小林道彦『児玉源太郎』

 ミネルヴァ日本評伝選の1冊で、著者は『日本の大陸政策 1895‐1914』(のちに『大正政変』と改題されて復刊)、『政党内閣の崩壊と満州事変 1918‐1932』などを書いている人物です。

 特に『日本の大陸政策 1895‐1914』は、山県有朋とも伊藤博文とも違う桂太郎児玉源太郎後藤新平の大陸政策の内実とその行方を描いたもので、児玉の伝記の執筆者としては適役といえます。

 

 児玉源太郎というと司馬遼太郎の『坂の上の雲』のイメージが強いかもしれません。児玉はメッケルにその才能を認められ、日露戦争では内務大臣から参謀次長に降格し陸軍の戦いを勝利に導いた戦術の天才として、また、正面からの力攻めにこだわって旅順攻防戦で大損害を出した「精神主義者」乃木希典に代わって旅順を陥落させた「合理主義者」という印象も強いでしょう。

 この本では児玉が戦術の天才で合理主義者であることを認めながらも、旅順攻防戦に関しては、乃木の作戦にも合理性があったこと、児玉にも判断ミスがあったことを指摘して、その修正をはかっています。

 また、児玉の台湾統治のスタイルや満州経営の青写真を紹介するとともに、伊藤博文と協調して明治憲法下での軍のあり方を変えようとして、「政治家」としての児玉の姿を描いています。

 

 児玉は1852年に徳山藩士の家に生まれています。児玉家は毛利家の譜代の重臣であり、毛利輝元の二男の就隆が徳山藩主となると、その家臣となりました。児玉源太郎の幼名は百合若、児玉家は義兄の次郎彦が継ぐはずでしたが、尊攘派だった次郎彦は禁門の変長州藩が朝敵となったあと、藩内の対立の中で惨殺されます。当時13歳だった百合若はこの殺された義兄の姿を見ており、これが児玉が政治的イデオロギーを遠ざけることになった大きな要因だと考えられます。

 

 児玉は函館五稜郭の戦いで初陣を飾りますが、戊辰戦争で目立った活躍を見せることはできませんでした。児玉が陸軍内においてその名を大きくあげるのは1876年の神風連の乱になります。

 神風連は攘夷を掲げる復古的な士族の集団でしたが、最初の襲撃で県令、警察幹部、熊本鎮台の司令長官種田政明と参謀長を殺害することに成功したために、熊本鎮台は大混乱に陥ります。

 ところが、襲撃を免れた児玉が到着すると、児玉はあっという間に指揮系統を立て直し、乱を鎮圧します。政府が種田の死を知って軍の派遣を決めた頃、乱はすでに鎮圧されていたのです。この戦いで児玉は大きな称賛を浴びることになります。

 

 さらに西南戦争では熊本籠城戦で西郷軍の攻撃をしのぎきることになります。もっとも、このときの熊本鎮台は司令長官・谷干城、参謀長・樺山資紀、さらには川上操六、奥保鞏、大迫尚敏といった人物がおり(さらに軍人ではないが品川弥二郎もいた)、籠城戦の成功が児玉の功績というわけではありませんが、軍人社会における児玉の声望は決定的なものとなりました。

 この本では、その後の豊後方面での戦いも詳しく紹介されています。政府軍は西郷軍のゲリラ的な戦いにかなり苦戦するのですが、著者はここで児玉は台湾の「土匪」との戦いのノウハウを学んだとみています。

 

 その後、児玉は東京鎮台歩兵第二連隊長となり佐倉の地で5年間勤務します。そして、1885年に参謀本部に入ると、そこでメッケルと出会い、メッケルにその才能を認められました。

 さらに児玉は桂と連携して陸軍の改革にも取り組み、軍政家としても非凡なものがあることを示します。その後も監軍参謀総長兼陸大校長として軍の監察や教育を任されますが、そこで児玉が重視したのが陸軍の政治的中立性でした。

 1891年には初めて洋行し、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリアなどを視察します。そして、帰国後の1892年には陸軍次官となります。日清戦争においては、大山巌山県有朋が出征するなか、事実上の陸軍大臣として寺内正毅とともに、兵站システムの構築と運用を取り仕切りました。

 ちなみにこの部分では、児玉家の使用人は情報漏洩を防ぐためにすべて文盲であったという興味深いエピソードも紹介されています(144p)。

 

 児玉は日清戦争後に軍備拡張などをめぐって大蔵省の阪谷芳郎と出会い、凱旋軍の検疫問題において後藤新平を知ります。また、この頃大山陸相が行った帷幄上奏は、伊藤博文の怒りを買い、児玉を悩ませるものとなりました。

