブラジルでは投票権を持つ国民が全体の5%にも満たなかったこと、議会よりも大統領の力が強かったことなどから、既存の銀行は一部の政治エリートと結託して独占的な利益を確保しようとし、新しい銀行はなかなか設立されなかったのです。
 また、メキシコでは19世紀後半まで政情が不安定で政府の公認を受けた銀行は1つもありませんでした。1876年からポルフィリオ・ディアスが独裁者として君臨すると、メキシコ国立銀行がつくられますが、厳しい規制によって銀行への新規参入は抑えられ、多くの市場において利用可能な銀行は3つに絞られました。
 アメリカ、ブラジル、メキシコの3国の違いというのは大きいですし、アメリカの銀行制度もかなり特殊なものではありますが、この章では、銀行制度の発展にはエリートや官僚の行動を抑えるための参政権の拡大が必要であるということを示そうとしています。


第4章 ひとつの島はなぜ豊かな国と貧しい国にわかれたか――島の中と島と島の間の比較(ジャレド・ダイアモンド


 この章では2つの事例を扱っていますが、まずはカリブ海イスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国の比較からです。ハイチはアメリカ全域で最も貧しく世界の最貧国の1つです。一方、ドミニカ共和国発展途上国ですが、一人あたりの平均収入はハイチの6倍で、99%の森林が失われたハイチに比べて28%の森林が保存されています。同じ島に存在しながら、現在の状況は大きく違うのです。
 しかし、植民地時代においてはハイチはフランスの植民地としてフランスの海外投資の3分の2がつぎ込まれた豊かな場所で、独立後の1822〜44年にかけてドミニカ共和国を占領していました。ハイチには大量の奴隷が連れて来られ、人口の85%を奴隷が占めるに至りましたが、ドミニカ共和国ではスペインが新大陸の場所の経営に力を入れていたため、奴隷の割合は人口の10〜15%にとどまりました。ハイチでは奴隷たちが独自のクレオール語を発展させたのに対して、ドミニカ共和国ではスペイン語が話されました。
 自然環境にに関しては同じ島なのですが違いがあります。降水量は島の西側のハイチよりも東側のドミニカ共和国が多く、ハイチは山がちで土地も痩せていました。この自然環境の違いと開発のされ方の違いが大きな違いをもたらすことになります。ハイチでは開発が進むと共に森林が失われ、森林破壊が降水量の減少をもたらし、さらなる森林の減少をもたらしました。また、フランスとの独立戦争の中でフランス系住民は撤退し、現地にはクレオール語という外部との意思疎通が難しい言語を話す集団が取り残されました。一方、ドミニカ共和国では暴力的な独立とはならなかったため、ヨーロッパ系住民も残り、ヨーロッパからの投資も続きました。さらに著者はドミニカ共和国のトルヒーヨとハイチのデュヴァリエという2人の独裁者の違いにも言及しています。


 もう1つの事例がイースター島の森林破壊です。イースター島の人々が木を伐採しすぎてその文明を崩壊させてしまったという話に関しては聞いたことがある人もいるかもしれません。巨大なモアイ像と相まって人間の愚かさを示すエピソードのようになってしまっていますが、果たしてそうなのか? というのがここでの問です。
 著者は考古学者バリー・ロレットとともに太平洋の島々に関して、ヨーロッパ人が訪れた時点での森林破壊の度合い、島が誕生してからどれくらい経っているか、農業のやり方、降水量、気温、風で運ばれる灰の量や塵の量、面積、どれくらい孤立しているか、などをデータベース化しました。
 その結果、灰の量や塵(アジアから運ばれてくる)の量が多いほど森林破壊の深耕が遅いなどの特徴がわかり、イースター島がもっとも脆弱な島の1つであることが判明しました。イースター島は低温で孤立していて雨が降りにくく、灰やアジアから運ばれてくる塵の量も最低ランクです。つまり、イースター島の文明崩壊の理由はイースター島の人々がもっとも脆弱な島に住み着いてしまったことにあるのです。

 
第5章 奴隷貿易はアフリカにどのような影響を与えたか(ネイサン・ナン)


 ちょうど興味があったトピックということもあってこの章が一番面白かった!
 アフリカの奴隷貿易が現在のアフリカ経済の停滞に影響を与えているという話はよく聞きますが、奴隷貿易の最盛期は18世紀であり、「日本でいえば江戸時代に起きたことが未だに影響を与えているのか?」という疑問も浮かびます。
 そこで、著者はアフリカ大陸のどこから奴隷が連れ去られたかを調べ、それを現在の経済発展の状況と比較しようとします。もし、奴隷貿易が200年以上後の世界にインパクトを残すほど経済発展にとってマイナスであるのなら、それは現在の経済状況ともつながっているはずだからです。
 しかし、これをデータで実証するのは大変です。著者は1400-1900年の間にアフリカ各地から連れ去られた奴隷の人数を推計し、彼らが所属する民族集団を各種資料から推計し、その民族集団がどこに暮らしていかたかを調べて現在の国家に当てはめます。
 このデータをどうやって推計したかは本書を見てください。著者も認めているように出身民族の記載が本当なのか、航海中に死んだ奴隷がカウントされていないのではないか等の問題もありますが、著者はそういった問題点はある程度クリアーできるとしています。
 そして、連れ去られた奴隷の人数が少ない北アフリカや小さい島国を除外し、天然資源の有無など考慮すべき材料をいれて補正したのが下のグラフ(170p図5.2)になります。基本的には面積あたりの連れ去られた奴隷の人数が多いほど、現在の経済状況は貧しくなっています。

