待鳥聡史・宇野重規編著『社会のなかのコモンズ』

 2月28日に東京堂書店で刊行イベントがあり、ちょうどその日に読み終わっていたのですが、仕事が忙しかったりウィルス性の胃腸炎になったりで、読了後1月弱たってからの紹介になります。

 というわけで、以下はやや大雑把な紹介になりますし、また、イベントで聞いた話も受けてのまとめになっています。

 目次は以下の通り

1 歴史のなかのコモンズ

第1章 コモンズ概念は使えるか―起源から現代的用法(宇野重規

第2章 近代日本における「共有地」問題(苅部直

2 空間のなかのコモンズ

第3章 衰退する地方都市とコモンズ―北海道小樽市を事例として(江頭進)

第4章 コモンズとしての住宅は可能だったか―一九七〇年代初頭の公的賃貸住宅をめぐる議論の検証(砂原庸介
第5章 保留地というコモンズの苦悩(田所昌幸)

3 制度のなかのコモンズ

第6章 コモンズとしての政党―新たな可能性の探究(待鳥聡史)

第7章 脱領域的コモンズに社会的コモンズは構築できるか(鈴木一人)
第8章 ミートボールと立憲主義―移民/難民という観点からのコモンズ(谷口功一)

 

 まず、目次を見てもらえばわかるように執筆陣は非常に豪華です。政治学の分野を中心に現在活躍している書き手が揃っています。

 ただ、政治学とコモンズという組み合わせにはあまり馴染みがないかもしれません。コモンズといえば経済学で出てくる「コモンズ(共有地)の悲劇」がまず思い浮かびますし、人によっては法学者としてサイバー空間のルールについて活発な発言をしているレッシグの『コモンズ』を思い出すかもしれませんが、政治学の分野でコモンズという言葉が出てくることはそれほど多くない印象を受けます。

 

 一方、政治学の分野でよく語られる言葉は「公共性」です。実は意外と英語には翻訳しにくい言葉だということですが、政治学ではよく使われる言葉であり、90年代後半以降の1つのキーワードと言えるかもしれません。

 そして、この本の副題は「公共性を超えて」となっています。「「公共性」では捉えられない何かを「コモンズ」という言葉でならばうまく捉えられるのではないだろうか?」というのが本書の狙いと言えるでしょう。

 

 まず、第1章の宇野重規「コモンズ概念は使えるか」では、「コモンズ」の概念を振り返りつつ、レッシグネグリとハート、ジェレミー・リフキンというまったく立場の違う3人の論者が「コモンズ」という言葉を使っていることに注目しています(ネグリとハートは「コモンズ」ではなく「ザ・コモン」と表記してる)。

 「公共性」は人と人との結びつきに焦点を当てていますが、「コモンズ」は具体的なものを介した人間の結びつきを重視しており、そこに1つの可能性があると考えるのです。

 

 日本人が「共有地」と聞いて思い浮かべるのが、入会地でしょう。第2章の苅部直「近代日本における「共有地」問題」では、その入会地の問題をとり上げています。

 村のメンバーによって保全され、村のメンバーが利用できる入会地はまさしく「コモンズ」と言えるかもしれませんが、明治になり共同体としての村が解体され、村が行政区画として再編成されていくと、この入会地の維持は難しくなっていきます。

 この章では、そうした状況に対する柳田國男中田薫、そして戒能通孝の考えと取り組みを紹介しています。特に戒能は入会地をめぐる紛争(小繋事件)に大学教授の職を辞して関わった人物で、彼の議論と行動は「コモンズ」を考える上で参考となるものです。

 

 ここから第4章の砂原庸介「コモンズとしての住宅は可能だったか」にとびますが、住宅が「コモンズ」だというと多くの日本人は首をひねるかもしれません。この章のタイトルが「可能だったか」という疑問形になっているからもわかるように、日本人の感覚では住宅は個人の資産であり、個人が建て、個人が処分するものでしょう。

 ただ、マンション、さらには大規模な団地というと「コモンズ」のイメージが湧いてくるかもしれません。マンションのエレベーターや駐車場などの共有部分、団地の公園などはまさに「コモンズ」だと言えます。これらのものはみんなで維持していくことで、みんなの利益となり、さらに後続の世代へと引き継ぐことができるからです。

 後続の世代へと引き継ぐということからすると、一戸建てなども本来ならば「コモンズ」と考えてもいいのかもしれません。ところが、日本では中古の住宅市場が整備されていないことや新築への補助の手厚さもあって、住宅は新築し、寿命がきたら取り壊すものとなってしまっています(この辺の事情は著者の『新築がお好きですか?』を参照)。

 この章では、70年代初頭に公営住宅に対する応能家賃(住んでいる人の給与に応じて家賃が変化する仕組み)の導入の失敗に注目し、それが公営住宅の住人の入れ替えを阻むとともに、公営住宅建設を抑制していった流れを追っています。公営住宅を多くの人々が利用する「コモンズ」とする可能性はここで一度潰えたのです。

 

  第6章の待鳥聡史「コモンズとしての政党」でとり上げられている政党も、一般的な感覚だと「コモンズ」だとは思わないでしょう。「不偏不党」という言葉があるように、「党」というのは自分たちの私的な利益の実現を目指す集団であり、「党派性」という言葉は公共的なものと対立すると考えられるからです。

 しかし、20世紀末以降、経済的利益の配分を目指すスタイルの政党はその運営が難しくなっており、新たなスタイルが模索されています。著者は今後の政党に求められる機能として、政策についての情報を縮約して伝える機能と政治家をリクルートする機能をあげていますが、この2つの機能が中心であれば政党はコモンズ足りうるかもしれません。

