『ドライブ・マイ・カー』

 去年の秋から見たいと思いつつも予定が合わなくて「見逃したか…」と思ってましたけど、ようやく見ることができました。

 原作は村上春樹の短編で未読なのですが、村上春樹の短編がここまで複雑な構造の話になっていることにまず驚きました。

 

 主人公は舞台俳優で演出家でもある家福悠介(西島秀俊)。彼はかつては女優でその後脚本家として活躍していた妻の音(霧島れいか)がいましたが、ふとしたことから妻の浮気を知ってしまいます。しかし、家福はそれを問い詰めることもできず、そうした中で家福が帰宅をためらってあてどなくドライブをしている間に妻はくも膜下出血で死んでしまいます。

 2年後、家福は広島の演劇祭に招待され、そこでアジア各地の役者を集めてチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を演出することになります。

 そこで事務局がつけてくれた運転手の渡利みさき(三浦透子)と出会います。当初は愛車を他人に運転させることを嫌がっていた家福でしたが、彼女の運転の腕の確かさに感心します。

 一方、演劇祭には妻の浮気相手だった高槻耕史(岡田将生)も現れ…といった形で物語が展開していきます。

 

 この映画は重層的な構造になっています。まず、映画の中で「ワーニャ伯父さん」という演劇がつくり上げられていきます。劇の中に劇があるのです。

 さらにこの「ワーニャ伯父さん」は、アジア各国からあつまった役者たちがそれぞれの言語でセリフを話すという形式で、さらに役者はまず感情を込めずに本読みをするという濱口監督の演出方法で演出されます。

 つまり、映画の中で映画の演出方法が開示され、それが演じられているのです。

 

 さらに家福の妻の音が語った物語なども挟み込まれ、物語が物語を駆動させていくような展開です。

 

 また、前半は男女のディスコミュニケーションがテーマとして前面に出ていますが、演劇祭が始まってからは、役者同士の言語に違い、そして役者のひとりイ・ユナ(パク・ユリム)が韓国手話の話者ということもあって、言語に違いにおけるディスコミュニケーションといったテーマも出てきます(このパク・ユリムが魅力的!)。

 

 こうした複雑な道具立ての上に、村上春樹がお得意とする人間の精神の隠れた部分だったり、過去の記憶との付き合い方といったものが乗っかっていくわけです。

 もともと、村上春樹の小説には濃厚な「村上春樹っぽさ」があり、そのいかにも村上春樹らしいセリフだったりフレーズだったり小道具だったりが物語を先に進めていきます。

 この「村上春樹っぽさ」をなぞるだけだと、映像作品としては非常に薄っぺらくなってしまうかもしれませんが、本作はそれが非常に複雑な構造の上に乗っているので、薄っぺらさを感じさせませんし、「広島から北海道はさすがに遠すぎるんじゃないか?」という1点を除けば、非常に安定した土台の上を物語が展開していきまし、さまざまな受け取りができる深みを与えています。

 カンヌ脚本賞を獲ったのも納得です。本当によくできている映画ですね。