ケイトリン・ローゼンタール『奴隷会計』

 奴隷制というと野蛮で粗野な生産方式と見られていますが、「そうじゃないんだよ、実はかなり複雑な帳簿をつけてデータを駆使して生産性の向上を目指していたんだよ」という内容の本になります。

 

 何といっても本書で興味を引くのは、著者は元マッキンゼー経営コンサルタントだったことです。

 著者はたくさんのスプレッドシートを見ながら経営効率を上げる仕事をしながら、このように働く人をスプレッドシートのセルとして扱うようになったのはいつなのか? ということに疑問を持つようになったといいます。

 

 そこから大学院に入って見つけたのがプランテーションの帳簿で、「まさしく現代のものだと思われていたデータ処理が、奴隷制と共存するばかりか、補完までしていたことを示して」(はじめに iXp)いたことに気づいたといいます。

 

 このテクノロジーとグロテスクさの共存というのが本書の読みどころで、奴隷制という「離脱」が許されない世界の中で、ぎりぎりまで生産性をあげようとする行為のおぞましさが浮かび上がってきます。

 

 目次は以下の通り。

序論

1 生と死のヒエラルキー──英領西インド諸島の会計と組織構造

2 労働の記録──ペーパーテクノロジーの比較から見えるもの

3 奴隷制の科学的管理──アンテベラム期の南部における生産性分析

4 人的資本──アンテベラム期の南部における命の値踏み

5 自由を管理する──南部支配の再現

結論 経営と奴隷制の歴史

追記 科学的管理への移行

 

 奴隷制が資本主義の確立の大きな役割を果たしたということについては、エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』といった著作があります。ウィリアムズは、奴隷からの搾取によって産業革命が準備されたということを論じたわけですが、本書ではより細かい搾取の方法が発掘されています。

 そして、その奴隷の管理手法は、テイラーの提唱した科学的管理法の先駆的なものだというのです。

 

 1767年、ジャマイカプランテーションでつくられた帳簿には収益と費用を集計したものの他に、「ニグロ勘定」という奴隷の数を数えたものがありました。

 プランテーションで働く奴隷の数を「在庫」欄に記入し、生まれた子どもと死んだ奴隷を計上します。そして、年末の奴隷の数を最終的な在庫として記入するのです。

 

 19世紀初頭のジャマイカでは3000人近くの奴隷がいた砂糖プランテーションもあったといいます。

 大工場の規模がプランテーションに近づくのは19世紀半ばになってからであり、ジョサイア・ウェッジウッドの陶器工場が当時最大の工場だったという説もありますが、ウェッジウッドが亡くなった1795年、従業員は450人でした(17p)。

 

 砂糖プランテーションでは、サトウキビの栽培だけでなく、すりつぶして液体を絞り出し、それを何度も煮詰めて、糖蜜をつくり、場合によってはそこからラム酒をつくっていました。

 サトウキビを収穫してから煮詰めるまでの作業は時間との戦いであり、そのために工場は畑のすぐそばに作られました。砂糖プランテーションは農場と工場が合わさったようなものだったのです。

 

 このような大規模プランテーションでは、大企業に見られる本部の戦略機能と本部より小さい事業部からなる階層制度(M型構造(多数事業部制)に似た構造が見られました。

 18世紀末につくられた大規模プランテーションの「ニグロ前述リスト総覧」と題した記録では、奴隷を現場監督、作男、作女、畜舎係、大工、樽職人、鍛冶、レンガ職人、木挽き、水夫、畜牛係、庭師のほか、馬小屋、診療所などで働く者が記録されており、かなり細かく仕事が分けられていたことがわかります。

 

 カリブのプランテーションでは不在地主化が進み、現地での管理は代理人に任されました。その代理人の下に管理人がおり、彼らが現場を監督しました。

 さらにその下に帳簿係がいましたが、これは名前と仕事が一致しておらず、本国の若者たちに仕事の内容を勘違いさせるための名だったと思われます(実際には豚の世話などもさせられた)。

 ただし、プランテーションでさまざまな帳簿がつけられたのは事実で、本国の地主への報告のためにもさまざまな帳簿がつけられていました。

 

