ロナルド・イングルハート『文化的進化論』

 『静かなる革命』、『カルチャーシフトと政治変動』といった著作で、20世紀後半の先進国では物質主義的価値観から脱物質主義的価値観へのシフトが起こったということを主張したイングルハートが2018年に出版した著作の翻訳。

 この理論自体はすでに広く知られているものであったものの、ここ最近のトランプ大統領の誕生や欧州のポピュリズムにおいて、例えば、脱物質主義的価値観の特徴である環境保護や同性愛への寛容などにたいする反動が起こっており、「物質主義的価値観から脱物質主義的価値観へのシフト」という理論が反証されているようにも見えます。

 そんな中、本書にはトランプ大統領誕生以降のことについて書いた章もあることを知り読んでみました。20世紀後半の世界のトレンドを分析した章も面白いですが、やはり印象に残るのは近年の動きを分析した第9章「静かなる「逆革命」」と第10章「人工知能社会の到来」の2つの章。ここでもこの2章を中心に紹介したいと思います。

 

 目次は以下の通り。

第1章 進化論的近代化と文化的変化
第2章 西洋諸国、そして世界における脱物質主義的価値観の台頭
第3章 世界の文化パターン
第4章 世俗化は終焉を迎えるのか?
第5章 文化的変化、遅い変化と速い変化―ジェンダー間の平等と性的指向を律する規範がたどる独特の軌跡について
第6章 社会の女性化と、国のために戦う意欲の減退―「長い平和」の個人レベルの構成要素
第7章 発展と民主主義
第8章 変化する幸福の源
第9章 静かなる「逆革命」―トランプの登場と独裁的ポピュリスト政党の台頭
第10章 人工知能社会の到来

 

 イングルハートの基本的な考えは、生存への不安がなくなるにつれ、人々は物質主義的価値から脱物質主義的価値観を重視するようになるというものです。これは、欧米社会に見られるものではなく、全世界的に見られる現象だといいます。

 1970年代に、年長世代が物質主義的価値を重視しているのに対して、若者が脱物質主義的価値観を重視していることが発見されました。当時はそれを世代効果(歳をとるにつれて物質主義的価値観を重視するようになる)だと考える人もいましたが、調査を重ねる中で世代ごとに緩やかな脱物質主義的価値観へのシフトが起きていることが確認されています。

 

 もちろん、文化圏などによる差はあるのですが、高所得国では明らかに若い世代ほど生存価値よりも自己表現価値を重視していますし(59p図3-4参照)、高所得国では宗教を「非常に重要」と答える人が減り、代わりに友人を「非常に重要」と答える人が目立ちます(69p図4-2参照)。

 また、経済発展をしている国ほど、「離婚」、「妊娠中絶」、「女性に仕事」、「同性愛」といった事柄への寛容度が増しています(93p図5-1参照)。

 

 第6章では、戦争や暴力を忌避する「社会の女性化」という問題をとり上げています。一般的に個人選択規範が重視されるようになるにつれ、国のために戦いたくないと考える人が増えるわけですが、ここでは国のために戦いたくない人の割合が旧枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)で予想される値よりも高く、PKOなどに積極的なスウェーデンノルウェーフィンランドといった北欧諸国で予想される値よりも低いことを示した113pのこの図6-1aが興味深いですね。

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第7章では、中国の民主化について次のように述べていますが、どうでしょう?

 中国の人々の自己表現重視の価値観は、チリ、ポーランド、韓国、台湾が民主主義に転じた際のレベルに近づいている。中国共産党が治安部隊をコントロールする限り、民主的制度が国家レベルで実現することはないだろう。しかし、自由化を求める人々の圧力は高まるだろうし、それを抑圧するのは経済効率や風紀の側面からコスト高となる。(142-143p)

(このコストが近年のテクノロジーの発達によって劇的に下がっているのではないか? ということを梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』を読むと感じる。)

 

 第8章では幸福の問題を扱っていて、基本的には1人あたりのGDPが増加すると幸福も増加するが、その伸びは所得が増えるにつれて緩やかになります。そんな中で、特徴を見せているのが中南米の国々と旧共産国です(155p図8-3参照)。

 中南米の国は1人あたりのGDPから予想されるよりも幸福の度合いが高く、旧共産国は1人あたりのGDPから予想されるよりも幸福の度合いが低いです。著者は中南米では伝統的に神や国家への信仰が根強いが、旧共産国では共産主義イデオロギーの崩壊が尾を引いているのではないかと推測しています。

 

