猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』

 本書の冒頭にある問いは「iPhoneはメイド・インどこか?」というものです。USAでしょうか? チャイナでしょうか? それとも別の国でしょうか?

 正解は「Designed by Apple in Califoronia, Assembled in China.」というものです。

 iPhoneは一つの典型的な例ですが、現在の工業製品はさまざまな国から部品が集められ、中国などで組み立てられ、そして世界各地へ出荷されています。この国境を超えたサプライチェーンがグローバル・バリューチェーンです。

 本書は、このグローバル・バリューチェーン(以下GVC)の実態とメカニズムを明らかにするとともに、副題に「新・南北問題へのまなざし」とあるように、今後の南北問題も展望しています。米中貿易摩擦を読み解く知見もありますし、非常に刺激的ですし勉強になる本です。

 

 目次は以下の通り。

第1章 GVCとは何か

第2章 GVC誕生秘話 東アジアの統合された多様性

第3章 怒れる米国、かわす中国 GVCをめぐる超大国のロジック・ゲーム

第4章 付加価値から見た世界経済

第5章 価値は世界をどうめぐっているか 付加価値貿易の計測手法

第6章 技術革新と経済発展

第7章 GVCパラダイム 新・新・新貿易論?

第8章 新・南北問題の解決へ向けて 政策への含意

第9章 第4次産業革命におけるGVC

 

 少し前のものになりますが、2009年にiPhone3Gの部品単価を分析したところ、フラッシュメモリーやディスプレイ・モジュールを供給する日本が付加価値の12.12%、ベースバンドやカメラモジュールを供給するドイツが6.03%、アプリケーション・プロセッサーSDRAMを供給する韓国が4.59%、Bluetoothなどを供給するアメリカが2.15%、組み立て加工の中国が1.30%を占めていたそうです。ここの流通マージン等の64.21%が上乗せされて500ドルのiPhoneとなります(20p表1−1参照)。

 このようにアメリカで設計し、各国の部品を集め、人件費の安い中国で組み立て、営業・販売、アフターサービスはアメリカで行なうという仕組みができあがっています。

 こうした国境を越えた分業の形態がGVCです。分業が経済発展の鍵であることはアダム・スミスが言っていますが、現在ではこれが国境を超えた形で行われているのです。

 

  「①生産要素(労働、資本、土地)の価格や生産性の格差は、国内よりも国間の方が大きい」のですが、「②肯定感を連結するための費用は、単国内よりも複数の国にある拠点を結ぶ方が大きい」(27p)ため、①によるメリットが②のデメリットを上回らなければGVCは形成されません。

 地域における比較優位が明確で、生産ネットワーク間のアクセスが容易で、なおかつ分業のもたらすスケールメリットを活かせるだけの消費市場が存在することがGVCの発展には必要になります。

 そして、現在この条件が揃っていると思われるのが東アジアです。

 

 EUが「似た者同士」のグループであるのに対して、東アジアは日本や韓国のような先進工業国がある一方で、インドネシアのような資源国、シンガポールのようなサービス産業立国、さらに巨大な労働力を持つ中国と、異質な国が集まっています。本書の48−49pに各国の産業構造をその産業特価の度合いによって比較するグラフが載っていますが、それをみれば東アジアの多様性が視覚的にわかるようになっています。

 

 さらに51−53pにかけて、産業の生産額シェアを表したスカイライン・チャートが載っていますが、これをみるとアメリカが各分野において過剰生産あるいは生産不足の少ない極めてフラットな形を占めているのに対して、中国、インドネシア、韓国・台湾・シンガポール、マレーシア・フィリピン・タイといった国々のスカイライン・チャートは凸凹であり、比較的フラットな日本においても製造業を中心に生産過剰が見られます。

 ただし、東アジアとアメリカをひとまとめにしてスカイライン・チャートをみると(55p図2−8)、ほぼフラットな構造になっています。個々のピースは凸凹でもアメリカという消費市場も組み入れて考えると、そこには互いに組み合わさったシステムの姿が見えてくるのです。

 

 さらに東アジアには域内に香港とシンガポールという「高度に整備された輸送インフラや物流管理能力、そして英語と中国語をほぼ等しく主要言語に持つことなど、他の国にはない強力な優位性」(57p)を持つ場所があります。

 さらに東アジア地域の関税は、関税の上限である「譲許関税」よりも低い税率が設定されていることが多く、ASEANはもちろん、中国やインドでも関税の引き下げが進んでいます。

 こうして出来上がった東アジアのGVCについて、本書の第2章では次のようにまとめています。

 

 中国という存在が、東アジア地域に極めて特異な生産システムをもたらした。すなわち、

 (1)中国以外の東アジア諸国が高付加価値の部品・付属品を生産し、

 (2)それらを中国の安価(低付加価値)な労働力によって集中的に最終製品へと組み上げ、

 (3)消費市場としての欧米諸国に輸出する、という三角構造に基づいた国際分業体系である。そして、この非対称的な価値創出メカニズムこそが、今日における米中貿易不均衡問題の本質を読み解くカギとなる。(63−64p)

 

 第3章では、いよいよ米中貿易摩擦に焦点が当てられているわけですが、まず、アメリカの地域のデータを見ると、2016年のアメリカ大統領選挙において、中国との競争に多く晒されている地域の有権者ほど 共和党に投票する割合が高かったことがわかります(77p図3−1参照)。

 中国は1990年代なかばから2011年にかけて世界の加工生産輸出の44〜55%程を占めていました(89p表3−1参照)。前世紀の末から工業製品の輸出における中国の存在感というのは圧倒的です。

 

 しかし、ここで気をつけたいのが中国はあくまでの最終的な組み立てを行っているだけであり、中の部品は別の国で作られているケースが多いということです。

 先程、iPhoneのケースをとり上げましたが、中国で行われているのは最終的な組立工程にしかすぎません。ところが、アメリカに向けて輸出されるのは180ドル近い商品であり、輸出統計にも180ドル分の輸出が計上されます。つまり、中国が得ている付加価値は組立工程のわずかなものなのに、統計上は中の部品を含めた価格が計上されているのです。

 

 ですから付加価値ベースでアメリカの対中貿易赤字を見るとその数字は圧縮されます。2005年では約23%、2015年でも約12%過大に計上されていると考えられるのです(米国政府統計との乖離はさらに大きい、91p図3−5参照)。

 付加価値ベースで貿易を見ると、中国の対米黒字は圧縮され、日本や韓国の対米黒字は増大することになります(93p図3−7参照)。「対中国での赤字が日本や韓国に振り替えられるという、政治的にも極めてセンシティブな結果」(94p)となるのです。

 

 ただし、この事実が知られるようになれば米中貿易摩擦はおさまるかというと、著者は否定的です。中国でも中間財の生産が増えており、統計と付加価値ベースのギャップは縮まってきていますし、現在、摩擦のポイントは知的財産権の問題へと移りつつあるからです。

