柴崎友香『春の庭』

 芥川賞受賞作の「春の庭」他、「糸」、「見えない」、「出かける準備」を収録しています。分量的には「春の庭」が中編、他は短編という形になります。

 読んでからちょっと時間が経ってしまったこともあるので、ここでは表題作の「春の庭」だけをとり上げます。

 

 主人公の太郎は世田谷の取り壊しが決まったアパートに住んでいます。取り壊しが決まっているので契約期間が終わった住人から出ていくようなアパートなのですが、太郎はギリギリまでそこに住もうと考えています。

 そんなときに、住人の一人の西という女性が、アパートの隣の「水色の家」に並々ならぬ関心を示していることを知ります。

 ひょんなことから太郎は西と酒を飲んだりするようになり、西が「水色の家」に関心を持つ理由や西の生活ぶりなどを知ることになります。

 

 ただし、太郎と西の間に恋愛的な要素はなく、二人の関心はあくまでも「水色の家」です。このあたりの「住宅」というものを丁寧に描こうとする姿勢は著者ならではですね。

 そして、柴崎友香といえば後半の「あっ」となる展開が1つの売りだと思いますが、本作の特徴は最後に太郎の姉というまったくの外部の視点が挿入されることですね。

 基本的にアパートとその裏の狭い空間を舞台にした閉じた小説なのですが、ここで開かれることになります。

 『寝ても覚めても』や『わたしのいなかった街で』のほうが、より「あっ」となる小説ですが、この「春の庭」も著者の特徴が感じられる作品です。

 

 

 

十河和貴『帝国日本の政党政治構造』

 1924年加藤高明護憲三派内閣以降、政友会と憲政会(→民政党)が交互に政権を担当する「憲政の常道」と言われる状況が出現しますが、なぜ、このような体制が要請されたのでしょうか? そして、この政権交代の枠組みを運営したのは誰なのでしょうか?(明治憲法のもとでは議会での多数派が組閣を導くわけではない)

 

 また、護憲三派内閣以降の政党内閣の歴史は「政友会の堕落の歴史」のように語られることがあります。

 田中義一は鈴木喜三郎などのファッショ的な人物を政友会に取り込んで選挙干渉を行い、対外政策では幣原外交を捨てて対中政策で失敗し、その後の浜口内閣に対しては軍部と結託して統帥権干犯問題を持ち出し、五・一五事件のあとは鈴木喜三郎総裁への西園寺の不信感から政権が回ってこず、天皇機関説問題では右翼と組んで政党内閣を支えた理論にとどめを刺す、こんなイメージもあるのではないかと思います。

 なぜ、初の本格的政党内閣をつくった政友会は自ら政党内閣の寿命を縮めるような行為をしてしまったのでしょうか?

 

 こういった疑問とともに本書を読んでいくと、そこに浮かび上がってくるのは「明治憲法における各省の割拠的体制をいかにして統合していくのか」という問題です。

 

 本書はこの問題を中心にして、元老の再生産問題、護憲三派内閣の位置づけ、植民地統治と拓務省をめぐる問題、各省の割拠性を克服するための田中内閣、浜口内閣、第2時若槻内閣、犬養内閣の取り組み、さらに斎藤実内閣に対する政党のスタンスなどを見ていきます。

 個人的には田中義一内閣の性格付けと、斎藤実内閣がうまくいった要因と、うまくいったがゆえに政党内閣復活の機運がしぼんでいく部分などを特に興味深く読みました。

 この時代の政治についての知識がある程度ある人向けの本ではありますが、日本近現代史に興味がある人はもちろん、幅広く政治に興味がある人が読んでも面白いと思います。

 

 目次は以下の通り。

序 章 政党内閣制を権力統合の視座から問う意味
第Ⅰ部 「挙国一致」の変相としての「護憲三派体制」
第一章 大正後期の政局と宮中の台頭――松方正義牧野伸顕・平田東助を中心に
第二章 二大政党の権力統合構想と「護憲三派体制」の確立
補 論 植民地統治をめぐる相克――文官総督制下の台湾を中心に
第Ⅱ部 「護憲三派体制」における二大政党の統合構想とその限界
第三章 田中内閣の拓務省構想と外務省への挑戦――産業立国の射程
第四章 浜口内閣の政策体系と第二次若槻内閣の行政改革構想――制度的統合への帰結
第五章 犬養総裁期政友会の行政制度設計とその終着――「責任内閣政治」の隘路
終 章 二大政党の統合構想と「護憲三派体制」

 

 明治憲法国務大臣単独輔弼や天皇大権と結びついた多元的な権力機構は、専決的な権限を持つ首相(大宰相主義)と議会に対して連帯して責任を負うイギリス流の議院内閣制をともに排除していました。

 一方、天皇無答責の原則は天皇が実際に統合を担うことを許しておらず、体制運用のためには明文規定とは異なる何らかの統合主体が必要となっていました。

 当初、これを担ったのは藩閥勢力(元老)であり、つづいて政党がこれを担うことになります。

 

