ニコラ・ヴェルト『共食いの島』

 アウシュヴィッツの恐ろしさの一つは「合理的」な虐殺のシステムをつくり上げたところにありますが(ただ、ユダヤ人の虐殺はアウシュヴィッツのような強制収容所だけで行われたのではなく、行動部隊(アインザッツグルッペン)による大量射殺によって行われた部分も多い(芝健介『ホロコースト』中公新書)や石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書)参照))、「合理的」ではなく非常にいい加減なかたちで行われた虐殺劇も、やはり恐ろしいということを教えてくれるのがこの本。

 1933年、西シベリアに流れるオビ川の中にあるナジノ島に約6000人の人が食糧もなしに遺棄され、共食いも起こったというナジノ島事件を扱った本書は、スターリン体制の恐ろしさと無責任を克明に記録しています。

 

  目次は以下の通り。 

まえがき
第1章 「壮大な計画」
第2章 強制移住地、西シベリア
第3章 交渉と準備
第4章 トムスク中継収容所で
第5章 ナジノ島
むすび
エピローグ 1933-1937

 

 1933年2月、OGPU(合同国家統治機構ソ連の政治警察)長官ゲンリフ・ヤゴタとグラーグ(矯正労働収容所管理総局)局長マトヴェイ・ベルマンはスターリン宛に、西シベリアとカザフスタンに「都市と農村の反ソ分子」200万人を移住させる計画を提出しました。すでに富農(クラーク)の移送は行われており、それにつづくものとして残った富農や非協力的な農民、犯罪者などを特別居住者としてまとめて送り込もうとしたのです。計画によれば、彼らは2年間で移送定住の費用を回収できる生産活動を開始するはずでした。

 

 このころのソ連は、重工業化に必要な外貨を獲得するために大量の穀物と農産品の輸出を必要としており、そのためにウクライナをはじめとする穀倉地帯で農民からの収奪が行わていました。

 自分たちが食べる食糧や備蓄した種子までを奪い取られた農民は農村から流出し、それを防ぐためにOGPUは駅での農民を逮捕し、農民への鉄道切符の販売を禁止するなど、摘発を続けました。

 ここで問題となったのが逮捕して監獄に入れた農民をどうするかです。また、都市住民に対しては旅券を発行してその行動を管理しようとしましたが、その旅券の不携帯でも数多くの逮捕者が出ていました。さらに、この時期に都市から乞食、浮浪者、累犯者などの「社会的危険分子」を一掃する計画も立てられており、こうした大量の人間をどこに収容するかが問題となったのです。

 

 1933年2月7日、ヤゴタからOGPUの西シベリア全権代表アレクセイエフに、100万人の移住者(しかも10万人はこの冬季に)を送るので、彼らが住む場所や必要なもの、移送方法などに2日以内に情報を提供するように電報が届きます。この無謀な要求に対して、アレクセイエフは西シベリアの共産党本部のロベルト・エイヘと協議し、これを拒否する回答を送ります。

 地方当局は「管轄下の地方が「ゴミ捨て場」に変えられて由々しい危険にさらされつつあ」(34p)ると考えていたのです。

 このころのシベリアは旱魃や、飢餓から逃れようと流入した数十万のカザフスタン人の扱いに苦慮しており、地元民の間ではカザフスタン人が「ロシア人の子供を攫って食べている」(40p)という噂も流れていました。

 シベリアの都市はソ連の中でも最高の犯罪率を誇っており、盗賊団によるコルホーズへの襲撃もやまない状況でした。1930年に行われた富農の移住計画もまったくうまくいっておらず、多くの富農が死んでいきました。

 

 しかし、エイヘの反対や費用の問題があっても50万人をシベリアに送ることは決定してしまいました。しかも、予算は要求の20%にみたない額しか受け取れず、牛や馬は要求の1/3、食料品は1/4程度しか認められませんでした。

 作戦は33年5月1日に開始されることになりましたが、シベリアでは移送された人々を乗せる船などの準備はまったくできていない状況でした。一方で、いち早く厄介払いをしたかった移送元の地方幹部は5月1日を待たずに護送集団を送り出し始めたのです。

 しかも、到着した集団は、以前の富農のような自分たちの小屋をつくれるような百姓ではなく、「家族なし、道具なしの都会人であり、裸足でシャツもズボンも履いていないまったく無能な連中だった」(81p)のです。

 

 第4章では、移送者が居住指定地に送り込まれる前に集められる中継収容所の1つであるトムスク中継収容所の様子が描かれていますが、そこにあるのは終わりのない混乱です。

 4月9日に早くも第一陣が到着しますが、ほとんど全員が飢えており、寄生虫とシラミにまみれていました。15日の行程の食糧として一日あたり400グラムのパンが支給されていましたが、それらは最初の3日間ですべて消費されていたのです。

 この時期にはまだ川は凍結しており、船によって移送者を目的地に送り出すことは不可能でしたが、その間にも続々と移送者が到着し、トムスク中継収容所では4月後半に500人以上、5~6月には1700人が死亡しました。

 しかも、きちんとした名簿のなく、移送者がどのような理由で移送されてきたかもわからない状況で、調査対象の約20%が「まったく労働に不的確な老人、身障者、知的障害者、盲人」(91p)だったといいます。

 