 このことについて著者は次のように述べています。

 近年の主に協調ゲームを基盤としたGVCにおいて、米中貿易関係は非熟練労働をめぐる対立を抱えつつも、根底では常に米国の知的資本と中国の労働力による「共謀」を前提としてきた。それゆえ、トランプ政権の対中強硬路線にはある種の偽善性・演劇性が潜んでいたわけであるが、前述のZTEとファーウェイに対する措置は、これまでとは様相が異なるものとして見ていいのではないだろうか。(97p)

 

 第4章では、付加価値貿易の考え方を説明しつつ、付加価値貿易の視点から見るとないが見えてくるかを紹介しています。

 詳しくは本書を見てほしいのですが、自動車産業においてドイツの高付加価値化が際立っており、それに連れてスロバキアハンガリーチェコなどの周辺諸国で「自動車産業化」が牽引されている一方で、アメリカとメキシコの関係においては、アメリカの生産ラインがそのままメキシコに移植されたような動きを見せています(115p図4−6参照)。これは興味深い分析です。

 

 第5章は付加価値貿易の計測方法を扱った章で、産業連関分析から入って付加価値貿易の計測方法やそのデータを紹介しています。

 

 第6章では技術革新がGVCを通して経済発展に及ぼす影響を分析しています。

 製造業にはさまざまなスタイルがあり、自動車のように部品同士の丁寧なすり合わせが必要な垂直統合型から、サプライヤーがクライアントに従属する従属型(アパレルなど)、加工業者に一定の裁量をもたせる相互依存型(近年ではアパレルでもこのタイプがある)、部品の標準化が進んでいるモジュール型、ほぼ汎用部品で構成される市場型といったタイプがあります。

 

 近年では、モジュール化の動きが自動車産業でも起こっています。こうした中でデルファイ、ボッシュデンソーといった基幹部品メーカーが存在感を高めるとともに、中国では瀋陽航天三菱汽車とデルファイが、主に中国の地場自動車メーカーに対して、その個別の車体を基準にエンジンなどの基幹部品をマッチングして販売するという協業を行っています。瀋陽航天三菱汽車がエンジンとトランスミッションを、デルファイが電子制御ユニット(ECU)を提供することで、技術力の低いメーカーでも自動車の生産が可能になるのです(157−158p)。

 

 また、電子産業ではプラットフォーム・リーダーと呼ばれる製品の技術基盤を提供する企業が存在感を高めています。代表例はなんといっても「ウィンテル」(マイクロソフトインテル)ですが、中国の携帯電話市場では2G/3Gのときは台湾のメディアテックが、4G のときは米国のクアルコムが、その基幹となる製品パッケージを供給することで存在感を高めました。クアルコムと中国の携帯電話メーカーに関しては、相互依存型の関係に変容しつつあると著者は見ています。

 

 こうした状況に関して、著者は次のように分析しています。

 従来、グローバル市場に参加するには国内に高度な産業基盤を必要とし、まず前提として、その国が巨大な資本投下を伴う工業化の長い道程をたどることが想定されていた。しかし、輸送技術や情報通信技術の発達により生産工程の細分化と地理的分散が進展したことで、強力な産業基盤を持たない途上国でも、組立工程など自国の技術レベルに合った部位を国際的なサプライチェーンから切り取ることが可能となった。(168p)

 このような中で、技術移転も先進国主導企業と途上国企業の関係性の中で進んでいきます。技術自体の国際移転・伝播のスピードも上がっており、GVCには経済発展のプロセスは今までよりも大幅に圧縮する力があるのです。

 

 第7章ではGVCが新しい貿易理論をもたらすかどうかが検討されています。やや専門的な議論も含むので詳しいことは本書を読んでほしいのですが、リカードがその基礎を確立し、ヘクシャー=オリーンからサミュエルソンに至る流れの中で維持してきた3つの古典的命題の1つ目(完全競争のもと、生産活動は規模に対して収穫不変である)をクルーグマンの「新貿易論」が覆し、2つ目(産業は均質な生産者によって構成されている)をメリッツの「新・新貿易論」が覆したわけですが、GVCパラダイムは3つ目の命題(各国は最終製品についてのみ貿易を行い、また、それら製品は輸出国の生産要素だけを用いて生産される)も覆すことになります。

 

 第8章ではGVCを通して「新たなる南北問題」を展望しています。

 GVCは今までの先進国と途上国の壁を壊しつつあります。例えば、電気・光学機器産業のサプライチェーンにおける付加価値のあり方を見ると、1995年の段階では高付加価値=先進国、低付加価値=途上国という棲み分けがはっきりと見られたのに対して、2009年の段階ではその棲み分けが崩れつつあります(195p図8−1参照)。

 そうしたこともあって、先進国ではグローバル化に対する揺り戻しが起きており、それが政治を大きく揺さぶっています。

 

 しかし、雇用を守るために保護貿易を行なうという選択肢は時代錯誤のものとなっています。「輸入に制限がかかれば生産活動に活用できる中間財・サービスの範囲が狭まり、結局のところ自国企業の国際競争力を著しく低下させる」(198p)からです。

 また、中国の輸出は日本やアメリカにおいても多くの付加価値を生み出しており、逆に2006年に欧州員会が中国とベトナムの靴製品に対して行ったダンピング相殺関税は、欧州域内の靴のデザインや流通などの業者に大きな打撃を与えることとなりました。

 さらに、安価な輸入品が手に入らなくなることは低所得者層の打撃となります。

   

 では、雇用をどうすればいいかというと、著者はサービス雇用が増えていることに注目しています。アメリカの雇用を見ると、2011〜16年にかけて、倉庫業、宅配業、小売業で雇用が伸びており、サプライチェーンの運用を支援する産業での雇用の増加が確認できるのです。

 

 一方、途上国にとってGVCの発展はどうだったかというと、まずは大きな恩恵をもたらしたと見ていいでしょう。雇用が増え、国民所得が上がりました。特に中国は「GVCへの参加を通じて歴史的にも例を見ない急速な富の蓄積を果たし」(206p)ました。

 また、GVCの参加には複雑な取引が行えるだけの法制度の整備も必要であり、GVCに参加するためにそうした法制度の整備が進んだ面もあるでしょう。

 

 しかし、この発展がさらに他の途上国(例えばアフリカ諸国)を巻き込んでいくかというと、著者はやや懐疑的な見方を示しています。

 アフリカ諸国の労働生産性は低迷したままですし、先進国の消費市場に以前のような勢いはありません。また、環境問題に対する関心の高まりで、より厳格な環境影響評価に基づく生産管理が求められるようになりました。

 そして、何よりも生産のオートメーション化が進んだことで、今後、製造業は今までのような膨大な労働力を必要としなくなってくる可能性が高いのです。

 GVCの恩恵は中国+αで打ち止めになってしまう可能性もあるのです。

 

 先進国と途上国の関係においても変化があるかもしれません。21世紀前半の国際ルールづくりでは先進国がルールをつくり、途上国が追随するという形でルールが形成されましたが、GVCによって先進国の絶対優位性はゆるいでいくことになります。もちろん、途上国も安価な労働力党武器は失いますが、その代わりに国内の消費市場という新たな交渉カードを手に入れることになります。

