ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』

 『フリーダム』がとても面白かったアメリカの作家ジョナサン・フランゼンの長編小説になります。『フリーダム』が2009年発表の第4長編、この『コレクションズ』は2001年発表の第3長編です。

 まずタイトルの「コレクションズ」ですが「Collections」ではなく、「Corrections」です。「修正」とか「訂正」といった意味を持つ言葉ですね。

 内容としては家族小説で、アメリカ中西部に住むアルフレッドとイーニッドの夫婦、そしてその3人の子ども、ゲイリー、チップ、デニースの人生とそれぞれが抱える問題を描いています。

 

 こうした家族小説はアメリカの小説でよくあるものですが、本作はちょっと違っているのは、まず家族の年齢が比較的高いことです。アルフレッドはもう退職していて70歳代でパーキンソン病を患っています。長男のゲイリーは40代で3人の男の子がいます。次男のチップも39歳、デニースも30代半ばであり、3人ともこれから大きなドラマを引き起こすには少々年を取りすぎている感があります。

 

 そして、実際この小説にはたいしたドラマはありません。上下巻で合計1000ページ弱あるというのに、それほどたいしたドラマが起こらないのがこの小説の特徴です。例外的に、次男のチップはセクハラで大学をクビになり、リトアニアに行って詐欺の片棒をかつぐという大きな展開が待っているのですが、長男のゲイリーのパートなどはクリスマスに規制するかどうかで延々と奥さんと揉め続ける描写が続きます。

 

 このように書くとなんだかつまらない小説のようですが、これが面白い。

 『フリーダム』もそうでしたが、とにかくフランゼンはキャラクターの造形がうまく、いかにも現代にいそうな人物を次々と登場させ、現実よりもほんの少しだけ戯画的に描き出します。「ライフスタイル」という言葉が定着し、その人の職業や持ち物がその人の性格を規定してしまう現代という時代を本当に巧みに書いていきます。

 チップの大学教員時代の教え子や、シェフとなったデニースのパトロンとなる夫婦など、「これぞ現代のアメリカ」といった形の人物を登場させていくわけです。

 

 ただ、小説の舞台となっているのは90年代後半であって、今から見ると少し変わってきた部分もあります。

 それが中西部の鉄道技師だったアルフレッドです。この小説でも子どもたちが住む東海岸に対して中西部は取り残されつつある地域として描かれているのですが、アルフレッドは夫婦でクルーズ船の旅にでるなど、経済的にはぎりぎり「逃げ切った」世代になります。

 中産階級の暮らしを維持できたアルフレッドに対して、この後(おそらくリーマンショック後あたりから)それができなくなって、それがトランプ支持へとつながっていくのでしょう。

 

 『フリーダム』と合わせて、現代のアメリカ社会を理解するのにぴったりな作品だと思います。

 

 

 

 

morningrain.hatenablog.com

『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

 『若草物語』は未読なのですが、2018年の個人的ベスト映画『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグ監督+主演シアーシャ・ローナンということで見てきましたが、これも良い作品でしたね。

 舞台は南北戦争当時のアメリカ・マサチューセッツ。メグ、ジョー、リズ、エイミーの四姉妹を中心に家族のさまざまな出来事を描いた原作を、シアーシャ・ローナン演じるジョーが『若草物語』を書くまでというメタ的な視点で再構成し、さらに女性の自立と自由というテーマを中心に据えることで、原作を現代にぐっと引き寄せています。

 

 長女にエマ・ワトソン、マーチおばさんにメリル・ストリープをもってくるという豪華キャストで、それも女性映画として効いていると思います。

 特にメリル・ストリープに「私は金持ちだから自由に生きることができるけど、金持ちでない女は結婚しなければ生きていけない。女の職業なんて売春宿の経営か女優くらいしかない」といったことをいうシーンがあるのですけど、この言葉は150年近くたった今でも、それなりに効いている言葉と言えるでしょう。

 おそらく、本作はそうした「女性映画」として評価されるのだと思います。

 

 ただ、個人的にそれ以上に感心したのが、この監督の「あるある」的なシーンをつくる上手さ。『レディ・バード』もそうでしたが、ちょっとしたやりとりや、感情の動きを切り取ることが非常に巧みなんですよね。

 自分の家には小さな姉妹がいて、お互いに「〇〇って言って」と言い合って、自分の頭の中でこしらえたドラマを再現したがっていて、「一体これは何なんだろう?」と思っていましたが、この映画を見ると姉妹ってこうなんですね。

 他にも「妹に泣かされる姉」とか、「姉妹ってこれこれ」みたいなシーンが随所にあって、とても面白く見ることができました。

 『レディ・バード』はかつて教えた生徒を思い出しながら見ていましたが、この監督はキャラの「あるある」ではなく、感情の揺れ動きの「あるある」みたいのを見せてくれるんですよね。そこが大きな魅力だと思います。

 もちろん、これには役者の上手さあって、主演のシアーシャ・ローナンはもちろんうまいですし、母親役のローラ・ダーンもいいです。そして、四女のエイミーを演じたフローレンス・ピューも良かったですね。

 

 

田野大輔『ファシズムの教室』

 長年、大学で「ファシズムの体験授業」を行っていた著者による授業実践の記録になります。履修している学生たちに、白いシャツを着せ、「ハイル、タノ!」と叫ばせ、キャンパスにいるリア充(サクラ)を糾弾するというユニークでインパクトのある授業はWeb記事の「私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由」などでも読むことができます。

 

 ナチスが政権を獲得し国民の一定の支持を受けた理由として、以前はヒトラーのカリスマ性や演説の巧みさメディア戦術などが注目されていました。ナチスは国民を「騙す」ことに成功したという見方です。

 しかし、近年では国民は必ずしも騙されていたわけではなく、積極的に支持していたことも重視されるようになり、また、ユダヤ人の虐殺などの行為に関しても、「普通の人々」が関わっていたことが明らかになっています(クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと』参照)。

