R・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(東京創元社)

 Amazonに載っている紹介は以下のようなもの。

銀と、ふたつの言語における単語の意味のずれから生じる翻訳の魔法によって、大英帝国が世界の覇権を握る19世紀。英語とは大きく異なる言語を求めて広東(カントン)から連れてこられた中国人少年ロビンは、オックスフォード大学の王立翻訳研究所、通称バベルの新入生となり、言語のエキスパートになるための厳しい訓練を受ける。だが一方で、学内には大英帝国に叛旗を翻す秘密結社があった。言語の力を巡る本格ファンタジーネビュラ賞ローカス賞受賞作。

 

 ここからもわかるように本書は歴史改変ものであり、「銀工術」と呼ばれる特殊な力が支配する世界を描いた作品でもあります。

 銀工術とは、銀の棒の表面にある言葉を、その裏に別の言語でその翻訳となる言葉を刻み、その意味のズレによって不思議な力を生み出すというものです。本書は言葉や翻訳を巡る小説にもなっています。

 

 この銀工術のためには複数の言語に通じている人間が必要で、主人公のロビンもそのために中国から連れてこられた人間になります。

 基本的には白人男性の入学しか認めていないオックスフォード大学ですが、銀工術を扱う王立翻訳研究所だけは、有色人種や女性の入学も認められており、ロビンはそこでインドから来たラミー、白人女性のレティ、ハイチから来た女性のヴィクトワールと出会い、友情を深めていくことになります。この小説はほろ苦い青春小説としても読めます。

 

 そして、この『バベル』と言えば、ネビュラ賞ローカス賞を受賞しながら、もう1つのSFの代表的な賞であるヒューゴー賞では、「ノミネート資格なし」とされ、受賞を逃したことも報じられています。

 詳しくは以下の記事を見てほしいのですが、ヒューゴー賞の授賞式を含む世界SF大会ワールドコン)が2023年10月に中国の成都で開かれたわけですが、そこでは中国から見て好ましくない人物の作品は受賞しなかったのです。

diamond.jp

 

 この『バベル』の排除については、上記の記事で「アヘン戦争を題材にしたデビュー作『ポピー・ウォー』で、毛沢東を10代の女性に見立てて描いている」ことが理由の1つとして推測されています。

 一方、「今作『バベル』も、アジアの孤児院からイギリスに引き取られた子どもが、言語を媒介にした国際的スパイ訓練機関へと送り込まれるというあらすじで、中国にとってあまり気分の良いものではなかったようだと指摘されている」とされていますが、本書のストーリーは基本的には反植民地主義的を訴えており、主人公たちがアヘン戦争の阻止に動くなど、中国政府にとっては「正しいストーリー」になっているのではないかと思いました。

 

 また、ストーリーの後半では、有色人種の人間であっても、王立翻訳研究所にいる限りは安定した地位や収入が約束されており、植民地支配には目をつぶりつつ、個人として豊かな暮らしをすればいいのではないかという誘いが出てきますが、主人公たちがこれを断って反抗する道を選ぶところも中国政府的には「正しい」のではないかと感じました。

 

 現在でも多くの中国人学生が欧米の大学へ入学し、そこからそこでそのまま研究を続け、あるいはその国で仕事につく学生が多くいます。

 これは中国人に限らずのことで、欧米のトップ大学は世界中から才能を吸い上げているわけですが、これは欧米の大学や留学生個人にとってはいいことであっても、送り出した国からみれば貴重な人材の流出であります。

 この『バベル』で描かれていることは、現代のそうした問題に通じています。

 

 では、なぜこの『バベル』は中国で排除されたのか?

 R・F・クァンのデビュー作での毛沢東の扱いが全てなのかもしれませんが(未邦訳、未読なので判断できず)、個人的にはストーリー後半での、ロビンたちの闘争と労働運動の連帯を描いた部分が、民衆が集団になって行動することを嫌う中国政府の意向を受けてのものではないかと思いました。

 

 本書の銀工術を駆使したさまざまな発明は産業革命を重ねられており、銀工術が労働者の暮らしを悲惨にしたとされています。

 そこで実際の歴史と同じように、労働運動が立ち上がってきており、これがロビンたちの動きと重ねってくるわけです。

 この「連帯」が、現在の中国政府(あるいはその意向を忖度する者)にとっては、反植民地運動的な「正しさ」を上回る「リスク」を感じさせるものになっているのかもしれません。

 

 まあ、とにかく作品世界の構築の仕方が素晴らしい小説です。後半のドラマの部分については、構築した世界からするとやや不完全燃焼な部分もあるにはあるのですが、面白く読めますし、上記のようにさまざまな問題も提示しています。

 上下巻でお値段もそこそこ張りますが、十分にもとが取れる奥行きと面白さがあります。