出版社は飛鳥新社で400ページ超えの本にもかかわらず定価が2273円+税で、みすず書房とかの本を買い慣れている人には「???」という感じなのですが、決して怪しい本ではありませんし、35歳の若さでオックスフォード大学の正教授になったという著者が、現代の政治がうまくいかない理由を実証と理論の両面から教えてくれる非常にためになる本です。
監訳者は『大阪 大都市は国家を超えるか』や『分裂と統合の日本政治』の砂原庸介ですが、砂原庸介・稗田健志・多湖淳の教科書『政治学の第一歩』と同じように、本書も集合行為論をキーにさまざまな問題が論じられており、具体的なテーマを通じて政治学の理論も学べる形になっています。
目次は以下の通り。
第1部 民主主義―「民意」などというものは存在しない
第2部 平等―権利の平等と結果の平等は互いを損なう
第3部 連帯―私たちが連帯を気にするのは、自分に必要なときだけ
第4部 セキュリティ―圧制のリスクを冒さずに無政府状態を脱することはできない
第5部 繁栄―さしあたり私たちを豊かにするものは、長い目で見れば私たちを貧しくする
著者は本書で「政治学」ではなく「政治経済学」という言葉を使っています。
「政治学」については対象が政治という以外に何か共通の方法論があるのか? という問題があるのですが、「政治経済学者は、利己的な個人の単純なモデルから始め、それらの個人がどのように相互作用し、互いを制約し合うかを見ていく」(18p)とのことで、経済学に近いスタンスをとっていることがわかります。
それなら経済学でいいじゃないかと考える人もいるかも知れませんが、ここで問題になるのが集合行為問題です。
本書の「はじめに」ではイギリスとアイスランドの間の「タラ戦争」がとり上げられています。海には私的な所有権が及びません。そこで漁業資源が獲ったもの勝ちになりやすく、いわゆる「共有地の悲劇」が起きます。
そこで強制力を持った協定のようなものが必要であり、そこに「政治」が登場するというわけです。
しかし、多くの人が納得する決定というのはなかなか難しいことです。そこに焦点を合わせたのが第1部です。
民主主義では多数の意思が尊重されますが、選択肢が3つ以上になるとカオスが生まれる可能性があります。イギリスのBrexitでは、議員たちが「EUとの協定を結んでの離脱」「強引な離脱」「新たな国民投票」の三者に分かれて適切な決定ができずにメイ首相が辞任に追い込まれました。
これは「コンドルセのパラドクス」として知られているもので、また、20世紀になってケネス・アローが「不可能性定理」という形で民主的な決定に必要だと思われる要件を十分に満たす決定方法がないことを証明しました。
これを防ぐために順位をつけて投票するやり方や、投票のたびに最下位の選択肢を除外するやり方などが考えられますが、政治家たちがそうした手法を承認するとは限りません。実際にBrexitの際には著者らがこうした方法を提案したものの議員がそれを受け入れることはありませんでした。
こうした中で、今まで民主主義国の政治がそれなりに上手くいっていたように思えるのは「左」と「右」の一元的な対立軸があったからです。
例えば、一般的に富裕層は税金や公共の支出を低く抑えることを望み、貧困層は高くすることを望むと考えられます。このような「単峰性の選好」であれば、カオスは発生しないわけです。
ここからアンソニー・ダウンズは政党の政策も中央に集まってくると考えました。「左」であっても「右」であっても真ん中あたりの有権者を獲得することが勝負の鍵になるからです。実際、90〜00年代にはこの傾向があり、アメリカのクリントン政権やイギリスのブレア政権などは真ん中を取りに来た政権と言えるかもしれません。
ところが、現在の政治では「分断」がキーワードになっています。
この要因としては、政治家が活動するためには投票をする有権者だけではなく、その活動を支える熱心な支持者が必要であり、はっきりとしたイデオロギーを持っている人ほど熱心に活動するというものがあります。
また、予備選挙が行われるところでは一般の有権者よりも偏った候補が選ばれる可能性が高くなります。
さらに政治資金も重要で、多くの資金を提供する人々が政治家を自らの利益に沿う方向に引っ張っていくことも可能です。
こうした中で、アメリカなどでは党派のアイデンティティが人々の自己イメージを規定するようになっており、敗者が負けを認めずに民主主義が危機に陥るということになりかねません。
では、どうすれば民主主義の危機を回避できるのか?