 本書で行われている授業の狙いも、普通の人々を惹きつけるファシズム集団主義のメカニズムを実際に再現することでそれに対する免疫をつけることにあります。

 

 目次は以下の通り。

第1章 ヒトラーに従った家畜たち?
第2章 なぜ「体験学習」なのか?
第3章 ファシズムを体験する
第4章 受講生は何を学んだのか?
第5章 「体験学習」の舞台裏
第6章 ファシズムと現代

 

 社会心理学の実験、スタンフォーフォ監獄実験(映画『es [エス]』のモデルとなった実験)やミルグラム服従実験に見られるように、人間が上から許されれば意外に暴力的になったり、残酷なことを行ったりします。

 著者はこの上からの命令で自らの責任が免除されている状況がファシズムにおける1つのポイントだと見ています。1938年の「水晶の夜」では、「ユダヤ人を襲撃しても構わない」というメッセージをゲッベルスが暗にほのめかしたことによって、多くの人がユダヤ人の商店を破壊し、ユダヤ人を袋叩きにするという蛮行に及びました。

 著者は、この権威に服従することで責任から解放されることがファシズムの「魅力」を理解する鍵だと考えています。

 

 そこで、著者はその「魅力」を体験する授業を構想します。元ネタとなっているのがドイツ映画『THE WAVE ウェイヴ』で、この映画ではファシズムの体験授業が暴走する様子が描かれていました。

 もちろん、実際に学生たちを暴走させるわけにはいかないので、授業の時間に限って疑似体験をさせるという形で、この「魅力」を体感させます。

 

 具体的な授業の中身に関しては上記のWeb記事などを読んでほしいのですが、白シャツ・ジーパン姿で「リア充爆発しろ!」と叫ぶ姿は、基本的には「ネタ」です。この「ネタ」を体験したくて受講する生徒も多いのでしょう。屋外で「リア充爆発しろ!」と糾弾を行っていると、野次馬がやってきて一緒になって糾弾することもあるそうです。

 

 ところが、参加した学生のコメントなどを見ると、「ネタ」が「ベタ」に転化している傾向も見受けられます。

「徐々に集団の一員という意識が強くなり、教室に戻ってくるときにはすがすがしい気分になっていた」(105p)

「グラウンドに出る前は面白半分な雰囲気だったけれど、教室に戻る際には『やってやった』感がどこか出ていたように感じる」(106p)

「自分が従うモードに入った後に怠っている人がいたら、『真面目にやれよ』という気持ちになっていた」(107p)

  最初は「ネタ」だと思っていた学生が、いつのまにか深くコミットしていたのです。著者はこうした行動の変容をもたらしたものとして、「集団の力の実感」、「責任感の麻痺」、「規範の変化」の3つの論点をあげています。

 

 ただし、これは何も特殊なことではなく、「責任感の麻痺」はともかくとして、「集団の力の実感」や「規範の変化」は普通の学校教育でも経験していることでしょう。本書にも「運動会でやったことと同じだと思った」(118p)との感想が紹介されていますが、「集団の力の実感」は日本の学校教育が非常に好むところでありますし、合唱コンクールなどで最初は斜に構えていたみんなが、いつの間にかやたらに熱心になっていったという「規範の変化」を感じたことのある人もいると思います。

 また、本書が指摘するようにヘイトスピーチなどで、一見すると普通の人が驚くほど過激なことを叫ぶのは、この3つのものが揃ったからだと考えられます。

 

 もっとも、こうした団体行動の魅力はさまざまな場面で見られることで、これだけでファシズムが成立するとは言えません。本書はこれがファシズムへ変質するのは「集団を統率する権威と結びついたとき」(124p)だと言います。

 この権威を借りることで、「責任感の麻痺」は加速し、過激な行動を誘発するのです。

 

 ここまででも面白い内容の本だということはわかると思いますが、さらにこの本が有益なのは、この授業を行う上での注意点をかなり詳細に述べている点です。

 この手の体験授業は非常に効果があると同時にリスクもあります。自分も、本書でも紹介されているジェーン・エリオットの行った「青い目、茶色い目」のビデオを見せたりしたことはありましたが、あの授業をやるかと言われればやりません。やはり生徒を深く傷つけるリスクがあるからです。

 その点、本書では著者が授業の仕掛けや注意点を流れに沿いながら解説してくれているので、想定外のリスクはかなり避けられると思います。

 本書は、ファシズム体験授業でなくても、何らかの学生・生徒にショックを与えるような体験授業をやりたいと考えている人には参考になる部分が多いと思います。

 

 このように面白い本なのですが、読み終えて少し思ったのは、こうして1冊の本にまとまったことは有益なことなんだけど、本書が出たことで、同じ授業で同じような効果をあげることは難しくなったのではないか? ということ。

 この授業は外部からクレームなどもあって一時中断している状況とのことですが、再開したとして、もし学生がこの本を読んでいれば、授業は価値観を揺さぶるような経験にはなりにくいでしょう。予想外の体験だからこそ価値観が揺さぶられるのであって、もしこれから起こる体験がすべて予期できることであれば、体験は予期を確認する儀式に過ぎなくなります。

 これを回避しようとより過激な体験を用意すれば、今度は学生が暴走したり傷ついたりするリスクも出てくるわけで、体験授業を長期的に続けていくことの難しさというものも感じました(本授業に関して言えば、著者はかなりのアイディアマンなので、今後も学生の予期を超える仕掛けを作り出していきそうですが)。

 

 あと、本書には章の間にコラムが挟まれているのですが、通俗的ヒトラーやナチズムの誤解をわかりやすく解いてくれるものがいくつか入っており、第1章の記述と合わせて、ヒトラーやナチズムについての基礎知識を得るのにも便利な本です。

 

 

Badly Drawn Boy / Banana Skin Shoes

 Badly Drawn Boy、その名前に懐かしさを感じる人もけっこういるかもしれません。

 U.N.K.L.E.の「Psyence Fiction」にトム・ヨークやリチャード・アシュクロフトらとともにゲストとして参加して"Nursery Rhyme Breather"で鮮烈な印象を残し、2000年の1stアルバム「The Hour Of Bewilderbeast」も傑作で、2ndの「Have You Fed The Fish?」に入っている"You Were Right”は自分の中でも屈指の好きな曲でした。

 そんな大活躍から20年ほど、2009年の「Is There Nothing We Could Do?」から、ほぼ消息を聞いていなかったのですが、突然アルバムが出ることを知り、聴いてみました。

 

 そうしたら、これがよい!