 さて、いよいよトランプの登場を扱った第9章の「静かなる「逆革命」」ですが、冒頭は次のように始まっています。

生存が当たり前と思えるようになると、人は新しいアイデアを受け入れ、外集団に対して寛容になる。生存が不安定だと逆の効果がある。すなわち権威(独裁)主義主義的反射行動が促され、人々は強力なリーダーを先頭に集団内結束を固める。(177p)

  これだけ読むと、「なるほどイングルハートも中間層の没落や貧困層の拡大をポピュリスト政党台頭の主因とみているのか」とも思えますが、読み進めていくと、そうではないことがわかります。

 

 以前から排外的なポピュリスト政党は存在しましたが、こうした政党が近年支持を得ているのは「経済的要因よりも、脱物質主義者や自己表現重視の価値観の台頭とリンクした文化的反動によるものだ」(184p)としています。

 「所得や失業率といった経済的要因は独裁的ポピュリストに対する支持の予測材料としては驚くほど弱い」(184p)もので、トランプへの投票も所得よりも年齢を見たほうが明らかな関連性があります(年齢が上がるほどトランプ支持が多い、185p図9-4a,b参照)。

 「32カ国を対象にした欧州社会調査データの分析によると、独裁的ポピュリストへの支持が最も高いのは、低賃金労働者ではなく小規模事業主である」(184-185p)とあるように、こうした政党の支持要因として強いのは所得よりも文化的な価値観です。

 

 こうなると、30年前よりも物質主義的を持つ人が減少し、脱物質主義的な価値を持つ人が増えているのに、こうした政党が支持を強めたのはなぜか?という疑問が浮かびますが、著者はこの要因が実質所得の定価と経済的不平等、そして移民の流入だといいます。これらの要因がポピュリスト政党に注目を集めさせる要因となり、これらの政党への支持を押し上げる効果があったと考えられます。「経済的要因は特定の人がポピュリスト政党に投票する理由の説明にはならないが、ポピュリスト政党への支持が昔より現在のほうが強い理由の説明にはなる」(189p)のです。

 

 さらに左派政党が非経済的な争点を重視し始めたこと、実質所得の減少と所得格差の拡大がこうした傾向に拍車をかけました。工業労働者の失業の要因は、グローバル化よりもオートメーション(自動化)の影響が大きいのですが、その不満の矛先はわかりやすい存在である移民に向けられています。

 

 ポピュリスト政党に対する支持が一時的なものに終わるのか長期的な影響力を持つのかはわかりませんが、人工知能社会の到来は失業とさらなる経済格差の拡大を生む恐れがあります。この問題を扱ったのが第10章です。

 50年前、米国最大の雇用主だったゼネラルモーターズの労働者の賃金は2016年のドル換算でおよそ時給50ドル相当でしたが、現在の最大の雇用主のウォルマートの時給はおよそ8ドルです(204p)。また、1979年のピーク時にゼネラルモーターズは約84万人の従業員を雇用し2010年のドル換算で約110億ドルを稼いでいましたが、2010年に140億ドル近い利益を生んだGoogleの従業員は約3万8000人です(206p)。つまり、一定以上の質の雇用が急速に失われているのです。

 

 そして、これは人工知能の普及とともにさらに加速すると考えられます。

 人工知能社会においても専門的な技能を持つ者は安泰だと考える人もいるかもしれませんが、現在すでに米国のロースクールの卒業生の4割が法学位を要する仕事に就いておらず、医師に関しても例えば画像診断などはインドへのアウトソーシングが進んでいます。さらにこのアウトソーシングはやがて人工知能に取って代わられるでしょう。

 こうした失業への対処としてベーシックインカムも考えられますが、現在のところ失業や労働からの離脱は幸福感の低下とつながっており、ベーシックインカムは最適な解決方法とは言えません。

 

 著者は期待しているのは「政治」です。ニューディールアメリカ社会を大きく買えたように、持たざる99%の政治的な連合が成立すれば、社会をより良い方向に変えていくことができるとしています。

 感情が絡む文化的な問題のせいで、この連合は成立していませんが、民主主義社会である限り、いつの日か99%の連合が成立するだろうというのが著者の見立て、あるいは希望です。

 

 最後の議論に関しては「結局、再び物質主義的価値観が重視されるようになるということなのか?」という疑問も残りましたが、さすが世界のデータを見続けてきた著者だけあって、ポピュリスト政党への見方はなるほどと思えますし、また、前半の章でも面白いデータを紹介していると思います。