 こうなると、特に国内の市場が大きい中国やインドなどは先進国のつくるルールに従わなくなり、独自のルールをつくっていくようになるかもしれません。

 

 終章では、第4次産業革命とも呼ばれる近年の新技術の製造業とGVCへの影響を検討しています。詳しくは本書を読んでほしいのですが、新技術はサプライチェーンの追跡を容易にし、製造現場のオートメーション化を進めます。

 今までは、途上国は「安価な労働力」という入場チケットをもってGVCに加わり、成長とともに「安価な労働力」というチケットをさらに貧しい国に譲り渡していく形でしたが、第4次産業革命によって、この「安価な労働力」というチケットの有効期限は切れてしまうのかもしれません。

 

 このように本書は、GVCという近年の現象を分析しながら、今後の南北問題や国際貿易体制の行方までを占うという非常にスケールの大きく射程の長い本となっています。それでいて、現状についての細かな分析も充実しており、面白く読みごたえのある本に仕上がっています。

 難解で高度な分析も行っているのですが、それを図やグラフなどに落とし込むことで直観的にわかるようにしていることも、この本の優れている点と言えるでしょう。

 GVCという製造現場に起きている現象だけでなく、米中貿易摩擦の行方や南北問題の行方に興味がある人にもお薦めできる一冊です。

 

 

神林長平『絞首台の黙示録』

 前々から神林長平の作品を読んでおきたいなと思っていたのですが、たまたま手にとった本書の解説が東浩紀で、面白そうだったので読んでみました。

 そしたら、面白い!

 とにかくすごく変な小説で、奇想と言ってもいいかも知れません。国書刊行会がマイナーで変わった小説を集めた<ドーキー・アーカイヴ>というのをやっていますが、それよりもさらに奇妙な小説ですね。

 

 まず、この小説はある人物に絞首刑が執行されるシーンから始まります。死刑が確定したあと、キリスト教の牧師の教誨師を呼び、相手を挑発するような議論を仕掛けた男に絞首刑が執行されます。

 基本的には一人称で描かれていますが、視点のとり方がやや独特で少し違和感を感じさせるところがあります。

 

 次に伊郷工(いさとたくみ)という作家の男を中心とした物語が始まります。工は松本に住んでいますが、一人暮らしの父・伊郷由史(よしふみ)が新潟におり、その父が契約している葬儀社の者から、父の姿が見えないが行方を知らないか? という電話がかかってくるのです。

 まさか、と思いつつ工は車で新潟に向かうのですが、実は彼にはかつて文(たくみ)という同じ音の名前を持つ双子の兄がいて生後3ヶ月で亡くなっています。この名付けを行ったのは父の由史であり、その点で父も変わった人間なのです。

 

 到着した実家には父の姿はありません。孤独死という最悪な状況は避けられたわけですが、父の行く先は謎のまま、夜の11時すぎになります。そこで、玄関を開ける音がします。当然、父が帰ってきたのか思うと、そこに現れたのは自分とそっくりな顔を持つ男であり、「お前は誰だ」と問いかけてくるのです。

 この男は死んだはずの文(たくみ)なのか、それともドッペルゲンガーなのか。少しこの手の小説を読み慣れた人ならば多重人格というネタも思い浮かぶと思います。

 

 ところが、この男はしばらくすると、自分は死刑を執行された死刑囚で、自分の中には2つの記憶があるということを話し始めるのです。

 ここからこの小説の奇妙さが全開となります。この二人の「たくみ」という謎だけでなく、入れ替わる視点、謎の研究施設、改変された司法制度など、さまざまな違和感を読者に感じさせながら物語は進んでいきます。

 そして、この物語の登場人物は極めて少なく、ほとんど会話劇のような形で進行する部分もあります。

 

 この小説の奇妙さを解説で東浩紀はゲームにおけるキャラクターとプレイヤーの関係などを用いて説明していますが、とにかく神林長平はこの小説に誰もが思いつかないようん奇妙な設定を仕掛けているので、まずはそれを楽しんでもらえればいいのではないかと思います。

 ミステリーとしても読めますが、そこにきれいな解決編はありません。ただ、変わった小説を求めている人には間違いなくお薦めできる本です。

 

 

Big Thief / Two Hands

 今年、3rdアルバムの「U.F.O.F.」をリリースしたばかりのBig Thiefのニューアルバムが早くも登場。

 ここまでリリース間隔が短いと「B面的な曲」を集めたようなアルバムかと想像しますが、「U.F.O.F.」よりもむしろ派手で、一般受けするアルバムに仕上がっています。

 特に2曲目の"Forgotten Eyes"と7曲目の"Not"はキャッチーさもあり、それでいてボーカルのエイドリアン・レンカーの繊細かつ力強い声が堪能できる曲で、Big Thiefというバンドを聞いてみるきっかけとしていい曲だと思います。比較的単純なメロディであっても、エイドリアン・レンカーが歌うとそこに激しい起伏ができます。"Not"にはこの手のバンドのギターにはない歪みや力強さもありますね。

 他にも4曲目の"Two Hands"はこのバンドのキラキラした繊細な感じが楽しめる曲ですし、あとは8曲目の"Wolf"のサビのコーラスもいいですね。

 味といった点では「U.F.O.F.」もいいですが、Big Thiefの繊細さと力強さがわかりやすく現れているのはこちらのアルバムですね。

 

 


Big Thief - Not (Official Audio)

 

 

ポール・コリアー『エクソダス』

 『最底辺の10億人』『民主主義がアフリカ経済を殺す』などの著作で知られる開発経済学者のポール・コリアーが移民について論じた本。

 トランプ大統領の誕生にBrexitと、移民の問題がクローズアップされる機会が続きましたが、この本の原書が出たのは2013年であり、トランプやBrexitについては論じていません。それでもいくつかの問題に関しては先取りして論じていおりますし、また、移民問題は解決したわけでものないので、まだまだタイムリーな内容となっています。

 また、「最底辺の10億人」を研究テーマとしてきた著者らしく、移民を受け入れる側だけではなく、送り出す側への影響についても紙幅をとって分析しているのが特徴です。

 著者は移民のもたらす正負の影響を分析しながら、最適な移民の規模や政策というものを探ろうとしています。

 

 目次は以下の通り。

 

プロローグ 1

第Ⅰ部 疑問と移住プロセス

 第1章 移民というタブー

 第2章 移住はなぜ加速するのか 

第Ⅱ部 移住先の社会──歓迎か憤りか?

 第3章 社会的影響 
 第4章 経済的影響 

 第5章 移民政策を取り違える 
第Ⅲ部 移 民──苦情か感謝か?