 著者は党員にそれほど忠誠も求めないアメリカ型の政党を1つのモデルと考えていますが、アメリカの政党も現在うまく機能しているとは言い難い面もあります。とりあえず、この章では政党がコモンズとなる「可能性」を指摘していると言えるのでしょう。

 

 第7章の鈴木一人「脱領域的コモンズに社会的コモンズは構築できるか」では宇宙空間とサイバー空間がとり上げられていますが、この章で取り上げられているもの、特に宇宙空間は普通の人にも「コモンズ」と認識されやすいと思います。

 宇宙空間に所有者はいません。一方、各国が無秩序に人工衛星を打ち上げていけば、人工衛星が衝突したり、まだ衛星の残骸などの宇宙デブリによって宇宙空間は今までのように使えなくなってしまうかもしれません。まさに「共有地(コモンズ)の悲劇」が起きかねない状況なのです。また、宇宙開発を行っているアメリカ、ロシア、中国といった国々は全面的とはいえない間でも対立関係にあり、協調は難しく思えます。

 ただ、現在のところデブリを増やさないためのルールなどを各国が基本的には守っています。これは宇宙空間が有望であり、将来のことを考えるとこの空間を台無しにしてしまうことは各国が望まないからです(民間企業の宇宙開発が盛んになった場合はまた違ってくるかもしれませんが)。

 そう考えると、宇宙空間が「コモンズ」として利用される可能性は十分にあるわけです(サイバー空間に関しては攻撃者を特定しにくいという問題を抱えている)。

 

 一方、厳しいのが衰退している場所における「コモンズ」です。第3章江頭進「衰退する地方都市とコモンズ」では、北海道小樽市を事例として地方都市の現状が語られていますが、なかなか厳しいものがあります。

 例えば、商店街は一種の「コモンズ」と考えられます。商店街に人が集まっていれば、そこにビジネスチャンスが生まれますし、地域の人をつなぐ役割も果たします。ところが、ご存知のように地方では商店街の衰退が著しいです。これは大規模店の出店なども要因の1つですが、それ以外にも後継者がいない、あるいは子どもがいても他の職業との比較で継がせようとは思わないといった要因もあります。

 小樽市では1999年に15万人以上いた人口は毎年2000人ほどのペースで減り続け、2018年には12万人を割り込んでいます。こうなると商店街にとどまらず街全体でもンネットワークが形成されなくなり、イベントで出た話によると人びとはますます自己利益に閉じこもりがちになるといいます。

 こうした状況を打開するために「祭り」などのイベントが行われていますが、1992年の暴力団対策法の施行とともに祭りの担い手が市民団体や青年会議所などになった結果、「素人の主催する祭りは面白くない」(89p)と感じる中高年の人もいるそうです。

 

 第5章の田所昌幸「保留地というコモンズの苦悩」はさらに未来が見えない話です。ここではカナダの「インディアン保留地」の問題がとり上げられています。カナダは多文化共生がうまくいっている国の代表例として数えられますが、この先住民の問題に関してはうまくいっていないことがこの章を読むとわかります。

 もともと保留地は、先住民たちを辺境の地に隔離するとともに彼らを「保護」し、「文明化」する目的で設置されました。先住民を白人社会から引き離し、「善導」することで、やがて先住民たちは白人社会に馴染んでいくことができると考えられたのです。

 しかし、先住民の社会では毛皮取引の衰退とともにアルコール依存症が蔓延し、この試みは失敗に終わりました。1969年にピエール・トルドー(ジャスティン・トルドーの父)は、先住民に対する差別を撤廃するとともに保留地の土地の売買などを認めるリベラルな同化主義の路線を打ち出しましたが、先住民に特殊的な権利を与えなければ文化的に抹殺されてしまうのでは? という危惧の声が高まり、この試みは失敗に終わります。

 保留地は部族長と部族評議会によって運営されています。この形態は「コモンズ」に近く、成功している例もあるのですが、その多くはうまくいっているとは言い難い状況にあります。伝統社会が衰退する中で、「コモンズ」はうまく機能していないのです。

 

 最後の第8章の谷口功一「ミートボールと立憲主義」は変わったタイトルですが、移民や難民の問題とそれに伴う文化的な摩擦を扱っています。タイトルの「ミートボール」は、デンマークで学校給食にデンマークではメジャーなメニューであるミートボールの提供を義務付ける立法がいくつかの自治体で行われたことからきています。このミートボールは豚肉であり、背景にはイスラモフォビアがあります。

 少し前まえ、リベラルであることと多文化主義であることは両立すると考えられていましたが、オランダの政治家ピム・フォルタインなどが主張したように、近年のヨーロッパではイスラム文化がリベラルな社会を脅かすという声が高まっています(フォルタインの主張についてはこちらの記事を参照)。

 公的空間と私的空間の区別をつくってきたヨーロッパ流の立憲主義と、そうした区別を認めないイスラムの間には根本的なズレがあり、そのズレはそう簡単には解消されそうにありません。文化が大きく異なる者同士の間で「コモンズ」をつくっていく難しさを示しているといえるかもしれません。

 

 このようになかなかおもしろい論考が並んでいます。イベントでも話されていたことなのですが、「公共性」というと何か崇高なもので損得を持ち込むことは許されないような気がしますが、「コモンズ」というとコストなどが当然ながら視野に入ってきますし、また、「公共性」というとすでにメンバーシップが確立している中で成立するものというイメージがありますが、「コモンズ」に関しては「どこまでがメンバーか?」という問題が浮上します。

 まだ、明確なイメージが打ち立てられているとは言えないかもしれませんが、「公共性」よりも「コモンズ」のほうが「使いやすい」概念になっていく可能性はあるでしょうし、また、「コモンズ」は過度に観念的にならないで政治について考える1つのツールになっていくかもしれません。