 正直、良いとしてもかなり落ち着いてしまったサウンドなんだろうなと思っていたわけですが、冒頭の"Banana Skin Shoes"はU.N.K.L.E.のメンバーでもあったDJ Shadowを思わせる感じの尖った曲ですし、続く曲も2曲目の"Is This a Dream?"をはじめとして、メロディもよく、なおかつ若々しい。50歳近くになってこんなポップな曲をつくり、歌ってくるとは思いませんでした。

 3曲目の"I Just Wanna Wish You Happiness"も4曲目の"I'm Not Sure What It Is"も7曲目の"I Need Someone to Trust"もいかにもBadly Drawn Boy的なメロディであり、歌いまわしなのですが、昔からのファンからすると嬉しくも懐かしい感じですね。

 そして、しんみりと良いのがラストの"I'll Do My Best"。ちょっとへなちょこな声とバックサウンドが非常に優しげな世界を作り出しています。

 

 完全にもう一戦から消えてしまったアーティストかと思っていましたが、この復活は嬉しいですね。

 


Badly Drawn Boy - Banana Skin Shoes (Official Music Video)

 

 

伊藤修一郎『政策実施の組織とガバナンス』

 副題は「広告景観規制をめぐる政策リサーチ」。タイトルと副題からは面白さは感じられないかもしれまえんが、「なぜ守られないルールがあるのか?」「なぜ政策は失敗するのか?」といった問いに変形すると、ちょっと興味が湧いてくるかもしません。

 そして、副題にもなっている広告景観規制は、ほとんどの地域で違反行為が放置されている一方で、京都のようにかなり実効性をもった規制が行われている地域もあります。「京都は歴史のある街で特別だ」という声もあがりそうですが、本書を読むと、京都市以外にも静岡県金沢市宮崎市などで効果のある取り組みがなされていることがわかります。

 多くの自治体が失敗している一方で、成功している自治体もあるのです。ですから「守られないルール」が存在する原因は「ルールそのもの」よりも「ルールの守らせ方」にあると言えるのです。

 

 本書は、第1部で失敗の原因を分析し、第2部で歴史的経緯や規制に成功している事例を取り上げ、第3部で統計分析を行うという手堅いつくりになっており、政策を分析する上での1つのモデルとしても読めると思います。

 実は著者は神奈川県の職員として広告景観規制の仕事を担当していたこともあり、「政策が実行されない事情」というものが実感的にわかるないようになっていて、そこも本書の面白い点だと言えるでしょう。

 

 目次は以下の通り。

第1部 なぜ政策は失敗するのか――政策実施組織の構造の理論分析
第1章 政策実施研究の論点と屋外広告物政策の概要
第2章 政策実施を妨げる職員行動と組織構造
第3章 平均的自治体の屋外広告物事務

第2部 なぜ違反対応は実行されたか――政策実施ガバナンスの理論と事例
第4章 政策実施ガバナンスの理論
第5章 屋外広告物政策の歴史と国の関与
第6章 静岡県東海道新幹線沿線野立看板対策
第7章 京都市ローラー作戦による違反適正化
第8章 金沢市審査会方式と宮崎市適正化プラン

第3部 実施活動を変えるものは何か――行政・市民・業界の統計分析
第9章 統合的統計分析による仮説検証
第10章 屋外広告業界の構造と法遵守
第11章 市民意識と政策支持の規定要因
結論 実効性ある政策実施のために

 

 まず、基本的に広告景観規制は失敗しています。よく「整然としたヨーロッパの町並みに比べて、無秩序に看板が乱立する日本の町並みは…」みたいに言われますが、実際、秩序だった景観をもつ日本の町並みは少なく、景観の無秩序さを際立たせているのが看板や広告と言っていいでしょう(もちろん『ブレードランナー』じゃないですけど、「それがいい」という考えもあると思います)。

 そして、おそらく景観が無秩序であることが、違法な広告や看板がなくならない理由でもあります。誰も規範を守っていないときにわざわざ守るメリットは少ないのす。一方で、整然とした景観の中で違法な広告や看板を出すことにはかなりの風当たりがあると考えられ、そうなれば自然とルールは守られるかもしれません。おそらく、良い均衡と悪い均衡とどっちつかずの均衡(そこそこ違反広告があって自分も出すか迷う状況)があって、なかなか良い均衡(違反がほぼない)にはたどり着けていないのが日本の多くの都市の現状でしょう。

  

 屋外の広告を取り締まる法律はあります。屋外広告物法という法律があり、そこでは自治体が自治事務として規制を行うという形が取られています。

 取り締まりにあたる規制機関には、都道府県(実際には〇〇土木事務所、△△地域振興局といった複数の市町村を管轄する出先機関が処理する)、政令市・中核市、景観法に基づき景観行政団体になった市町村の3つの類型があります。そして、これらの団体は、広告物の設置許可を出したり、違法広告物への指導や簡易除却を行ったり、業者の登録などを行っています。

 

 ただし、法律や取り締まりを実施する機関は存在しても、それがうまくいっていないというのが現状でしょう。

 第2章では、まず担当職員の行動原理を検討しています。屋外広告物の違反対応は職員にとってはストレスのかかる仕事です。相手がゴネれば解決には多くの時間と労力が必要になるでしょう。一方、申請処理は定型の仕事であり、それほどストレスはかかりません。そこで職員は申請処理を優先し、違反対応を後回しにしがちになります。

