村上春樹『女のいない男たち』

 映画の『ドライブ・マイ・カー』を見て、その物語の複雑な構造に感心したので、「原作はどうなってるんだろう?」と思い、久々に村上春樹を読んでみました。

 以下、映画と本書のネタバレを含む形で書きます。

 

 

 映画はこの短編集の中から「ドライブ・マイ・カー」だけではなく、「シェエラザード」、「木野」という2つの短編の要素を組み込んでいます。 

 「シェエラザード」からは、セックスのあとに語られる物語が映画で使われています。やつめうなぎの話や想いを寄せる彼の家に空き巣に入る話は、ここからとらえています。

 映画の中での、「僕は傷つくべきときに十分に傷つかなかった」というセリフが印象に残っている人もいるかもしれませんが、これは「木野」の中に出てきます。

 

 ただし、「シェエラザード」も「木野」も映像化しにくい作品です。

 「シェエラザード」は何らかの理由で家にこもって生活をしている主人公の羽原のもとに、定期的に35歳の主婦である彼女が買い物などしてやってきて性交をして、その後に様々な物語を語るという話です。最初から最後まで、これが一体どのような設定なのかということは明かされません。

 

 一方、「木野」は、妻の浮気がきっかけで離婚した木野という男が青山の一軒家でバーを開くという話で、木野の背景なども書き込まれているのですが、この話は村上春樹の短編によくある奇譚のたぐいです(「かえるくん、東京を救う」とか「品川猿」とか)。

 カミタという謎の男やヘビなど謎めいたものがいろいろと登場しますが、これらをうまく映像化するのは難しそうです。

 ちなみに本書に収録されている「独立器官」も奇譚といっていいと思います。ある男の破滅の物語ですが、映像化すればかなりグロテスクになりそうなところを、すこし距離感をもって描けているのが村上春樹ならでは。

 

 ちなみに他の収録作の「イエスタデイ」は70年代くらいの過去の話であり、「女のいない男たち」はそんなに面白くない。

 

 というわけで、映像化するならばやはり「ドライブ・マイ・カー」ということになるのでしょう。

 設定は映画とほとんど同じなのですが、大きな違いは小説では主人公の家福が車の運転を禁止されているのに対して、映画では注意するようには言われているものの禁止されてはいない点です。

 つまり、小説の家福は不能ですが、映画の家福は不能ではありません。

 

 実際、小説では家福は高槻との交流を終わらせており、「憑き物が落ちた」状態です。

 映画では運転手となったみさきとの関わりの中で家福が変わっていきますが、小説ではみさきによって家福の過去が肯定されるような形になっています。

 小説にあるのは「解釈」ですが、それでは映像になりにくいので、映画ではこれを「行動と変化」の話にしているわけです。

 

 「ヴァーニャ伯父さん」や演技へのこだわりも小説に出てきますが、これを濱口竜介監督自らの方法論と重ね合わせて、さらに立体的に構成しているわけです。

 

 この短編集自体も面白く読めましたけど、ここから映画の脚本がどんな形で立ち上がっていったのかということを考えながら読む経験も面白かったです。