善教将大『日本における政治への信頼と不信』

 今年はコロナ問題に明け暮れた感じでしたが、3〜7月頃の緊急事態宣言からその解除、さらに「Go To Travel」をめぐるを見ながら感じたのが、日本のおける政府に対する信頼の低さ。

 各国では危機の高まりとともに政治指導者に対する支持があがる傾向がありましたが、日本ではそうはなりませんでした。日本政府の対応が後手後手だったにしろ、感染者数や死亡者数を見れば、それほどひどい対応だったわけではないはずですが、それでも政府を結束して支えようという動きは起こりませんでした(これは東日本大震災のときもそうだったと思う)。

 

 そんな感じで日本における政府や政治に対する不信感の問題が気になったので手にとって見たのがこの本。上記の関心とは少しずれますが、日本における政治不信とはいかなるもので、どのような展開を見せているのかということを分析した本になります。

 著者は、大阪都構想住民投票に関して鋭く分析しサントリー学芸賞を受賞した『維新支持の分析』を書いた人物ですが、本書でも興味深い問と、それに答えるためのさまざまな工夫が張り巡らされています。

 

 目次は以下の通り。

序章 本書の目的と構成
第Ⅰ部 政治への信頼の構造と動態
 第1章 政治への信頼概念の検討
 第2章 政治への信頼の操作的定義
 第3章 政治への信頼の推移と構造
第Ⅱ部 信頼低下の帰結
 第4章 信頼と政党支持
 第5章 信頼と投票行動
 第6章 信頼と政策選好
 第7章 信頼と政治的逸脱
第Ⅲ部 信頼の変動要因
 第8章 政治的事件の発覚と信頼
 第9章 変動要因の分解:加齢・世代・時勢
 第10章 社会変動,価値変動,そして信頼の低下
終章 日本の政治文化と代議制民主主義

 

 1990年代から世界的に政治への信頼低下が起きていますが、特に日本は一時期「政治不信」という言葉が広く使われていたように、国際的に見ても政治への信頼は低いです。しかし、だからといって代議制の崩壊といった事態は起こっていません。人々は代議制に代わる意思表示の方法を求めて街に繰り出しているわけでもありません。

 これはなぜなのか? というのが本書の大きな問です。

 さらにその上で、「政治への信頼とはどのような意識であり、またそれはどのように推移しているのか」、「政治への信頼が低下することの帰結はなにか」、「政治への信頼の変動要因は何か」という問題を解き明かそうとしています。

 

 まず、本書では政治への信頼を認知と感情の2つに大別します。

 政治には、特定の政治家や政党への信頼というものと、政治システム全体への信頼といったものがあります。例えば、自民党政治に不信感を抱いたからといって、不信感を持った大部分の人が選挙にいかなくなるわけではないでしょう。与野党逆転を目指して投票所に熱心に足を運ぶ有権者も多いはずです。この場合、首相や与党議員に不信感を持っていても政治システム自体は信頼しているわけです。

 

 本書では、特定の政治家や政党への信頼を「認知的な信頼」、政治システム全体への信頼を「感情的な信頼」と分類します。

 ここでいう「認知」は「態度が向けられる対象への知覚や認識に基づくもの」で、「感情」は「好き嫌いや怒り、悲しみといった態度」です(40p)。この「感情」を政治システム全体への態度と結びつける方法は直観的にわかりにくいものがありますが、感情には自己同一化や帰属も含まれます。「政治システムへの一般支持とは、言い換えればシステムへの帰属であり」(43p)、その感情こそが代議制というシステムを支えているというわけなのです。

 

 では、この2つの信頼をどう見分けるのか?

 もちろん、それを見分けるような質問を作ればいいわけですが、それでは過去の推移はわかりません。そこで本書では既存の調査の質問からそれを取り出します。

 具体的には、政治家の汚職や不正行為に対する認識を尋ねる質問から認知的な信頼を、代議制などの政治制度に関する質問から感情的な信頼を取り出しています。

 前者は、例えば、「国会議員ついてどうお考えですか。大ざっぱに行って当選したら国民のことをかんげなくなると思いますか、それともそうは思いませんか」「日本の政党や政治家は派閥の争いや汚職問題に明け暮れして、国民生活をなおざりにしていると思いますか」といった質問(57p)であり、後者は「政党があるからこそ、庶民の声が政治に反映するようなる」「選挙があるからこそ、庶民の声が政治に反映するようなる」といった質問(58p)です。

 

 本書では1976年からのデータを扱っていますが、その推移を見ると1990年代に認知的な不信が高まっています(69p図3−1参照)。政治家の行動に対する不信感が強まっているのです。