 

 さらにこれに日本の行政組織における「大部屋主義」が加わります。日本では人員と職務が明確に対応する「個室主義」ではなく、仕事を課の職員で分掌する仕組みをとっています。この仕組みを大きな部屋で複数の職員が働いていることから「大部屋主義」と言います。

 そして、1つの仕事を複数の職員が担当したり、あるいは1人の職員が複数の仕事を担当するような形態がしばしば見られます。

 

 こうなると、起こってくるのが業務間の人員争奪戦です。各職員の仕事が明確でないために、しばしば緊急性の高い仕事に人員が回され、緊急性の低い仕事は後回し人されます。また、1人の職員に複数の業務が任されている場合でも、やはり緊急性の低い仕事は後回しにされるでしょう。

 景観は大切かもしれませんが、景観がわるかったからといって直ちに損害が生じるわけではありません、こうして行政組織の論理からも屋外広告への違反対応は先送りされていくのです。

 

 第3章では、実際の人員配置を見ています。屋外広告事務で係を構成しているのは政令市の7割、中核市の3割であり、景観行政団体では2.9%しかありません(46p表3−1参照)。人員では専任職員が政令市で4.1人、中核市で1.1人、景観行政団体で0.4人と、人手不足の感は否めません(47p表3−2参照)。

 屋外広告事務の優先度を担当に尋ねる調査でも、90%近い担当者が他の業務に比べて優先順位が高いとは思っていません(50p図3−5参照)。一方で、違反指導では、相手から「規制があること知らなかった」「自分だけがなぜだめなのか」「なぜ他の地区はよくてうちの地区はだめなのか」などと反発されることも多く、80%近い職員が違反指導にストレスを感じています(63p図3−11参照)。

 

 国の屋外広告物法は1949年に制定されています。戦前は警察が広告物の規制を行っていましたが、戦後は建設省へと移されています。しかし、この法律に対しては「言論の自由を束縛するものだ」という建設省の担当者が思っても見なかった反対を引き起こします。ビラやポスターの規制が、政治運動や労働運動の妨げになると考えられたのです。

 制定された法では、法律に基づいて各都道府県が条例をつくり規制を行うこととなっていましたが、実はこの条例の制定がスムーズには進みませんでした。49年に27都府県、59年に7道県が制定した後、条例制定の動きは停滞し(やはり言論の自由の侵害だといった批判が根強くあった)、最後の山口県が制定したのは66年でした。63年には建設省が「非常に強い行政指導」を出して、今年中に必ずできるようにすると答弁しましたが(98p)、それから3年の時間が必要だったのです。このあたりは「明治以来の中央集権制」みたいな言い方がすべてに当てはまるわけではないといった感じです。

 

 その後、国はオリンピックと新幹線開業に対応するために、規制強化を求める通達を出して、都道府県への関与を強めますが、1973年の第3次改正が難航したことから、国は関与を弱めていきます。その後の地方分権の進展もあって、屋外広告規制に関して、国が強い対策を求めることはなくなっていきました。

 

 そのせいもあって屋外広告取り締まりの動きは鈍いわけですが、例外的に成果を上げている自治体もあります。本書がとり上げるのは静岡県京都市金沢市宮崎市です。

 

 まず、静岡県ですが、新幹線沿線の野立看板の取り締まりで成果を上げています。1992年の研究によると、東海道新幹線沿線の野立看板は543基があり、愛知県160、静岡県20、神奈川県141と静岡県の少なさが際立っています(122p)。また、2013年9月と2014年3月に著者が確認した際にも、静岡県内の明らかな禁止区域と思われる場所には非自家用の野立看板はなかったそうです(123p)。

 著者が静岡県が成果を上げている理由として提示しているのが、(1)手順の明示によるルーティン化と(2)目標と実績の共有です。

 静岡県では広告取り締まりを目的としたパトロールが毎月1日実施されており、違反広告物を発見すると台帳に記入し、指導・措置を記録してきます。この指導の過程もルーティン化されており、担当者が是正活動に踏み切る心理的ハードルを下げています。さらに登録業者に違反の点数制度を設け、点数が一定以上になると営業停止処分を行います。また、初任者研修も行っています。

 静岡県でこうした取り組みが進んだ背景には、県議会での屋外広告物に関する質問の多さもあげられます。70年代から違反広告物の指導実績がたびたび議会に報告されており、議会の関心の高さが県の対策を促進させたと言えます。

 

 京都市は以前から景観への意識が高いことで有名でしたが、それでも相当な量の違反広告物があるのは事実でした。

 規制が一段と強化されるようになったのは、2007年の屋外広告物条例の改正以降です。当時の桝本市長の強い意欲のもとに改正が行われましたが、広告業者からは大きな反発を受けました。この条例の審議の中で、既存の違反広告物に対する質問が出たこともあり、市は本腰で違反の摘発に取り組むことになります。

 2008年の市長選で当選した門川市長は違反屋外広告物を7年後に一掃すると約束しましたが、それでも違反の是正は進みませんでした。議会でも批判が高まる中で、2012年に再選された門川市長はローラー作戦を打ち出します。広告業務全体で専任職員15名、嘱託職員4名を確保し、さらに嘱託職員52名を採用。71名の体制でしらみつぶしに指導を開始します。2013年度には専任職員25名、嘱託職員84名の109名体制となり、メリハリを付けながら指導を進めていきました。そして周囲から違反広告が消えることで看板などを工夫しようという動きも生まれました。

 ここでも市長のイニシアティブとともに議会での質問や発言が市の動きを後押ししています。

 

 金沢市に関しては、特に市を挙げての違反対応が行われているわけではないのですが、専門家も関与のもと周囲との調和を重視しながら広告物の審査が行われています。また屋外広告物審査会では、12名の委員から学識経験者2名と業界関係者2名を組み合わせた輪番背で許可申請の審査が行われており、これが業者の意識を高めていると考えられます。