 美濃部達吉国務大臣天皇だけでなく議会に対しても政治上の責任を負うとして、その国務大臣の合議体である内閣(閣議)を最高意思決定機関とすることで、明治憲法体制の分権性を克服できると考えました。

 そして、この閣議の統一性のためには大臣が同一の政見をを持つ組織から組織されていることが必要で、ここから政党内閣制が要請されます。

 つまり、政党の結合力でもって官僚機構の統合を図ろうというわけです。

 しかし、結果としてみれば、日本では十分に官僚を「政党化」することはできず、政党内閣は各省の割拠性に悩まされ続けました。

 

 第1章では元老が消えていく中で、その役割を誰が担うのかという問題がとり上げられています。

 元老といえば思い出されるのは山縣有朋ですが、ここで注目されているのは松方正義です。松方は元老であり、1917年からは内大臣を務めていました。

 1921年、中村雄次郎宮内大臣宮中某重大事件の責任を取って辞職すると、松方は後任に牧野伸顕をつけます。牧野は松方と同じ薩派ですが、松方は牧野に「宮内の首脳」としての働きを期待していました。

 

 高橋是清から加藤友三郎に首相が交代する際、松方は宮内大臣の牧野も後継首相の決定に関与させ、山本権兵衛や清浦奎吾も巻き込む形で話を進めます。

 このときに山本や清浦と並び「準元老」とされていた平田東助が外されたこともあって、松方・牧野と西園寺公望・平田の対立構造があったとされていますが、本書では平田の考えも実は松方・牧野と近かったことを指摘しています。実際、平田は1922年に松方の推挙もあって内大臣になっています。

 

 松方には元老再生産の考えがあり、自分たちがいなくなったあとも元老的な存在が必要だと考えていました。そのために行われた人事が牧野宮相であり、平田内大臣だったと考えられます。彼らを宮中の要職につけることで後継首相の選定に関与させようとしたのです。

 

 本書は、内大臣秘書官長の入江貫一の残した史料などをもとにして平田の構想を探っています。

 平田は内大臣を廃止、あるいは存続させたうえで5人以内の内輔を設置するというもので、元老再生産の意向があったものと思われます。

 この構想は西園寺と牧野が難色を示したために立ち消えになりますが、著者はここからも松方と平田が同じような考えを持っていたとみています。

 

 その後、平田は病気で内大臣の職を退き、後任が問題になります。牧野は斎藤実を推しますが、西園寺は牧野の就任を求め、東郷平八郎の就任の可能性も示して、これを承諾させます。

 なぜ、牧野にとって東郷は駄目だったのか? 著者はこの問題を牧野が内大臣秘書官長に引き抜いた大塚常三郎を通じて読み解きます。

 

 大塚は長年、朝鮮総督府で働いていた人物で、原敬による朝鮮の「内地延長主義」に対抗した人物でもありました。原は政党内閣による権力一元化の一環として、朝鮮総督府にも政党勢力の進出させようとするわけですが、大塚はこうした政党勢力の浸透に対抗して「朝鮮議会」設置構想などを打ち出しています。

 この政党との距離感がポイントで、党派化が著しかった内地の地方官よりではなく党派化に抵抗していた植民地官僚の大塚がふさわしいと考えられた背景には、内大臣秘書官長も党派性があってはいけないという牧野の考えがあったと思われます。

 そして、牧野にとって東郷は政党勢力と適切な距離をもって判断できる人物だとはみなされていなかったとも考えられます。

 牧野は政党内閣を認めつつも、それと距離をとる宮中要職の能動化によって、安定した政治の運営を目指そうとしていたのです。

 

 第2章では護憲三派内閣の成立とその後の第二次加藤内閣への動きがとり上げられています。

 議院内閣制を否定する明治憲法のもとでは政党内閣にも何らかの「挙国一致」の要素を残そうとする動きが起こることになります。原敬内閣では政友会による一党支配体制が構築されて「挙国一致」的な雰囲気が出たのですが、その後に政党による「挙国一致」が実現したのが護憲三派内閣ということになります。

 

 政党内閣による政権交代が視野に入ってくると、政策の連続性を担保するための後藤新平の「大調査機関」といった構想が出てきます。この構想は単純に政策の統一性を保証するだけでなく、各省の割拠性を克服するものとしても注目を集めました。

 この構想は当時の高橋是清蔵相が消極姿勢を示したこともありが流れますが、代わりに高橋が打ち出したのは農商務省を農林・商工省に分割し、商工省に調査機関を置くというものでした。

 高橋は参謀本部や文部省の廃止といった急進的な政策も打ち出していくことになりますが、基本的には国務大臣の行う事務を効率化しつつ、国務大臣のリーダーシップによって各省の割拠性を克服していくことを考えていました。

 

 護憲三派加藤高明内閣では、農商務省の分離は実現しましたが、各省を横断した事務系統の統一的整理は行われませんでした。

 政友会は行政整理によって事務官僚の専管事務を削減し、それに対する反発を「政党化」によって乗り切る考えで、そのためには文官任用令の改正も必要だと考えていましたが、憲政会は行政官僚の自律性を担保しながら政党優位の政治体制の構築を目指す考えであり、官僚の「政党化」とは距離をとっていました。