 一方、感情的な信頼に関しては、認知的な信頼に比べてそのレベルは高いです。政党や国会に対する信頼感はやや薄れている傾向があるものの、選挙に対する信頼は93年に一度大きく低下した後に回復しており、認知的な信頼ほど大きな動きは見られません(70p図3−2参照)。

 また、両者の変化の動きは基本的には独立していると考えられます(認知的な信頼が薄れると自動的に感情的な信頼も薄れるというわけではない)。「少なくとも日本では、政治への信頼と不信が同時に抱かれている」(81p)のです。

 

 これを踏まえて第2部では政治への信頼の低下が何をもたらすのかが検討されています。

 まず、政党支持との関連ですが、多くの人が予想するのが「政治への信頼低下→無党派層の増加」という流れでしょう。ただし、日本では無党派層は必ずしも無関心層ではなく、単純に政治から退出しているわけではありません。

 実際にデータを分析していると認知的な信頼と相関しているのは自民党への支持です。日本では長年自民党が政権を担当していたこともあって、90年代の認知的な信頼の低下は自民党への支持の低下と結びついています。

 つまり、認知的な支持の低下は支持政党の有無というよりはその方向性(どの党を支持するか)と結びついているのです。

 

 次に政治への信頼の低下と投票行動の関係が検討されています。ここでも単純に予想されるのは「政治への信頼低下→棄権」という流れです。

 しかし、今までの研究では政治への信頼と投票への参加の間に関連があるとは言えないという形になっています。そこで本書では認知的な信頼の低下は投票参加の低下をもたらさずに、感情的な信頼の低下が投票参加の低下をもたらすのではないかという仮説を立てて、分析しています。

 

 まず、70年代80年代はロッキード事件なども起こり、政治不信が高まった時期でしたが、特に投票参加率の低下は起きていません。しかし、80年代のデータからは感情的な信頼の低下が投票参加率の低下と関係していることがわかります。

 ただし、93年の調査では特に認知的な信頼、感情的な信頼ともに投票参加率との相関は見られず、95年、96年の調査では認知的な信頼、感情的な信頼ともに投票参加率と相関しています。ただし、どちらかというと認知的な信頼は政党の支持、感情的な信頼は投票の有無と関連する傾向にあります(118p図5−7参照)。

 2003年のデータでも認知的な信頼は政党の支持、感情的な信頼は投票の有無と関連する傾向ですが、認知的な信頼が低いと民主党に投票するという傾向があります。これはやはり自民党政治への不満の現れと見るべきでしょう。

 全体を通して、感情的な信頼の低下が投票参加率の低下をもたらす傾向が見られましたが、感情的な信頼の低下が緩やかなのに対して、投票率は急速に下がっています。投票率の低下の要因を政治不信だけに求めることはできず、他の要因も大きいと見るべきでしょう。

 

  続いて政治への信頼と政策との関係が分析されています。

 80年代のデータを見ると、認知的な信頼が高いほど、政治改革を支持しなくなり、社会福祉の充実を支持しなくなり、小さな政府を支持せず、防衛力の強化を支持しています。つまり、ときの自民党政権に満足していたということなのでしょう。一方、感情的な信頼に関しては、それが高いほど、政治改革を支持し、社会福祉の充実を支持し、女性の参画を支持する傾向が見られます。これは政治改革や女性の参画が代議制をより良くするとの考えからかもしれません(133p表6−1、表6−2参照)。

 90年代は過渡期という感じなのですが、00年代になると、例えば、イラクへの自衛隊派遣は認知的な信頼が高ければ支持、郵政民営化は感情的な信頼が高いと支持といった傾向が見られます(142p表6−5)。イラクへの自衛隊派遣は自民党支持と結びつき、郵政民営化に関しては政治改革の一環として捉えられていた可能性があります。また、夫婦別姓に関しても感情的な信頼が高いと支持する傾向が見られます。

 

 さらに本書では政治への信頼と政治的逸脱の関係も分析しています。

 政治的逸脱の代表例はデモやボイコットですが、近年の日本ではそうした行動に参加する人は少なくなっています。政治への信頼との関係でも、03年の調査で認知的信頼が高いとデモや集会へ参加しにくくなるということが見いだせるくらいです(156p表7−2参照)。

 一方、政策の受容に関しては、例えば電気の節約を求められた場合に、感情的な信頼が高いほど消極的な協力(仕方なく協力する)が強まる傾向が見られます。

 

 第3部では「何が政治への信頼を変動させるか?」という問題がとり上げられています。

 最初に分析の俎上に載せられるのがロッキード事件です。ロッキード事件は教科書にも載っている有名な事件で、当時の人々に大きな影響を与えたと考えられます。政治的な信頼を大きく揺るがした事件とも考えられます。