 宮崎市では2009年にGISと連動したシステムが開発され、許可や違反の摘発がスムーズにできるようになりました。また、違反物件に対して特例的に許可を出し、手数料を徴収する特例許可制度も運用されています。コンサルタント出身の職員を採用したこともあり、今までにはなかったアイディアが試されています。

 

 ここまでが第1部と第2部。第1部で理論、第2部で事例が述べられ、第3部では統計的な実証がなされています。

 第9章ではさまざまなデータから政策結果(アウトカム)を決定づける要因を探っています。その結果は218p図9−11の「違反割合を従属変数とするパス図」に表されています。取締強度、職員数といった違反割合を減らすのに効果がありそうな要素がいまいちい効いていない結果となっています(職員数は負の影響をもたらしている)。

 ただし、議会質問が職員数の増加や職員が是正のために費やす時間を増やすなど、規律付けの要因となっていることがうかがわれます。

 

 第10章では屋外広告業界側の実態と対応をデータから探っています。

 まず、屋外広告物の事業者は小規模な事業者が多く(224p表10−1参照)、業界団体に入っていない業者も結構な割合で存在します(225p表10−3参照、本文でも注記されているようにここの加盟率63.2%は高めに出ている可能性がある)。日本の行政は業界団体を通じて情報伝達や調整、合意形成などを行うので、この状況は行政にとってはやりにくい状況だと見ていいでしょう。

 さらに本章ではゲーム理論を使いながら、指導と業者の行動を分析しています。業者は違反を知りつつも、それを上回る経済的効果があると見て機会主義的に違反を犯してると考えられます。行政の対応が甘いと見れば違反をするわけです。

 また、屋外広告業者は「屋外広告物への市民の関心は薄い」と感じていて(237p図10−3参照)、それが違反を生んでいるとも言えます。同時に違反の現状は不公平だとも見ており(240p図10−6参照)、このあたりを変えていくことで業者の意識を変えていくことができるかもしれません。

 

 第11章では市民の意識がとり上げられていますが、まず市民には屋外広告物規制の存在についてはそれなりに知っていますが、内容までは知らないといった状態です(245p図11−1参照)。街の美観に関しても興味を持っています(女性の方が興味を持っている(246p表11−2参照)。

 ただし、「屋外広告物規制」、「道路維持管理」、「河川管理」、「都市公園管理」の4つに順位をつけてもらうと第4位とする人が最も多いです(248p図11−2参照)。ただし、著者はこれらの中で屋外広告物規制が下位になるのは仕方のないことで、むしろ1位にあげた人もいることから市民の優先順位は低くないと見ています。

 ただし、取り締まりのための人員増について聞くと、それほど賛成は多くなく(256p図11−8参照)、違反に対しては厳しくのぞんでも良いとしながらも、財政支出に関してはやや消極的と思われます。258pのパス図をみると、規制知識を普及させることで、屋外広告物規制についての市民の理解を深めることは可能かもしれません。

 

 このように本書は屋外広告物規制を取り扱ったものですが、本書で見いだされた知見は他の政策分野でも応用可能なものが多いと思います。また、「組織の動かし方」を考える本にもなっていると思います。

 ですから、本書はさまざまな立場の人にとって「ためになる」本だと思います。屋外広告物規制や景観保全に関わらず、何か自治体に実行してもらいたい政策がある人、あるいは自治体の内部にいて実効的な政策が行われないことに苛立ってる人などは、本書を読むと何かヒントを得られるかもしれません。

 

 

Car Seat Headrest / Making a Door Less Open

 一昨年でたアルバム「Twin Fantasy」が非常に良かったCar Seat Headrestの新作。Car Seat Headrestはシアトルのアーティスト、ウィル・トレドによるプロジェクトで、バンド編成になってからはこれが3枚目になるのだと思います。

 「Twin Fantasy」は10分超えの曲が2曲ともいいという、ロックアルバムではなかなかないことを成し遂げてみせたわけですが、今作は最長が7:34で、それほど長尺の曲はありません。

 

 アルバムは1曲目の"Weightlifters"こそ、ドラムなども凝っていてなかなかいい感じで始まるのですが、正直なところ前半は弱いです。特に悪いわけではないですが、前作にあった非凡な感じはないです。

 ところが、7曲目の"Deadlines (Thoughtful)"からこのアルバムは輝き始めます。4つ打ちのテクノ調の曲でダークな感じながら高揚感があります。9曲目の"Life Worth Missing"はちょっとThe Nationalっぽいですね。というかこの曲だけ聴くとThe Nationalのフォロワーという感じです。ただ、それでもスケール感を感じさせるのが、ウィル・トレドの才能なのではないかと思います。

 ミドルテンポの7分超の曲"There Must Be More than Blood"を挟んで、また、The Nationalっぽさとは違った色気を感じさせる"Famous"で締め。"There Must Be More than Blood"がもっと大きく展開してくれると文句はないんですが、それでも7曲目以降の後半の流れは良いと思います。

 次のアルバムも楽しみです。

 


Car Seat Headrest - "Hollywood" (Official Music Video)

 

 

酒井正『日本のセーフティーネット格差』

 副題は「労働市場の変容と社会保険」。この書名と副題から「非正規雇用が増える中で社会保険セーフティーネットの役割を果たせなくなってきたことを指摘している本なのだな」と想像する人も多いでしょう。

 これは間違いではないのですが、本書は多くの人の想像とは少し違っています。「日本の社会保険の不備を告発する本」とも言えませんし(不備は指摘している)、「非正規雇用の格差を問題視し日本的雇用の打破を目指す」といった本でもありません。

 本書はさまざまな実証分析を積み重ねることで、この問題の難しさと、改革の方向性を探ったものであり、単純明快さはないものの非常に丁寧な議論がなされています。特に仕事と子育ての両立支援を扱った第3章と、若年層への就労支援などを論じた第6章、最近流行のEBPMについて語った第7章は読み応えがあります。

 