本書で特効薬が示されているわけではありませんが、台湾のオードリー・タンが開発した返信のできないネット上の意見表明のシステム(返信できないことで荒らし行為へのエスカレートを防げる)や予備選挙の廃止、義務投票制(オーストラリアでは貧困層の投票率が上がり労働党の得票が上がった)、政治的起業家によるリフレーミング、比例代表制の導入(不安定にはなるがさまざまな政策や政府支出に関心が払われるようになる)などをあげています。
第2部のテーマは平等です。
社会全体で見ると金持ちよりも貧乏人のほうが多いので、民主主義になると富裕層の財産が脅かされるようにも思えますが、実際にはそうなりません。ロシアの大富豪が殺されたり投獄されたりするのを見れば、むしろ民主主義国の方が金持ちの財産を守っていると言えるでしょう。
それでも、所得の再分配によってフィンランド、フランス、ベルギーなどでは格差を40%以上縮小させています。一方、アメリカ、韓国、イスラエル、スイスでは約20%しか縮小させていません。この違いは政府の役割です。
平等については、自由の平等と結果の平等という2つの考えがあり、国や時代によってどちらを重視するかは変わってきました。
1980年代にアメリカでレーガンが、イギリスでサッチャーが登場するとこれらの国では結果の平等を重視する考えは退潮していきます。
この根底には、富裕層に課税しすぎると彼らが勤労意欲を失うという考えもあるのですが、アメリカのように権力が分立していて議会の少数派が法案を阻止できる国では一度下がった税率をなかなか上げることができないラチェット効果が発生してしまい、これが格差の拡大に拍車をかけています。
また、北欧などの国を見れば、必ずしも高税率が勤労意欲を減退させるものではないということもわかります。
格差の拡大に対して、サエズやズックマンは億万長者の資産への課税を主張しています(エマニュエル・サエズ/ガブリエル・ズックマン『つくられた格差』も参照)。
しかし、ラリー・サマーズはこの提案に反対しています。実際に影響力を行使しているのは億万長者よりも下の階層かもしれず、こうした政策は税逃れのためのロビー活動を活発化させるかもしれません。
また、福祉が充実している福祉国家では資産格差が開きやすいことを指摘し(老後のために資産をつくる必要がない)、所得への課税のほうが重要だといいます。さらに、資産への課税は潜在的に投資への課税になる可能性があります。
億万長者は税を逃れるために外国へ移住するかもしれません。そこでピケティはグローバルな規模の富裕税を提唱していますが、まさに集合行為問題となり、これを実現させるのは難しいでしょう(低い税率で富裕層を誘致する国が出ることを防ぐことは難しい)。
富裕税に関しては、一般論として支持する人が多くても具体的な形をとると反対する人が多いという問題があります。
例えば、「アメリカ人の52パーセントが金持ちの税金は少なすぎると考える一方、富裕層の税金負担をさらに減らすブッシュ減税に反対と答えた人は20パーセント未満だった」(157p)そうです。
具体的な形になると「自分が税金を取られすぎている」という思いに支配する傾向があるようなのです。
さらに多くの人のメインとなる財産が住宅だというのも、相続税が不人気になる要因になっています。
格差を縮小させるための方策として、本書ではロボット税、事前分配、教育への投資などが紹介されています。
教育のコストを下げることは格差縮小のために必要だと言われていますが、高等教育に力を入れることは大卒にふさわしい職につけない「ミスマッチ」を生む可能性もあります。そして、この「ミスマッチ」な卒業生は民主主義への満足度が低く、政治家に対して不信感を抱き、過激な右派政党に投票する可能性が高いといいます。
また、能力主義的な主張は学歴競争の勝者たちの自己正当化と自己弁護に陥ったしまい、再分配を妨げるかもしれません。
著者は、ドイツを例に、経済的なスキルアップの道は大学教育に限らず、青少年の頃からの職業教育や、労働者の賃金が均一になる仕組みなどをあげています(ただし、著者もこのドイツの仕組みが簡単に他国に移植できないことは認識している)。
第3部はのテーマは連帯です。
この第3部の扉には「私たちが連帯を気にするのは、自分に必要なときだけ」という言葉が掲げられています。
最初にとり上げられているのはオバマケアについてのものですが、客観的にみれば「ひどい」としか言いようのないアメリカの医療制度の改革でも、保険への加入を義務付けようとすると健康な人々から反発が上がります。将来、自分が医療の世話になるのはほぼ確実にもかかわらずです。
