筒井淳也『社会学』

 先日紹介した松林哲也『政治学と因果推論』に続く、岩波の「シリーズ ソーシャル・サイエンス」の1冊。

 社会科学の中でも「サイエンス」とみなされにくい社会学について、「社会学もサイエンスである」と主張するのではなく、「社会を知るには非サイエンス的なものも必要なのである」という主張によって社会学の意義付けをはかっています。

 著者は以前にも筒井淳也『社会を知るためには』ちくまプリマー新書)でも、社会学のあり方について論じていましたが、(一応)中高生向けのプリマーより1歩も2歩も3歩も踏み込んだ議論がなされています。

 社会学に限らず、社会科学に興味がある人の幅広くお薦めできる本ですね。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

第1章 社会学における理論――演繹的ではない理論の効能

第2章 因果推論と要約――記述のための計量モデル

第3章 「質と量」の問題

第4章 知識の妥当性・実用性

終 章

 

 「満員電車を避けるためには始発電車に乗れば良い」。多くの会社の始業時間を考えれば電車はまだ空いているはずで、実際に乗ってみたら空いていた。

 これを「科学」だと考える人はいないでしょう。始発の混み具合は路線によって違うでしょうし、たった1回乗っただけでは検証とは言えません。そして、この理論(?)が広まってみんなが始発乗れば始発電車は混んでしまいます。

 

 上にあげた満員電車の例はさまざまな意味で客観性に欠けます。「いつ、どこで、誰が」やっても同じ結果になるとは思われません。

 一方、科学では「いつ、どこで、誰が」やっても同じになることが期待されます。電流と電圧から抵抗が求められるように、誰がやっても結論は同じです。

 特に理論が数式によって表現できれば、誰もが数字を代入して演繹的に同じ結論にたどり着きます。

 

 社会科学においても経済学では理論が数式で提示されることも多いです。一定の前提から人々の行動が導き出されることになります。

 ゲイリー・ベッカーは、女性の労働力参加が、性別分業を通じた結婚の利得を低下させ、未婚化を進めると説明しました。 

 一方、社会学者のヴァレリー・K・オッペンハイマーは産業の高度化によって安定した雇用が遅れており、それが未婚化の原因だと考えました。

 ベッカーの「理論」は数式を使って演繹的推論を行っているのに対して、オッペンハイマーが示すのは断片的な記述統計、参照文献が示す知見、概念の連関性といったものです。

 

 このときに「理論」として完成度が高いのはベッカーのものです。ところが、ベッカーの理論からは「高学歴女性の方が早く結婚する」という帰結は導けませんが、実際には高学歴女性が早く結婚する傾向が見られました。

 現実社会の説明としてはオッペンハイマーのものが優れていたのです。

 

 社会学の理論には「緩さ」も見られますが、これが「社会過程の「要約」あるいは「説明」を可能にする」(30p)という面もあります。

 人々の行動をさまざまな形で記述したアーヴィン・ゴフマンの研究などは、まさに理論なのか実証なのか判然としないもので、それでいて人々の行動の説明としてさまざまな気づきを与えてくれます。

 また、政治学でもよく引用されるエスピン-アンデルセン福祉国家研究でも、用いられてるのは「断片的な経験データ、関連研究、緩めの概念連関」です。アンデルセンの理論はジェンダーや家族の理論が抜け落ちているとの批判も受けましたが、その理論が棄却されたわけではなく、アンデルセンは「家族」をパラメータに加えることでその批判に応えました。

 

 このようなパラメータの追加などは、科学においては良くないこととされそうですが、こういた改訂はクワインホーリズムの考え方を使うとうまく説明できます。

 クワインは信念・知識が相互に依存しあって「全体」を形成しているとの立場をとっており、科学とそれ以外をきっぱりと区別するポパーのような見方は退けられています。また、理論と観察はそれぞれが独立しているわけではなく、観察は理論の影響を受けます。

 こうした認識論の枠組みのもとでは、パラメータを追加して中心命題の延命をはかるという行為も十分にありなのです。

 (このように書くとずいぶんいい加減な話に聞こえてしまうかもしれないけど、例えば、アインシュタイン相対性理論によってニュートン力学が乗り越えられても、ニュートン力学が用済みになって捨てられるわけではないでしょう。それは対象を限定した形で用いられています。詳しくは丹治信春『クワイン』などを読んでください。) 

 

 経済学においては、あえて対象から距離をとってモデル化する戦略がよくとられますが、一方、社会学では対象から距離をとらずに、対象の側から概念や問いを受け取ろうとするスタイルがあります。

 著者はこれを「反照戦略」と呼びますが、これによって社会の変化などを記述することが可能になり、社会や個人が異質な場合であっても、それを説明できる可能性が出てくるのです。

 

 とは言っても、近年の社会科学の花形は因果推論です。上記のような理論と松林哲也『政治学と因果推論』でもとり上げられていた、RCTや自然実験などとの関係はどのように捉えればいいのでしょうか?