 目次は以下の通り

序章 日本の労働市場社会保険制度との関係

第1章 雇用の流動化が社会保険に突きつける課題1―社会保険料の未納問題
第2章 雇用の流動化が社会保険に突きつける課題2―雇用保険の受給実態

第3章 セーフティーネットとしての両立支援策

第4章 高齢者の就業と社会保険

第5章 社会保険料の「事業主負担」の本当のコスト
第6章 若年層のセーフティーネットを考える―就労支援はセーフティーネットになり得

第7章 政策のあり方をめぐって―EBPM は社会保障政策にとって有効か
終章 セーフティーネット機能を維持するために

 

 まず、序章では現在の労働市場と社会保養制度を概観しています。非正規雇用をどう捉えるのかということと、現在の日本の社会保険制度との説明と、現状と合わなくなってきている部分、そして社会保険の手厚さをはかる「ユニバーサリティ」の概念が紹介されています。医療保険で言えば、カバー率、受給者割合、給付額の水準等という3つの軸から測るもので、社会保険を考えるときは、この複数の軸からの検討が重要だと指摘しています。

 

 第1章では社会保険の未納問題を扱っています。基本的には日本は皆保険制度をとっていますが、給料から社会保険料が天引きされるサラリーマンとは違い、自営業者や農家などが加盟する、国民年金国民健康保険の強制性は弱いです。

 年金などに関しては、自営業や農家は定年があるわけでもないのでなくても、あるいは給付が少なくてもたいして困らないという想定がありましたが、ご存知のように現在は非正規雇用や無業者などの人々がこの国民年金国民健康保険に流れ込んでおり、その未納が大きな問題となっています。

 

 未納の原因としては、保険料が高いために支払えない「流動性制約要因」、加入するメリットがないと考える(「年金を貰う前に死ぬはず」等)「逆淘汰要因」、現在の消費を過度に重視し将来のことを評価しない「近視眼的要因」の3つが指摘されていきましたが、この他にも就業移動に伴う「納付し忘れ」も考えられます。

 実際、転職回数が多いほど社会保険に非加入である確率が高まるとのデータがありますが、同時に転職回数が多いほど所得自体が低くなる傾向も見られ、やはり「流動性制約要因」が強いと考えられます。

 

 では未納になるとどうなるのか? 健康保険に関しては未納があってもとりあえずは「短期被保険証」、さらに滞納が続くと「被保険者資格証明書」が交付され、すぐに無保険状態になるわけではありませんが、やはり受診は手控えられるようになります(そもそも自己負担額が払えないケースもある)。

 年金に関しては、将来の生活保護世帯の増加という形で問題が現れるでしょう。

 未納対策としては、非正規雇用にも被用者保険(年金で言えば厚生年金)を拡大するという方法がありますが、適用が拡大されても、もともとの所得が少なければ給付される年金は低額なままであり、抜本的な解決策にはなりません。

 

 第2章では雇用保険における適用拡大の問題がとり上げられています。

 雇用保険に関しては早くから非正規雇用の取り込みが進んでおり、被験者の割合は60%台の割合を一貫して保っており、近年ではやや増加傾向です。ところが、受給者の割合は80年代、90年代に比べて下がっています(92p図2−4参照)。この要因としては、自己都合の給付制限期間を1ヶ月から3ヶ月に伸ばした1984年の制度変更と、非正規雇用の増加、長期失業者の増加によってもたらされていると考えられます。雇用保険においてもセーフティーネットからこぼれ落ちる人はいるのです。

 

 雇用保険に関しては、給付額が手厚かったり給付期間が長かったりすれば、人々が失業の状態に甘んじて職探しをしないというモラルハザードが起こる可能性もありますが、給付期間が短すぎれば本意でない仕事につかざるをえなくなり、結果的にまた失業してしまうかもしれません。

 また、非正規雇用を包摂するためには受給要件の緩和が必要になりますが、それは拠出と給付の関係を弱めることでもあり、新たな「副作用」を生むかもしれません(現在の求職者支援制度は拠出とは関係なく支援が行われていますが、あくまでも教育訓練であって不況時にセーフティーネットとして機能するかどうかはわからない)。

 

 第3章は子育てにおける両立支援策について。少子化対策として保育園の拡充が叫ばれていますが、実はなかなか難しい問題もはらんでいます。

 共稼ぎの世帯が増えており、子どもが1〜3歳の場合、就業している母親の7割以上が保育施設に子どもを預けていますが、祖父母が面倒を見ているケースも0〜2歳で1割以上あります(116p表3−2参照)。また、0歳児に関しては7割が父母に面倒を見てもらっていますが、これは育休を使っているからだと考えられます。ここで注目したいのは育休や祖父母の保育と保育施設での保育は代替関係にある点です。

 

 現在では待機児童が問題になっています。経済学的に言えば、超過需要が発生しているのだから保育料が安すぎる、つまり保育料を値上げすれば待機児童が解消するということになります。これには当然反発が起こると思いますが、ここからわかる重要なポイントは「(価格調整ではなく)数量調整でしか待機児童の問題は解決できない」(123p)ということです。つまり、基本的には供給を増やすしかありません。

 

 しかし、保育園の需給にはミスマッチがあります、都市部と地方(地方では定員の枠が余っているが都市部では足りない)、保育園の場所(不便な場所なら入れる)、年齢(幼稚園もあり人員配置基準の緩い3歳以降だと余裕があるが3歳未満は厳しい)などです。

 さらに近年では、保育園がフルタイム勤務の保護者の子どもを優先して受け入れていることから、祖父母に預けてでも熱心に働いていた就業志向の強い母親が、祖父母から保育園に預けかえた可能性も指摘されています。

 保育園の有無に関わらず就業を続けるような熱心、あるいは所得の高い母親が保育園を利用し、一方で保育園がなければ就業を断念してしまう層が保育園に入れていない可能性も考えられるのです。東京23区のいくつかでは、「認可保育園利用世帯の保育料の階層分布を見ると、単峰型ではなく、二峰以上の形状をしている」(129p)とのことで、優遇される貧しいひとり親と裕福な層の2つが保育園利用の中心となっていることがうかがえるのです。