 1898年、児玉は台湾総督となります。台湾統治は樺山資紀や乃木が担当しましたがいずれもうまくいっておらず、児玉に白羽の矢が立ったのです。

 ご存知のように児玉は後藤を民政局長に抜擢して台湾統治を軌道に乗せるのですが、文官の後藤が実力を発揮できたのは、立見尚文らの歴戦の軍人たちを児玉が抑えることができたからでした。児玉の軍歴が物を言ったのです。

 児玉は土匪集団に対して、その来歴を調べ、旧「良民」には基準を許し、生粋の「犯罪者」は厳しく討伐するという方針で臨み、効果を上げます。

 また植民地経営のために欧米に留学していた新渡戸稲造総督府技師に抜擢しますが、新渡戸がまず台湾を視察しようとすると、児玉と後藤は次のように述べたといいます。

「実際的なことなら、われわれの方がよく知っているから、別に君の意見を煩わす必要はない。われわれの望むところは、君が海外にあって進んだ文化を見て、その眼のまだ肥えている中に、理想的議論を聴きたいのであって、台湾の実情を視察すればするごとに眼が痩せて来る。人はこれを実際論というが知らぬが、われわれの望むところは君の理想論である」(177p)

  

 非常に頭のいい人物の受け答えという感じですが、のちに新渡戸は「頭の宜しいことを言うならば、寧ろ児玉さんの方が[後藤よりも]ずっと上だと思う」(193p)という言葉を残しています。

 

 1900年の厦門事件では、中央との連携不足もあって、厦門への進出を画策した児玉の狙いは失敗に終わりますが、同年に成立した第4次伊藤内閣で児玉は陸相となります。児玉は伊藤との関係もよかったのですが、第4時伊藤内閣は短期間で瓦解、児玉は桂太郎の擁立に動くことになります。

 桂内閣でも陸相に留任した児玉は、陸軍の経理事務を大蔵省より官吏を招致して執務させるなど、執行可能な業務を文官に任せることで軍人を本来の任務に集中させようとしました。

 しかし、予算案の作成に関して大山巌参謀総長に諮ることなく議会に諮ってしまったことが大山の怒りを呼び、結局、児玉が陸相を辞めることとなります。この問題の背景に、著者は児玉の帷幄上奏権を制限したいという考えがあったのではないかと見ています。大山と児玉という日露戦争でコンビを組む2人の関係は必ずしもよいものではなかったのです。

 

 日露関係に関しては、児玉は桂や小村寿太郎と同じく日英同盟論者でした。日英同盟の成立は「やや長い平和」(206p)をもたらすと考えられたのです。1902年に日英同盟が成立すると児玉の海外出張が決まりますが、これは当時の政府、そして児玉にも対露関係の楽観論があったからです。

 ところが、日英同盟をバックにしてもロシアの姿勢は変化せず、小村の楽観論は打ち砕かれることになります、児玉は外遊を前にして内相兼文相として入閣。外遊は取りやめ止まります。

 この児玉の入閣は桂が目指した「小さな政府」実現のためであり、文相を兼任したのは遠からず文部省を廃止してその機能を内務省に移すためだったと言われています(211p)。このときの改革はかなり思い切ったものを目指したもので、児玉の考えた府県半減案が213pに載っていますが、山口県広島県に吸収され、大阪が奈良県の全部と和歌山県の一部を吸収するなどかなり思い切った案です。

 

 しかし、この改革は実現しませんでした。参謀次長の田村怡与造が急逝すると、その後任として異例の降格人事で児玉が就任することとなったからです。

 田村の後任には大山が伊地知幸介を推し、福島安正などの声も上がりましたが、陸相寺内正毅が考えたのが児玉の降格人事でした。異例の人事に大山は自分の代わりに児玉を参謀総長に就任させるのが長州閥の考えとみて辞任を申し出ますが、桂がこれを慰留し、大山総長―児玉次長のコンビが実現します。

 なお、明治天皇は平和になったら児玉が辞任し、それとともに大山も辞任するのではないかと心配しましたが、寺内は天皇に「ロシアとの交渉が上手くいったら、次は児玉をして参謀本部改革に着手させるつもりだと答えて」(215p)おり、児玉起用の裏には参謀本部改革という意図もありました。

 

 いよいよ開戦が近くづくと、児玉は参謀本部や山県の突出を抑え、陸海軍の調整に力を発揮します。

 開戦後も、大本営を東京に設置して山県を大本営付とするとともに、大山参謀総長を幕僚長とする強力な外征軍司令部を創設することを狙いますが、これはさまざまな障害があって失敗します。この司令部の権現の問題は旅順攻略を行う第三軍の指揮権の問題とも絡んでこじれます。結局、大山を総司令官、児玉を総参謀長とする満州軍総司令部が成立しますが、陸軍省参謀本部の間にも軋轢が残りました。