 

 こうした憲政会のスタンスに同調するのが牧野らの宮中勢力になります。護憲三派内閣による過度な政党化はしないというスタンスは天皇・宮中からも支持され、これを逸脱しようとすればその動きは天皇・宮中から否定されることになります(後述するように田中義一内閣はこれに引っかかった)。

 これについて、著者は次のように述べています。

 この枠組みが、政党政治の崩壊を考えるうえでもきわめて重要なポイントになったことを強調するために、本書では「護憲三派体制」という概念を提起する。これは具体的には、政党内閣による責任内閣政治の遂行を基本的な理念としつつ、その統合手段として過度な「政党化」を用いないことを原則とする体制、と定義する。そして、これを調整する天皇・宮中によってそれは、憲政会の意図や政友会の妥協的意思から大きく乖離したものへと拡大していく。二大政党は、天皇・宮中の定める枠組みのなかでしか、「政党化」に基づく統合方針を取ることができなくなるのである。(131p)

 

 この天皇・宮中の意思を示すのが、田中義一内閣における台湾総督府の人事です。

 田中は朝鮮総督に自らと近い山梨半造、満鉄総裁には政友会切手の政策通である山本条太郎を、関東長官には政友会系の木下謙次郎を就任させるなど、植民地長官の「政党化」を進めました。

 しかし、小川平吉が「台湾は云々の事情あり、動かし難し」(145p)と書くように、天皇の意思によって台湾総督の人事は封じられていました。

 

 1927年6月の段階で、天皇は牧野を呼び寄せ、田中内閣の地方長官の大更迭、事務次官人事への介入に懸念を示していました。さらに上山満之進台湾総督について、憲政会系だからといって交代させようとする動きがあることについて具体名をあげて田中に対して釘を差しました。

 天皇は政友会の植民地の「政党化」を目指す動きを否定したのです。

 

 また、天皇は田中内閣が目指した文官任用令の改正についても難色を示し、これを受けて牧野も「天皇の意思」を示して田中内閣に対抗する姿勢を示しました。結局、田中内閣は文官任用令の改正を断念します。

 この植民地人事に対する昭和天皇の介入は浜口内閣でも行われ、朝鮮総督に文官の伊沢多喜男を就任させようとした人事に対して天皇・宮中はこの党派性の高い人事を嫌い、斎藤実の再登板に落ち着いています。

 

 第2章のあとの置かれた補論では台湾統治をめぐる問題が論じられています。原敬は「内地延長主義」を掲げて文官の田健治郎を就任させますが、原の「内地延長主義」+「政党化」に対して田は「政党化」については抵抗する姿勢を示しており、両者は連携しつつもその思惑は違ったといいます。

 さらにその後の台湾統治の問題も論じていますが、詳しくを本書をお読みください。

 

 第3章では田中義一内閣における拓務省の設置構想がとり上げられています。

 拓務省の設置は満蒙問題に対する田中内閣の積極姿勢の現れとして捉えられることが多いかもしれませんが、ここでは「政党化」されていなかった外務省への朝鮮という形で改めてこの拓務省の構想を検討しています。

 

 満州では、外務省の出先機関である奉天総領事館、満鉄、関東庁、関東軍、さらに朝鮮総督府が分立していました。

 政友会はこの問題を解決する方法として「政党化」を持ち出すわけですが、ここで「政党化」が難しかったのが高等文官試験で試験科目が独立するなど高度な専門性が求められ、党派的人事が及びにくい外務省でした。実際、原内閣でも外相は陸相海相とともに政友会の党員ではない内田康哉が就任しています。

 田中内閣はこうした外務省のあり方にくさびを打ち込もうとしたのです。

 

 田中内閣には朝鮮、台湾といった植民地と密接な関わりを持つ満蒙、シベリア、南洋地方へ進出しようとする構想がありましたが、外務省や領事はこうした動きに基本的には冷淡で、それも不満となっていました(シャム公使館から帰国した有田八郎は経済活動に冷淡な外務省の姿勢を批判している)。

 また、満州に関しても、在満朝鮮人問題の解決や経済的な進出に消極的な外務省に対する不満がありました(ただし、ここでも外務省の本省と満州駐在領事官の間にはその姿勢に違いがある)。

 

 そこで構想されたのが「拓殖省」です(「拓務省」として実現するが、当初の名前は拓殖省だった)。

 植民地や満州、南洋における機動的な経済開発を実現するためには領事館の機能を拡大するという方策もありますが、外務省という政党の力が及ばない組織の統制下にある領事の機能を高めることはさらなる割拠化をもたらすおそれがあります。

 そこで外務省を迂回して経済開発を行い、外務省の自律性を弱める狙いも持ったものが拓殖省の構想でした。

 