 著者は、セーフティーネットという観点からすると、「都市部で認可保育所利用が必ずしも低中所得層で高くないということはかなり問題だと捉えるべきだろう」(130p)と述べています。

 

 育児休業子育て支援政策の1つです。育児休業の期間、給付金の額とも一貫して強化されています。ただし、これらの政策が出生率の改善に結びついているかというと、よくわかっていない面も多いようです。

 育児休業に関しても、制度の性格からして、雇用が安定してて、勤続年数が長く、給与も高い者のほうが取りやすいという面があり、認可保育所と同じく格差の問題が残ります。

 また、就業の継続が問題になるのは保育所入所以前の時期よりも、むしろ小1のときにあるとも言われ、子どもの小学校に入学すると母親の就業率が10%程度低下することが統計的にも確かめられています(139p)。

 

 本章を読んで改めて感じるのは、少子化対策の難しさです。例えば、労働組合に対して行った調査では、出生率を有意に引き上げているのは「会社による託児所利用の支援」「勤務地限定制度」「結婚・出産退職者のために再雇用制度」といったもので、「法定を上回る育児休業制度」「育児等のために短時間勤務制度」「時間外労働の免除」は出生に対して影響を与えていません(144p)。しかも、効果があった施策に関しても、所得が相対的に高い世帯のみに有効で、ここでも所得の高い世帯がコストの係る対策の恩恵を受けるという状況になりかねません。

 「誰でも子どもが生み育てられる社会」の実現というのはなかなか難しいのが現状です。

 

 第4章は高齢者の就業に関して。

 年金の受給開始年齢の引き上げなどもあり、高齢者の就業が増えています。さらに00年代になって以降は65歳以上の年齢での就業が高まっており、その多くは非正規雇用となっています(154p図4-1参照)。

 高齢者の就業は本人にとっても日本経済にとっても基本的には良いことかもしれませんが、高齢者の就業の増加で心配されるのが労災の増加・深刻化です。海外の研究では高齢になると労災が死亡や重傷に繋がりやすいとの結果が出ています。

 

 日本においてもこの傾向は認められます。筆者らの研究によれば、60歳以上の就業者の割合が10%ポイント増加すると1000人あたりおよそ16件の労災が今より増加し、また被災者が死亡に至るケースも60歳以降で急上昇するそうです(157-158p)。

 現在の労災保険の保険料率は業種ごとに細かく定められており、労災が多いほど保険料率が高くなる仕組みとなっています。これは労災防止のインセンティブをもたせる上では良い制度ですが、これが行き過ぎると高齢者の雇用をためらわせることにもなりかねません。また、本来ならば医療保険で面倒を見るべき人が労災保険に流れ込んでくる可能性も考えられるでしょう。

  

 また、この章の後半では介護離職の問題もとり上げられています。近年増えているかのように報道されていますが、データを見ると特に増えているわけだはありません(168p表4-2参照)。また、欧米の研究では介護の就業抑制効果はほぼないとの結果っが相次いでいます。

 ただし、日本では介護は就業を抑制しているとの結果が出ています(女性の方が効果は大きい、170p図4-4参照)。

 介護保険の導入によって「介護の社会化」が行われるはずでしたが、近年では財政的な問題もあって、介護認定の再編や施設への入所基準の厳格化などにより在宅サービスに重点が置かれるようになってきています。家族が就業を断念せざるを得ない(特に賃金の低い女性)状況が出てくるかもしれません。一方、就業率の改善を単純に比較すると介護施設よりも保育施設のほうが効果があるとのデータもあり、ここでもその処方箋は難しくなっています。

 

 第5章は「社会保険料の「事業主負担」の本当のコスト」と題されています。経済学では、事業者負担は最終的には労働者の賃金に転嫁されており、労働者負担と事業主負担を区別して考える意味はない、という見解が根強くあります。

 これについて企業にヒアリングを行うと「そんなことはない」と答えるのですが、介護保険を導入した際は、40歳以上の従業員が多い(介護保険の保険料を支払うのは40歳から)企業ほど従業員の賃金を押し下げる力が働いており、それは給与だけでなく賞与こみでみるとよりはっきりとします(190p図5-5参照)。

 さらにこのコストは賃金の引き下げだけでなく、雇用の削減や、その他の福利厚生の削減に転嫁される場合もあります。 

 社会保険料の負担によって正規から非正規への転換が進んでいるというデータはあまりないようですが、社会保険料の負担の増加が意図せざる結果を引き起こすこともあります(アメリカでは出産への保険給付を企業に義務付けた結果、そのコストは20〜40歳の既婚女性の賃金に転嫁された(198p))。

 「企業への義務付け」はそのコストが見えにくいぶん、政策手法として徴用される傾向がありますが、そのコストについては慎重に見極めることが必要なのです。

 

 第6章は「若年層のセーフティーネットを考える」と題し、主に就労支援の問題を扱っています。

 よく知られているように、一般的に若年層(15-24歳)の失業率は高いです。この1つの理由は若年層のほうが自発的に仕事を変える割合が高いからですが、失業率の推移を見ると、壮年層と同じように景気が悪くなると失業率は高くなります(204p図6-1参照)。そして、ここがポイントなのですが、若年時の失業経験はその後の人生にもフの影響を与えます。つまり、不況のときに就職した若者はその後の雇用も不安定になりがちなのです。

 

 本書では若年時の景気が持続して及ぼす影響を「烙印効果」と呼んでいます。このあたりは景気が回復してもいわゆるロスジェネ世代が取り残されていることなどを思い起こすとわかりやすいと思います。

 初職が非正規雇用だったものはその後も正規雇用になり確率が低く、景気が悪い時期に卒業した世代はその後の離職率が高いと言われます。また、学卒時点の失業率が高いと、その後の賃金が有意に低いとされており、学卒時の失業率が1%高くなると、学卒後12年までに、高卒で約242万、大卒で焼く169万の損失になるとの研究もあります(213p)。

