山尾大『紛争のインパクトをはかる』

 タイトルからは何の本かわからないかもしれませんが、副題の「世論調査と計量テキスト分析からみるイラクの国家と国民の再編」を見れば、ISの台頭など、紛争が続いたイラクの状況について計量的なアプローチをしている本なのだと想像がつきます。

 近年の政治学では、こうした計量的なアプローチがさかんに行われており、イラクのような紛争地域に対してもそうした研究が行われることに不思議はないのですが、実は著者は計量分析を専門にしている人ではなく、本書は紛争の激しいイラクでなかなか現地調査を行えないことから生まれた苦肉のアプローチなのです。

 

 しかし、その苦肉の策から見えてくるのは、イラクの意外な姿です。

 「イラクでは国家が信用を失い、代わって宗教指導者や部族長が人びとを導いている」、あるいは、「宗派対立が激しく、イラクという国はシーア派スンニ派クルド人の住む地域で分割したほうが良い」といったイメージを持つ人もいるかもしれませんが、本書の調査ではそれがはっきりと否定されています。

 人びとは首相や議会と同じく宗教指導者や部族長も信頼していない一方で、イラクナショナリズムは意外にも人々の間に広がっています。

 先日紹介した、中井遼『欧州の排外主義とナショナリズム』はデータによってわかりやすい「ストーリー」を否定する本でしたが、本書もまた、イラクに関するわかりやすい「ストーリー」を否定する内容になっています。

 

 目次は以下の通り。

序 章 紛争の影響を分析する
第1章 国家建設の蹉跌と非国家アクターの台頭

第2章 政治不信・強いナショナリズム・国家への期待

第3章 国民統合の政策とその変化
    ──新旧学校教科書の比較分析から──

第4章 対立が扇動されるとき
    ──政党支持構造から宗派対立のサイクルを描き出す──

第5章 IS は国民の分断を促進したのか
    ──旧バアス党勢力との和解への支持から紛争のインパクトを描き出す──

第6章 宗派主義の強さをはかる
    ──計量テキスト分析でIS のインパクトを描き出す──

終 章 紛争が再編する国家と国民

 

 まず、本書の第1章ではイラク戦争終結後から現在に至るまでのイラクの政治情勢が概観されています。

 フセイン政権を打倒したアメリカは新しいイラク国家の建設に着手しますが、このとき、旧支配層のバアス党の関係者を大規模に排除する政策をとりました。

 約30万人の旧党員が公職から追放され、国軍や警察などの治安機関も解体しました。これは約35万人の失業者を生み出したと言われています。

 一方、政権の中枢に起用されたのは亡命エリートたちでした。

 

 これが反米闘争を生み出します。旧バアス党勢力が根拠地としたファッルージャに米軍が進行しますが、こうした中で、ファッルージャをはじめとするアンバール県で多数を占め、旧体制でも支配層の多くを占めたスンナ派の反米姿勢が強まります。

 2005年の1月に制憲議会選挙が行われることになりますが、シーア派の亡命エリートたちは国内に支持基盤を持たなかったために、選挙で頼りになったのは国内で反対生活王をしていたシーア派の現地勢力(サドル派)であり、スィースターニーなどの宗教指導者でした。

 スンナ派に関しては、フセイン政権下でスンナ派を組織化する必要がなかったため、目立った組織は存在しませんでした。

 その結果、制憲議会選挙ではシーア派イスラーム主義連合が圧勝します。そして、宗派対立も徐々に顕在化していくことになりました。

 

 この対立は暴力へと発展していきますが、これに歯止めをかけたのが2006年にスタートしたマーリキー政権でした。

 マーリキーは治安の回復に力を入れ、中央集権化を進めつつ、シーア派民兵組織にも取り締まりを強めました。これによってサドル派との関係は悪化しますが、シーア派出身ながらシーア派民兵組織を取り締まったことはマーリキーをイラク国民の指導者へと押し上げます。

 しかし、2010年の議会選挙で反マーリキー派が連合して第一党となると、マーリキーの求心力も下がり、その隙を突いてISが台頭します。

 

 2014年6月にはイラク第2の都市モスルがあっさりと陥落します。この背景には旧体制の軍人がISを支援したことがありました。

 無力化した軍に代わって、シーア派民兵組織が動員されてISとの戦闘を行います。これらの組織は「人民動員隊」として統合されていきますが、この人民動員隊を支えていたのはイランでした。2020年の1月に米軍により暗殺されたソレイマーニーは、何度もイラクに入って軍事支援を行っていたと見られています。