 第6章 移 民──移住の勝ち組 

 第7章 移 民──移住の負け組 

第Ⅳ部 取り残された人々

 第8章 政治的影響 

 第9章 経済への影響 
 第10章 取り残された? 
第Ⅴ部 移民政策を再考する

 第11章 国家とナショナリズム 

 第12章 移民政策を目的に合致させる 

 

 移民は、分析される前から政治化されてきた。貧困国から富裕国への人の移動は単純な経済プロセスだが、その影響は複雑だ。移民に関する公共政策は、この複雑さと折り合いをつけていかなければならない。(10p)

  これは本書のはじめの方に置かれている文章ですが、移民をめぐる意見は、まず「移民に賛成」「移民に反対」という考えがあって、それに基づいて移民の好影響や悪影響が論じられがちです。

 しかし、人口が1億人の国に10万人移民が入ってくるのと、1000万人移民が入ってくるのでは全然違うはずですし、また、その移民が文化的に見て近い地域から来るのか、まったく違う地域から来るのか、高技能の移民なのか、未熟練労働者の移民なのかによっても、その影響は大きく違うはずです。

 本書は、移民が良いのか悪いのかではなく、最適な移民政策を追求する本です。

 

 移民反対論に対する反対の多くはナショナリズムへの嫌悪と結びついていま。特にヨーロッパでは2度の大戦への反省もあってナショナリズムは警戒されており、ナショナリズムが間違っているのであれば、移民を阻止する論拠は弱くなります。

 このナショナリズムに対して著者は次のように述べています。

 アイデンティティを共有するという感覚は、国として得た富を分け合い、持てる者から持たざる者へと富を再分配する行為を受け入れやすくする。つまり、国民的アイデンティティに対する嫌悪感には、協調性が減って、より平等な社会ではなくなるという大きな代償を伴う危険があるのだ。だが多くの利点があるにもかかわらず、国民的アイデンティティを諦める必要が出てくるかもしれない。ナショナリズムが否応なく攻撃的な敵意につながるのであれば当然、それを諦めることによる代償も受け入れなければならないだろう。(17p)

 

 ナショナリズムの悪用を警戒しつつ、国民的アイデンティティの良いはたらきというものも評価していますが、このような両構えの見方は本書の至るところに見られます。例えば、移民は送り出し国にとって富を還流させてくれるかもしれませんが、同時に頭脳流出となって送り出し国にマイナスの影響を与えるかもしれません。

 

 まず、著者が問題とするのは「移住はなぜ加速するのか」という問題です。

 20世紀半ば以降の経済が順調に成長した時期、西欧各国は多くの移民を受け入れました。そして、経済成長が停滞した現在でも、移住の動きは収まってはいません。

 これは2つの理由から説明できるといいます。1つ目は送り出し国と受入国の経済格差です。確かに送り出し国のほうが高成長を続けているケースもありますが絶対的な富の水準でいえば、その差が大きく縮まっているとは言えません。2つ目は先輩移住者(ディアスポラ)の存在です。このディアスポラの存在が大きくなると、移住のコストは下がり、移住が促進されると考えられます。

 

 このディアスポラを測定するのは難しいです。彼らは移住しようとする人の手助けをしますが、中には移民先の国にほぼ同化してしまったり、母国との結びつきが弱まることでこうした機能を果たさなくなる人もいます。

 一方で、ディアスポラが大きければ移民先の文化に同化する必要性は薄くなり、母国との結びつきを維持する人は増えるでしょう。そうなればそのディアスポラを頼って移民はされに増える可能性が高いです。

 ただし、送り出し国の所得水準が受入国に近づけば移民は減少していきます。日本ではかつてアメリカやブラジルなどへ多くの移民が送り出されましたが、現在はそのような現象は見られません。

 

 では、移民は移民を受け入れる社会にとってプラスなのでしょうか?マイナスなのでしょうか?

 著者は、移民のもたらす多様性はプラスになるが、移民が「相互共感」を減少させるようだとマイナスになるかもしれないと考えています。この相互共感とは、例えば、成功した者があまり成功していない者に富を移転させる意思であり、著者は「このような移転はかなり政治化されて自由至上主義社会主義の間のイデオロギー対立に仕立て上げられてしまいがちだが、本来は人が互いをどう見ているかというところに根本がある」(59p)と言います。 

 

 また、他者に対する一般的な信頼のようなものも、共同体の歴史の中で育まれるもので(奴隷貿易が盛んだった地域は一般的によそ者への信頼感が薄い。ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン編『歴史は実験できるのか』所収のネイサン・ナン「奴隷貿易はアフリカにどのような影響を与えたか」参照)、移民が一定以上の規模になるとこうした相互共感や信頼が揺らぐ可能性があります。ロバート・パットナムの研究によれば、移民が増えると先住人口が「閉じこもり」、移民と先住人口間だけでなく、先住人口の間での信頼も低下するとのことです(72−73p)。

  (ただし、この本ではこういった議論のあとに「私がおこなう解釈は、正しくない可能性も十分にある」(76p)と予防線を張った上で、イギリスの非武装警察の伝統と移民も問題の事例をあげているのですが、ここは危うさもあり、なくても良かったようにも思える。)

   

 また、こうした一般的信頼の低下は再分配を難しくすることにもつながります。カリフォルニア州は所得の低い移民が多いものの、州自体は非常に裕福なので再分配によって問題を解決できると思われます(民主党が強い地域でもありますし)。

 しかし、カリフォルニアでは多くの公共サービスが破綻しており、学校制度のランキングでは最底辺のアラバマと並んでいます(84p)。さまざまな要因はあるのでしょうが、著者が指摘する要因の一つが移民の増加によって貧困層への共感が乏しくなったという可能性です。

 

 ただ、移民はずっと移民で居続けるわけではありません。例えば、現在のアメリカでアイルランド系の人を「移民」というカテゴリーで認識する人は少ないはずです。ディアスポラはそのままディアスポラとしてあり続けるわけではなく、その一部は移住先に吸収されていくのです。

 おそらく文化的な距離が近い移民のほうが短い時間で移住先の文化に吸収されていくでしょう。また、歴史を見ればイギリスのようにあとからきた入植者(征服者)が先住民の文化を塗り替えてしまうようなケースもあります。

 著者は文化面からは、移民と先住民の関係としては、同化、あるいは融合としての多文化主義が望ましいと考えており、分離主義を問題だと見ています。移民を一定の地域に集中させることは文化的アイデンティティを必要以上に強化することがあります。例えば、ロンドンのバングラデシュ系の移民の女性はヴェールを受け入れるようになっていますが、母国のバングラデシュではヴェールはあまりかぶられていはいません。また、移民が集中することで移民の利益を代表する政党が伸長する可能性があります(こうした政党が生まれると他の党が移民排斥のポジションを取る誘引になる)。

 

 経済的に見ると、ボージャスの『移民の経済学』でも指摘されていたことですが、基本的に移民は、受入国の富裕層にとってプラス、貧困層にとってマイナスの影響を与えます。富裕層はベビーシッターなどの移民労働者の恩恵を受けるかもしれませんが、貧困層にとっては競争相手が増えることになります。

 ヨーロッパでは、技能の高い移民が先住人口の賃金を引き上げるとの研究もありますが、住宅については需要を増やすことになり、家賃や住宅価格を引き上げます。これも貧困層にとっては痛手となるかもしれません。