 

 「日本企業の生産構造が、企業内訓練による生産性の向上を前提とした仕組みになっていることが多い」(216p)ため、新卒採用が好まれ、途中からその構造に入っていくのは難しくなっています。

 ですから、一度正規雇用になることを逃した労働者への支援は難しく、学校から仕事への以降において失敗しないように支援することだけが対策になってしまいかねません。

 

 そんな中で、近年注目を集めているのが「就労支援」です。この背景には、若年層の就業が困難なのは、企業の求める条件と若者の持つ属性(スキル)にミスマッチがあり、それを解消していけば就業につながるはずだという想定があります。

 しかし、とにかく就労させればそれでいいかというと、そうではありません。アメリカのミシガン州デトロイトにおける研究では、就労支援サービスで直接雇用になった者と派遣雇用になった者を比較し、派遣労働に就職した場合、その後の就業率・賃金が低下する傾向にあったことを明らかにしています(この調査のリサーチデザインは面白い(230-231p)。

 

 日本における就労支援で難しいのは、日本の企業の雇用慣行が密接に関わっている点で、今後も慣行が維持されるのであれば、ロスジェネ世代に教育訓練を行っても、彼らをレール上に乗せることは難しく、支援は低賃金のままでも暮らせるような仕組みを作っていくことになるでしょう。一方、慣行が崩れ雇用が流動化していくならば、就労支援も行いやすくなるかもしれません。

 

 第7章はいわゆるEBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)が検討されています。日本語では「客観的な根拠(エビデンス)に基づく政策形成)とも呼ばれ、日本でどの程度取り入れられているかはともかくとしてトレンドとなっている考えと言っていいでしょう。

 財政状況が苦しくなり、政策に対する説明責任が求められるようになってきた今、エビエンスに基づいて政策をつくることが必要であり、そのための因果推論の考え方も普及してきています(これについては、例えば本書でもとり上げられている中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』を参照)

 

 しかし、場合によっては複数のエビエンス、しかも正反対の結果を示すエビデンスが存在する場合もあります。そのためにいくつかの研究をまとめてさらに分析するメタ分析(メタ・アナリシス)という方法もあります。

 ただし、医学や薬学などに比べると、経済学などの社会科学の分野では分析の諸条件が研究によって異なることが多く、複数の研究が支持しているからそれだけでOKというわけにはいきません。

 また、「出版バイアス」の問題もあります。よくない結果(研究者の仲間から支持されなさそうな結果)は公表されない、出版されないことも考えられます。例えば、260p図7−7では最低賃金が雇用に及ぼす影響に関する研究がグラフ化されていますが、その分布はマイナスの影響を与えるという結果を持つほうに傾いています。他にも介護が労働時間に及ぼす影響に関してもマイナスを示す研究に偏っていますし(261p図7−8)、単独の研究ではなく、「研究群」として捉える視点が重要だと著者は言います。

 

 さらに政策形成の過程も考える必要があります。例えば、労働政策であれば、労働者側も使用者側も賛成しているのならば、ある政策を採用するかどうかに関してエビデンスは必要ないかもしれません。逆に、労働者側と使用者側ではっきりと利害が対立するような場面でもエビデンスは求められないかもしれません。

 「実際には、価値の対立をエビデンスで解決できるわけではなく」(266p)、制作決定にエビデンスが役割を果たす場面というのは、政策の目的には対立がなく、そのための施策が複数ある場合などに限られてくるのです。

 他にも、エビデンスとなる数値の性格にも注意を払う必要があります。数値は客観的に見えますが、同時に数値にできるのしか測っていません。特定の数値を指標にすることでその他のものが蔑ろにされたり、行動が歪む可能性もあります(本書でも言及しているジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』参照)。

 エビデンスを得るためのコストもあるわけで、「皮肉ではあるが、EBPMの原則に従うならば、「指標に基づく政策は、便益のほうが費用よりも上回っている」というエビデンスがないのであればやめたほうがよいことになる」(270p)というわけです。

 

 本章の後半では社会保障分野における分野におけるEBPMを検討していますが、著者は定量分析の結果を活かすべき分野として、社会保障制度が有する家族機能や地域機能との関係性をあげています。

 近年、社会保障に関しては社会保障制度の拡充から、財政難もあって自助・互助と共助・公助のバランスをとることが重要という論調に変わってきていますが、実は「かつては家族や地域がセーフティーネットの役割を果たしていた」というのは神話に過ぎないのかもしれません。平均寿命の短かった時代では、老後の蓄えも介護もそれほど必要ではなかったかもしれないのです。

 

 こうしたことを踏まえて、著者は「エビデンスは制作決定の一要素にすぎないことを認識したうえで、エビデンスが議論に資する状況を見極めるほうが有意義である」(284p)と述べています。

 また、終章では次のようにも述べています。

 やや斜に構えた見方かもしれないが、エビデンスの役割は政策目標を明確にすることに寄与するところが大きいのではないかという気がしている。行政はとかく当該施策の担当部署内で完結してしまう思考を抱きがちであり、本来の施策の目標が失われがちである。そのようなときに、エビデンスに基づいた議論をしようとすることは、そのエビデンスが現状では容易に得られないようなことがあったとしても、政策目標や論点を明確にするという意味で、やはり必要なことではないか。エビデンスそのものというよりも、エビデンスの探求自体が、同じ議論の土俵に立たせてくれるのである。(303p)

 

 思いもよらず長いまとめになってしまいましたが、これは本書の性格の反映でもあります。本書はズバッとエビデンスを示して、明確な処方箋を示すような本ではなく、現状認識を示した上で、社会保障制度の複雑さと難しさをさまざまな角度から示したものとなっています。

 「答え」を知りたい人にはもどかしい本かもしれませんが、問題を考えたい人にとっては有益で非常に読みごたえのある1冊になっていると思います。