柴崎友香『わたしがいなかった街で』

 『寝ても覚めても』が「おおっ」と思わせる小説だったので、『きょうのできごと』を読み、さらにこの『わたしがいなかった街で』も読んでみたのですが、この『わたしがいなかった街で』も「おおっ」と思わせる小説ですね。

 

 主人公の平尾砂羽は大阪出身の36歳で、最近離婚して東京の墨田区から世田谷区の若林に引っ越してきます。物流関係の会社で契約社員をしており、とりたてて打ち込んでいることなどはありませんが、戦争関係のドキュメンタリーを見るのがやめられません。

 実は砂羽の祖父は1945年の6月まで広島でコックをしており、仕事を辞めていなければおそらく原爆の犠牲になったはずでした。そうしたら砂羽は存在していなかったのです。

 そうしたこともあって、砂羽は戦時中の出来事に興味を持ち、SF作家でもあった海野十三の『海野十三敗戦日記』を読みふけっています。他にも終戦前日の8月14日に行われた空襲の犠牲者のことなども考えています。

 

 こうした設定がわかると、「わたしがいなかった街で」というタイトルは、「広島で祖父が原爆の犠牲になっていたら今のわたしはいなかった」ということであり、「サラエヴォでもアフガニスタンでもイラクでも「わたしがいなかった街」で戦争が行われ、今もどこかで続いているということを示しているのだなと予想がつきます。

 ただし、この「戦争がわたしという存在を奪っていたかもしれない/奪うかもしれない」という想像力は比較的陳腐なものですよね。

 実際、主人公の行動や話は友人の有子の父から「つまらない」とたしなめられています。

 

 描写と会話がうまいので読ませはしますが、この小説の半ばくらいまではやや凡庸さを感じさせるような展開です。

 『寝ても覚めても』の主人公の朝子と同じく、本作の主人公の砂羽も主体性がなく、読みながらイライラする人もいるでしょう。

 

 ところが、この小説は中盤以降でやや不思議な書きぶりになります。

 主人公が昔通っていたカメラ教室で一緒になったクズイという男の妹の夏の視点から話が挟み込まれるようになるのです。

 最初は、砂羽がカメラ教室で一緒になり今でも連絡をとっている中井から聞いた話として夏が登場します。

 この中井という男は非常に人懐っこい男で、何事も波風を立てずに過ごそうとする砂羽と対象的な人物として描かれています。その中井が一度だけクズイの家に行ったときにいたあった妹に再会し、そのことを砂羽に伝えます。しかも、再会と言っても「クズイ」という名前を耳にして、珍しい名前だから聞いてみたらそうだったというかなり強引な出会い方なのですが、ここから紗和は中井からクズイが外国に行ったまま行方をくらましていることなどを聞きます。

 最初の登場の時点では、葛井夏という人物はクズイの謎について何かを語ってくれる人物として出てきたという印象です。

 

 ところが、途中から葛井夏視点の話が始まり、夏の内面が語られ、砂羽や中井とはまったく関係のないところでの夏の行動が描かれます。

 そして最後の方では、夏は中井の人懐っこさを内面化したような行動を取り始め、積極的に人に関わるようになるのですが、このあたりになると夏がもうひとりの主人公のような形でせり出してきた意味と、「わたしがいなかった街で」というタイトルの意味が改めてわかってきます。

 『寝ても覚めても』は「どんでん返し」の小説でしたが、個人的にはこの『わたしがいなかった街で』も「どんでん返し」の小説だと思いました。

 とても面白かったです。