 子どもの奴隷も戦略的に組み込まれており、早ければ6歳ころから草取りなどの仕事が割り当てられました。人手が必要だったということもありますし、幼い頃から絶え間なく働く生活になれさせる面もあったと考えられます。

 

 カリブのプランテーションでは少数の白人が多くの奴隷を管理する体制になっていました。そのため奴隷の反乱が起こることもあり、奴隷が逃亡することもありました。

 そのために農園主は武器と馬を確実に管理し、そのために武器になり得るものを帳簿で管理しました。同時に反抗的な奴隷に対して、焼印を押す、鼻や耳を切り取る、去勢する、鞭打ちして傷口に塩や酢を乗り込むなど、奴隷たちに恐怖を刷り込もうとしました。

 

 不在地主化の進行は植民地の統治の質を下げたとも言われますが、経営史的に見ると所有と経営の分離の初期の形態と見ることも可能です。

 代理人からは年次概況書が地主のもとに送られ、この書類の作成のために会計の専門家が雇われることもありました。場合によっては、半年に1回、4半期ごとに1回書類による報告を求める地主もおり、本国と植民地の距離を書類とそこに書かれた数字によって埋めようとしたのです。

 

 農園主たちも、より大きな収益を得るために帳簿をつけています。毎日の記録や作物の記録、奴隷の状況などが記入できるようになっており、これを見ながら農場の状況を把握しました。

 やがて、このようなプランテーション用の帳簿を売る業者も出てきます。

 

 こうした帳簿は北部の工場でもつくられていましたが、勤務記録については働き手がすぐ辞めるために記入される名前は月ごとに違いました。

 当時は多くの工場が日給制だったため、勤務記録時間などもつけていましたが、悩みは離職率の高さです。19世紀前半のニューヨーク市郊外の大規模な工場では、2ヶ月で30%近い従業員が辞めています。

 これに対して奴隷は離職の心配がありませんでした。そのために農園主たちは離職の心配なしに生産性の向上のためにさまざまなことを試すことができました。

 

 ただし、帳簿の中の詳細な記録は奴隷廃止論者にも利用されました。

 奴隷の神通が減少していく記録や、「2時に39回きつく打ち、それから塩を塗った」(96p)といった記録が、奴隷制の残酷さを可視化させたのです。

 

 帳簿を使った奴隷の管理はアメリカ南部の綿花のプランテーションでも行われていました。19世紀半ばになると、トマス・アフレックという人物が、奴隷の人数に応じた『綿花プランテーションの記録と会計帳簿』という帳簿をつくって販売しています。

 この帳簿を使えば、特に簿記などの知識がなくても費用や収益が計算できました。

 

 南部の農園主たちはこうした帳簿を使って奴隷1人あたりの綿花の収穫量を把握し、それを増やそうとしました。

 農園主たちは奴隷たちに競争をさせてグループで1番のものに褒美を与えたり、あるいは何回か競争をさせて個々の収穫量を把握し、達成できないときには罰を与えるといった手法もとられました。

 収穫の計量の時は奴隷たちにとっては恐怖の瞬間で、足りなければ鞭で打たれましたし、多すぎれば次回からのノルマが引き上げられるということがありました。

 

 1801〜62年にかけて奴隷1人あたりの1日の平均収穫量は年2.3%で増加し、約4倍になりました(120p)。

 この要因として、経済学者は綿花の品種改良、歴史学者は奴隷に対する暴力の激化をそれぞれ強調していますが、帳簿のデータを使った管理もその1つだったと考えられます。

 農園主たちは収穫量だけではなく、肥料のやり方、綿花と食料となるトウモロコシの種まきや収穫の時期をデータから探りました。

 さらに奴隷たちを収穫以外の作業に効率よく割り振ることでプランテーション全体の効率を高めようとしました。セントラルキッチン方式を採用し、収穫時に奴隷が料理する手間を省こうとした例もあります。

 

