日本国憲法の制定過程については、「押し付けか否か」という議論がずっとあり、近年でも「9条幣原発案説」(9条を提案したのが幣原喜重郎だという説)をめぐり議論があり、笠原十九司が幣原発案説を主張しているものの、多くの研究者がこれを否定する状況となっています(例えば、熊本史雄『幣原喜重郎』(中公新書)など)。
この「9条幣原発案説」の背景には、現在の憲法が押し付けでなく日本人の望んだものだったということを示したい欲望のようなものがあると思うのですが、実は憲法については当時9条と並んで、あるいはそれ以上に重要だった問題があります。それが天皇の地位、「国体」の問題です。
日本はポツダム宣言を受諾するか否かの際にも、最後まで「国体」の問題にこだわっており、国体が護持できると考えたからこそ、ポツダム宣言の受諾に踏み切ったわけです。
ところが、現在の憲法では天皇の政治的な権力はなくなり、「象徴」という形になっています。天皇という存在は残りましたが、戦前の「国体」とは随分と違うものが出来上がりました。
この大きな変化については昭和天皇が受け入れた、「聖断」を下したということでそれほど問題として蒸し返されることはないですが、本書は、その「聖断」はフィクションであり、昭和天皇は憲法の規定に対してさまざまな抵抗をしていたということを明らかにしています。
新たな史料を駆使ししながら、通説を覆していく筆致はミステリー小説を読むような感じで非常に面白く、また、そこで明らかになった動きは、占領史、戦後史の書き換えを迫るものです。刺激的、かつ重要な本です。
目次は以下の通り。
第一章 「第三の聖断」は存在したか?
第二章 日本型立憲君主制の模索―内大臣府案の政治的意義
第三章 天皇と国民主権の調和―東京帝国大学憲法研究委員会
第四章 「第三の聖断」と異なる「希望」発言―枢密院での審議と貴族院を中心とした非公式会合
第五章 国民主権の明示―衆議院における「自由な審議」
第六章 元首を目指して―貴族院の闘い
第七章 解釈による元首化―模索する昭和天皇
終章 戦後の終わり
1946年にGHQから憲法草案(マッカーサー草案)が提示されると、これに対して、昭和天皇が「やむを得ない」趣旨の発言をし、象徴天皇制の受け入れが決まったと言われています。
これについては、吉田茂の『回想十年』にもこのような記述がありますし、宮内庁が編纂した『昭和天皇実録』でも採用されています。ポツダム宣言受諾時の2回の聖断に続く「第三の聖断」と呼ばれることもあります。
この「聖断」について本書は疑義を呈します。
まず、この聖断が行われた日付については2月22日説と3月5日説がありますが、著者は2月22日説に関してはスケジュール的に流れに当てはまらず、3月5日についても「聖断」と言えるような積極的なものではなく、消極的な受容に過ぎなかったと考えています。
「第三の聖断」は、のちに幣原がアピールするようになったもので、実際にはそのような積極的な決断はなかったのではないか? というのです。
この時期、幣原はGHQ草案の第1条の外務省の仮訳の「人民の主権意思」を「国民至高の総意」に変更するように主張していますが、幣原ははっきりと国民主権を明記することに難色を示した昭和天皇の意を受けて、こうした変更を提案したとも考えられるのです。
実は憲法改正については宮中でもその必要性を認識しており、近衛文麿や佐々木惣一京都帝国大学教授らによる内大臣府案がつくられていました。第2章ではこの内大臣府案について検討しています。
内大臣府案については、近衛文麿がマッカーサーとの会見でも持ちかけられてやる気を出したものの、戦犯指定されることとなった近衞が自殺したためにストップした、くらいのイメージの人が多いかと思いますが、憲法改正に消極的だった幣原首相の対して、宮中から近衛に対して憲法草案作成のはたらきかけがあったといいます。
こうしたこともあって近衛がGHQから梯子を外されたあとも、佐々木らは憲法についての検討を続けており、45年11月24日には、佐々木が昭和天皇に対して「君民共治」の理念に基づいた方針を報告しています。
この内大臣府案はGHQのアチソンとも連絡を取りながら作成されており、のちのその案をGHQからひっくり返される松本案よりも当時の政治情勢に合った形で作成されているとも言えます。
一方、幣原内閣は12月5日の予算委員会で内大臣府案を参考にするつもりは一切ないと答えるなど、これを無視する姿勢をとりました。
45年11月26日に参内した幣原首相に対して、46年1月7日には松本烝治国務大臣に対して、昭和天皇は内大臣府案を手渡していますが、幣原も松本もこれを無視して作業を進めます。
昭和天皇は「君民共治」の方向性を望みながら、松本らは天皇の統治権については変更を加えないというねじれが生じていたのです。
松本がGHQからよく思われていなかったのは、46年1月に松本がGHQから公職追放該当とされたことからもうかがわれます。幣原が憲法改正に不可欠として例外要請を行い、その職にとどまりましたが、最終的に松本は6月24日に議員辞職願書を提出し、公職追放されています。