 

 このようにイラクが混乱した背景には、行政機構が機能しなかったという問題があります。もともとイラク産油国のために徴税がほとんど必要なく、もともと効率的な御製機構は存在しませんでした。

 さらに旧バアス党員を追放したこともあって、軍や警察といった治安機関も機能しなくなり、治安が悪化し、暴動も頻発。政府はますます機能不全になるという悪循環に陥りました。

 そうした中で、自警団がつくられ、部族や宗教指導者などの非国家アクターが影響力を持つようになっていったのです。

 

 こうして、政府への信頼が失われ、非国家アクターへの信頼が高まったということになりそうなのですが、データを見ると実は違うのです(第2章)。

 調査は2017年と2019年に行われていますが(本書ではイラクのような国での世論調査の難しさにも触れられており、先進国のように精度の高いものとは言えない)、首相、政党への信頼はいずれも低いです。シーア派から首相が出ているにもかかわらずシーア派住民の首相への信頼は低いですし、2017年の調査ではシーア派住民の8割以上が政党を「まったく信頼しない」と答えています(66p図2−1、67p図2−2参照)。

 アラブ・バロメーターという世論調査を見ても、2018−19年の調査では中央政府について「まったく信頼しない」と答えたのが6割以上、議会は7割以上、政党は8割以上という惨憺たる数値になっています(68p図2−3参照)。

 

 ところが、非国家アクターも実は信頼されていないのです。部族長に対する信頼も低く、2019年の調査で「信頼しない」「まったく信頼しない」の合計はシーア派で5割近く、スンナ派で55%程度です(73p図2−8参照)。

 宗教指導者に関しても、スィースターニーをいただくシーア派でも「とても信頼する」「信頼する」の合計は2019年の調査で4割程度なのです(74p図2−9参照)。

 ISの撃退に力を発揮した人民動員隊に関しても、例えば、「強盗に襲われた場合に相談する相手」を聞いた調査(2017年)では、まったく期待されていませんし(75p図2−10参照)、そもそもシーア派であってもイランの介入に対する反発は強くなっています(77p図2−12参照)。

 

 そして、意外にもイラク国民主義への支持は、クルド人こそやや低めですが、シーア派スンナ派ともに「強く支持する」「支持する」で9割を大きく超えるなど、非常に高いものがあります(79p図2−15参照)。

 国境線の変更に関しても、クルド人以外は否定的であり(81p図2−17参照、クルド人でも国境線の同意に変更しているのは3割程度)、イラクという国家の分割に関しては、イラク国民はそれは望んでいないと言えます。

 確かに、イラクの国民は中央政府への信頼を失っている状況なのですが、それはある意味で「イラクという国家」への期待が高い裏返しでもある可能性があり、イラクという国家は崩壊に向かっているわけではないのです。

 

 第3章では、イラクナショナリズムについて、教科書から分析するという面白いアプローチがとられています。

 イラクではフセイン政権下とフセイン政権崩壊後で教科書が大きく変わりました。

 フセイン政権下では、イラクのネイションのプライドとして古代メソポタミア文明とともに、イスラーム軍がササン朝ペルシアに勝利したカーディスィーヤの戦い(637年頃)が重視され、イラン・イラク戦争が「第2のカーディスィーヤの戦い」であると位置づけられました。ペルシャ人(イラン)を敵とすることで、国家の求心力を高めようと考えたのです。

 

 フセイン政権崩壊後の教科書でも古代メソポタミア文明との歴史的連続性は強調されていますが、イランを敵視する記述はなくなり、代わって「民主主義と自由を取り戻したイラク」というあり方が打ち出されています。

 外野から見ていると、民主主義と自由をはイラク人が勝ち取ったというよりはアメリカから与えられたもののようにも思えるのですが、これが若年層には比較的受け入れられえおり、古代文明の発祥地であることに誇りを感じている中高年と相まって(114p図3−4参照)、イラクのネーションプライドを支えてるのです。

 

 では、イラクを語るときによく言われる宗派対立の実態はどのようなものなのでしょうか?

