ダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』

 『グローバリゼーション・パラドクス』で、グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の三つのうち二つしか選び取ることができないとする考えを打ち出したトルコ生まれの経済学者の新著。

 タイトルからはトランプ政権誕生以降の貿易戦争を扱った本を想像しますが、それ以外にも発展途上国の経済成長の行方、経済学の変化、金融の問題などを扱っており、著者の一般読者に向けた時事的な論説を集めたものとなっています。

 

 目次は以下の通り。

第一章 より良いバランスを取り戻す
第二章 国家の仕組み
第三章 欧州の苦闘
第四章 仕事、産業化、民主主義
第五章 経済学者と経済モデル
第六章 経済学上のコンセンサスの危機
第七章 経済学者、政治、アイデア
第八章 政策イノベーションとしての経済学
第九章 何がうまくいかないのか
第十章 グローバル経済の新たなルール
第十一章 将来に向けた成長政策
第十二章 政治こそが重要なのだ、愚か者!

 

 まず、第1章と第2章で論じられているのが、グローバリゼーションの行き詰まりと、国家の重要性の指摘です。

 グローバリゼーションは多くの国に恩恵をもたらすと考えられてきました。発展途上国も、このグローバリゼーションに加わることで経済発展が可能になると主張する人も少なくありませんでした。

 しかし、日本、韓国、台湾といった国は今よりも輸入関税が高かった時代に輸出主導の経済成長を成し遂げましたし(日本についてはいうほど輸出主導ではないですが)、また、中国についても著者は以下のように述べています。

 他国の経済開放によって最大の利益を享受したのはもちろん、最も歴史に残る貧困削減と経済成長を成し遂げた中国だった。一方、自国の側では広範囲にわたる産業政策を導入し、輸入自由化の遅延や局所的な実施、資本規制の導入も行うなど、極めて注意深い戦略を遂行した。中国がグローバリゼーションのゲームの中で従ったのは、ハイパーグローバリゼーションのルールではなくブレトンウッズ体制のルールだったのだ」(44p)

 

 1980年代前半、日本の集中豪雨的輸出などによって保護貿易の機運が高まりましたが、90年代以降、世界の貿易は爆発的に拡大しました。しかし、現在、トランプ大統領をはじめとして自由貿易を攻撃するポピュリスト政党が多くの国に勢力を拡大しています。

 同時にもはや「古い」と考えられていた国民国家の重要性がまし、撤廃すべきだと考えられていた国境の壁は、むしろ高くなりつつあります。

 

 著者はこうした動きを肯定するわけではありませんが、国家の重要性は今一度考え直されるべきだとしています。市場はさまざまなルールや制度に支えられており、国民国家がそういったルールや制度を提供してきたからです。

 もちろん、グローバリゼーションの時代にはルールや制度を作る主体もグローバルであるべきかもしれませんが、グローバル・ガバナンスは未だに十分に整備されておらず、また、地域の違い、市場を支える制度が一つの形だけではないことなどから、このグローバル・ガバナンスはそう簡単には成立しないと考えられます。

 また、著者は市場を支える制度が多様であることは必ずしも悪いことではなく、さまざまな実験が行われているという点ではむしろ良いことでもあります。

 著者に言わせれば、「国民国家を必要としているのは誰なのか? 答えは我々全員だ」(63p)というわけなのです。

 

 第3章はギリシャへの処方箋や欧州の経済政策を批判したものですが、その中で全面的な自由化を行わなくても経済は発展に得るとして次のように書いています。

 インドのケースから学べる教訓は、複数の市場の歪みに苛まれている経済においては、小さな変化でも大きな成果を生み出すことができるということだ。1978年以降の中国の成長の加速は、まさにこのことを裏付けている。中国経済の離陸は、経済全体の改革や抜本的な自由化によってもたらされたものではなかった。集団農業のルールを緩和し、農家に(政府に課されたノルマを上回った)過剰生産物を管理されていない市場価格で売ることを認めた具体的な改革によってもたらされたものだ。(74p)

