ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』

 民間企業だけでなく、学校でも病院でも警察でも、そのパフォーマンスを上げるためにさまざまな指標が測定され、その指標に応じて報酬が上下し、出世が決まったりしています。

 もちろん、こうしたことによってより良いパフォーマンスが期待されているわけですが、実際に中で働いてみると、「こんな指標に意味があるのか?」とか「無駄な仕事が増えただけ」と思っている人も多いでしょうし、さらには数値目標を達成するために不正が行われることもあります。

 この現代の組織における測定基準への執着の問題点と病理を分析したのが本書になります。著者は『資本主義の思想史』などの著作がある歴史学部の教授で、大学の学科長を務めた時の経験からこのテーマに関心をもつことになったそうです。本文190ページほどの短めの本ですが、問題を的確に捉えていますし、紹介される事例も豊富です。さらに、現在「新自由主義」という曖昧模糊とした用語で批判されている現象に対して、一つの輪郭を与えるような内容にもなっており、非常に刺激的です。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

Part I 議論
1 簡単な要旨
2 繰り返す欠陥

Part II 背景
3 測定および能力給の成り立ち
4 なぜ測定基準がこれほど人気になったのか
5 プリンシパル、エージェント、動機づけ
6 哲学的批判

Part III あらゆるものの誤測定?――ケーススタディ
7 大学
8 学校
9 医療
10 警察
11 軍
12 ビジネスと金融
13 慈善事業と対外援助
補説
14 透明性が実績の敵になるとき――政治、外交、防諜、結婚

Part IV 結論
15 意図せぬ、だが予測可能な悪影響
16 いつどうやって測定基準を用いるべきか――チェックリスト

 

 「説明責任(アカウンタビリティ)」という言葉が、良いものとしてさかんに使われるようになりましたが、著者に言わせれば、この中には「責任を取る」という意味と、「カウントできる」、つまり測定できるという暗黙の意味が含まれています。ここから以下の特徴を持つ、「測定執着」なる態度が生まれてきます。

 

・ 個人的経験と才能に基づいておこなわれる判断を、標準化されたデータ(測定基準)に基づく相対的実績という数値指標に置き換えることが可能であり、望ましいという信念

・ そのような測定基準を公開する(透明化する)ことで、組織が実際にその目的を達成していると保証できる(説明責任を果たしている)のだという信念

・ それらの組織に属する人々への最善の動機づけは、測定実績に報酬や懲罰を紐づけることであり、報酬は金銭(能力給)または評判(ランキング)であるという信念(19p)

 

  「測定執着」というとかなり病的な態度を想像しますが、上記の3点は現代において至って普通の考えではないでしょうか。3番目の報酬についての部分はともかくとして、1番目と2番目の態度は多くの人々が共有している信念でしょう。

 1975年にアメリカの社会心理学者ドナルド・T・キャンベルは「定量的な社会指標が社会的意思決定に使われれば使われるほど、汚職の圧力にさらされやすくなり、本来監視するはずの社会プロセスをねじまげ、腐敗させやすくなる」(キャンベルの法則)と述べ、イギリス人の経済学者のグッドハートは「管理のために用いられる測定はすべて、信頼できない」(グッドハートの法則)と述べたそうですが、数値による管理は、近年ますます盛んになっていると言えるでしょう。

 

 しかし、こうした風潮はさまざまな機能不全を招いています。「一番簡単に測定できるものしか測定しない」、「成果ではなくインプットを測定する」、「標準化によって情報の質を落とす」、上澄みすくいによる改竄」、「基準を下げることで数字を改善する」、「データを抜いたり、ゆがめたりして数字を改善する」、「不正行為」(24−26p)といった事態がしばしば引き起こされているのです。

 

 測定した実績に応じて報酬を決めるという政策の歴史は古く、1862年にイギリスの自由党の議員ロバート・ロウが提案した政府から学校への財政援助を結果に応じて支払うべきだというものにさかのぼります。

 この計画に異を唱えたのが、文化評論家のマシュー・アーノルドで、彼は年1回のテストの時に貧困層の生徒が不在になってリ、貧困層の多い学校への資金が減らされるだろうと述べました。こうした試みが登場したときから、その問題点は明らかだったのです。

 

 こうしたやり方を軍に持ち込んだのがロバート・マクナマラでした。ベトナム戦争時に国防長官だった彼は、空軍は空爆の出撃回数、砲兵部隊は発射した弾の数、歩兵部隊では死者数を測定し、これを基準にしようとしましたが、うまくいったとは言い難いでしょう。

 