 

 この本では、日露戦争の記述において特に旅順攻防戦に紙幅を割いています。最初にも書いたように、司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって、正面攻撃に固執した「精神主義」の乃木と、二〇三高地に攻勢の重点を転換させ、旅順攻略の道を拓いた「合理主義」の児玉というイメージがつくられましたが、『坂の上の雲』以前から、日本史研究者はこれとは違った見方をしてきたといいます。

 まず、本防禦線への攻撃にこだわっていたのは乃木希典・伊地知幸介のコンビだけではなく、大山や児玉ら満州軍総司令部の総意でもありました。

 

 児玉は当初、旅順を落とすことを重視していませんでしたが、海軍の要請を受けて攻略を急ぐようになります。また、児玉には旅順を叩くことで、ロシアの野戦軍を引っ張り出せるという計算もありました。

 当初、旅順は10日ほどで攻略できると考えられており、伊地知は砲兵火力の集中と強襲によってこれが可能だと考えていました。ところが8月21日に始まった第一回の総攻撃は参加兵力の30%が死傷するという失敗に終わります。 

 10月26日に行われた第二回総攻撃も失敗に終わると、乃木に対する疑問の声も上がりはじめ、大本営の山県は二〇三高地の攻略を現地に働きかけるようになります。これに対し、大山も児玉も敵の本防御線を突破して望台を占領する作戦を重視する方針を変えませんでした。

 ところが、11月26日の第三回総攻撃も失敗。27日、乃木は本防御線を攻略することをあきらめ、二〇三高地の攻略を決意します。29日に乃木は新鋭の第7師団を投入しますが、この日から12月5日まで二〇三高地をめぐって死闘が繰り広げられました。

 

 ここで登場したのが児玉です。大山から第三軍の指揮を託された児玉は12月1日に乃木と会談し、口頭で指揮権の移譲を受けます。

 児玉は第7師団が確保している二〇三高地の西南角に注目し、すぐさま斥候を命じて、「そこから旅順港は見えるか」と問うたといいます(電話で言った説と斥候から帰ってきた将校が口頭で報告したという説がある)。

 ロシア側はこの西南角に砲撃を集中させましたが、児玉は砲兵部隊の陣地変換によってこれらの攻撃を沈黙させ、12月5日の夕刻に二〇三高地を占領しました。すぐさま、港内への射撃が行われ、ロシアの残存艦隊は大損害を被りました。

 この一連の動きによって児玉は「天才的戦術家」と呼ばれもしますが、著者はそれまでに児玉も判断ミスをしており、また乃木も児玉の到着以前に攻略目標を二〇三高地に切り替えていることから、不眠不休の指揮によって判断力が低下した乃木と第三軍の司令部を、「児玉がその強烈な意志力によって「正気に戻らせた」こと」(283p)が旅順攻略の成功の鍵だったと見ています。

 

 その後、児玉は奉天会戦でロシア軍を退却させると、東京へと戻り早期講和を説きました。児玉は主戦論の桂・小村と元老の山県・伊藤の間を調整し、早期講和論へと流れをつくりました。

 

 凱旋帰国した児玉は台湾総督に復帰するつもりでしたが、参謀総長就任を見据えた「参謀本部次長事務取扱」に就任します。

 このころ、伊藤は内閣総理大臣に強大な権限を与えるかたちの憲法改革を準備していましたが、そこで問題となったのが帷幄上奏権の縮小です。伊藤は山県から大きな反発が出そうな改革のパートナーとして児玉を考えており、桂の後には児玉を首班に擁立するという児玉内閣構想を持っていたといます(295p)。

 児玉の参謀本部縮小論や戦後の満州経営の方針は山県のものとは違っており、いずれ山県と大きな衝突を起こしたでしょう。そこから児玉と伊藤の連携が生まれていった可能性もあります。

 しかし、日露戦争の終わった翌年の1906年の7月に児玉は55歳でその生涯を閉じました。著者は児玉の死に触れた後に「伊藤。児玉による「明治憲法体制の確立」に向けての試みに触れるにつれ、それは、陸海軍、とりわけ前者の政治家によってもたらされた「昭和の悲劇」を知る者を、抗いようもなく、歴史の「if」の世界に誘っていくのである」(304p)と結んでいます。

 

 この本には、ここには書かなかった以外にも児玉に関する豊富なエピソードが紹介されており(破産しかけたとか)、児玉という人物がよくわかる内容になっています。

 旅順攻防戦に関しては、司馬遼太郎の見方を修正していますが、過剰な「英雄否定論」になっていない部分も良いと思います。

 何よりも児玉という人物は魅力的であり、その障害の鮮やかさにはやはり魅力的なものがありますね。