 

 因果推論で重要なのは自己選択バイアスの除去です。例えば、ダイエット食品を食べている人は太っている可能性が高いわけですが、それを無視してダイエット食品を食べている人と食べていない人の体重を比較し、「ダイエット食品を食べると逆に太る!」みたいなことを言ってしまっては意味がないわけです。

 そこで無作為化や自然実験など、さまざまな手法によってその自己選択バイアスを取り除こうとします。

 こうやってうまく実験群と対照群を切り分けることができれば介入の効果を測ることができます。

 

 このときに重要なのは効果であって、効果をもたらした理由ではないのですが、社会学における説明ではむしろその理由に注目します。

 因果推論では、効果の推定と「なぜ」という問いはとは独立に行うことができますが、社会学では「意図せざる結果」といったものが重視されるように、その理由こそが解明されるべきものとしてに注目されます。

 

 もちろん、社会学でも数量的なデータは用いられますが、記述や要約のために用いられる方法は因果推論のそれとは違います。

 「「実際の観察結果と確率的に適合するモデル」を探すことがしばしば目的になる」(70p)のです。

 

 また、データをどのように分類するか、切り分けていくのかということも重要です。

 例えば、社会階層研究では社会的地位をいかに的確に測定するかが重要になります。例えば、ゴールドソープの階級論では、自営や農業以外を「サービス階級」「単純ノンマニュアル」「上層マニュアル」「下層マニュアル」と分けていますが、日本のSSM調査では「大企業ホワイト」「中小企業ホワイト」「大企業ブルー」「中小企業ブルー」と分けています(73p表2.3参照)。

 これは日本では「大企業」と「中小企業」の間に差が一定の差があるという判断なのでしょう。

 

 そして、これらの分類は人々の実際に持つイメージに基づいたものでもあります。日本では職種よりも企業名の方が重要だと認識されることもあるので、大企業と中小企業の区別がなされるわけです(小熊英二『日本社会のしくみ』講談社現代新書)に、ロナルド・ドーアの本から、イギリスのEE社のブラッドフォード工場の鋳造工に、どんな仕事をしているか尋ねたら、おそらく鋳造工→ブラッドフォード→EE社の順に答えるだろうが、日立市日立製作所の従業員に尋ねれば、日立の社員→工場の名前→鋳造工の順に答えるだろうという話が引用されている)。

 

 日本においてホワイトカラー/ブルーカラーの区別では階層を捉えきることができないことからもわかるように、社会学の研究においてはデータの解像度も重要です。

 どのようなデータまで求めるかはそれぞれの社会によって異なり、例えば、アメリカでは「大学中退」という選択肢は重要ですが、入ったらほとんどの人が卒業する日本では「高卒」「大卒」で事足りるかもしれません。

 

 現実の社会は複雑であり、さまざまな解釈が可能です。例えば、「世代を経るごとに親子関係は緊密化が増すか?」といった問いがあった場合、雇用労働化が進み、成人後の親への経済依存が減るために希薄になるとも予測できるし、逆に長寿化と少子化によって親子が付き合う時間が長くなり関係は緊密化するという予測も可能でしょう。

 

 社会学が扱うテーマの多くはこのように逆向きの予測が可能だといいます。これは「雇用労働課」「長寿化」「少子化」といった現象が何らかの意図のもとで体系的に進むのではなく、ある程度バラバラに進行し、しかも互いに影響し合うからです。

 「「多様な解釈を許す」ことと、「意味的に理解できないつながりがたくさんある」ことは、社会の異質性という同じ特性の2つの現われ」(83p)です。

 このことは社会学のとる「「意味理解に沿った反照戦略」の有効性と限界をともに示して」(83p)います。モデルを固定化しないことは変化の記述に有効ですが、同時に研究者の理解を超えたつながりは見出しにくく、抽象的なモデルを用いた距離化戦略や大量のデータの処理によって初めて見えてくることもあります。