46年4月の総選挙で鳩山一郎率いる自由党が第一党となったものの、鳩山が公職追放され、代わって吉田茂が首相となりました。
この時期は公職追放の嵐が吹いており、それはGHQによってかなり恣意的に運用されていました。そのあたりを掘り下げているのが第3章です。
東京帝国大学の憲法学の教授であった宮沢俊義は、保守的な案を作っていた松本委員会に参加しながら、GHQ草案や日本側の憲法改正草案要綱ができると、46年5月には一転して「八月革命説」を発表するなど態度を一変させます。
宮沢は戦時中には戦意高揚を促す文章を書いており、公職追放に引っかかる可能性は十分にありました。宮沢の「変節」の背景には公職追放の恐怖があったと思われます。
本章では、この宮沢の動きや、南原総長の発案で宮沢を委員長として46年2月14日に発足した東京帝国大学憲法研究委員会の動きなどを追っています。
日本国憲法は帝国議会で審議されることになりますが、その前に枢密院や貴族院で非公式の会合が開かれました。占領下において、公式の会議の記録はGHQに英訳して提出しなければならず、GHQに言及した部分は削除されました。それゆえに忌憚のない意見を交換するためには非公式の会合が必要だったのです。
第4章では、この非公式会合の様子を見ていきます。
枢密院でも貴族院でも議論の焦点となったのは天皇の地位でした。「国体は護持されたのか?」ということが問題になったのです。
枢密院の議論では、政府は答弁の中で、国民主権ではあるものの、国民の中には天皇も含まれているという「君民一致」の考えを披露しています。
また、松本国務相は、この憲法については実際のところ議会による修正は不可能だという認識も示しています。
貴族院や衆議院と貴族院の有志の間でも会議が開かれますが、46年6月7日の有志の会議では馬場恒吾から「陛下はKing in Parliamentを希望して居られる」(107p)という発言がなされています。
この「King in Parliament」とは、イギリスの政治体制を説明するときに用いられるもので、イギリスの政治体制は国民主権ではなく、「King in Parliament(議会に於ける王)が主権者」とも言われていました。
もし、46年の2月下旬や3月上旬に昭和天皇の「第三の聖断」が行われているならば、この昭和天皇の希望は少しおかしな感じがします。「King in Parliament」という表現には、「象徴」より実質的な政治的権力を持つ意味があると考えられるからです。
昭和天皇は形式的であっても「元首」という地位を希望し、「国民主権」ではなく「King in Parliament」のような地位を希望していたのではないかと推測されるのです。
46年6月20日に第90回帝国議会の開院式が行われ、同日、憲法改正案が衆議院に提出されます。この衆議院での審議についてとり上げたのが第5章です。
憲法の審議については芦田均を委員長とする特別委員会がつくられ、そこで審議が行われます。
ここでいくつかの修正がなされるのですが、この頃のGHQは必要不可欠と考えられていた法案は国会の会期末に時計を止めてでも成立させるという強引なことをやっており、憲法に関しても絶対に譲れない条文は修正を許さず、こだわりのない条文に関しては修正を許すというスタンスだったと考えられます。
憲法の修正というと25条の生存規定の挿入が有名です。社会党の代議士の鈴木義男と森戸辰男が挿入し、これをもって「押し付け憲法論」への反証とする議論もあります。
しかし、一方で森戸は10年後の憲法改正条項を盛り込もうとしましたが、これは与党の責任者から止められたために提出を控えたといいます。また、鈴木もケーディスから天皇と戦争放棄に関すること以外ならば変えても良いといったことを言われています。
生存権の規定はGHQも許容するものであり、社会党としては功績となり、GHQにとっては「自由な審議」を行なった証拠と主張できる都合の良いものだったのです。
一方、第一条についてGHQは「象徴」という言葉を変更することを禁じていました。ただし、衆議院に提出された政府案の段階では「この地位は、日本国民の至高の総意に基く」という形になっていました。
6月25日の本会議で吉田首相は「国体は新憲法に依って毫も変更せられないのであります」(147p)と答弁しており、政府は昭和天皇の意向も察しながら、「国民主権」を明示せずに、「国体の護持」を解釈で可能にするような道を探っていました。
しかし、極東委員会が7月2日に「主権が国民(ピープル)にあることを認めるべきである」と要求することを決定したことで変更が入ります。
金森国務相は変更に抵抗を試みますが、ケーディスから「我々は天皇を軍法会議にかけることもできるし、証人に呼ぶこともできる」(149p)と独り言の言われ、これに屈することになります。
この他、本章では社会党、特に鈴木義男とGHQの「近さ」についても指摘があります。
第6章では貴族院での審議がとり上げられています。
貴族院では戦犯容疑者や公職追放により420名中178名が辞職しており、その欠員の補充のために南原繁、宮沢俊義、我妻栄、高柳賢三、高木八尺らの帝大教授陣でした。