  このあとアフリカのモーリシャスの輸出加工特区の例もとり上げられていますが、経済発展を促すのは経済の全面的な自由化ではなく、成長を阻害しているものをピンポイントで取り除くことだと著者は主張します。

 EUIMFギリシャに強いたような「ビッグバン」ではなく、制約要因を順々に克服していくような経済政策こそが安定した離陸をもたらすのです。

 

  EUの経済統合をある意味で行き過ぎたものだったと考える著者は、マクロンの当選に触れながら次のように述べています。

 マクロンがドイツに向けて発しているメッセージは明確だ。我が国を助けて、共に真の統合(経済、財政、そしてゆくゆくは政治も)を構築するか、もしくは過激主義の台頭に欧州が乗っ取られるかだ。

 マクロンの考え方は、ほぼ確実に間違っていない(私の議論の延長線上にある第三の選択肢は、経済統合の規模を計画的に縮小させることだろう)。(93p)

 

 第4章は発展途上国の経済成長について論じたものですが、この部分は非常に面白いです。

 21世紀初頭、発展途上国は今後力強い経済成長を見せると考えられていましたが、近年は悲観論が強まっています。それは著者によれば次のような理由があるといいます。  

 東アジアの成功の秘訣に関して誰もが口をそろえることが一つあるとしたら、日本、韓国、シンガポール、台湾、中国、いずれの国も田舎の(もしくは非公式活動に従事していた)労働者を組織化された製造業に従事させることに、非常に長けていたということだ」(98p)

 

 ところが今日では、その構図が大きく変わった。若者は引き続き田舎から都市部へと大挙して移動しているものの、彼らが従事する仕事は工場労働ではなくほとんどが生産性の低い非公式の[国の経済統計にカウントされないような]サービス業だ(100p)

 

  日本の高度成長は農村にいた余剰労働力が都市に移動し工場などで働いたことが大きな要因だったと言われますし、中国の経済成長のかなりの部分も同じような形で説明ができます。

 しかし、現在の途上国にこのような状況はないといいます。しかも、零細なサービス業では製造業のように労働者の組織化が難しく、労働条件の向上を訴えることも難しくなっています。

 日本もそうだったように製造業で雇用される割合は一定のところでピークを迎えて低下していくことになるのですが、現在のラテンアメリカやアフリカでは早すぎる脱工業化を迎えており、製造業の発展が東アジアにもたらした社会全体の底上げを望むことが難しくなっています。「人的資本や制度の機能を十分に蓄積する前に早期にサービス経済に移行したことで、先進国でさえ対応に苦しんでいる労働市場における格差や排除の問題をさらに悪化させた」(109p)のです。

 

 第5章から第8章にかけては現在の経済学について論じられています。

 著者によれば、経済学は一定の条件下におけるモデルを提供する学問であり、普遍的な理論を提供する学問ではありません。しかし、経済学ではその主張があたかも普遍的な理論のように論じられることが度々あります。

 例えば、自由貿易は基本的に多くの人々の利益になるとはいえ、一部の人には打撃を与えますし、社会を不安定にさせる可能性もあります。ところが、そういった負の部分についてはあまり触れられず、自由貿易の「正しさ」だけが強調されてきたのです。

 

 第6章の冒頭では、マンキューが2009年にまとめた経済学者の9割が支持を得ている命題のリストがとり上げられています。ここには「輸入関税や輸入割り当ては全体の経済厚生を引き下げる」、「家賃統制は住宅の供給を減らす」、「完全雇用が達成されていないとき、財政政策は経済を刺激する」といったものがありますが(161−162p)、こういった命題もあくまでも一定の前提条件に基づいたもので、このようなわかりやすいコンセンサスが揺らいでいるというのが著者の見立てです。例えば、最低賃金の引き上げは雇用にマイナスの影響があると信じられてきましたが、最近の研究は結果がまちまちであることを示しています。

