ベン・ラーナー『トピーカ・スクール』(明庭社)

 9月の半ばからえらく忙しくてかなり細切れに読んだために、本書の複雑な構成やイメージのつながりなどを十分に咀嚼しながら読めたわけではないのですが、これは印象に残る小説でした。

 訳者は川野太郎で、明庭社というこの本が最初の出版になるのではないかという新しい出版社から刊行されています。

 

 ベン・ラーナーについては白水社から出た『10:04』を読んだことがあります。『10:04』は前半は比較的平板な私小説に見えながら、だんだんと現実への社会的な分析や記憶の捏造の問題などが重ねられていき、ずっしりとした読後感がありました。

 

 本書『トピーカ・スクール』も著者とその両親を題材にした私小説的な部分があり、自らの家族の歴史を振り返るような内容になっています。

 ただし、当然ながら『10:04』と同じくたんなる私小説ではないわけで、現在のアメリカ社会の分断の起源をたどるような内容になっています。

 

 まず、本書を通読して印象に残るのは主人公のアダムが高校時代に取り組んでいた競技ディベートの話でしょう。

 解説で白岩英樹も指摘していますが、ものすごいスピードで主張をたたみかける競技ディベートの世界は、対話というよりも一方的な言いっぱなしであり、現在にいたるアメリカの分断を助長したものともとれます。

 本書では「スプレッド」という言葉がたびたび登場しますが、競技ディベートでは圧倒的な情報量をたたみかける技法として「スプレッド」という言葉が使われており、これによって相手を沈黙させる、立ち往生させることがディベートの目的のようになっています。

 

 先日暗殺されたトランプ支持者のチャーリー・カークもディベートの名手であり、リベラル派の学生にも積極的に論争を挑む人物でした。

 しかし、競技ディベートはあくまでも観衆に自分の勝利を印象付けるために行われるものであり、何かを学んだり、お互いに歩み寄ったりするためのものではありません。また、自分の正しさについてひたすら補強し続けるような営みでもあります。

 こうした競技ディベートの世界が今のアメリカの対話のない世界につながっているというのは十分に納得できることです。

 

 ただし、個人的にはそれ以上に印象に残ったのがこの小説の冒頭とラストのシーンです。

 冒頭のシーンでは、ある夜、アダムが湖畔にある彼女の家に入っていくのですが、2階に上がってバスルームに入ったところで、そこが彼女の家ではないことに気づきます。

 この驚きと、なんとかして住人に気付かれないように家を出なければならないという緊迫感が非常にうまく描かれています。

 

 一方、ラストのシーンでは、アダムが娘を連れてICE(アメリカ合衆国移民関税執行局)のオフィスに抗議に行くシーンが描かれています。

 ICEというのがなんともタイムリーなわけですが(本書が刊行されたのは2019年でまだ第1次トランプ政権)、ここでアダムは社会運動としての抗議と、不安がる娘のケアの両方に対処しなければならなくなります。

 おそらく娘は、冒頭の他人の家に迷い込んだアダムのように場違いな場所にいることに戸惑っており、アダムは親としてこれにも対処する必要が出ています。

 

 このように本書の冒頭とラストでは、場違いな場所にきてしまった人物の戸惑いが描かれています。

 他にもアダムが両親の夫婦喧嘩の中に入っていってしまったところなど、本書では間違った場所にきてしまったシーンが非常に印象的で、うまく描かれています。

 これが現在の自分たちの「正しさ」を確信しているアメリカ人への著者なりの批評的なスタンスなのではないかと思いました。

 

 そして、本書は次のような文章で終わっています。

 僕は気恥ずかしかった、これまでもずっとそうだった、でもつとめて参加しようとした、小さな演説の、またゆっくり話す方法を学ぼうとしている人びとの一部であろうとした、このスプレッドのただなかで。(352p)

 

 この解釈が正しいのかはわかりませんが、今のアメリカに求められているのは、より多くの論点や、より強い言葉などではなくて。「ゆっくり話す」こと、そして、それを生むのが戸惑いなのだということを訴えているように思えました。