藤田覚『日本の開国と多摩』

 『勘定奉行の江戸時代』ちくま新書)など、江戸時代の政治史を中心に数々の著作を発表してきた著者が開国が東京の多摩地域に与えた影響をまとめた本。「あとがき」によると、八王子市の市史編纂事業に関わるようになったことがきっかけで本書をまとめたとのことです。

 吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」の1冊で比較的コンパクトな本ですが、開国が多摩の人々の生活や経済にどのような影響を与えたのかが分かりますし、当時の村の様子も見えてきて興味深いです。

 もちろん、多摩地域に住んでいる人におすすめですが、生糸関係を中心に埼玉や群馬への言及もあり、開国が日本の養蚕に与えた影響なども知ることができます。

 

 目次は以下の通り。

幕末の多摩―プロローグ
幕末の歴史と多摩
際限のない負担増
治安の悪化
開港と地域社会の変容
慶応二年武州一揆と多摩
幕末の変革期に生きた多摩の人びと―エピローグ

 

 多摩地域は特定の大名が治めているわけではなく、幕府領、旗本領、寺社領などが複雑に入り組んだ地域でした。江戸時代の初期に書かれたものには、総石高7万3782石という記載があり、田畑の石高比は1:2で畑作が主流の地域です(23p)。

 1つの村を幕府と旗本が支配するような地域も多く、多くの地域で領主権力が目に見える形で存在しないのも特徴でした。

 また、開港した横浜にも意外と近く、八王子は通商条約で外国人が旅行を許された10里以内の範囲に入っています。文久元年(1861)に八王子宿に初めて外国人がやってきたとの記録があります(ちなみに、トロイア遺跡の発掘で有名なシュリーマンも八王子を訪れている(72p)。

 

 開国とともに、まず多摩地域に求められたのは金銭的な負担です。ペリー来航後の海防強化、将軍の上洛、長州征討などのたびに献金が求められました。表向きは自発的な献金ですが、当然ながら半ば強制されたものです。

 さらに幕府から軍備の強化を求められた旗本からもさまざまな負担を求められました。事実上の年貢の増徴を求められるケースもあり、負担に耐えかねた農民らが老中に駕籠訴(老中が駕籠で登城する際などに直接訴える)を行ったりしています。

 一方で、こうした負担に協力したことと引き換えに苗字帯刀を許される村役人なども生まれています。

 

 さらに多摩地域の農民は兵士としても動員されています。幕府は文久2年(1862)に軍政改革を行い西洋式陸軍を創設しますが。ここで問題となったのが兵卒の確保で、幕府はこれを農民に求めました。今までも農民は陣夫として動員されることがありましたが、今回は戦闘員として旗本たちに知行に応じて兵卒を出させました。ただし、金納で済ませた旗本も多く、また、兵卒を出すように求められた村でも金を出して江戸で人を雇うことがあったようです。そして、やがてこの負担は金納化し、幕府が雇う傭兵という形に落ち着いていきます。

 

 18世紀半ばから多摩地域の治安は悪化していましたが、開港とともに治安はさらに悪化しました。

 村々は浪人に対して銭を渡して立ち去ってもらうというやり方をとっていますたが、ペリー来航後は幕府からは犯罪者の捕縛や切り捨てを求める指示が出ており、文久元年には鉄砲の仕様を許可する通達も出しています。

 

 文久2年には幕府は江戸で武芸に堪能な浪士を募って上洛させますが、その多くは呼び戻されて新徴組として庄内藩の指揮下で江戸市中の取締に当たります(京都に残ったのが新選組)。しかし、新徴組の隊員にはゆすりやたかりを働く者もいて、多摩地域まで来て押し込み強盗をする者もいました。  

 元治元年(1864年)には天狗党の乱が起こり、その残党が箱根ヶ崎から横浜に向かうという噂が流れたことから八王子に川越藩兵や幕府歩兵隊が出陣しています。

 

 治安の悪化を受け、多摩地域の農民の中から自衛のために剣術稽古などに打ち込むものも出てきます。日野宿名主の佐藤彦五郎は天然理心流の近藤周助を招いて剣術修行を始め、後には農兵を指揮して武州一揆の鎮圧などに活躍しています。そして、ここから近藤勇土方歳三沖田総司らがでてくるわけです。