 

 第3章では「質と量」の問題が扱われています。日本の社会学においては質的研究のプレゼンスが高い傾向にありましたが、近年の調査教育のカリキュラムでは、より標準化が進んでいる量的調査・分析が優勢です。

 ただし、質と量はそんなに簡単に切り分けられるわけではありません。

 

 例えば、「無配偶/有配偶」というのは0か1かという数字に変換できるものですが、もしも日本でも欧米のように同棲が増えたり事実婚が増えてくれば、「無配偶/有配偶」では現実を取り逃がすことになります。

 

 ただし、データの解像度を上げていけばいいのかというとそうでもありません。

 例えば、「本人が30歳台男性で4年制大学卒、大企業のホワイトカラーで部下有り、父親も4年制大学卒」というのはかなり解像度の高いデータで、最近では珍しくない類型かもしれません。しかし、このタイプの意識の変遷を辿ろうとしても、おそらく1960年代には珍しいタイプであり、60年代と現在のそれを比べて何かがわかるとも思えません。

 

 このように長期的な変化を見る場合、データを揃えることは困難です。時代を経た異質な社会において、何と何が同じなのか? という問題は非常に難しいもので、こうした異質な社会において因果推論で何かを明らかにすることは困難です。

 

 一方で解像度の粗いデータが何かを明らかにすることがあります。ピケティは納税データを使って資本と格差の問題を明らかにし、デュルケムは自殺の統計から、個々のケースを追っていたのでは見えにくい自殺の特質を明らかにしました。

 

 第4章では「知識の実用性・妥当性」というタイトルで、再び知のあり方が全体的に検証されています。

 科学というとどうしても自然科学が標準で、社会科学もそれに追随すべきであるというふうになりがちですが、例えば、自然科学でも気候などの斉一性が想定しにくい分野では対象から距離を取る「距離化戦略」ではなく、「反照戦略」をとることもあります。 

 すべてにおいて優越する方法があるのではなく、対象によって適切な方法は違ってくると考えられるのです。

 

 さらに社会を研究する場合には研究対象が研究の影響を受けることも考えられます。例えば、「ニート」という概念が生み出されて広がっていく過程で、「ニート」に分類される人々への視線や本人の意識が変化していく可能性もあります。

 

 実用性、つまり「役に立つ/立たない」の次元で考えると、自然科学に比べて社会科学は分が悪いかもしれませんが、自然科学の基礎研究も短期的には「役に立たない」ことからもわかるように、科学を実用性の面からのみ測ることはできません。

 

 社会科学において、さまざまなナッジを駆使する行動経済学や、あるいは政策効果を測ることのできる因果推論は「役に立つ」ものかもしれません。

 しかし、反照戦略が現場の声をすくい上げて既存の考えを修正してくれることもあります。例えば、児童養護施設よりも里親やファミリーホームの方が子どもの生育にとってはいいという通念がありますが、社会学者の藤間公太は、フィールドワークによって施設のほうが悩みや問題を抱える子どもに対する「応答性・継続性」において、里親やファミリーホームの持つ限界を超えることができるとの見方を示しました。

 こうした知見が広まって受け入れられていくとしたら、行政の方針も変わっていくかもしれません。

 教育社会学者の新谷周平によるフリーターについても研究は、彼らが地元の仲間集団との場を共有することを優先してフリーターになっていることを明らかにしていますが、これだと経済的支援を行って進学を促したりしてもその効果は限られます。

 対象に寄り添った観察や分析が既存の見方の修正を迫るのです。

 

 もちろん、こうした研究は再現性の問題なども含むのですが、対象に近づく、あるいは対象の認識に近づかないと見えてこないものというものは確実にあり、ここに社会学の存在意義といったものもあるのでしょう。

 

 そして、これは社会学に限らない社会科学のポイントなのだと思います。

 例えば、アメリカにおける共和党支持者と民主党支持者の分極化なども、それが何を意味するのかは実際にそれぞれの支持者に寄り添ってみないとわからないでしょうし、「分極化」という言葉の広がりが人々の行動を変えている面もあるでしょう。必ずしもフィールドワークが必要なわけではないでしょうが、人々が持つ世界観のようなものを探る必要があるはずです。

 

 というわけで、社会学を学ぶ人だけではなく社会科学に興味を持つ人ならば読む価値のある本だと思います。

 

 

 おまけに、ここ最近の社会学の本で面白いと思ったものをあげておきます。

 

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