病気になったり働けなくなったりしたときの生活の保障は、かつては家族に求めるしかありませんでした。それが、20世紀になって福祉国家がつくられ、先進国では生活の保障を国に求めることができるようになっています。
しかし、国によってどの程度の福祉を受けられるのかというのは先進国の間でも大きな違いがありますし、国境を越えた保障は進んでいません。
公的な連帯の発展は近代国家の発展と重なります。近代国家は戦争をする能力を拡大するために巨大化し、それとともに国民の日常生活に関与して、秩序や国民の教育や健康に責任を負うようになりました。
そして、19世紀後半から社会保障制度が整備され始め、世界大戦と世界恐慌によって、増税と社会保障の拡大が行われていくことになります。
それでも連帯は簡単に維持できるものではありません。
現役世代は将来給付を受けるにもかかわらず貧困層への給付は不当だと考えがちですし、アメリカではレーガンが「福祉の女王」という黒人女性への当てこすりを行ったこともあって、福祉制度が人種のレンズで見られるようになってしまっています。
民族の多様性は連帯への支出を減らすことにつながっているという研究もあり、自分たちとは違う集団との連帯にはより困難が伴います。
こうした中で注目を集めているのがユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)です。
これは左派の反貧困活動家からリバタリアン右派のシリコンバレーの大物まで、おおよそありえないような連合を生み出しているアイディアです。
UBIはすべての人に給付されるために「あいつだけがもらっている」といった考えを生み出すことがなく、また、本当に貧しい人を政府が選別する必要もありません。
ただし、その財源は膨大なものになりますし、歴史のある福祉国家に比べて、UBIがずっと続く保証はありません。
そうしたこともあって著者はUBIよりも普遍主義の福祉国家を推しています。貧困層だけではなく中産階級が手厚い福祉を受けられるような福祉国家が望ましいというのです。
一方、アメリカで発達しているのは医療費や教育費などのさまざまな控除です。しかし、こうした控除の恩恵を受けるのはそれなりの税金を払っている富裕層であり、また当然ながら福祉国家の姿は見えにくくなります。
ただし、著者は普遍主義が難しい分野があることも認めています。代表的なのはエリートの公立高等教育で、まず希望者を全員入学されることはできませんし、すべての学生がエリート養成機関に進んだら、そこから生み出されるのはエリートではありません。
単純な能力主義に陥らないためアメリカではアファーマティブ・アクションが行われてきましたが、これは保守派の反対を受けて難しくなってきています。
そこでカリフォルニアの州立大学(UC)では、カリフォルニア州の全高校の成績上位9%の学生が、必ずしも第一志望でなくても、システム内の大学への入学が認められるという方針を導入しました。同時に各高校で上位9%にも入学を認めるという政策(地域を考慮した入学資格(ELC))も打ち出しました。
ELCで入学する生徒は入学者が少ない民族集団のものが多く、伝統的にエリート大学への進学率が低かった学校の生徒にチャンスを広げることに成功しました。
もちろん、大学進学のためにより学力が低い学区に引っ越すというハックもありますが、それはそれで悪くないことなのかもしれません(学区ごとの学力差が平準化される)。
第4部のテーマはセキュリティです。
この第4部はコロナ禍におけるロックダウンの話から始まっています。日本では「自粛」で押し切られましたが、各国では政府が強制的に人々の活動を制限しました。
このように国家は安全のために人々の自由を制限することがありますが、そのさじ加減はなかなか難しいものです。
ホッブズは国家がなければ「万人の万人に対する闘争」が起こると考え、国家がない状況よりも圧制のほうがましだと考えました。
マンサー・オルソンも統治者がもたらす安定を「定住する盗賊」の出現だとしましたが、「放浪する盗賊」がいる世界よりはましだと考えています。
また、一定のルールを強制する存在があってこそ、私たちは見知らぬ人とも取引ができます。
とは言っても絶対王政に対する警戒心は強く、イギリスやアメリカではなかなか警察組織が発展しなかったという歴史もありました。また、警察や刑務所も腐敗していることが多く、それでも警察の発展は我々のセキュリティを大いに高めることになります。