 また、東アジア系の移民に関しては親が教育熱心だということもあって、成績の上位に来ます。これは悪いことではないですが、カナダでは法律などの科目で半数近くが東アジア系ということもあり、このままいけが判事の多くが東アジア系になるかもしれません。もし、これらの人々のどうかが進んでいれば問題はないですが、分離したままか彼らの文化を法廷に持ち込むことがあれば、それは問題かもしれません。 

 

 「高齢化の相殺には移民が必要だ」との議論があり、日本でもこうした意見はよく聞かれます。

 確かに、若い移民を受け入れることは一次的に労働力不足などを補うかもしれませんが、平均寿命の伸びは継続的に起こっており、対策としては引退年齢を伸ばすほうが現実的であろうと著者は考えています。また、移民は多くの子を持つ傾向があるため、従属人口という考えでいえば別の問題をもたらします。

 中東諸国のようにゲストワーカーと割り切って受け入れるケースもありますが、著者は「高賃金の民主主義国家への移民は単なる労働力の一部ではない、社会の一員なのだ」(129−130p)と指摘し、さまざまな観点に注意を払うべきだとしています。

  こうしたことを踏まえながら、移民の受け入れが利益になるかそうならないかは、受け入れる移民の数、その国の人口密度などによって異なるだろうとしています。

 

 本書では次に移民の視点から分析を行っています。貧困国から富裕国へ移住した場合、移住者の所得は上がります。単に労働者を機能不全な社会からより機能的な社会に移すだけで、その労働者の生産性は上がるのです。

 こうして移住者は利益を得るわけですが、この利益を税の形で母国に還元すべきだという議論もあります。移民による所得の向上は棚ぼた的なものでもあり、母国の貧しい同胞に還元すべきだというのです。ただし、この母国への税が母国の腐敗したエリートに吸い取られる可能性も高くいですし、移民の所得を引き下げ、彼らを二級市民の地位に押し止めるはたらきをするかもしれません。

 

 移民をするかどうかを決断するのは本人だと思われていますが、移民を投資と考えると、そのお金を出す家族の意思も大きいのかもしれません。移民を送り出す家族は多国籍企業のような存在で「多国籍家族は主に低開発国に拠点を置いて」、「余剰の労働力を富裕国へと送る」(152p)のです。

 また、ディアスポラによる家族や親族の呼び寄せもあります。この呼び寄せを認めている場合、移民のポイント制度などの効果はかなり低くなるかもしれません。

 

 先に移住した移民とっては、あとから来た移民がライバルとなります。彼らによって賃金は下がるかもしれませんし、移民に対する不寛容が高まるかもしれません。

 また、移民たちは移住によって今までよりも高い賃金を手にすることになるわけですが、トンガからニュージーランドへ移住した者を調べた結果、幸福度に関しては低下していました。経済的な成功よりも心理的なコストが大きい可能性もあるのです(167−170p)。

 

 次に来るのは残された者たちです。つまり、移民が外国に行ったあと、残された母国はどうなるのでしょうか?

 アルバート・ハーシュマンは「発言か退出か」という2つの選択肢を提示しましたが、移民は「退出」にあたるのかもしれません。ジンバブエでは大量の人々が南アフリカへの移住しましたが、その「退出」によってムガベ政権のひどい政治が続いたともいえます。

 一方、移民が移住先で民主主義に触れ、帰国したあとにそれが好影響を与えるということもあるかもしれません。マリで行われた研究では帰国した移民の投票率は高く、しかもその周囲の人の投票率もあがったそうです(179−181p)。

 ただし、スリランカのようにディアスポラが反政府組織を支援したことが混乱を長期化させたようなケースもあります。

 ともにアメリカに多くの移民を送り出している国にエリトリアカーボベルデがありますが、後者のガバナンスが良いのに対して前者は最悪に近いです。ディアスポラが母国に与える影響というのはまだよくわからない部分も多いです。

 

 近年、移民を送り出す国で心配されているのが「頭脳流出」です。その国を支えるべきエリートや医師などの専門職の人々が海外に行ってしまうケースが多いのです。

 中国では、確かに学生たちは大挙して欧米などへ渡りますが、その多くは帰国します。ある意味で欧米の教育機関を踏み台にしてるとも言えます。一方、貧困国から欧米へと渡ったエリートの中には母国の状況への失望から帰国しない者も多いです。中国などを含む途上国全体で見れば「頭脳流出」は問題になりませんが、貧しい小国から見れば、それは大きな問題かもしれません。

 

 移民の送り出し国にとって大きなものが移民が母国に行なう仕送りです。2012年に高賃金国から発展途上国へ送られた仕送り額は約4000億ドルで、国際援助資金の4倍です(200p)。ただし、これには中国に送られる500億ドル以上の金額も含まれており、中国の経済規模からするとこれはたいしたものではありません。

 ただし、ハイチは移民の仕送りが所得の15%前後を占めますし、エルサルバドルは16%、バングラデシュとフィリピンは12%とけっこうな規模になります。

 移民の規模が大きくなれば、仕送りも多くなりますが、一方で移民の壁が低くなれば移民は家族や親族を呼び寄せて仕送りをしなくなるかもしれません。

  

 以上の点などを検討しながら、著者は頭脳流出に対する補償として以下のような政策を提案しています。

 受入国政府は、教育の見返りの税収分を移民の出身国に対して支払うべきだ。補償の大まかな基準となるのが、受入国政府の教育予算の割合だ。たとえば、教育が公的支出の10%を占めるのなら、移民からの税収の10%が正当な補償と考えられる。(219p)

 

 後半で著者はもう一度ナショナリズムの問題に触れています。次の文章は皮肉っぽいですが、やはり国家の枠というものは改めて強いものです。

 欧州連合はヨーロッパ全体として収入の1%未満しか、加盟国間で再分配していない。ユーロの苦労と、「移転連合」(これは「ギリシャ人の分まで払う」と読む)という考え方に対するドイツ人の激しい反発は、アイデンティティの再構築の限界を証明している。相応な額の再分配を可能にするため、ヨーロッパ人としての共通のアイデンティティでさえ満足に築けないことを、欧州共同体は50年かけて証明した。(228p)

 

 「国民的アイデンティティは貴重なものであり、同時に許容できるものである」(233p)と述べる著者は、この国民的アイデンティティの維持や、あるいは途上国からの頭脳流出などを考えれば、移民には適切な規模(幸福な中間点)があるだろうと考えます。

 「ハイチはすでに、国外移住がメリットとなる地点をはるかに過ぎている。幸運な者は出て行くが、取り残された人々は全人類に追いつくことができないままなのだ」(263p)とあるように、多すぎる移民は受入国だけでなく、送り出し国にとってもマイナスとなります。適切な移民の規模(この本を読む限り、それは現状よりも小さい)を探っていこうというのは本書のメッセージです。

 

 いつものように著者の主張は刺激的であり、本書も面白いです。ただし、まとめで「かもしれない」を多用したように、まだ推測の部分や、限定された研究に依拠している記述も多いように見えました。確定的な事実を述べた本というよりは、刺激的な問題提起の本として読むのがよいでしょうね。