 イラクの宗派対立は本質的なもので、フセインのような独裁者がいなければすぐに表面化するという見方もあれば、政治的な要因によってそれが煽られているとの見方もあります。

 本書の第4章では、選挙が宗派対立を促進させるのではないか? という仮説に基づいて分析を行っています。

 

 予想通りではありますが、選挙期間前になると宗派による政党支持は強まります。シーア派の人はシーア派の主要政党を、スンナ派の人はスンナ派の主要政党を支持しやすくなるわけです(128p図4−1参照)。

 一方、興味深いのは選挙期のない選挙間期には宗派にかかわらず「投票しない」と答える層がかなり多い点です(130p図4−2参照)。これは単純に選挙が目前に迫っていないからだとも言えますが、同時に選挙が遠のくと宗派主義的な動員が薄れ、政治家の腐敗などもあって政治不信が高まるからだと考えられます。

 本章では主要政党の支持理由も分析していますが、その理由は選挙間期においては多様であり、選挙が終わると宗派主義が冷却される様子が見て取れます。

 

 第5章ではISのもたらしたインパクトが分析されています。ISはシーア派を強く敵視しており、また、モスルの攻略にあたっては旧バアス党勢力が手を貸したことから、ISは宗派による分断を加速させたと考えられます。

 本章では旧バアス党政策への評価(包摂か排除か)への評価などを分析しながら、ISのインパクトについて測ろうとしています。

 

 まず、ISによる紛争の被害が大きい地域ほど、旧バアス党勢力との和解を「まったく重要でない」と答える割合が、シーア派でも非シーア派でも高くなっています(159p図5−1参照)。

 また、シーア派スンナ派を比較すると、旧バアス党勢力との和解に関してシーア派の方が否定的です。さらにクルド人の方がより否定的なのですが、これはフセイン政権によって弾圧された過去が影響しているのかもしれません。

 

 ところが、興味深いのは時系列で見ると、ISの影響が強かった2016年においてはスンナ派で旧バアス党勢力との和解を「とても重要」と考える確率が高かった(シーア派は低かった)のに対して、ISの影響が弱まった2017年の調査では、スンナ派シーア派も「とても重要」と考える確率がほぼ同じ水準になっていることです(162p図5−4参照)。

 これはISの影響が強まった時期は、スンナ派の人は「IS=旧バアス党=スンナ派」という図式がつくられるのを恐れたのに対して、ISの影響が弱まると、シーア派の人もイラクの国家としての統合を重視するようになったからだと思われます。

 

 第6章では、ISのインパクトをイラクの主要新聞の計量テキスト分析によって測ろうとしています。

 この分析については、イラクの新聞というものがどのようなもので、どのくらいの人に読まれているのかということが実感として掴めないために、分析がどの程度イラクの世論を反映しているのか判断しかねるところもあるのですが、著者が計量テキスト分析に通じている人ではないこともあって、分析のやり方が詳述されており、どんな分析を行ったのかということはよくわかります。

 

 分析の結果、ISによる国内の犠牲者が増えると、宗派主義的な報道が増えるという傾向が見られますが(189p図6−9参照)、全体的にはIS台頭後に各新聞とも宗派主義を抑えていくような傾向が見られます(190p図6−10参照)。

 これは、ISの台頭がイラク国家の危機として認識され、これ以上の分断を回避するために、和解や国民統合を重視する報道に変わったからではないかと考えられます。

 世論調査を見ても、2011年よりもISが台頭した2016年、そしてISの影響力が弱まった2017年の方が国民統合の重要性への支持が高まっています(195p表6−5参照)。

 

 こうした分析を踏まえて、終章ではイラク国民の持つ矛盾した意識として、「国家に対する信頼と期待の歪み」、「政治不信と強いナショナリズム」、「紛争が強化する国民意識」の3つをあげています。

 人びとは現実の政治にはうんざりしながらも、イラク人という意識や国家への期待には確固たるものがあり、さらに度重なる紛争がイラク国家の重要性を人びとに認識させ、それがイラクナショナリズムを醸成している面もあるのです。

 

 このように本書は、今までのイラク観を更新していくるものとなっています。

 イラクというと、サイクス・ピコ協定で線が引かれた人工的な国家で、安定には国境の引き直しが必要だといった考えも聞いていましたし、それにある程度の説得力もあるのかと思っていましたが、本書を読むと、曲がりなりにも積み重ねられてきたイラクという国家とイラク人という意識は思いのほか強いものだということがわかります。

 最初にも述べたようにわかりやすい「ストーリー」をデータで否定してくれる本であり、また、現地調査ができない地域へのアプローチの仕方を教えてくれる本とも言えるでしょう。