リチャード・フラナガン『奥のほそ道』

 映画『戦場にかける橋』の舞台となった日本による泰緬鉄道の建設。映画を見た人ならご存知の通り、過酷な現場の中で工事に携わった多くの捕虜たちが命を落としました。
 この本は、そのような泰緬鉄道建設の地獄のような現場をオーストラリア人捕虜と日本人(朝鮮人)の立場から描き、さらには戦争の前後を描くことで、捕虜収容所での出来事がそこに携わった人にどのような影響を与えたかも描こうとしています。


 作者のフラナガンの父親は、この泰緬鉄道の建設現場からの生還者で、その父の話を書きたいと思い書き始めたものの、なかなか形にはならず完成まで12年の歳月が書かったそうです。
 実際、父の実体験を小説にするというよりは、それを越えて人間の極限状態や、あるいは愛の意味を問うようなものとなっています。


 主人公のドリゴ・エヴァンスは、日本軍の捕虜となり地獄のような泰緬鉄道の建設に携わり(将校だったために建設現場での労働はしなかった。このあたりは『戦場にかける橋』とは違う)、生還した人物です。
 第1部ではドリゴの人生がスナップショット的に描かれ、ずっとこんな感じで続くのかと思いますが、第2部になると後半になると、ドリゴが出征する前のエイミーという女性との不倫が中心になります。捕虜収容所の過酷な生活が中心的に描かれると思っていた読者には、やや戸惑う展開かもしれません。
 第3部は、この小説の中核となる捕虜収容所のシーン。ここはスナップショット的ではなく、捕虜収容所の地獄のような状況を読者が追体験するような形で物語が進みます。ここの描写は読んでいて息が詰まるような迫力があります。
 第4部は戦後を描きます。ナカムラ少佐という日本人の士官のその後や、オーストラリア人からオオトカゲと呼ばれていた朝鮮人のチェ・サンミンの悲劇的な最後など、捕虜を虐待していた側のその後も追っているのが大きな特徴です。
 第5部ではナカムラの最期とドリゴの戦後の生活が綴られます。ここで第一部のエイミーとの話などが生きてきます。


 このように450ページ近いボリュームにさまざまな要素が盛り込まれており、単純に「捕虜収容所を描いた小説」とは言えない広がりを持っています。読む人によってさまざまな違った顔を見せる小説だと思います。
 そんな中で、個人的に印象に残ったのが、ドリゴが諳んじるホメロス叙事詩と日本人の士官であるナカムラ少佐やコウタ大佐がたしなむ俳句の違いと、その俳句が醸し出すニヒリズムです。
 この本では、ナカムラ少佐とコウタ大佐が俳句について語り合うシーンがある他、各部の扉に俳句が掲げられています。第1部の扉は、松尾芭蕉の「牡丹蘂(しべ)ふかく分出る蜂の名残哉」で、「奥のほそ道」というタイトルといい、芭蕉が中心的に引用されるのかと思いますが、残りの4つはすべて小林一茶の句です。それぞれ次のようになります。

 第2部 「女から先へかすむぞ汐干がた」
 第3部 「露の世の露の中にてけんくわ哉」
 第4部 「露の世は露の世ながらさりながら」
 第5部 「世の中は地獄の上の花見かな」

 もちろん一茶の句は単純なニヒリズムではありませんが、やっぱり世界の本質を17文字で表すという行為にはニヒリズムを感じざるを得ません。
 そして、日本人将校たちにも「捕虜の状況が限界なのはわかっているが、上からの命令だから仕方がない、天皇陛下のためだから仕方がない」といったニヒリズムがあります。日本人将校にも葛藤がありはするのですが、その葛藤を洗い流してくれるのが17文字に縮減された世界観のように思えるのです。 
 個人的には、この俳句の扱い方がこの小説の一番印象的なシーンであり、この小説の「凄み」を感じさせるところでした。