野島剛『蔣介石を救った帝国軍人』

 もと朝日新聞の記者で『香港とは何か』(ちくま新書)など台湾や香港に関する著作で知られる著者が、2014年に『ラスト・バタリオン』のタイトルで講談社から出版した本が改題されて文庫化されたものになります。

 副題は「台湾軍事顧問団・白団の真相」となっており、さまざまな取材によって国共内戦に敗れて台湾に逃げた蔣介石を支えた日本人の軍事顧問団・白団(バイダン)の姿を明らかにしようとしたものになります。

 

 前々から読みたかったのですが、先日、S・C・M・ペイン『アジアの多重戦争1911-1949』を読んで、改めて日中戦争と中国の内戦に興味をもったのでこの機会に読んでみました。

 もちろん、「なぜ蒋介石は仇敵だったはずの日本から軍事顧問を受け入れようと思ったのか?」という謎があるわけですが、同時に本書では「なぜ、日本の旧軍人は1950〜68年の20年近く台湾に留まって活動したのか?」という疑問にも迫っています。

 今まで光が当てられてこなかった戦後史、そして日台関係に迫った本と言えるでしょう。

 

 目次は以下の通り。

プロローグ 病床の元陸軍参謀
第1章 蔣介石とは何者か
第2章 岡村寧次はなぜ無罪だったのか
第3章 白団の黒子たち
第4章 富田直亮と根本博
第5章 彼らの成しとげたこと
第6章 戸梶金次郎が見た白団
第7章 秘密の軍事資料
第8章 白団とはなんだったのか
エピローグ 温泉路一四四号

 

 実は、「なぜ蒋介石は仇敵だったはずの日本から軍事顧問を受け入れようと思ったのか?」という謎に関しては、S・C・M・ペイン『アジアの多重戦争1911-1949』を読んでいてもある程度その理由が見えていました。

 それはアメリカの軍事顧問が素人で第2次大戦中に蔣介石を悩ませたこと、国家としては完膚なきまでに敗北した日本ですが、中国大陸の戦いでは44年の一号作戦で大きな戦果をあげていたことなどです。

 

 それでも、この問題を考える上で蔣介石と日本の繋がりというものは無視できません。本書でも第1章で蔣介石と日本のつながりを掘り下げています。

 ちなみに本書の執筆のきっかけは蔣介石日記の公開と、そこで蔣介石が繰り返し白団に触れていることから始まっているのですが、その蔣介石日記をめぐる面倒な事情もここで紹介されています。

 

 蔣介石は1906年、19歳のときに初めて来日しています。軍事について学びたかった蔣介石ですが、当時は清朝の陸軍部の推薦がなければ軍関係の学校には入れなかったことから、日本語だけを勉強し8ヶ月後に帰国しています。

 一度帰国した蔣介石でしたが、清の通国陸軍速成学校に入学し、07年には再び日本に渡り、清国学生のための教育機関「振武学校」に入学しています。

 ここで蔣介石は日本語中心の教育を受けるわけですが、蔣介石はそれほど日本語の会話が得意ではなかったとの証言もあります。

 

 その後、蔣介石は1910年に新潟県の高田の第13師団に配属され、一兵卒として過ごしますが、1911年に辛亥革命が勃発すると休暇と偽って連隊を抜け出し、中国へと渡りました。

 蔣介石はもともと日本の陸軍士官学校に入ることを目標にしていましたが、革命参加の道を選んだのです。

 

 ですから、蔣介石には日本での軍隊経験があるとはいえ、特に日本の士官などへの伝手のようなものがこのときにできたわけではありません。

 白団の伝手となったのは終戦時に支那派遣軍総司令官だった岡村寧次です。岡村は中国共産党が戦犯の筆頭に指名していた人物でもあり、日本で東京裁判にかけられていればまず間違いなく重い刑が課されていたでしょう。

 ところが、岡村は蒋介石によって戦犯指定をすり抜けました。

 

 45年8月15日に行われた蒋介石のいわゆる「以徳報怨」演説を聞いた岡村は武装解除や、武器・弾薬の接収などに全面協力しました。45年12月には儀礼的ではありますが蔣介石と岡村が対面し、言葉を交わしています。