 基本的に田中外交は「失敗」の烙印を押されることが多いですし、著者もその拙劣さを認めていますが、自ら外相を兼任し、満鉄総裁の山本条太郎に張作霖との交渉を行わせるなど、田中には一貫して外務省の自立性を抑えて外交を展開しようとする意図がありました。

 そして、拓殖省の設立によって、本土と植民地と満蒙や南洋を含んだ一貫した政策を展開し、政友会の方針である「産業立国」を実現しようとしたのです。

 さらに朝鮮総督に任命した山梨半造に関しても、田中は山梨を閣議に出席させて朝鮮統治方針の指示を与えており、総督を首相に従属させ、朝鮮総督府の自立性を弱めようとしていました。

 

 しかし、田中内閣の拓殖省構想は頓挫します。外務省から猛反発を受けたのに加えて、田中が初の男子普選となった1928年2月の第16回衆議院議員総選挙で絶対多数を確保することができず、政友会の内部が深刻な分裂状態となり、さらにそれを契機に田中の陸軍への影響力も急速に衰えていったからです。

 加えて、山本条太郎満鉄総裁を通じた張作霖との協調路線が張作霖爆殺事件で瓦解します。

 

 他にも、前朝鮮総督であった斎藤実が朝鮮を他の植民地と同列に扱うことに異議を唱え、拓殖省官制から朝鮮を外すように要請します。そして、これがきっかけに朝鮮総督府の官僚や朝鮮「親日派」からも批判の声が上がります(斎藤が朝鮮を他の植民地と同列に扱うことを批判したのに対して、朝鮮「親日派」は朝鮮を植民地扱いすることを批判した)。

 こうした反対を受けて拓殖省の構想は次第に骨抜きになっていき、当初の構想からずいぶん後退した形で「拓務省」として設立されることになります。

 結局、拓務省は植民地の利害を代弁するような存在になり、植民地の割拠性を強めるような形になってしまうのです。

 

 第4章では浜口内閣〜第2次若槻内閣の扱っています。

 浜口内閣は田中内閣の東亜h的な人事が「党弊」との批判を受けたことから、慎重に人事を進めますが、朝鮮総督民政党と近い伊沢多喜男を就任させ、文官総督を実現しようとしました。しかし、先述のようにこの人事は昭和天皇の意思の前に挫折し、斎藤実朝鮮総督に就任します。

 拓務省については廃止も考えていた浜口内閣ですが、こうなると拓務省を通じて植民地をコントロースする必要も出てくることになり、拓務省は植民地と内閣の間の調整機能を担う形に落ち着きます。

 

 産業立国主義のもとで積極財政を掲げた田中内閣では各省大臣の「予算分捕」の状況を発生させることとなりましたが、浜口内閣では井上準之助蔵相のもとで厳しい緊縮政策が行われました。

 ただし、民政党は政友会と違って行政整理には熱心ではなく、補助金の整理などによってこれを進めようとしました。

 

 また、この緊縮財政政策は各省の割拠性を乗り越えるための統合機能も果たしました。緊縮財政と産業の合理化によって国際貸借を改善するという政策体系のもとで各大臣は各省の行政長官ではなく、内閣の一員として振る舞わせようとしました。

 政策の中心軸は井上準之助の大蔵省と幣原喜重郎の外務省にあったとされていますが。本書ではさらに商工省の政策立案能力の活用にも注目しています。

 

 しかし、この政策は世界恐慌によって動揺します。民政党の内部からも積極財政を求める声が起こり、政策による統合は困難になってきます。

 さらに強いリーダーシップをもった浜口首相が退陣することで、この方法は行き詰まりました。第2次若槻内閣は無任所大臣の設置などによって割拠性を克服しようと考えますが、有効な手を打てないままに退陣しました。

 

 第5章は犬養毅内閣を扱っています。

 犬養内閣は国策審議会の設置を計画していました。これは高橋是清蔵相と与党の意見調整を行う場という位置づけだったとされていますが、五・一五事件のため実現せずに終わっています。

 先述のように積極財政を掲げた田中内閣のもとでは各省の予算要求が熾烈になり、各省の割拠性が浮き彫りになりました。

 山本条太郎もこのような、各省が省益にとらわれて予算を要求し、「それを「撃退」することを自己の任務と考える大蔵省の姿勢を問題視」(371p)していました。

 山本はこの時期、田中内閣を挫折を踏まえて「政務と事務の区別」を前提としつつ、無任所大臣の活用などを通じて、各省の利益を超えたところでの政策形成を模索するようになります。

 

 犬養も山本を無任所大臣として入閣させようとしますが、これは枢密院の反対で立ち往生しました。

 構想としては、国策審議会を設置するとともに、それを山本に仕切らせることで、行政長官化した大臣たちを抑えて政策の統合性を確保しようとするものでしたが、五・一五事件によってこれが実現することはありませんでした。

 

 つづく斎藤実内閣では、「政民連携」の動きも起こり、「護憲三派」を思わせる「挙国一致」のムードも強まります。

 斎藤内閣は事務官身分保障の制度化を実現します。これは昭和天皇と牧野内大臣が斎藤内閣の選定時に「事務官と政務官の区別を明かにし、振粛を実行すべき」(385p)との要請を受けてのものであり、これによって「政党化」を軸にした統合手段は現実的にほぼ不可能になりました。