 一方で、幕府は武術の稽古を禁止する命令を度々出しつつも、犯罪者の捕縛を農民たちに命じるという矛盾した行動をとっています。

 

 代官・江川太郎左衛門英龍は1839年のモリソン号事件にあたって農兵の創設を幕府に建議していましたが、この農兵が文久3年(1863年)に実現します。江川代官支配地では、男の人数に応じて農兵が取り立てられました。八王子宿では50人、拝島宿では64人といた具合になっています(91p表1参照)。

 鉄砲こそ貸与されましたが、制服や火薬は農民が自分で用意する必要があり、主に村役人の子弟などが集められました。

 この農兵を幕府は第2次幕長戦争で動員しようとしましたが、農民側が本来の趣旨と違うと言って抵抗したことと、武州一揆が起こったことから立ち消えになっています。

 なお、後に幕府は八王子宿に陣屋をつくり、この地域を統一的に支配しようとしますが、多くの村が江川代官支配のほうが良いと言って抵抗しました。農兵も一方的な負担ではなく、地域のニーズを汲んだものであったと言えるのかもしれません。

 

 ここまで読んでいくと、いろいろと負担がありながらも食い詰めてはいない感じですが、それはやはり開港によって生糸産業の景気が良くなったことが大きいです。

 八王子近辺での米の価格は慶応元年(1865年)には天保の大飢饉の頃よりも高騰しましたが、餓死する者は見かけなかったといいます(120−121p)。米の価格だけでなく、さまざまなもの、例えば薪や日雇いの労賃なども上がったことで、高い米を買うことができたのです。

 この物価高騰の背景には開港後の金流出を抑えるための貨幣改鋳の影響があるのですが、やはり生糸の輸出による影響も無視できません。

 

 ただし、やはり生活に困窮した農民もいるようで、文久元年や慶応2年、3年には困窮した村民への施しも行われています。では、誰が施しを行ったのかというと、裕福な村民で、例えば、八王子の遣水村では生糸商人などが中心となってお金を出し合っています(144p)。

 ここでも生糸がポイントになっています。生糸の輸出額は万延元年(1860年)に259万ドルだったものでが、5年後の慶応元年には1461万ドルと5.6倍増加しています(152p)。この伸びの背景にはフランスで蚕の病気が流行ったことや、そもそも日本の生糸の価格が安かったことがありますが、安いと言えども今までの国内価格を上回る価格でした。

 当然のように桑の栽培もさかんになり、畑どころか田をつぶして桑を植える動きも出てきたそうです。

 

 しかし、一方で絹織物産業は大きな打撃を受けました。上州桐生では「糸飢饉」と呼ばれるほどの打撃を受けたそうです(167p)。八王子でも生糸価格の上昇とともに織り賃は低迷しています。

 ただし、慶応2年には低温の影響で桑の発育が悪く、養蚕の大不作となりました。養蚕は開始から糸を取るまで50日ほどという短い期間でできるのが特徴で、利益を得るために借金をして養蚕を行う者も少なくありませんでした。

 

 この養蚕の不作を背景として慶応2年6月に起こったのが武州一揆です。秩父郡名栗村から始まった一揆はまたたく間に広がり、青梅村、福生村、中神村、宮沢村などで打ちこわしが起きています。

 一揆勢は上州に向かう勢力と、武蔵国の南部に向かう勢力に分かれますが、この南部に向かった一揆勢を迎え討ったのが多摩の農兵でした。府中宿方面に向かった一揆勢は今の東久留米あたりで田無村の農兵に鉄砲などで攻撃されて阻止されます。八王子宿に向かった勢力も佐藤彦五郎らの率いる農兵に打ち破られています。

 もともと武士の存在が希薄だった地域とはいえ、一揆勢をほぼ農兵だけで蹴散らしたところに身分制の終焉といったものを感じます。

 

 以上、内容のざっとした紹介ですが、ここからもわかるように多摩地域の地名が頻出するので、多摩に住んでいたり、住んでいたことがある人は面白く読めると思います。

 また、多摩に縁がなくても、江戸時代末期の村の様子や、社会変化を知りたい人にも得ることの多い本だと思います。