 

 

マイケル・オンダーチェ『戦下の淡き光』

 1945年、うちの両親は、犯罪者かもしれない男ふたりの手に僕らをゆだねて姿を消した。

 

 これがこの小説の冒頭の一文です。この一文からもわかるようにオンダーチェの新作は非常にミステリーの要素が強いです。読み始めたときは、まずカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を思い出しました。

 語り手である主人公が過去を回想する形で物語が展開するのもカズオ・イシグロっぽくて、雰囲気としては似たものを感じます。

 

 ただし、物語の展開の仕方は随分違いますね。冒頭に示したように主人公のナサニエルと姉のレイチェルの前から両親が姿を消すことから物語は始まります。

 両親が子どもたちの世話を頼んだのは、主人公たちが「蛾」と呼ぶ謎の男で、そこに「ダーダー」と呼ばれる元ボクサーの男が加わります。

 まず主人公たちの前に立ちはだかるのが「「蛾」とは一体どんな男なのか?」という謎であり、次に「母は本当はどこに行ったのか?」という謎です。アジアに行くことになった父のもとに行ったはずだった母は、どうも父のもとには行っていないらしいのです。

 

 この謎だけでも物語を引っ張るのに十分ですが、さらに魅力となるのが1945年という時代設定です。

 戦争が終わった直後、まだ戦争における非日常が残っていましたし、社会には戦争によってできたさまざまな穴が空いた状態でした。そして、人々はドイツの備えるために非日常の任務についていた過去を持っていました。

 主人公と姉も、学生でありながら、蛾やダーダーに導かれるままに、冒険と言ってもいいような活動に参加していきます。このあたりの描写は非常に面白いですね。

 

 また、この「戦争と秘密」といったテーマは、著者の作品の中でもっとも有名な『イギリス人の患者』(『イングリッシュ・ペイシェント』の題名で映画化)にも通じるもので、オンダーチェを読んできた人にはおなじみだと思います。

 

 そして、主人公の少年時代を描いた第1部に続いて、その謎解きとも言える第2部があります。この構成はちょっとシャーロック・ホームズの長編っぽくもあるのですが、謎解きが目的ではないので、そこまで鮮やかな謎解きはありませんが、主人公の少年時代に周囲にいた人物が一体どんな人物だったのかということが明らかになります。

 そして、ラストのその一人との再会のシーンは見事です。自分の知らなかった自分の人生が明かされる瞬間でもあります。

 もともとオンダーチェは大好きな作家なのですが、この小説もいいですね。

 

 

『ホテル・ムンバイ』

 タイトルから「『ホテル・ルワンダ』のようなヒューマンドラマなのかな〜?」くらいにしか思っていなかったのですが、TwitterのTLで「傑作!」との声を聞いて見に行ってみたんですけど、確かにこれは面白い!近年でも出色の緊迫感を持った映画です。

 題材は2008年のムンバイ同時多発テロ。チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅、二カ所の五つ星ホテル(オベロイ・トライデントとタージマハル・ホテル)、ユダヤ教の礼拝所などがイスラーム過激派に襲撃されたテロ事件で、この中のタージマハル・ホテルが映画の舞台となります。

 

 ストーリーとしてはテロリストがホテルを占拠し、主人公のホテルのレストランで働く給仕や、客であるインド人のセレブな奥さんとアメリカ人の旦那とその赤ちゃんとベビーシッターらが、なんとかしてテロリストから隠れ、そして脱出しようとする話なんだけど、とにかく緊迫感があります。

 占拠されたホテルは密室なわけだけど、2008年というとスマートフォンなども普及し始めた頃で、携帯で連絡は取れるし、外からのニュースもスマートフォンなどで見ることができる。さらに犯人たちも黒幕と携帯で連絡を取りながら行動していて、この形態などでの連絡がピンチを救ったり、窮地を招いたりする。

 この構成は本当によくできていて、ありきたりのアクション映画では味わえない緊迫感を映画にもたらしています。ちょっとポール・グリーングラスの作品を思い出させます。

 

 また、この映画に緊迫感をもたらしているのがテロリストがほとんど少年と言ってもいいような人物たちであること。

 彼らはイスラーム過激派にスカウトされ、訓練を受け、そして携帯で黒幕から指示を受けながら犯行に及びます。「異教徒によって富を奪われた」と吹き込まれている彼らは冷酷な殺人鬼なのですが、同時にまったくプロフェッショナルではないので、一つひとつの行動に緊張感があり、そして思いがけぬ自体には動揺します。ここの描き方もうまいです。

 間延びしないように短く挟まれている人間ドラマの部分も印象的ですし、非常に良くできている映画だと思います。

 監督のアンソニー・マラスはこれが長編デビュー作とのことですが、注目すべき監督かもしれません。

 

 

帶谷俊輔『国際連盟』

 副題は「国際機構の普遍性と地域性」。国際連盟の抱えていた問題を、第一次世界大戦後の中国に対する連盟のスタンスや、南米のチャコ紛争に対する連盟の関わりなどから探ろうとした本になります。

 

 国際連盟というと「失敗だった」というイメージが強いと思います。何といっても第2次世界大戦を防げなかったことは致命的ですし、満州事変への対処をはじめとして、紛争の防止や調停といった面でもあまり効果をあげていない印象があります。もちろん、篠原初枝『国際連盟』中公新書)などを読むと、連盟に寄せられた期待や連盟の果たしてきた役割はそれなりに見えてくるのですが、やはり「失敗した組織」という印象は拭えないと思います。

 

 ところが、国際連盟の失敗を乗り越えて作られたはずの国際連合ウクライナ危機などにおいて有効な対処を取れないのを見ると、結局、大国のルール違反に対して無力だという点では連盟も連合も無力なのだとも言いたくもなります。

 つまり、国際連盟の「失敗」はまだ乗り越えられてはおらず、国際連合もあおの「失敗」を抱えたままになっているのです。

 

 また、国際連盟の創設によって「国際政治」がヨーロッパ諸国以外にも開かれました。アメリカこそ不参加でしたが、日本は常任理事国となり、ラテンアメリカの多くの国が参加しました。

 ヨーロッパの大国同士の駆け引きに加えて、「ヨーロッパと非ヨーロッパ」、「大国と小国」とう新たな対立軸が生まれます。第二次世界大戦後、「ヨーロッパと非ヨーロッパ」という対立は「先進国と発展途上国」という対立に変わりましたが、それでも国際連盟が抱えた対立軸はいまだに生きていると言えます。

 本書は、あくまでも当時の連盟の問題点をとり上げていますが、こうした問題を見ていくことで現在の国際連合、そして国際政治の抱える問題点が見えてくる内容となっています。

 

 目次は以下の通り。

序章

第一章 国際連盟理事会改革における「普遍」と「地域」

第二章 中国問題と国際連盟――紛争の国際連盟提起と代表権問題

第三章 アジア太平洋地域の条約秩序と国際連盟――国際連盟と多国間枠組みの競合と包摂

第四章 ラテンアメリカ国際連盟――チャコ紛争における国際連盟と地域的枠組みの競合

第五章 国際連盟と地域機構の関係設定の試み

終章

 