 これ以降、事務官の自立化が顕著になり、「新官僚」の台頭を招くことになります。

 

 斎藤内閣は新しい組織をつくるのではなく、斎藤首相ー高橋是清蔵相ー山本達雄内相の長老政治家による連携によって割拠性を乗り越えようとし、これはかなりの成果を収めました。

 高橋は新組織ではなく、五相会議のようなインナーキャビネット方式を採用し、ここで荒木貞夫陸相の意見をかなり抑えることに成功しています。

 

 しかし、この斎藤内閣の成功は「憲政常道」復帰のタイミングを失わせることにもなりました。

 また、長老政治家の個人的人格に依拠した政治は、藩閥時代の寡頭政治への回帰とも捉えることができ、政党の力で各省の割拠性を克服するという政党内閣のあり方からますます乖離するものでした。

 そして、この個人の人格に頼った政治は二・二六事件で高橋と斎藤を失うことによって崩壊することになります。

 

 高橋蔵相と大蔵省を中心とした統合の体系は民政党の今までの路線と親和的であり、政友会の「政党化」路線とは大きく違ったものでした。また、斎藤内閣が行政整理に消極的だったことも政友会には不満でした。

 そこで政友会は斎藤内閣の挙国一致体制から離脱することになります。議会多数派であった政友会は自らを中心とする政権を志向することになるのです。

 

 本書では清水銀蔵というあまり知られていな政友会所属の政治家の考えが紹介されていますが、そこでは内閣はすべて無任所大臣で構成すべきという議論がなされています。「かつての太政官制へと回帰するような発想」と評されていますが、まさしく割拠性を否定するための先祖返りという感じです。

 政友会は岡田内閣成立とともに野党の立場になり、岡田内閣を「官僚内閣」として批判していくことになります。

 著者は推測だとしながらも、清水は議会ではなく政党こそが民意を反映する機関だと考えていたといいます。政友会の横田千之助はムッソリーニの「民衆主義」を支持していたといいますし、ここに政友会がファシズムに接近する流れが見えてきます。

 

 最初に書いたように、本書は大正〜昭和の戦前期の日本の政治についての知識がないと面白く感じられないかもしれませんが、一定の知識がある人にとっては今までとは違った視点を教えてくれる本で興味深いと思います。

 特に田中義一内閣については、今まで良いイメージがまったくなかったのですが、本書を読んで結果はともかくとして、田中と政友会の意図については見えてきたものがあると思います。

 

 また、昭和天皇牧野伸顕満州某重大事件で田中にとどめを刺しただけでなく、その他の面でも政党の行動にかなり強力な枠をはめていたことが印象的でした。

 おそらく昭和天皇は当時としては「リベラル」な思想の持ち主だったのでしょうが、党派性を党派性で抑え込むマディソン的な考えについてはほぼ理解がなく、斎藤実のような立派な人格者による統治をよしとしたんでしょうね。

 このあたりの昭和天皇や宮中をめぐる議論も刺激的です。

 博士論文をもとにした本ですが、さまざまな論点を含んだスケール感のある面白い本ですね。

 

 

 

マット・ラフ『魂に秩序を』

 新潮文庫最厚とも言われる1000ページ超えのレンガ本。

 

父は僕を呼びだした。

はじめて湖から出てきたとき、僕は26歳だった。(7p)

 

 このような意味不明な書き出しで始まる小説ですが、読んでいくとこれが多重人格者の内面を描写したものだということがわかります。

 この小説の原書が出版されたのは2003年、映画の『ファイト・クラブ』が1999年の公開でしたが、90年代後半〜00年代前半は多重人格ものが流行った時代で、この小説もそうした流れを受けています。

 

 多重人格を描くとなると、主人公を普通の人に設定し、その主人公が出会った人物を多重人格に設定するとミステリーとしても効果的なのでしょうが、この小説の特徴は主人公を多重人格に設定し、その内面を描こうとしている点です。

 多重人格の人に実際に会った経験はないですし、多重人格のあり方が本書で描写されているようなものかはわからないのですが、この描写は読ませます。

 主人公のアンドルー・ゲージの内面には父、アダム、ジェイク、サムおばさん、セフェリス、ギデオンといった人物がいて、内面につくられた湖のほとりの家に暮らしています。

 これは治療の結果としてこうなっているのですが、アンドルーはまさにタイトルのように「魂に秩序を」構築しようと頑張っているのです。

 

 そんなアンドルーがヴァーチャル・リアリティのソフトを作ろうとしているジュリーと出会って、その会社で働くことになり、さらにそこでもう一人の多重人格者であるペニー・ドライヴァー(マウス)と出会うことから話は動き出します。

 読み終わってみると、ヴァーチャル・リアリティのことがメインのストーリーとたいして絡んでこなかったり、前半についてはもう少し狩り込めるようにも思えますが、はっきりとしたミステリーになる後半よりも、どんな話になるのかよくわからない前半のほうが面白いです。