 それでもこうした測定基準は支持され続けてきました。このあたりの事情について著者は次のように述べています。

 説明責任の数値的測定基準の探求は、社会的信頼が低いことが特徴の文化では特に魅力的に映る。そして権力に対する不信感は、1960年代以来ずっとアメリカ文化の基調であり続けた。したがって政治、行政、その他多くの分野において数字が重視されるのはまさに、権力者の主観的で経験に基づく判断に対する信頼に数字が取って代わってくれるからだ。説明のための測定基準の探求は、政治的左翼と右翼、どちらの側にも魔力を発揮する。ポピュリスト的なものであれ、平等主義的なものであれ、階級、専門性、血統に基づいた権力に対する疑念と、説明責任のための測定基準の間には親和力があるのだ。(41p)

 

 右派は公的機関への不信感から数字による測定を支持し、左派は権力者に対する不信感から数字による測定を支持しました。

 さらにアメリカでは訴訟の頻発と賠償額の高額化がこうした状況に拍車をかけます。また、教育や医療などにおけるコストの高止まりが問題視され、複雑な組織の上に立つ経営者もこうした数字を求めました。特に複数の組織を渡り歩くCEOなどにはこうした数字こそが組織を把握する術になるからです。

 加えて、表計算ソフトの普及がこうした測定を容易にしました。スティーヴン・レヴィによれば「スプレッドシートはツールだが、世界観でもある」(47p)のです。

 

 また、学術的にもプリンシパル=エージェント理論がこうした傾向を後押ししました。エージェントを動機づける方法として成功報酬が重視され、その成功を測るために測定基準が導入されました。

 この動きは民間企業にとどまらず、ニュー・パブリック・マネジメントとして公的機関にも広がっていきます。こうした動きに対しては、医療や教育などで成功報酬(外的報酬)を用いることは内的な動機づけを傷つけることになるという批判もありましたが、それでもこうした動きは続いています。

 

 Part IIIでは、さまざまなケースにおける問題点が指摘されていますが、ここではいくつかの分野の失敗を簡単に紹介したいと思います。

 まずは大学ですが、現在、各国で大学の「教育の質」を評価しようという試みが盛んに行われており、また、大学のランキングに注目が集まっています。

 しかし、大学のランキングを上げるために行われていることの中には、豪華なパンフレットの作成や教育雑誌への広告、測定基準のごまかしなど、「教育の質」には関わりのないようなことも多いです。

 増えていく測定基準に対応するため、ランキングを上げるために、急増しているのは大学の事務職員です。そして、この人件費は学費となって学生にのしかかっています。大学を稼げるところにするための試みが、学生の負担を重くしているのです。

 

 次は学校です。アメリカではクリントン政権、ブッシュ(子)政権のもとで学校の成績と学校への資金をリンクさせる試みが行われてきました。

 生徒の成績はテストで評価され、それが学校の評価へもつながるわけですが、この結果、テストへに向けた勉強が重視されるようになり、テストにない科目は軽視されました。また、長文読解など、テストで問われない能力についても低下したとも言われています。

 さらに学力の低い生徒を「障害者」に分類したり、答案を捨てたり、答案に手を加えたりといった不正行為までが行われるようになっています。

 一部の州では教師の報酬をテストの成績と連動させていますが、それでも学力の格差は埋まっておらず、1992年と2013年を比べると白人と黒人の差は逆に広がっています(99p)。また、こうした測定基準の重視は独創的なカリキュラムを難しくさせており、一部の教員が私立学校へ流出する動きもあります。

 

 医療に関しては、グリーヴランド・クリニックやガイシンガー・ヘルス・システムといった輝かしい成功例もあるのですが、問題がないわけではありません。例えば、術後30日間の生存率を重視すれば、医師は難しい手術をしたがらなくなるかもしれませんし、30日間は無理にでも延命させようとするかもしれません。データによって一部の能力の低い医師をあぶり出すことはできますが、それだけですべてを評価しようすれば様々な問題が生まれてくるのです。

 

 警察はこの測定基準の重視が厄介な問題を引き起こす部門かもしれません。アメリカのFBIは各都市からの報告に基づき、主要な凶悪犯罪や主要な窃盗罪のデータを集めて公開していますが、これによって起きたのは警察官が犯罪の程度を引き下げて報告することです。例えば、侵入窃盗は不法侵入に格下げされてデータから外されます。

 さらに例えば、長年の捜査の末に麻薬組織のボスを逮捕するよりも、街角で麻薬を売っているティーンエージャーを何人も逮捕するほうがデータの見栄えは良くなります。警察のリソースは解決しやすい事件のみに振り分けられてしまうかもしれないのです。