 第1章では国際連盟の理事会改革がとり上げられています。

 連盟は当初、パリ講和会議と同じく米英仏伊日の5カ国を中心に形作られようとしていました。しかし、1920年の第一回連盟総会では早くもアルゼンチンや中国から不満が噴出します。

 このときに中国やラテンアメリカが持ち出したのが地域に配慮した非常任理事国の配分でした。いわゆる「分洲主義」と呼ばれるものですが、中国やラテンアメリカ諸国はヨーロッパの大国による支配に対抗するためにこの論理を用いたのです。

 ここで微妙になるのが非ヨーロッパの大国である日本の立場ですが、山東問題で中国と対立を抱えながらもアジアの代表として中国の立場を支持する態度をとっています。

 

 1922年の総会では、非常任理事国が6カ国に増え、その中身もブラジル、ベルギー、スペイン、ウルグアイスウェーデン、中国となり、ラテンアメリカから2カ国、アジアから日本を含めて2カ国が理事会に席を持つことになりました。

 しかし、地域を選出の基準や、あるいは選出の母体とすると、それだけ連盟は地域色を強めることになり、その普遍性は薄れる恐れがあります。

 この問題はドイツの連盟加盟と、ドイツの常任理事国入りが話題になるとさらに先鋭化していきます。1925年のロカルノ条約によって翌26年にドイツは国際連盟に加盟し、常任理事国となるわけですが、それに対して他国からも常任理事国入を求める声が上がったのです。

 特にブラジルは自らを米州の代表として常任理事国入りを強く求めましたが、イギリスの外相チェンバレンが「我々にとってヨーロッパの平和を維持し、世界のいずれかの地域でイギリスの利益を擁護するうえで、スウェーデンやブラジルが何の役に立つのか」(27p)と問いかけたように、主要国の関心はあくまでもヨーロッパに注がれていました。

 

 ブラジルは連盟が「普遍的」でならないとし、そのためにはヨーロッパ中心主義を克服し、南米の代表としてブラジルを常任理事国にするべきだと訴えますが、広い支持を得ることはできず、26年6月にブラジルは連盟を脱退します。

 結局は非常任理事国の増員に落ち着き、26年9月の総会における非常任理事国の選挙ではラテンアメリカからチリ、コロンビア、エルサルバドルの3カ国、アジアからも中国が再び選ばれ、地域的なバランスがとられますが、地域単位での非常員理事国の選出は地域主義を活性化させ、連盟の「普遍性」を揺るがす可能性もあるものでした。

 

 第2章は中国の代表問題について。中国はアジアの大国であり国際連盟にも加盟していましたが、問題は中国を誰が代表するのかという問題でした。

 当初は北京政府がある程度安安定しており、中国の代表は北京政府の代表ということで問題がなかったのですが、国民政府による北伐が始まると、果たして中国の代表は北京政府であるべきか、国民政府であるべきかという問題が浮上するのです。

 

 中国代表は第一回の連盟の総会において山東問題を提起しようとします。21箇条の要求という2国間の取り決めて奪われた山東半島を新たにできた国際機関の場で取り戻そうと考えたのです。

 こうした中国の動きに対して、イギリスは日英同盟を意識しつつも日本側に立って中国の排外ボイコットの対象になることも恐れ、最終的には山東問題の連盟への提起を認める姿勢に傾いていきます。

 しかし、この決定は遅すぎで、山東問題をはじめとする中国に関する問題は、連盟ではなくアメリカが主導するワシントン会議で解決されることになります。

 

 1924年の第二次奉直戦争、25年の郭松齢事件、そして26年の北伐の開始と、中国は本格的に内戦状態に突入していきます。

 特に北伐は列強が権益を持つ上海に迫ってくると、「上海に迫る国民革命軍について話し合うべき相手が国民政府であるのに対して、連盟における代表権を保持しているのは北京政府」(56p)という状況が出現します。上海の問題についてイギリスが話し合いたいと思っても、連盟の場ではそれは無意味なのです。

  

 1927年、北伐をつづける国民革命軍と居留民保護のために派兵された日本軍の間で済南事件が起こります。国民政府はこれを連盟に訴えて解決しようと試みますが、ここでも問題となったのは、この時点で連盟において中国を代表しているのが北京政府だということでした。

 日本は上海の例を引きながら、国民政府が当事者である済南事件を連盟が取り扱うのは不適当であると主張します。一方、北京政府と国民政府が協調して連盟に提訴する道も探られましたが、結局うまくいかず、またイギリスなども連盟に代表権を持たない国民政府からの訴えを取り扱うことに否定的だったこともあり、この問題が連盟の場で扱われることはありませんでした。

 

  その後、1929年の中ソ紛争において中国は連盟提訴の構えを見せます。このときには国民政府が中国の統一を成し遂げ、連盟に代表を送っており、中国国内の分裂という問題はクリアーできていました。

 しかし、紛争相手のソ連が連盟に加盟していなかったことから、連盟事務局やイギリスはこの問題を連盟が取り上げることに否定的でした。ソ連が連盟の招請に応じるとは思えなかったからです。

 

 では、紛争相手が連盟加盟国であった場合どうなのか? その答えは1931年に勃発した満州事変で示されます。

 満州事変に関しては、中国の代表問題、相手国の加盟問題の双方をクリアーしており、中国の連盟提訴を阻む要件は残っていませんでした。日本は覚書の提出などによって中国の連盟提訴を阻もうとしますが、国際社会の賛同は得られなかったのです。

 日本の外交は連盟の「普遍性」の広がりについていくことができず、満洲事変後の外交において後手を踏み、ついには連盟脱退へとつながっていきます。

 

 第3章は国際連盟と多国間枠組の競合と包摂について。

 国際連盟規約には一見すると矛盾する以下の規約があります。

第20条【規約と両立しない国際約定】

1 聯盟国は、本規約の条項と両立せざる聯盟国相互間の義務又は了解が各自国の関する限り総て本条約により廃棄せらるべきものとなることを承認し、且つ今後本規約の条項と両立せざる一切の約定を締結せざるべきことを誓約す。
2 聯盟国と為る以前本規約の条項と両立せざる義務を負担したる聯盟国は、直ちにその義務の解除を得るの処置を執ることを要す。

第21条【局地的了解】

本規約は、仲裁裁判条約の如き国際約定または「モンロー」主義の如き一定の地域に関する了解にして平和の確保を目的とするものの効力に何等の影響なきものとす。

              http://itl.irkb.jp/iltrans/zLeagueOfNations.htmlより

 

 20条では「普遍性」を押し出して連盟規約と両立しない協定は結べないことになっているのに、21条では「地域」ごとの個別の取り決めを認めるような内容になっているのです。

 21条はアメリカを連盟に加盟させるために挿入されたものですが、アメリカの不参加が決まったあともこの条文は残りました。そこで、例えば、4カ国条約や9カ国条約、あるいは不戦条約などにおいても連盟との関係が問われることとなったのです。