 

 というわけで、あんまり前情報がないほうが面白かもしれません。

 基本的には「書きすぎ」なところもある小説で、小説全体の完成度としてはそんなに高い点数はつかないかもしれませんが、とにかく「これは一体何なんだ?」という感じで読み進めることができるのがこの小説の長所です。

 物語に振り回されるような経験ができる小説と言えるかもしれません。

 

 

 

安達貴教『21世紀の市場と競争』

 副題は「デジタル経済・プラットフォーム・不完全競争」、GoogleAppleAmazonなどの巨大企業が君臨するデジタル経済において、その状況とあるべき競争政策を経済学の観点から分析した本になります。

 基本的にGoogleのような独占企業が出現すれば市場は歪んでしまうわけですが、例えば、Facebookが強すぎるからと言ってFacebookを分割すればそれがユーザーにとって良いことかというと疑問があります。Facebookは巨大だからこそいろいろな人とつながれって便利だという面もあるからです。

 本書はこうした問題に対して、「不完全競争市場こそがスタンダードなのだ」という切り口から迫っていきます。

 

 このように書くと難しそうに思えるかもしれませんが、全体的に読み物のような形に仕上がっており、また、高校の教科書の記述などを拾いながら書かれていて、経済学にそれほど詳しくない人でも読めるものになっています。

 縦書きの本にした割には数式は省いていないのですが、読んでいて話についていけなくなることはないと思います。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

第1章 市場とは何か、競争とは何か

第2章 プラットフォームという怪物が徘徊する世界

第3章 20世紀までの市場と競争──不完全競争を概念的に理解する

第4章 「生産・出荷集中度調査」の活用

第5章 駆動を始めたデジタル経済──「消費外部性」への着目
第6章 「プラットフォームの経済学」の黎明

第7章 プラットフォームと出店者間の「交渉」という様相

第8章 複数プラットフォーム間の「競争」という様相

第9章 21世紀からの市場と競争を考える
  ──自然なマークアップと作為的なマークアップの見極めという視点

 

 かつて、戦国大名は楽市・楽座といった政策によって自分の領内に多くの商人を呼び込もうとしました。多くの商人が集まることが領国の経済発展につながると考えたからです。

 これはネット上でも同じです。例えば、メルカリのような売買の場は参加者が少なければ魅力の少ないものになるでしょう。

 そうしたこともあってネットでは一部のプラットフォーム企業が巨大化して、独占・寡占状態をつくり出すことが多いわけですが、これをどう考えるのかというのが本書のテーマです。

 

 また、「競争」という言葉についても本書はその意味を捉え直すように求めています。

 「競争」というと「相手よりも努力して相手を打ち負かして勝つ」ことだと考える人もいるでしょうが、市場のおける「競争」とは競合者が併存している状況でありさえすればよく、必ずしも選ばれる側の切磋琢磨まで要求しているわけではないのです。

 さらに、著者は独占禁止法が禁止しているのが通常の経営戦略の範囲外で人為的に独占をつくり出すことを禁止しているのであって、独占そのものを禁止しているわけではないことにも注意を向けています。

 

 第2章から具体的なトピックに入っていきますが、まずはプラットフォームの説明から入っています。

 プラットフォーム型ビジネスのキーになるのが外部性です。例えば、メルカリの利用者にとって直接の取引相手ではないたくさんの売り手と買い手が重要な役割を果たしています。たくさんの売り手がいるから買い手は商品を選べますし、たくさんの買い手がいるほど売り手の商品が売れる確率は高まります。

 

 こうしたプラットフォーム型ビジネスとして、以前からクレジットカード、新聞やテレビ、ショッピングモールなどがありましたが、IT技術の発達はこうしたビジネスをよりさかんにしています。

 

 しかし、巨大化したプラットフォームには問題もあります。

 その1つが「スイッチング・コスト」の問題で実質的な選択肢が奪われるというものです。例えば、ずっとiPhoneを使っている状況からAndroidに乗り換えるようとすると、けっこうなめんどくささを伴います。

 結果的に一部の企業の一人勝ち的な状況が出現し、消費者が選択の自由を奪われる可能性が出てきたのです。

 

 第3章は「20世紀までの市場と競争」と題されています。

 ここではまず、高校の新教科の「公共」の教科書の記述が参照されています。市場メカニズムについての記述の特徴と経済学者の考える問題点(「学習指導要領」では「社会的余剰を最大化」とあるが教科書では触れられていない)などが書かれており、高校の教員にも参考になると思います。

 

 さらに高校の教科書には登場しない限界費用曲線、固定費用などの話に入っていきます。

 生産を1単位を増やすときに必要になる費用が限界費用です。生産に必要な費用には機械などの固定費用と原材料などの変動費用があります。

 例えば、ペットボトルのお茶を製造するとして、1本作る場合も1000本作る場合でもペットボトルにお茶を詰めたりする機械が必要です。そのため生産量を増やすほど一本あたりの固定費用(機械の導入などにかかった費用)は下がっていきます。

