ハン・ガン『回復する人間』

 

ほとんどの人たちは一生のあいだ、色や形を大きく変えずに生きていく。けれどもある人たちは何度にも渡って自分の体を取り替える。(「エウロパ」87p) 

 

もちろんあたしはまだ人が信じられないし、この世界も信じていないよ。だけど、自分自身を信じないことに比べたらそんな幻滅は何でもないと思う。(「エウロパ」89p)

 

 『ギリシャ語の時間』が素晴らしかったハン・ガンの短篇集。「明るくなる前に」、「回復する人間」、「エウロパ」、「フンザ」、「青い石」、「左手」、「火とかげ」の7篇を収録しています。

 どれも良いのですが、特に冒頭からの3作、「明るくなる前に」、「回復する人間」、「エウロパ」には凄味がある。韓国文学という枠を超えて世界文学の文学史においても相当なレベルにある作品だと思います。

 

 普段はここから各短篇の簡単な紹介に移るのですが、この短篇集に関してはあまり知識を持たずに読んだほうがより楽しめるでしょう。

 「左手」が自分のコントロールを離れて勝手に動き出すという「左手」を除けば、特に奇抜なアイディアがあるわけではありませんし、最後にどんでん返しがあるわけでもありません。登場人物たちは多くは都会の中で孤独を感じている人物であり、自らの病気や怪我、肉親の死といったものが描かれています。ですから、ハン・ガンが持っている手札は比較的平凡なはずなのです。 

 

 ところが、この手札のめくられ方が凄い。読み進めていく中で何度も思わず声を上げたくなるような文章があります。ありがちかと思われた物語は、人間の内面に深く深く入っていくのです。

 例えば、表題作の「回復する人間」は鍼灸治療に失敗し両足首に火傷を負った女性が主人公です。「あなたは〜」と呼びかける文体は独特ですが、この設定で「回復する人間」というタイトルだと、ある程度小説を読んでいる人ならば、それなりに筋が想像できるでしょう。

 

 しかし、物語は思ったよりも深く、そして辛辣でもあります。この深さと辛辣さが凄味を生み出しています。

 この比較的どこにでもありそうな物語を語りながら、いつの間にか凄い境地に到達するというところは、ウィリアム・トレヴァーの小説を思い出させます。

 文体などは違うのですが、ハン・ガンもトレヴァーも、平凡に見える人間の内面に隠された執念、そしてその執念がもたらす痛みを描くのが抜群に上手いです。

 先程述べたように、この短篇集は前知識なしで読んだほうがより「驚き」があると思うので、最後にハン・ガンの辛辣さを物語る一節を紹介して終わりにしたいと思います。

 

 あなたは深夜、彼女の部屋で尋ねた。私ほんとにわからない。みんなどうしてこんなふうに社会通念の中だけで生きていけるのか、そんな生き方にどうしてがまんできるのかが。あなたに背中を向けて化粧を落としていた彼女の顔が、鏡の中でひらりと暗くなった。鏡越しにあなたと目を合わせて、彼女は答えた。あんたはそう思うのね。でも、そうできてよかったと思う人もいるんじゃないの。社会通念の後ろに隠れることができてよかったって。(「回復する人間」47p)

 

 

 

 

 この『回復する人間』が響いた人は、ウィリアム・トレヴァーの『聖母の贈り物』に収録された「マティルダイングランド」と『ふたつの人生』に収録された「ツルゲーネフを読む声」も気に入るのではないかと思います。

 

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