 働き手の作業量を把握してそれを最大限に引き出すことが科学的管理の基本ですが、プランテーションではまさしくそうしたことが行われていました。

 プランテーションでは、「プライムハンド(優れた働き手)」は12エーカー分の綿花畑の畝を立て、7から10エーカーにわたって種を蒔くという形で把握され。これを元に全体の作業が組み立てられました。

 

 1856年、ミシシッピ州アダムズ郡のケインブレイクプランテーションでは12人の子どもが生まれましたが、農園主は1歳近くになった子どもに75ドルという評価額を書き入れ、他の子どもには25ドルという評価額を書き入れました。

 このように奴隷は資産として常に評価されていました。ケインブレイクプランテーションの農園主は、もっとも高い価値のトマスに1200ドル、26歳のアーロンに800ドル、5歳のエリザに175ドル、高齢の者は0ドルといった具合に、帳簿に値段を書き入れています(143−145p)。

 

 一般的に奴隷は、子どもは成長にするに従って価値が増え、高齢者は価値が下がっていきます。若者が多ければ、その資産は自然に増えていくのです。

 プランテーションでは、このように奴隷に対する減価償却が行われていました。奴隷は鉄道の車両や線路と同じように、長期に渡って使用する固定資産と捉えられていたのです。

 このため、奴隷にたくさん出産させるために、授乳期間を短くするように命じる農園主もいました。

 

 また、奴隷の値段をつけた一覧は銀行から融資を受ける際にも活用され、奴隷を担保にした借り入れも行われており、南部では植民地時代と19世紀の担保ローンの約40%は奴隷を担保にしていたという研究もあります。

 奴隷は高齢になると値が下がりますが、逃亡を企てた奴隷の価格も下がりました。農園主が逃亡に手を貸した人物に下落した価格の補償を求める訴訟も起こってます。

 また、鞭で打たれた跡が多い奴隷の価格も下げられたので、のちには傷が残らないように奴隷を打つ器具(「フロッピング・パドル」)も開発されました。

 

 1860年リンカーンは演説の中でアメリカの人口の6人に1人は奴隷であり、「控えめに見積もっても、20億ドルはくだらないだろう」(179p)と述べ、この資産価値が政治に大きな影響を与えているとしましたが、実際には31億〜36億ドルほどはあったと見積もられています。

 ジョージア州は合衆国脱退の理由に、この巨額の資産の非合法化をあげています。

 

 この資産は南北戦争によって解放されました。南部の農園主は働き手と契約して賃金を払わなければならなくなったのです。

 しかし、しだいに農園主たちは元奴隷たちを支配するような契約を結んでいきます。また、南部の州も、元奴隷が放浪を禁止したり、よそで土地を借りることを規制したり、契約期間中にやめたものから最高1年分の賃金を没収できるものとして、この支配を後押しします。

 契約書の読めない元奴隷に対して、病気で休めば1日25セント、それ以外の理由なら1ドルを差し引くといった契約が結ばれ、借金漬けになった元奴隷も少なくありませんでした。

 

 ただし、例えば女性や子どもを今までのように働かせることは難しくなりました。

 そこで農園主たちは移民を募りました。まずはドイツやアイルランドから移民が呼び寄せられましたが劣悪な条件のもとで定着せず、年季奉公人として定着したのは中国人でした。彼らはアメリカだけでなく、ジャマイカなどの西インド諸島にも送られています。

 さらに囚人貸出制度を利用して囚人を働かせたケースもありました。囚人はかつての奴隷と同じように仕事が終わらなければ鞭で打たれたといいます。

 

 このように奴隷に代わる労働力が探し求められたのですが、奴隷がいたときのような生産性を高めるための分析は行われなくなります。解放奴隷の生活も安定せず、南部は低賃金の地域として残り続けることになります。

 

 このように、本書は奴隷制度の上に成り立っていたプランテーションが決して「時代遅れの遺物」ではなく、現代の企業経営にも通じる「科学的」なものだったことを示しています。

 現在の日本においても「生産性の向上」は常に追求され続けており、人口が減少していく中で、この「生産性の向上」こそが日本の生き残る道だとされていますが、「生産性」という数字だけを見ていったときに行き着く果てが本書には描かれています。

 そういった意味でも幅広く読まれるべき本と言えるかもしれません。