 ここから「規模の経済性」と呼ばれる減少が起きます。よりたくさん生産している企業ほど安いコストで生産できる傾向があるのです。

 

 本書は必ずしも完全競争が望ましいという立場を取っておらず(むしろ不完全競争の中の特殊なケースが完全競争だと見ている)、それゆえに限界費用曲線を上回るような価格設定もただちに歪みだとは考えません。

 需要の価格弾力性が低い商品に関しては価格が高く保たれる傾向がありますが、このようにして生じる価格水準を「有効競争価格」と呼びます。

 そして、「作為的なマークアップ」は許されないが、「自然なマークアップ」は許されるとして、競争政策では前者のみを問題にすべきだといいます。

 

 第4章では市場集中の問題がとり上げられています。

 ここでもまずは高校の教科書の記述から入っていますが、元ネタになっている日経産業新聞の「シェア調査」が、2016年度までの国内シェアから2017年度から世界シェアになったことで、国内シェアを載せる教科書は減りつつあります。

 

 公的な調査としては公正取引委員会実施による「生産・出荷集中度調査」がありますが、統計調査の負担軽減と効率化のために、これも平成25・26(2013・2014)年のものが最後になっています。

 この調査ではデータをもとに上位企業への集中度を表す「ハーフィンダール=ハーシュマン指数(HHI)」を公表していました。

 これをみると、「宅配便運送」は21世紀になってから集中度が上昇傾向にあるものの、「引越」についてはそのような傾向が見られません。これは同じ運送業でありながら宅配便のほうが大きな固定費用を求められるからだと考えられます。

 

 第5章はデジタル経済について論じられています。

 まず、最初にも述べたようにデジタル経済では外部生の効果が大きく、サービスが大きくなればなるほど利用者の便益が大きくなるというケースが多いです。こうした正の外部性を「ネットワーク効果」とも言います。

 これは実は昔からあるもので、ジェフリー・ロルフスは電話に注目し、電話機も自分だけが持っていても意味がないが、電話機を持つ人が一定の水準以上になれば利用者に大きな利益をもたらすと分析しました。この一定の水準を「クリティカル・マス」と呼びます。

 

 この章では価格差別の問題もとり上げられています。現在、一杯800円のラーメンがあって一定の客を集めているとします。この客の中にはこのラーメンに1000円出してもいい、900円出してもいいという人が混じっています。一方、このラーメンに700円しか出したくないという人は来店していないはずです。

 もし、それぞれの客が出してもいいと考える金額をラーメンの価格にできるのであれば、ラーメン屋はより儲かるはずです。「1000円出してもいい」という人から1000円取れば200円の追加の利益が得られます。

 

 しかし、現実には難しいためにラーメン屋はセット価格や学生価格などによって価格差別を行おうとします。例えば、700円の学生価格を設定すれば、一般の客の価格を据え置きつつ、お金のない学生客を集めることが可能です。

 

 本書ではソフトウェア企業が学生と教員にそれぞれ異なる価格をつかた場合のモデルが分析されています。

 消費外部性が存在しない場合は価格差別によって社会的余剰が減少するのですが、ネットワーク効果のような消費外部性が存在する場合は必ずしもそうではないことが示されています。

 

 第6章では「プラットフォーム経済学」というものの考察に入っていきます。

 ネットワーク効果が大きいということはプラットフォームにとって重要なのはその規模ということになります。そのために一定の規模になるまでは「損して得取れ」の考えのもとで、無料または安い価格で利用者の拡大をはかる戦略がとられます。

 このやり方は既存のガソリンスタンドが新規参入者を退出させるためにコスト度外視で安売りを仕掛ける「略奪的廉売」とは区別して考えるべきだといいます。

 

 「プラットフォーム企業は、いわば、取引の場、すなわち、市場「を」提供している点が、市場「において」活動しようとする企業とは異なる」(180p)といいます。

 プラットフォームは誰かが使用したからと言って他の者の使用が妨げられることはないことから公共財に似た性質を持っていますが、それが私的な企業によって運営されるとなるとその弊害も現れます。

 

 プラットフォーム企業がその地位を利用して利用者から搾取するかもしれませんし、また、最近では「キラー・アクイジション(抹殺買収)」と呼ばれる減少にも注目が集まっています。これはGoogleYouTubeを、FacebookInstagramを買収したようにライバルになりそうな企業をプラットフォーム企業が買収してしまうというものです。

 こうなると、何らかの形でプラットフォーム企業の行動を規制すべきではないかという議論も生まれてくるわけです。

 

 第7章ではプラットフォーム企業と出品者の「交渉」が分析されています。

 2019年の12月に楽天が出店者に対して一定以上の金額になれば一律「送料無料」となるプランを発表し、これに対して公正取引委員会がストップをかけるということがありました。

 このとき、楽天側は最初に出した修正案では「送料無料」を行わない出店者は検索で上位にならないなどの不利な取り扱いがあったため、公正取引委員会が再度の改善を求めるということがありました。