 

 ケインズは「最も実務に通じた人でさえ、ずいぶん前に亡くなった経済学者のアイディアの奴隷であるのが常である」と述べましたが(187p)、この「アイディア」について論じたのが第7章です。

 経済学は選考や制約、選択変数といった数値化可能な客観的なものに基づいていると考えられていますが、それらのものは暗黙のアイディアに左右されています。

 

 著者は、なぜ経済エリートの好む政策が実行され、一般的な有権者の望む政策が実行されないのかという問題をとり上げ、経済エリートに有利な政治システムの仕組みとともに問題視するのが、選好に入り込むナショナリズムアイデンティティといった問題です。

 カール・マルクスが、宗教は「人民の阿片だ」と述べたことは有名だ。宗教感情の力を借りて、労働者など搾取される人々は日々の生活で経験する物質的な欠乏をごまかせると彼は言いたかったのだ同様に、宗教右派の台頭とそれに伴う「家族の価値」をめぐる文化的争い、その他の大きく意見の分かれる問題(例えば移民など)が、1970年代後半以降の経済格差の急速な拡大から米国の有権者の目を逸らすのに一役買った。(197p)

  

 このようにしてつくられた価値観が、中産階級貧困層の利益に反するようなことをしても支持を失わない構図をつくりあげたのです。

 一方、第8章で著者は、アイディアがうまく政治と結びつくことが社会をより良くする可能性についても触れています。

 

 第9章から第12章にかけては現在の問題にどのようなスタンスで向き合うべきかということが論じられています。 

 著者の基本的スタンスは第10章で紹介されている。次の7つの原則にまとめられます。「市場をガバナンスのシステムに深く組み込まなければならない」、「民主的なガバナンスや政治コミュニティは主に国民国家の内側で形成されるものであり、近い将来もそうであり続けるだろう」、「繁栄に通じる「唯一の道」はない」、「いずれの国も自国の規制や制度を保護する権利を有する」、「いずれの国も他国に自分たちの制度を押し付ける権利を有しない」、「国際経済の取り決めの目的は、各国の制度の境界面を管理する交通規則を策定することでなければならない」、民主主義でない国は、国際経済秩序において民主国家と同じ権利や特権を期待することはできない」(253−257p)の7つです。

 

 国民国家の多様性を尊重しつつも、国民国家を重視する立場からその意思決定過程も問題にしているのが特徴と言えるかもしれません。

 その上でグローバルな問題に関しては、「国民国家が中心であり、グローバル・ガバナンスは役に立たないという認識に立てば、時間をかけて国家の利益をよりグローバルな方向に仕向けやすくなる」(269p)と書くように、やや迂遠な道をとっています。

 こうした方向性が国民の利益の感覚をよるグローバルなものとし、結果として地球温暖化をはじめとするグローバルな問題を解決しようとする気運を高めるだろうというのです。

 

 他にも、エチオピアボリビアを例にあげて発展途上国における公共投資の重要性を指摘する部分(284−288p)や、国際経済においてドイツの責任を厳しく指摘している次の部分などが印象的です。

 まず、「近隣窮乏化」政策はグローバルなレベルで規制する必要がある。現在において最も重要な事例は、システム上重要な国が過剰な貿易黒字を抱え、他国が完全雇用を維持するのが難しくなっているケースだ。中国が最近まではその象徴的な国だったが、ここ数年は対外黒字が縮小している。経常黒字がGDPの9パーセント近いドイツが、現在では最大の違反国だ。(250p)

 

 このようになかなか刺激的な提言や指摘に満ちた本だと思います。著者が主張するグローバル・ガバナンスの改革の方向性については、その実現性を含めて何とも判断しかねるところがありますが、問題点の指摘という点では非常に面白いです。

 最初にも書いたように発展途上国の経済成長を論じた部分や、近年の経済学の変化について論じた部分も面白く、経済に関するさまざまな問題を考える上でいろいろなヒントが得られる本です。