フランチェスコ・グァラ『制度とはなにか』

 著者はイタリアの哲学者で、以前に出した『科学哲学から見た実験経済学』が翻訳されています。昨年、『現代経済学』中公新書)を出した経済学者の瀧澤弘和が監訳していますが、内容的には哲学の本と言っていいでしょう。

  ただし、その内容は社会科学と密接に関係しています。『現代経済学』を読んだ人ならわかると思いますが、近年の経済学が注目するものに「制度」があります。経済発展の鍵や各国ごとの経済の違いを制度によって説明しようとする考えが数多く登場してきているのです。

 その中でも、この制度をゲーム理論よって説明しようとする考えがあります。青木昌彦などがそうですし、監訳者もこの流れにいる人と言っていいでしょう。

 そして、このグァラもまたゲーム理論に注目しています。ゲーム理論を使って制度を説明しつつ、後半ではその哲学的な位置づけについて探ったのがこの本です。

 久々にきちんとした哲学の本を読んだので、以下では監訳者の解説なども参考にしつつ自分なりにポイントだと思ったところを紹介したいと思います。

 

 目次は以下の通り

序文
イントロダクション

第Ⅰ部:統一
第1章 ルール
第2章 ゲーム
第3章 貨幣
第4章 相関
第5章 構成
第6章 規範性

幕間
第7章 読心
第8章 集合性

第Ⅱ部:応用
第9章 再帰性
第10章 相互作用
第11章 依存性
第12章 実在論
第13章 意味
第14章 改革 

  

  監訳者の解説にも書いてありますが、制度に関しては、制度をルールと考える見方と制度を均衡(ゲーム理論における均衡)と考える見方があります。

 ルールとして制度を捉えると、制度の歴史的発展を説明しやいですが、制度の安定性や制度がなぜ守られるのか? といった点は説明しにくくなります。一方、制度を均衡と考えると制度の安定性や守られる理由は説明しやすいですが、制度が単なる行動の規則以上となることが説明しにくいです。

 

 そこで著者は「均衡したルール」として制度を捉えようとしています。

 まず、制度に関して著者はコーディネーション(調整)と協力を促すものとして捉えています。比較的狭い道で車がすれ違おうとした時、「左側通行(右側通行)」という制度があれば、スムーズにすれ違うことができるでしょう(この場合、右側でも左側でもどちらかに決まっていれば良い)。

 

 第Ⅰ部では、こうした制度がどのようにして信頼を築けるのかという問題がとり上げられています。

 制度は一般的に人々の利益となるものと考えられていますが、奴隷制も一つの制度ですし、伝統的な結婚制度においては女性が不利なケースが多く見られました。

 こうしたことを考えると、制度とは権力者が制定したルールであると考えたくなります。しかし、制定したルールは必ずしも守られるわけではありません。道路の制限速度のように多くの人々が守っていないルールも存在します。ルールという言葉だけでは人々が制度に従う理由を説明できないのです。

 

  これに対して、制度を均衡と考えると人々がルールを守る理由を説明しやすくなります。一般的に周囲の車の速度に合わせることがスムーズな流れを作るからです。

 最近、エスカレーターの片側空けが問題とされていますが、鉄道会社がいくら呼びかけても片側空けがなくならないのは、片側空けが均衡だと考えるとわかりやすいと思います。この状況を変えるにはルールだけでなく、人々の予想や期待を変える必要があるのです。

 著者は、こうしたことから制度をまず均衡として捉えるアプローチを採用しています。

 

 均衡というとゲーム理論を少し知っている人ならば、まずナッシュ均衡を想定すると思いますが、著者が重視しているのはコーディネーション・ゲームです。

  このコーディネーション・ゲームの例として、先述のすれ違おうとしている車の例があげられます。このゲームに置いて重要なのは右でも左でもいいのでドライバーの判断が一致することです。このため、右側通行なり左側通行のルールが決まると、それを守ることがすべてのドライバーの利益となり、それが均衡として定着するのです。

 

 著者は貨幣についても、このコーディネーション・ゲームで説明しています(第3章)。不換紙幣は貴金属やその他の商品に比べると、持ち運びに便利ですし、使いやすいですが、不換紙幣を使うためには、支払い相手もまた、不換紙幣を使う(価値を信じている)必要があります。みんなが一致して不換紙幣を利用することで、貨幣という制度が立ち上がってくるのです。

 

 第4章では、草原で放牧をするヌアー族とディンガ族というケースをまずとり上げています。両者は同じ場所で放牧しようとすれば互いに衝突し利得は0。お互いに放牧しなければ衝突はしないが牛は育たず利得は1、ヌアー族のみ放牧すればヌアー族の利得は2でディンガ族は1で、逆も同じようになります。

 利得行列は以下の通りです。

 

  ヌアー族・放牧する ヌアー族・放牧しない
ディンガ族・放牧する 0,0 2,1
ディンガ族・放牧しない 1,2 1,1

 

 この利得表だけだと、お互いにランダムに放牧地を決め、お互いがバッティングしないことを祈るのみですが、もし、両者の間に昔あった川の川床があったらどうでしょう? こうしたフォーカルポイントがあるのならば(フォーカルポイントについてはトーマス・シェリング『紛争の戦略』を参照)、ヌアー族は川床の北、ディンガ族は川床の南といった棲み分けをすることで両者は望ましい均衡を達成できるでしょう(他にも占い師が互いの放牧場所を決めるようなやり方も考えられる)。