 日本軍民の帰還事業が進んでも岡村は留め置かれました。そして、岡村の処遇を決める会議では蔣介石の意向を受けた曹士澂(そうしちょう)が強硬に無罪を主張して押し切りました。こうしえ岡村は蔣介石によって命を救われ、1949年に日本に帰国しました。

 

 同じ49年、曹士澂が日本に派遣されますが、彼が蔣介石から託された密命が共産党に対抗するために日本人の協力を得ることでした。

 しかし、当時の日本はGHQの占領下にあり、義勇兵などを募るわけにはいきません。そこで考えられたのが日本人の軍事顧問団だったわけです。

 

 曹士澂が頼ったのが岡村であり、岡村の片腕となった小笠原清です。小笠原は旧軍人らをリクルートするとともに、日本に残された家族に手紙や給与を渡し、岡村の指示を台湾に伝えました。

 

 そして、軍事顧問団の代表となったのが富田直亮です。白団という名前も富田の中国名の白鴻亮からとられています。

 富田は1899年生まれの陸士32期生で、同期から「天才」と呼ばれた軍略家でした。支那通軍人ではありませんでしたが、広東方面に派遣された第23軍の参謀長として終戦を迎えています。

 富田は荒武国光と先遣隊として重慶に飛び、そこで蔣介石と会っています。富田は重慶の地形を活かせば戦えるとみましたが、国民党軍の士気が崩壊したことにより撤退を余儀なくされます。

 大陸での戦闘には白団は間に合いませんでしたが、富田の意見が評価されたこともあって白団は台湾で活動を行うこととなります。

 

 一方、台湾で活躍した日本軍の軍人としては根本博中将がいます。根本は49年10月の共産党軍による金門島上陸作戦を阻止した人物として知られていますが、その内実にはやや怪しいものがあるといいます。

 根本は白団は別経由で台湾に行き、そこで湯恩伯将軍の個人顧問となります。根本が言うところによれば根本の献策が湯恩伯に採用されて共産党軍を打ち破ったことになっているのですが、実は湯恩伯はポイントとなった古寧頭の戦いの直前に金門防衛の司令官の座を代わっており、根本と湯恩伯がこの戦いの勝利にどの程度貢献したのかはわからないといいます。

 

 一時は白団のリーダーを根本とする案もでますが、富田を支持する声が強く、根本は51年に帰国します。

 こうして、白団は台湾で軍人の教育を始めるのですが、蔣介石自ら白団の講義にしばしば訪れました。富田の行った武士道に関する講義について、蔣介石は「はなはだ良い」といった感想をたびたび日記に書き込んでいます。

 当然ながら、軍の中からは日本人に教わることの不満がでるわけですが、蔣介石はその必要性は粘り強く説いています。

 「日本人教官はなんの打算もなく、中華民国を救うために台湾にきている。西洋人の作戦は豊富な物量を前提としており国情に合致せず、技術重視で精神を軽んじるのでダメである」(226p)とあるように、蔣介石が日本人の教官に期待したのは精神的な部分でした。

 

 蔣介石は離合集散を繰り返す中国の軍閥の間で戦いを続けてきました。その蔣介石の基盤となったのが彼が設立した黄埔軍官学校です。ソ連の支援を受けてつくられたこの学校の卒業生は蔣介石の手足となりましたが、ソ連に頼れなくなった状況の中、蔣介石は日本の力を使って自らに忠実な軍をつくろうとしたのです。

 不利な戦況になっても崩壊しない軍をつくるために、日本人教官、そして彼らが説く精神論が必要だと考えたのです。

 

 著者によると白団は以下の4つの時期に分けて考えられるといいます(237p)。 

1期 革命実践研究院圓山軍官訓練団時代(1950〜52)

2期 実践学社時代(1952〜1963)

3期 実践小組時代(1963〜65)

4期 陸軍指揮参謀大学時代(1965〜68) 

 

 1期のころは白団の草創期であり、白団が公的な組織として軍人の再教育にあたりました。訓練団は「普通班」と「高級斑」にわかれ、普通斑は少佐以下、高級班は大佐以上で師団長や軍司令官も対象となりました。

