『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』

 

 見てきました。まさに「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーが当てはまる作品でした。

 3月8日に公開して以来、別にネット断ちをしていたわけでなくTwitterも普通に見ていたのですが、自分のTLではネタバレは皆無。

 おそらくネタバレしないほうが楽しめると思うので、ネタバレしたくない人は読まないでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 今作の焦点はなんと言ってもあの『Q』をどう回収するのか? ということでしたが、『Q』だけでなく、新劇場版全体、さらに旧劇場版、さらにはTVシリーズまでを回収するという大作でした。特にTVシリーズや旧劇場版を見ていた人には感慨深いものだったと思います。

 

 以前、『破』を見た後に、旧劇場版を見て次のようなエントリーを書きました。

 

morningrain.hatenablog.com

 

 先月、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を見てから、TVシリーズと旧劇場版を全部見直すということをやってしまったわけですが、やっぱり面白いし、TVシリーズと旧劇場版の違いというのも見直してみると改めて興味深い。
 TVシリーズの最後では、シンジもアスカもミサトもアダルト・チルドレン的な存在としての同質性が強調され、その中でセラピー的な展開が繰り広げられた、「すべての子どもたちに/おめでとう」となるわけですが、旧劇場版では、アスカが覚醒して母の呪縛を乗り越えることで、アスカが一番強い人物になっている。
 人類補完計画なんかを進めていた碇ゲンドウをはじめとするネルフやゼーレの連中とかが一番「気持悪い」存在だとすると、

 まとも度

 アスカ>>シンジ、ミサト>>>>>>>>>>>それ以外のネルフの人たち
 

 ところが、シンジは庵野秀明のオタク批判のとばっちりを受けて、つまりエヴァを消費していたオタクがシンジに投影されることで、シンジが「気持悪い」と言われてしまう。ほんとに「気持悪い」のは、自らの孤独を埋めるために人類を滅ぼそうとする碇ゲンドウとかなのにね。

 

 TVシリーズに関しては、正体不明の使徒の理不尽さや、碇ゲンドウやゼーレの理不尽さに子どもたちが翻弄されるという設定で良かったのかもしれませんが、エヴァンゲリオンという物語を「終わらせる」ためには、やはり碇ゲンドウの「気持ち悪さ」を何とかする必要があったわけです。

 そこで、新劇場版では、シンジに以前よりも強さと主体性をもたせ、さらには綾波がシンジとゲンドウの和解を画策するなど、どこかでゲンドウをシンジの側に歩み寄らせるような展開があるのではないかと期待させました。

 

 ところが、『Q』ではゲンドウは自分の欲望の実現しか考えていませんし、ミサトさんまでが理不尽な大人になってしまっていました。TVシリーズや旧劇場版では、シンジとミサトが互いに同質性を見出すという流れもあったと思うのですが、そのミサトがシンジを理不尽に拒絶するわけです、

 『Q』はTVシリーズにあったサービスショット的なものものもないので、本当に理不尽さが際立つ世界です。

 

 では、本作ではそこからどう回復したかというと、何と言っても大きいのが、「まともな大人」になったトウジとケンスケの存在でしょう。

 もともとエヴァの世界ではまともな大人が加持さんくらいしかないという状況で、しかも『Q』では加持さんが不在(本作ですでに死んでいたことが明らかになった)でした。

 「まともな大人」が誰ひとりいなくなたしまった世界かと思いきや、かつての「子ども」が「まともな大人」になっていたわけです。

 また、このパートでは『破』で見られた綾波のかわいさが存分に発揮されており、「旧劇場版のヒロインがアスカなら、新劇場版のヒロインは綾波」という期待に沿いつつも、最終的にはそれを裏切ります。

 

 また、加持さんの死とミサトと加持の子の存在が明かされることで、ミサトとゲンドウのポジションがかぶることになり(最愛の人を失い、子どもを捨てた)、ミサトさんがゲンドウのように「気持ち悪く」ならないためにギリギリで踏ん張っている状況も見えてきます。

 律子がゲンドウを躊躇なく撃ったことからもわかるように、ヴィレのクルーはゲンドウの呪縛から解放されています。

 

 そして、ゲンドウとの対決です。ここではTVシリーズのラストに近いシーンが続くわけですが、TVシリーズでは理不尽な世界の被害者とも言えるシンジがセラピーを受けるのに対して、今作では理不尽な世界をつくっている側のゲンドウがセラピーを受けます。これは正しい展開ですよね。気の持ちようで理不尽さに耐えられるようになっても、それは問題の解決ではないわけですから。

 そして、旧劇場版のラストのシンジとアスカのシーンもきっちりと回収してくれる所が良いですね。新劇場版全体ではアスカは恵まれない扱いだったので、このシーンが入ったのは良かったです。

 

 最後に残った謎というと、一体マリは何者なのかということ?

 ゲンドウやユイとともに冬月の研究室にいたというのはわかるのですが、なんで青の姿で、エヴァパイロットになったのかということは最後までわかりませんでした。

 ただ、それが「他者」で、ともに生きるべき相手なのだということなのかもしれません。

 

 何にせよ、エヴァを始めてみてから25年ほど(本放送ではなく再放送でしたけど)。これだけ長い期間をともにした作品が終わるというのは感慨深いですし、本当によく終わらせてくれたと思います。