 奴隷貿易と現在の経済状況をつなぐ因果関係については、本章では次のような推測が行われています。
 奴隷の連れ去りは戦争や近隣の集落への襲撃によって行われました。また、仲間だと思っていた人に売り飛ばされたような人もいます。その結果、奴隷が多く連れ去られた地域では見知らぬ者を警戒するようになり、大きな民族集団が編成されることは難しくなりました。実際、奴隷が多く連れ去られた地域では民族の多様性が高くなっています(180pの図5.5参照)。この民族の多様性が公共財の供給を阻害しており、それが経済の低迷につながっていると考えられるのです。
 

第6章 イギリスのインド統治はなにを残したか――制度を比較分析する(アビジット・バナジーラクシュミ・アイヤー)
 

 この章では制度がいかなる影響を与えるのかということを探るためにイギリスのインド支配に注目しています。インドでは植民地支配のなかで地税徴収制度が整えられましたが、それには地主をベースとした制度(ザミンダーリーまたはマルグザーリー)、小作農をベースとした制度(ライーヤットューリー)、村をベースとした制度(マハルワーリー)の3つがありました。地主をベースとした制度では地税は地主から徴収され、小作農をベースとした制度ではイギリス人が直接耕作者から徴収し、村をベースとした制度では数名の村人からなる組織に任されました。
 当初はすべて地主をベースとした制度だったのですが、インドを支配したイギリス行政官の考えなどから次第に小作農ベースとした制度や村をベースとした制度も導入されるようになっていきます。ここで重要なのはこの制度の違いが必ずしも地域の歴史に根付いたものではなかった点です。
 この地税徴収制度の違いに注目して現在の地域の発展の度合いを見ると、地主をベースとした地域は遅れを取っています。203pに地主ベースの地域と小作農をベースとした地域の比較をした表が載っていますが、小学校のある村の割合、高校のある村の割合、家庭用電力、道路舗装率、1961年時点での識字率といずれも小作農をベースとした地域が上回っています(村ベースの地域を加えても結果は同じです(204p))。独立後に大々的な土地改革が行われ経済的な不平等はかなり解消したにもかかわらずです。
 そこで著者たちは「地主ベースの地域はいまだに地主が政治的な力を持っており、政治的な競争がないために公共財の供給が行われないのではないか?」という仮説を立てますが、これはあまりうまく実証できませんでした。何か別のメカニズムがはたらいているようなのです。


第7章 フランス革命の拡大と自然実験――アンシャンレジームから資本主義へ(ダロン・アセモグル+ダビデカントーニ+サイモン・ジョンソン+ジェイムズ・A・ロビンソン)


 フランス革命は封建的な諸制度、いわゆるアンシャンレジームを破壊、もしくは衰退させましたが、それが経済発展につながったかどうかを、ナポレオンに支配されたドイツの諸地域の違いを見ることで解き明かそうとしています。
 ドイツはナポレオンの支配を受けましたが、その中には侵略されなかった地域もあります。また、侵略された地域の中にはその後プロイセンに譲渡され制度上の改革を後戻りさせなかった地域と、侵略されたあとプロイセンに譲渡されずかつての支配者が復活した地域があります。これらを比較することでフランス革命の及ぼした影響を確かめようというのです。
 成文民法の制定、ギルドの廃止、農地改革の実施などの制度面に関しては、侵略後プロイセンに譲渡されなかった地域での遅れが目立ちます(図7.3と図7.4、7.5、7.6を比較すると見えてくるがややわかりにくい)。
 また、経済成長についてはGDPなどの統計がないために人口5000人以上の都市で暮らす人々が全人口に占める割合で代替しようとしています。229pの図7.2を見ると、この割合は1900年の段階で侵略後プロイセンに譲渡された地域がもっとも高く、侵略後プロイセンに譲渡されなかった地域がもっとも低くなっています。
 この章に関しては、狙いはよいと思うのですが、その狙いを証明するデータという点では少し弱い気がします。


 このように、この本では7つの章で8つの事例が紹介されています。どれもなかなか興味深い問題を扱っていますが、「実験」としてうまくいっているのではないかと思ったのは、第4章のイースター島の事例、第5章、第6章ですかね。第1章から読んでみていまいちだと感じたら第4章から読むといいと思います。
 第2章と第4章のイスパニョーラ島の事例は非常に面白いですが、「実験」と考えると、どういったメカニズムに焦点を当てるのか絞りきれていないように感じます。
 やはり歴史における「実験」というのは難しいと感じる部分もありましたが、歴史から因果関係やメカニズムを取り出す試みとして非常に面白いと思います。「歴史は科学ではない」と言い切ってしまうのも一つの考えでしょうが、この本は歴史を「科学」として取り扱おうとするための1つのチャレンジであり、またそのためのヒントが散りばめられていると思います。
 歴史における理論や因果関係を考えたい人には是非おすすめしたいですし、また、奴隷貿易の影響など個々のトピックに興味がある人も読んで損はない本だと思います。


歴史は実験できるのか――自然実験が解き明かす人類史
ジャレド・ダイアモンド Jared Diamond ジェイムズ・A・ロビンソン James A. Robinson
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