 

 ビジネスの世界においても、報酬を数値と過度に連動させることはいろいろな問題を引き起こすと考えられるようになりました。例えば、経営者の報酬を短期的な業績や株価で決めてしまうと、経営者は会社の長期的な評判を無視して経営を行うかもしれません。特に四半期の業績を重視する昨今の経営では長期的な視点は失われやすいのです。

 

 以上のような測定基準のケーススタディからもたらされる教訓として、著者は「測定されるものに労力を割くことで、目標がずれる」、「短期主義の促進」、「従業員の時間にかかるコスト」、「効用の逓減」、「規則の滝」、「運に報酬を与える」、「リスクを取る勇気の阻害」、「イノベーションの阻害」、「協力と共通の目標の阻害」、「仕事の劣化」、「生産性のコスト」といったものをあげています(172−176p)。

  

  かと言って、著者も数値による測定は全部悪いとか、廃止すべきだといっているわけでありません。測定基準との上手い付き合い方が必要なのです。

 そこで最後に測定基準の使用法を使う上での次の10個のチェックリストをあげています。

1 どういう種類の情報を測定しようと思っているのか?

2 情報はどのくらい有益なのか?

3 測定を増やすことはどれほど有益か?

4 標準化された測定に依存しないことで生じるコストはどんなものか? 実績についてほかの情報源があるか?(顧客や患者、生徒の保護者などの経験と判断に基づくもの)

5 測定はどのような目的のために使われるのか、言い換えるのなら、その情報は誰に公開されるのか?

6 測定実績を得る際にかかるコストは?

7 組織のトップがなぜ実績測定を求めているのかきいてみる。

8 実績の測定方法は誰が、どのようにして開発したのか?

9 もっともすぐれた測定でさえ、汚職や目標のずれを生む恐れがあることを覚えておく。

10 ときには何が可能かの限界を認識することが、叡智の始まるとなる場合もある。

 

 このように、この本は組織で働いたことのある人であれば多くの頷く内容を含んでいると思いますし、組織を運営する立場の人にも注意すべき点を教えてくれる本です。この数値により測定というものは、企業だけでなく教育、医療、行政とあらゆる部門に浸透しているので、まさに今という時代に広く読まれるべき本だと思います。

 

 さらに個人的には、近年の「新自由主義」なるものを考える上でも示唆に富んだ本だと思いました。

 現代社会の生きづらさを語る時に、「ミルトン・フリードマンの理論を背景とした新自由主義サッチャーレーガンらの右派によって導入されたことが云々」といったことが盛んに言われますが、この「右派による新自由主義」が根本的な問題であるのならば、それを修正する機会はあったはずです。アメリカではクリントンオバマ民主党政権期、イギリスではブレア、ブラウンの労働党政権期はそれなりの長さであり、右派の政策を修正できたはずなのです(日本の民主党政権は短すぎたと言えるかもしれませんが)。

 

 もちろん、「クリントンオバマもブレアもブラウンもみんな新自由主義者なのだ!」という物言いも可能でしょうが、それではよほどの左翼以外はみんな新自由主義者ということになりかねません。

 このあたりをウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』では、新自由主義の問題点は、本来政治の言葉で語られるべきことが経済の言葉で語られてしまうことなのだとして、経済的な用語に満ちたオバマの演説などを批判していましたが、本書を読むとこの問題がもう少しはっきりとしてくるのではないでしょうか。

 

 つまり、現代の社会において、「実績を数値で測定し、それを公開して説明責任を果たし、さらにその数値にインセンティブをもたせる」というのは右派も左派も正しいと考えている政策であり、だから政権が交代してもこうした政策は変わらない。

 ところが、こうした政策は支持を集める割には同時に人々の生きづらさをもたらすような政策でもあり、この手法が広まったのが新自由主義が広まったのと同じような時期でもあるので(正確に言えば、本書に書かれているマクナマラの例にもあるようにこの手法の導入時期は新自由主義の流行よりも古い)、人々はこの生きづらさの原因を新自由主義に求めている、という感じなのではないでしょうか。

 

 では、どうすればいいか? というと、これは難しい問題で、もちろん数字を使った管理の有効性を完全に否定するわけには行きません。「データが単純な理論を支持しているように見えても、常に複雑な理論がある可能性を保持し続ける」、「経験知や保守的な態度に注意を払う」といった態度や、本書のチェックリストを見返して、常に数値目標といったものを疑っていくということしかないのかとも思いますが、こうした現代社会の問題を考える上でも本書は興味深いものとなっていると思います。

 

 

 

 こちらの記事も参考に

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