 「ヌアー族は川床の北、ディンガ族は川床の南」というのは均衡なのですが、同時にプレーヤーにとってはルールとして認識されます。著者はこれを「均衡したルール」と呼んでいます(85p)。

 著者は制度に対するこうした捉え方が、アブナー・グライフ&クリストファー・キングストン青木昌彦の考えと近いものだと指摘しています(90-91p)。

 

 第5章ではジョン・サールの議論がとり上げられていますが、サールのこのあたりの議論は未読ですし、あんまりサールの議論にピンときたことがないので割愛します。内容的にはサールの打ち出した構成的ルールは統整的ルールから導出できるというものです。

 しかし、サールの議論のポイントの1つは、構成的ルールが義務や権利を生み出すという点にあります。それに対して著者は、義務論的な力は、ゲームにおける個々人のインセンティブを変換する費用として表現する、クロフォードとオストロムの議論を採用しています。

 

 第7章では、コーディネーションを達成するためには人々の信念なり予想が一致しなければならないのですが、それがどのようにしたら可能なのかということが検討されています。

 ここでは、他人の心をシミュレートすることでそれが可能になるという考えが紹介されています。

 一方、第8章では、他人との協調のためには集合的志向性のようなものが必要ではないかという議論が検討されています。自分の能力もあってあんまりきちんと理解できていないのですが、著者によればこの考えはシミュレーションの理論と大きな差はないとのことです。

 

 第9章では再帰性について検討されています。社会的事物を語るときに厄介な問題は、ある制度なり分類、予想といったものが、実際にそのような行動を誘発したり、規定したりすることです。

 例えば、ある会社が「女性社員はすぐに辞めてしまう」という予想のもとに行動していたら、女性社員には長期的な仕事を任せなくなり、実際に女性社員は仕事にやりがいを感じられずに辞めてしまうかもしれません。入社当初は長く働こうと思っていたにもかかわらずです。

 この章では、こうした再帰性マートン流に言えば「自己成就的予言」、ハッキング流に言えば「ループ効果」もまたゲーム理論の均衡として分析できることが示されています。

 

 第10章では、ハッキングの主張するループ効果の有無が社会科学と自然科学の線引をするという問題がとり上げられています。また、社会構成主義についても批判的に検討されています。

 

 第11章と第12章では、社会的な種類は私たちの表象に依存するというテーゼが検討されています。かなり哲学的な内容ではあんまりきちんと理解できなかったのですが、上記の考えは、社会的種類についての非実在論と不可謬主義をもたらすが、著者によると、依存性のテーゼが誤りであって、社会的種類は人々の考えとは独立に存在するとのことです。制度の本性は機能であり、人々の持つ考えによって決まるのではないとのことです。

 

 第13章では意味の問題がとり上げられています。今まで結婚は多くの文化圏で「成人男性と成人女性の公式な結びつき」と考えられてきました。しかし現在、同性婚をめぐる問題がこの考えを揺さぶっています。

 この問題に対して、同性同士の公式な結びつきを認めるかはさておき、同性同士に「結婚」という言葉は使えないとする立場があります。

 2001年にブリティッシュ・コロンビア州で行われた裁判において、言語哲学者のロバート・ステイトンは、男同士が結婚できるかというのは、「なぜ二人の少年が姉妹になりえないのか問うことや、独身男性が結婚した状態でありえないのはなぜかと尋ねたりするのと同じである」(248p)と述べています。ステイトンによれば、同性婚は「結婚」という言葉とはまた違った言葉で表現されるべきなのです。

 

 これに対して、著者は制度は変化するものであり、「いまどうなのかということでなく、私たちが制度がどうあって欲しいか、将来どうなってほしいかということなのである」(254p)と述べ、ハスランガーの議論などを引きながら、制度の改革可能性を打ち出しています(ここで非実在論と不可謬主義を否定した議論が生きてくる)。

 

 最後の第14章は「改革」と題され、実在論者であると同時に改革論者である道が探られています。

 著者はこれが「タイプ」と「トークン」の区別によって可能だとしています。一般にコーディネーション・ゲームは複数の解をもっており、その一つ一つがトークンとしての制度です。つまり、これまで存在しなかったような解も同一制度内の一つのトークンとみなせるのです。

 そして、このトークン制度が一つの証拠となって、タイプ制度を発展させる可能性があります、著者は同性婚の例を取り上げながら、こうした可能性を示しています。

 

  このように第II部ではかなり哲学的な議論がなされており、正直、著者の狙いと達成したことが十分にわかったとは言い難い面もあるのですが(* このエントリーを書き終わって気づきましたが、下のカバー写真から飛べるAmazonのページに梶谷懐氏(梶ピエール氏)による第II部の議論を解説したレビューがアップされています)、冒頭に著者による要旨付きの目次があり、また、監訳者による解説も充実しているために迷子にならずに読めました。

 

 政治においても経済においても制度の重要性というのは疑い得ないと思いますが、「制度とは何か?」と問われると、それに答えるのは意外と難しいものです。

 この本ではその制度に関して、かなり明快な説明がなされています。著者の説明に100%納得したわけではありませんが、制度を考えていく上での一つのモデルと、考えていくときに必要な論点を教えてくれる本だと思います。