 日本人の教官は高級班での兵站軽視に驚かされたといいます。日本人の将校にそんなことが言えるのか? という感じもしますが、日本以上に軽視されていたのでしょう。

 日本式の教育に反発する人間もいたそうですが、今までの人脈がものを言う世界とは違い、日本人教官の採点の公平性の高さは評価されていたようです。

 

 朝鮮戦争勃発までアメリカは台湾にコミットしない方針でしたが、方針を転換して51年には軍事顧問団を派遣します。アメリカ側は白団の存在を快く思わず、ことあるごとに蒋介石に白団の排除を求めましたが、蔣介石は白団を守り続けました。

 

 それでも52年からはアメリカの介入により白団の体制は縮小されることになり、最大76人いたメンバーも減らされることになりました。名称も実践学社となり、圓山から石牌という目立たぬ場所に移転しています。

 それでも軍事教育はつづき、蔣介石の次男の蒋緯国がここの第一期生になりました。蔣介石はエリート軍人の教育を白団に託したのです。

 64年末には白団の教官は25人から5人にまで縮小されますが、それでも台湾側の教官の育成を担い、蔣介石は毎月のように白団のメンバーと食事会をしていたといいます。

 また、台湾における動員体制の構築を指導したのも白団だといいます。

 

 第6章では戸梶金次郎という白団に参加した一人の人物の日記を使って白団の実態を再構成しており、白団内部の対立や待遇改善の要求なども書かれています。

 また、当初は大陸反抗計画の立案も行っていましたが、1953年の米加相互防衛条約によって、アメリカの保護を受ける代わりに蒋介石の大陸反抗は封じ込められました。

 また、白団での生活が長くなるにつれ、「いつまでこの生活が続けられるのか?」「変化する日本に置いていかれる」といった悩みも出ていたことがわかります。

 

 台湾での軍の立て直し、大陸反抗計画の立案といったことをになった白団でしたが、台湾の軍が自立し、大陸反抗計画が遠のいたことでその存在意義も薄れます。

 1964年にこの年限りでの白団の解散が告げられ、富田をはじめとするごく少数以外は帰国します。戸梶もこのときに帰国しました。

 

 一方、富田のことは最後まで蔣介石が離しませんでした。1972年には日本と中華民国が断交し、日台関係は悪化しますが、富田ら白団のメンバーは「共存共亡」というタイトルのついた決意書を蒋介石に送りました。

 75年に蔣介石が死去すると富田も帰国を決意しますが、蔣経国から「父から、白将軍より指導を受けよと命じられています。どうかこの台湾にとどまっていただけないでしょうか」(365p)と言われ、富田は日本と往復する形で台湾での生活を続けることになりました。富田は台湾で上将(大将)の称号を授かり、79年に東京で亡くなっています。

 

 ただ、白団は単純に「日台友好」といったものではくくれません。そこには日本側の再軍備の思惑などもありましたし(服部卓四郎とのつながりなどは第7章で触れられている)、国民政府の台湾統治の問題もありました。

 国民政府は、元から台湾に住んでいた人から嫌われ、その失望から日本統治時代を懐かしむ声が生まれます。これに対して大陸からやってきた外省人は台湾の人々の日本びいきを嫌って、日本語の使用禁止などを打ち出します。

 蔣介石は白団を非常に買っていましたが、その部下たちにはやはり日本に対する複雑な感情や敵対心はあったわけです。

 

 このように本書は白団の実態とそこに関わった人々を描き出しています。ここではあまり紹介しませんでしたが、新聞記者らしく本当にさまざまなエピソードを拾っています。

 エピローグでは、白団がこれだけの期間続いた理由として、日本人の教官たちにとって、日本では使いようのない参謀としての知識や経験を活かせる職場であり、彼らは「帰りたくなかった」のだということをあげていますが、おそらくその通りなのでしょう。

 そういった意味では、白団は「平和国家」の日本と、非常事態宣言下にあった台湾との落差のなかで生まれ、存続したものと言えるかもしれまえん。

 読みやすいですし、興味深い本でした。

 

 

文中で紹介した本はこちら

morningrain.hatenablog.com