トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』

 「そりゃインターネットのせいに決まっているじゃない。疑問の余地なし」(536p)

 

 「ちょっと待って、アメリカ人がそう思うのは誰のせい? 9.11を国民に売りつけたのは政府でしょ。みんな買わされた。政府は私たちから大切な悲しみを取りあげて、加工して、また売りつけた。他の商品と同じようにね。」(540−541p)

 

 トマス・ピンチョンの最新長編は9.11テロとインターネットをテーマにしたこの『ブリーディング・エッジ』。

 ピンチョンと言えば、歴史上の出来事だったり、アメリカ社会の裏にさまざまな陰謀論を見出してきたわけですが、9.11テロとインターネットほど陰謀論と相性が良いものも少ないでしょう。

 先日、NHKスペシャルで9.11テロ20周年に合わせた番組がやっていましたが、テロの遺族たちがサウジアラビアの事件の関与を探っているという番組でした。

 あれだけ大規模なテロでしかも映像的なインパクトがあるため、実際のサウジの関与などはともかくとして、おそらくケネディ大統領の暗殺事件のようにこれからも陰謀論が語り継がれることになるのでしょう。

 

 主人公は不正会計を見つけ出すことを仕事にしている女性のマキシーン。彼女はドキュメンタリー映像作家のレッジに自分が仕事をしている「ハッシュスリンガーズ」というIT企業がどうもおかしいという相談を受け、調査を始めます。

 不正会計を行っている企業は数字のごまかし方にある種の不自然な法則があるという経験則をもとに、マキシーンはハッシュスリンガーズとその経営者のゲイブリエル・アイスが何かを隠しており、中東のドバイに巨額な資金が流れていることを突き止めます。

 

 このマキシーンの調査に協力するのが、コンピューターオタクたちだったり、ニュースブロガーだったりするのですが、これ以外にもマキシーンの友人や家族、さらにはロシア系のマフィアや謎のエージェントなど、多彩な登場人物が絡みます。

 マキシーンはユダヤ系でもあり、NYのユダヤ系の暮らしぶりがうかがえる小説でもあります。

 

 まあ、多彩な人物が入り乱れる分、冗長と言えば冗長な部分もあるのですが(ピンチョンも本作発表時には76歳ですから)、小説が後半になるとだんだんと9.11が近づいてきて緊迫感が出てきます。

 実際にあった2日前のアメフトのゲームが再現され、アメリカの航空会社のプット・オプションが増え始める(これは実際にあった動き)。それでいて9.11自体は比較的紙幅を取らずにNYの混乱を描いていくやり方はうまいですね。

 

 新潮社の「トマス・ピンチョン全小説」シリーズは、これで『メイソン&ディクソン』、『逆光』、『LAヴァイス』と読んできましたが、読みやすさなら1番で、面白さなら『メイソン&ディクソン』の次ですかね。

 何より60年代を舞台にした『LAヴァイス』に比べると、今回は小ネタがいろいろと分かるのがうれしいですね。懐かしのIT企業やサービス、あるいはポケモンネタも出てきますし、少なくとも30代後半以降の人であれば楽しめるネタが多いのではないでしょうか。