ただし、私たちの守護者をどう抑制するのかという問題はいまだに未解決の問題です。
BLM運動が盛り上がる前、2014年にミズーリ州ファーガソン市で10代のアフリカ系アメリカ人が白人警察官に射殺される事件が起きました。この調査の中でファーガソン市警は市政府や地元の裁判所と共謀して実質的なみかじめ料を徴収していたことが明らかになりました。
司法省の報告書は、「多くの警官が一部の住人、特にファーガソンのアフリカ系アメリカ人が大き地域の住民を、保護すべき有権者ではなく潜在的な犯罪者や収入源と見ていた」(268p)と指摘しています。
無政府状態はもちろん問題で、ほぼ無政府状態のソマリアは隣国のエチオピアなどに比べれば危険なわけですが、シアド・バーレの独裁政権時代に比べれば、平均寿命も乳幼児死亡率も改善しているといいます。
警察の暴走を防ぐテクノロジーとしてボディカメラの装着があります。警官の行動を常に録画することで、証拠の収集とともに警官が行動を自制することが期待できます。
2012年にカリフォリニア州リアルトで行われ実験では、カメラを装着したシフトでは暴力を振るう件数は半分になったといいます。また、装着を経験した警官は装着していないときの暴力も減ったといいます。
ただし、BLM運動が燃え上がるきっかけとなったジョージ・フロイド殺害事件では、同僚の警官はボディカメラを装着していました。
また、テクノロジーが逆に市民を抑圧する手段に使われる可能性も十分にあるでしょう。
セキュリティには当然、外国からの侵略を防ぐことも含まれますが、現在のところ、軍事同盟や核抑止などに頼っているような状況です。
第5部のテーマは繁栄です。
政治は経済成長の鍵にもなります。イギリスでは名誉革命を機に国王の権力が制限され、それが国家の財政規模を拡大させました。議会が君主の借入条件を恣意的に変更できない法律をつくったからです。
また、経済成長には長期的な視点が必要です。手にした富を戦争や無駄なイベントなどで消費することも可能ですし、将来の成長のための投資に回すこともできます。
ここで、再び登場するのが集合行為問題です。長期的には投資が国を豊かにすることがわかっていても、個人は今の時点での減税を望むかもしれませんし、二酸化炭素の排出削減が将来のために必要だと思っていても、自分だけはエネルギーを使い続けて大丈夫だと考えるかもしれません。あるいは理論的には自由貿易が繁栄をもたらすとわかっていても保護貿易が支持されます。
この集合行為問題の解決策として、オルソンはただ乗りをしようとするメンバーへの制裁や集団に貢献した者への報酬をあげていますが、同時にだれがそれを監視し制裁や報酬を与えるのか? という問題が残るといいます。
オルソンは集団が目標を達成するためには少なくとも1人のメンバーが十分に大きな資金を持っているか裕福でなければならないと考えました。例えば、NATOはアメリカがこの同盟から大きな利益を得ていたために、他のメンバーはただ乗りすることができました。
個人よりも政府のほうが長期的な視点に立てそうですが、民主主義国家において選挙で選ばれる政治家は自分の任期を考えて短期的な視点で行動するかもしれません。
本書では石油からの収益を長期的に管理するノルウェーの仕組みなどが紹介されていますが、長期的な視点を維持し続けるには相当な工夫が必要になります。
「おわりに」で著者は「「なぜ政治は失敗するのか」に答えると、政治が失敗するのは政治がなくてもやっていけると私たちが思い込んでいるときだ」(367p)と述べています。
集合行為問題は政治によって必ず解決できるわけではありませんが、政治がなければ解決できないのです。テクノロジーも市場もこれらの問題を解決できるわけではありません。
政治は常にうまくいくわけではありませんが、常に失敗するわけでもないのです。
このように本書は集合行為問題をキーに政治が直面するさまざまな課題を明らかにしています。
このまとめでは紹介しきれませんでしたが、非常に豊富な事例がとり上げられており、例えばアセモグル&ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』 や『自由の命運』などを思い起こさせる感じになっています。
「政治」というものを考え直すためにも良い1冊だと言えるでしょう。価格からしても非常にお買い得。