 単純に言ってロッキード事件は政治への信頼、特に認知的な信頼を低下させそうですが、それを見分けるのはなかなか難しく、本書ではかなり込み入った方法でそれを取り出そうとしています(詳しくは本書の第8章を読んでください)。

 結果としては、ロッキード事件は認知的な信頼の低下をもたらしたが、感情的な信頼に関してはそれほど低下をもたらさなかったということになります。

 

 つづく第9章では、変動要因として加齢、世代、時勢の3つをあげて検討しています。

 加齢とは年齢とともに政治に対する態度が変化していくことです。例えば、若者よりも高齢者のほうが政治的な関心が高い、年齢を重ねると保守的になると言ったことは加齢の影響だと考えられますし、「団塊の世代は革新的だ」というのは世代の影響を見ていることになります。また、人々の属性やパーソナリティにかかわらず、その時代ごとに共通する特性があれば、それが時勢です。

 ただし、この加齢と世代と時勢を切り分けるのは難しいです。例えば、1968年に20歳だった団塊の世代のある人物が、20歳のときは共産党支持だったけど、17年後の1985年には自民党支持になっていた場合、それは加齢なのか、時勢なのか、それとも世代的な何かがあるのかを見分けるのは難しいです。その識別方法については本書の第9章第3節をお読みください。

 

 分析によると、認知的な信頼に対する影響が大きいのは時勢です。一方、感情的な信頼に影響しているのは世代です。第一戦後世代(1929〜43年生まれ)、団塊世代(1944〜53年生まれ)、新人類世代(1954〜68年生まれ)、団塊ジュニア以降(1969年生まれ以降)と感情的な信頼は世代を経るごとに低下する傾向があります。

 認知的な信頼に関して時勢効果が大きいということで回復させることが可能です。実際に認知的な信頼は90年代に比べて00年代になるとやや上がっています。

 一方、感情的な信頼は世代に従って徐々に低下傾向にあるので、これは回復させるのは容易ではないかもしれません。現在のところ、感情的な信頼はまだ高レベルにあるので問題は顕在化していませんが、いずれ大きな問題となる可能性はあります。

 

 この分析を受けて、本書では「なぜ世代間の信頼の相違をもたらしているのか?」という問題を検討しています。

 これについての著者の分析は、イングルハートの言う20世紀後半に起こった価値観の脱物質主義化に対して、日本では公的領域からの退却を含む「私的な脱物質主義化」が起こったからだというものです。

 物質的な欲求がある程度満たされ、人々の問題関心は「自己実現」に移っていきます。欧米ではこの自己実現の手段として政治参加への意識が高まりますが、日本ではそうはなりませんでした。日本でも自己実現は求められましたが、それは私的な領域の中での自己実現でした。本書では、この「私的」なものの対極として「公的」なものではなく、「集団」や「伝統」を想定しており、この「集団」や「伝統」からの撤退が、代議制民主主義に対する信頼の低下をもたらしたというのです。

 

 しかし、代議制民主主義を守るために「伝統」(具体的に言えば「共同体の復活」や「地縁の再生」など)を復活させるべきだという議論の実現可能性は薄いです。

 そこで、著者は終章で、日本の市民文化が弱いことを認めながら、次のような展望を述べています。

 有権者の志向性という点では、たしかに日本の政治文化を市民文化だということができないが、評価の軸からいえば、日本のそれはまぎれもなく「市民文化」である。日本人は政治に対する認知的な不信を抱きながらも、その背後では代議制に対する信頼を抱き続けている。言い換えれば日本の有権者は、代議制という政治システムを維持するために必要な信頼という資源を与えながら、日本の政治を改良する資源としての認知的な不信を表明し続けている。それはたしかに矛盾する行動なのかもしれないが、この矛盾があるからこそ、代議制という政治システムの維持と発展は可能になっているのではないだろうか。(238−239p)

 

 このように本書は実証的な分析中心の本なのですが、「日本では政治不信が高まっているのに代議制の危機が起こらないのはなぜか?」という興味深い問いを中心に、さまざまな問題を掘り進め、最終的には政治に対する1つの見方を提示するという興味深い内容になっています(「新しい見方」と書かなかったのは、個人的にこの「評価」を軸にした政治への関わりというのは吉野作造の民主主義観とにていると思ったから)。

 分析に関しては難解な部分もありますが、1章ごとの問いが明確なので、わからなかったら問いと小括を中心に読んでいっても本書が行おうとしていることはわかると思います(あと、「感情的な信頼」というネーミングの直観的なわかりにくさはありますが)。

 日本の民主主義の今までとこれからを考える上で非常に興味深い知見を与えてくれる本と言えるでしょう。