このうち高木に関しては、戦前に侍従次長を務めた河合弥八が勅選議員と憲法改正案特別委員会委員へと押し込んだといいます。しかし、高木が委員会に入った頃には審議は終わりに近づいており、憲法案の修正はできませんでした。
また、佐々木惣一が「キング・イン・パーリアメント(King in Parliament)」という言葉を持ち出して、国民主権を明記する必要があるか質問していますが、すでにGHQの意向が示されている以上、この試みも挫折します。
この他、山田三良と高柳賢三によって、第7条5の国事行為の中の「大使及び公使の信任状を認証すること」を「任命すること」に書き換えることで天皇の「元首化」を図る動きもありましたが、金森国務相の反対などもあり、この修正も頓挫しています。
貴族院では文民条項が追加されましたが、これは極東委員会からの要請によるもので、高木がホイットニーと交渉した際、ホイットニーはこれは「デイレクテイブ(命令)」ではなく「サゼスチヨン(示唆)」だと言い張りましたが、これは日本側が自由のない状況で「自主的」にGHQの意向を汲まなければならなかった状況をよく示しています。
憲法制定後、昭和天皇は解釈による元首化を目指して模索しました。
もともと、マッカーサー・ノートには天皇に関して元首と書かれており、マッカーサー自身も日本国憲法施行直後の47年5月6日に天皇と日本の安全保障について会談しており、マッカーサーは昭和天皇を政治的なプレーヤーとして見ていました。
片山内閣が総辞職する際に天皇に拝謁したことについても、GSはこれを問題視しましたが、マッカーサーはこれを問題視する姿勢を見せませんでした。
芦田首相は昭和天皇に新憲法によって各大臣が内奏しないことを述べましたが、昭和天皇の希望で首相の内奏は継続されることになりました。この背景にも内奏を容認したマッカーサーの意向があったと考えられます。
吉田茂も内奏を継続しましたが、一方で昭和天皇とGHQの連絡役であった寺崎英成を更迭しています。
この寺崎の更迭に関しては、二重外交の防止や昭和天皇の出過ぎた国政関与を防ぐためといった見方がされていますが、著者は「これはマッカーサーの発言だ」として場を押し切ることもあった吉田の政治スタイルにとって、マッカーサーの真意を確認できる寺崎という存在が邪魔だったからだと推測しています。
寺崎を失った昭和天皇は宮内庁長官となった田島道治を通じて情報収集などを行おうとします。田島の残した『拝謁記』には、憲法の解釈を通じてもう少し政治や外交に関与できないかと模索する昭和天皇の姿が描かれています。
1953年3月には「旧憲法でもどうかと思ふが、新憲法ではとても出来ないが、私が思ふに、真に国家の前途を憂ふるなら保守は大道団結してやるべきで。何か私が出来ればと思つて」(200p)と述べるなど、新憲法では出来ないと認識しつつも、政治への介入を模索しています。
また、「元首」という地位を確立させいようとする姿勢もあり、例えば、51年2月15日に警察予備隊が話題になると、その中心は誰になるかという田島の問いに対して、「それは元首象徴だらうネー」(204p)と応じています。
他にも駐留する米軍に対する振る舞いを気にしたり、大使や公使への対応も気にするなど、自らを「元首」として位置付けようという姿勢が目立ちます。
そして、これに対して田島が諌めるというのが『拝謁記』によく見られるやり取りです。
この元首化を求める昭和天皇の意向は長い時間をへて実現したとも言えます。
1973年6月に吉國一郎内閣法制局長が「天皇は現在の憲法のもとでも元首と言ってもいいのではないかというような考え方もあり得ると思います。要は元首の定義の問題いかんによるということでございます」(216p)と答弁しています。
これは増原事件を受けてのものですが、天皇の政治的発言を「あるべきはずのないもの」としつつ、天皇の元首化は進められたのです。
最後に本書では「自主的な憲法改正は可能だったのか?」という問題を検討しています。
本書の前半でも指摘されていたように、内大臣府案はGHQと連絡を取りながら検討が進められていましたが、松本案はGHQの意向を聞かない形で検討が進められました。その結果として幣原内閣はマッカーサーソプ案を突きつけられ、それを受け入れざるを得ない状況に追い込まれました。
これに対して昭和天皇は抵抗の姿勢を見せますが、幣原らにもそれを覆すことは不可能であり、その失敗を糊塗するためにも「聖断神話」が必要とされたのです。
もともと昭和天皇、特に敗戦から独立の時期にかけての昭和天皇については興味があり、戦前・戦中に政治や軍事の細かいことにまで口を出していた昭和天皇が、戦後になってもたびたび政治的発言をしていたのは知っていましたが、憲法そのものについても、ここまでその内容、運用に介入しようとしていたとは知りませんでした。本書は占領史、さらには戦後史の書き換えを迫る刺激的な本だと思います。
また、著者の前著である『語られざる占領下日本』に引き続き、改めて公職追放の威力や、それがこの時期の政治過程に深く刻印されていることも印象に残りました。
『語られざる占領下日本』の紹介はこちら