 この本では、その移送者のいくつかのプロフィールが紹介されています(91-95p)。そのうちのいくつかを紹介します。

 

 イウヴェリナ・ペレファリアン、75歳、「ソチから聾唖者の息子と移送、理由は商人、牛の乳を搾って得た収入で生活」(写真)。アパートの同じ一室で同居していた隣人もいっしょに移送された。誤って親族とみなされたからだ。

 ピオトル・ツアリ、51歳、「仕立屋、ソチからの移送者。娘は党員、その連れあいも党員で外交官として外国駐在中。移送理由は自宅を所有していたから」

 エフゲニア・マルコフキナ、18歳、「トゥアプセから17歳の妹と13歳、5歳の弟といっしょに移住、理由は1931年に死んだ父親が悪質な商人だったこと。5歳の子は途中で死亡、だれも護送隊を離れることを許さなかったので、遺体は窓から投げ捨てられた」

 ヴェラ・ミロシュニチェンコ、「党員、党員章番号1471366。階級脱落分子として移送されようとしていた前夫のアパートに自分のものを取りにいって検挙、移送。抗議したにもかかわらずミロシュニチェンコは前夫といっしょに乗車させられ、家にもどって身分と党所属を証明する機会をあたえられなかった」

 

 これを見てもわかるように、移送者は危険分子ではない「社会のお荷物」となりそうな者や、普通の犯罪者、たまたま検挙に巻き込まれた者、さらにはモスクワなどの大都市で旅券を家に忘れた者(しかも正規の証明書を持っていたにもかかわらず移送された者もいた)なども含んでおり、しかもそれが途切れることなく移送されてきました。

 こうした雑多な者たちがまとめて移送されており、普通の人々は常習的な犯罪者に食糧や所持金や書類を奪われました。

 トムスク中継収容所では一刻も早く、これらの移送者を次の場所へ送らなければならない状況に追い込まれたのです。

 

 そこで選ばれたのがナジノ島でした。近隣の村などに彼らを降ろせば、何も持たない彼らは略奪行為に走るでしょう。とにかく人がおらず、逃亡が難しい場所が選ばれたのです。

 しかも護送に割く監視人も不足していたために、トムスクの街にいた浮浪者たちが50人ほど集められ、古びた銃を一丁あたえられて送り出されました。彼らは当然ながら移送者たちに対して略奪を行いました。

 

 5月18日。第一陣がナジノ島に降り立ちます。約5000人のうち、すでに27人が死んでおり、3人に1人はやせ衰えて自力では立てない状態でした。

 移送者を島に上陸させると、監視兵は食糧を配給しようとしましたが大混乱に陥り、配給は「班長」に任されることになりました。これにより少数の犯罪者が「班長」となり、食糧を独占しはじめました。

 5月20日になると、小麦粉袋の周りには100かそれ以上の死体が散乱していうる状態で、死体を食べはじめ、人肉を煮ているという話も聞かれるようになってきます。

 しかも、そうした行為を止めるはずの監視兵は、高価な外套や靴を持っている者からそれを奪ったり、あるいは奪うために殺しました。また、死体からは金冠が奪い取られました。

 当然、逃げようと筏などつくって逃走を試みる者もいましたが、その多くは監視兵などに撃ち殺されました。

 

 当局が調べた死体の中には肝臓、心臓、肺、乳房、ふくらはぎなどの柔らかい肉の部位、男性器などが切り取れらたものがあり、政治警察はこの人肉食を赦しがたい反乱の意図とみなし、「反革命宣伝の咎で逮捕」(132p)する命令が出ます。

 しかし、それでもナジノ島への移送は続きました。このナジノ島の惨状が上層部に伝わったのは6月の上旬になってからです。そこでようやくナジノ島からの移送が始まりますが、その途中でも多くの者が亡くなりました。

 ナジノ島の生き残りに対して、特別移住部の部長は働けば食糧もタバコもやると言いましたが、生き残りの人びとは「お前らが人民を飢えさせている。だから俺たちはおたがいを食い合っているんだ!」(140p)と答えたといいます。

 

 ナジノ島の行方不明者の4000人は、1933年の全移送者で行方不明になった者36万7457人のほんの一部に過ぎません。この36万7457人のうち、1万5106人が死亡、21万5856人は「逃亡」となっています。もちろん、この数字は信頼できるものではないですし、「逃亡」した者の多くは死んだのでしょう(165p)。

 「逃亡」した者の一部はコルホーズで盗みを働き、農民にリンチされて殺されました。

 特別移住制度は破綻し、移送者の多くは労働収容所に送られることになりました。さらに1937年になると、多くの者が裁判外手続きで銃殺されるようになっていきます。各地方にはノルマが課され、それを果たすために多くの者が銃殺されていきました。運良く生き残った「特別居住者」の多くがこのときに銃殺されることになります。

 

 このように「ひどい…」という読後感しかない本ですが、著者も書いているようにナジノ島の事例は例外的に資料が残っているだけに、悲惨の状況を克明に描くことができるのです。おそらくシベリアの各地でこのようなことが行われていたのでしょう。

 国家というものの恐ろしさを感じさせるとともに、行政機構が崩壊して各自が無茶苦茶に作動しているという国家が破綻している恐ろしさというのも感じさせる本ですね。