 

 4カ国条約と9カ国条約については、アジア太平洋地域において連盟の代わりとなるものとして捉えられてきた面があり、両者の競合関係についてあまり検討されて履きませんでしたが、本章ではその競合関係を中ソ紛争や満州事変を題材に検討しています。

 

 4カ国条約と9カ国条約によって、いわゆるワシントン体制が確立するわけですが、この体制には制度化された協議メカニズムが欠けており、連盟との相互補完関係もうまく築くことができないままになりました。

 一方、ヨーロッパでは1920年代後半に連盟と相互補完体制を築くかたちでロカルノ体制が成立します。ただし、アメリカ抜きという連盟の抱える問題は不戦条約の締結過程で問題となります。不戦条約は連盟と同じく普遍的枠組みであり、しかも多様な解釈の余地を残すものだったからです。

 アメリカのデイヴィッド・ハンター・ミラーは、不戦条約を「アメリカと連盟の間で結ばれた条約であると言っても過言ではない」(97p)と述べていますが、この条約が連盟とどのような関係を持つかという点に関して曖昧なままでした。

 

 フーヴァー政権は連盟に加盟しないことを表明しつつ、不戦条約による紛争調停の仕組みを整備しようと考えます。スティムソン国務長官は中ソ紛争に関して両国が不戦条約の加盟国であることを協調して調停委員会の設置を提案しました。

 この提案やイギリスや日本の協力が得られなかったこともあって頓挫しますが、連盟事務局には不戦条約が連盟に取って代わろうとしているのではないかという懸念が残りました。

 

 満州事変に際しても、解決のための枠組は連盟だけでなく、不戦条約や9カ国条約ということも考えられました。スティムソン国務長官関東軍の行動を「反乱(mutiny)」と捉えたことなどによって不戦条約の適用は見送られましたが、日本の撤兵が遅れるとアメリカの不満は募り、アメリカはオブザーヴァーとして連盟に参加することになります。

 連盟はアメリカの取り込みに成功しますが、イギリスや連盟自体も連盟の失敗や行き詰まりを懸念しており、イギリスは9カ国条約への移管なども検討しますが、うまくいかないまま時間が過ぎていきます。

 一方、日本では杉村陽太郎(「いだてん」も出てきた連盟事務次長兼政治部長を務めた人物)が連盟よりも9カ国条約がましな選択肢だと論じますが、基本的には連盟だけでなく不戦条約や9カ国条約もまとめて拒否し、国際的孤立を深めていくのです。

 

 第4章ではパラグアイボリビアの間に起こったチャコ紛争をとり上げています。知っている人は少ない紛争かと思いますが、ちょうど満州事変と同じ頃に地球の裏側で起きた紛争であり、連盟が取り扱おうとした紛争になります。

 アメリカ大陸に関しては、連盟ができる前から定期的に開催されるパン・アメリカ会議、常設機構のパン・アメリカ連合が存在しており、地域の枠組みは東アジアと違ってしっかりしていたといえます。 

 

 そんな中で、1928年12月にパラグアイボリビアの間で起こった国境紛争であるチャコ紛争においても、まずは地域の枠組みである米州仲裁調停会議で解決がはかられました。

 一方、1926年から南米の非常任理事国が増加したこともあり、連盟でもこの問題を取り扱おうという気運が高まります。このときはパラグアイボリビアの両国が米州仲裁調停会議の調停を受け入れたことから連盟の本格的な介入はなされませんでしたが、1932年に再び衝突が起こり紛争が激化すると、連盟の介入が問題となりました。

 当時、満州事変を抱えていた日本は地域の問題は地域で解決すべきとの立場をとりますが、ドラモンド連盟事務総長は連盟がチャコ紛争に関わらず南米に無関心であることは満州事変の審議に悪影響を及ぼすと考えていました。チャコ紛争をとり上げないことは連盟の普遍性を傷つける恐れがあったのです。

 

 アメリカは連盟の本格的な介入に否定的でしたが、地域的枠組みによる仲介が手詰まりとなると、連盟が本格的に仲介になりだしていきます。

 連盟のチャコ委員会は調査を行うとともに、戦争を終わらせるために両国への武器禁輸措置などを行おうとしますが、パラグアイが1936年に連盟を脱退し、連盟の工作は失敗に終わります。すでにブラジル、日本、ドイツが脱退しており、脱退という選択肢は特別のものではなくなっていたのです。

 結局、チャコ紛争は地域的枠組みのもとで1938年に終結します。連盟よりも地域的枠組みが物を言ったわけですが、連盟と地域的枠組みという重層性が粘り強い仲介を可能にしたと言えるかもしれません。「9カ国条約や不戦条約を全て連盟に一元的に統合した結果として、日本を包摂した全ての多国間枠組みが成立し得なくなったアジア太平洋地域と比較すれば、ラテンアメリカにおける多国間枠組みの多元性が解決に寄与したと言えるかもしれない」(167p)のです。

 

 第5章では連盟と地域機構の関係というやや抽象的な問題が扱われています。

 連盟は当初、普遍的な機構を目指してスタートしており、当然ながら地域機構に優越する存在となろうとするわけですが、実際には水平的な協調をはかっていくことになります。

 詳しい内容は割愛しますが、日本が連盟を脱退したあとにイタリアが提案した連盟改革案に対して反応しているところなどは興味深いです。イタリアの提案をきっかけに理事会の地域的分割が議論の対象となるのですが、これに対して杉村陽太郎は、加盟国を欧州アフリカ、米州、アジアの3つに分類し、小国は地域の問題のみ、常任理事国は全ての問題に関与できるような改革を提案し、この改革が実現した場合の連盟への日本の復帰を示唆しています。これが日本政府の意思だったわけではないでしょうが、杉村は満州事変おける連盟の失敗の原因をヨーロッパの小国の対日批判にあると考えていたのです。

 そして、こうした地域主義に対する反省も踏まえて、国際連合憲章の第8章には地域機構に対する国連の統制が規定されることになります。

  この国際連盟国際連合の連続性に関しては終章でも言及があり、国際連合が連盟を反面教師にしただけではなく、連盟での経験をもとに作られた組織だということが見えてくると思います。

 

 このように国際連盟の可能性と抱えていた問題を改めて分析してみせた内容となっています。

 日本からの視点では、どうしても満州事変の対応に集中してしまいますが、それ以前の中国問題、そしてチャコ紛争という地球の裏側での出来事と比較検討することで、満州事変における連盟の動きの背景が改めてよくわかります。

 また、普遍的な国際機関と地域的な国際機関の関係をいかに考えるべきなのかというのは現在にも持ち越されている問題であり、この問題を考える上でも多くの材料を提供していくれています。

 

 1冊の本としてみると、第5章や終章で国際連盟の終わりまで触れてくれると、より自分を含めた一般的な読者にとってはありがたいですが、日本史畑の人にも世界史畑の人にも読んで得るものがあると思いますし、連盟の動きだけでなく、当時の外交の様子というものについてもイメージが湧くような内容になっていると思います。