 

 このような楽天側のやり方は事後的な料金提示にあたるもので場合によっては「優越的地位の濫用」とみなされます。

 このリスクを避けるためには一律な固定料金が適当ですが、そうなるとその固定料金を一定以下に下げることができず、結果として出店者を増やすことができないかもしれません。低い固定料金+サービスに応じた課金の方がより多くの出店者を集めることができるかもしれません。

 

 出店者がプラットフォーム企業から不利な条件を押し付けられないためには、公正取引委員会のような競争特局に訴えたり、あるいはエピックゲームズが「Apple税」の問題をとり上げたときのように世論に訴えるという手があります。

 また、複数のプラットフォームがあれば、1つのプラットフォームの要求に屈しなくても大丈夫かもしれません。

 

 第8章では複数のプラットフォームがある状態を分析しています。

 消費者や出品者がプラットフォームを利用することを「ホーミング」と呼び、1つのプラットフォームを利用することを「シングル・ホーミング」、複数のプラットフォームを利用することを「マルチ・ホーミング」と呼びます。例えば、NetflixAmazon Prime Videoの両方に登録しているユーザーなどがそうなります。また、NetflixとPrime Videoの双方に映像ソフトを提供している映画会社などもそうです。

 

 本書ではクールノー競争の考えを使ってマルチ・ホーミングの状況を分析しています。詳しくは本書を読んでほしいのですが、消費者側にマルチ・ホーミングがあったほうが「過少参入」が生じやすいなどの、直観とは違った結論も出ています。

 

 第9章では、今までのモデルの分析などで得た知見をもとに、これからの市場と競争について考えています。

 プラットフォーム企業が巨大化するに連れ、その行動を規制しなければという議論が高まってきましたが、それぞれの取引における余剰をもっと詳しく見ていくべきだというのが本章の主張になります。

 

 例えば、プラットフォーム企業が一定の料金を払った出店者だけを優遇するのは「下請け保護」的な観点から「優越的地位の濫用」とみなされることがありましたが、第7章での分析でも見たように、こうしたやり方が消費者のメリットをもたらす可能性もあります。

 

 ただし、競争政策では「効率」だけではなく「衡平」という観点も重要になります。

 特にEUでは、巨大なデジタル・プラットフォームは純粋な私企業ではなく、社会の公器として扱われるべきだという考えが強くなっています。

 また、アメリカでも反トラスト法の改定も視野に入れ、デジタル・プラットフォームに対する監視を強化しようという「新ブランダイス派」が台頭しており、2021年には新ブランダイス派の法学者リナ・カーンが米国連邦取引委員会の委員長に就任しました。

 

 こうした状況ではありますが、著者は競争政策について不完全競争をベースにしながら、プラットフォームの特徴を丁寧に見ていこうという立場です。

 完全競争をベースに考えれば、「消費者価格=限界費用マークアップ」のマークアップの部分をゼロにしようという発送になりますが、不完全競争をベースにすれば、第3章でも見たように「消費者価格=限界費用+自然なマークアップ+作為的なマークアップ」という形になり、自然なマークアップは競争政策を行ってもゼロにはならず、作為的なマークアップのみをゼロにしようという発送になります。

 さらにプラットフォームが介在する場合では、「消費者価格=限界費用+自然なマークアップ-マークダウン」となり、ネットワーク外部性から生じるマークダウンも考慮に入れていく必要があるといいます(266p図9.4参照)。

 

 プラットフォームの巨大化はプラットフォーム企業の力を強め、これらの企業が社会を支配するディストピア的な未来を想像することができます。

 そして、これを防ぐためには独占禁止法などでプラットフォーム企業の行動を縛らなければならないと考えるわけですが、本書の分析によるとプラットフォーム企業には今までにはなかったつながりを作り出すはたらきもあり、規制を強めたからといって社会全体の余剰が増えるわけではありません。

 本書によってそのモデルの部分は示されたと思うので、あとは実証のデータということになるでしょうね。実際のデータで自然なマークアップと作為的なマークアップをきりわけられるのか? そういったところを見てみたいと思います。

 

 

 

The Raveonettes / The Raveonettes Sing...

 2003年にデビューしたThe Raveonettesの9枚目のアルバム。前作の「2016 Atomized」が2017年のリリースで7年ぶり。正直活動休止したものを思っていました。

 で、そんな久々なニューアルバムの中身ですが、びっくりするほど変わらない。タイトルもこんな感じなので、最初は「ベストアルバム買っちゃった?」と思ったほどでした。それくらいどこかで聞いたようなThe Raveonettes節です。

 どれも過去に聞いたことがあるような曲で何か驚かされるようなことはまったくないのですが、それでも気持ちよく聞けてしまうというのがThe Raveonettes節の完成度なのでしょうね。

 収録曲では5曲目の"Will You Love Me Tomorrow"とか6曲目の"Venus In Furs"あたりがいいですかね。"Venus In Furs"はややダークめのギターを響かせつつも、全体は優しげに仕上がっているところがいいと思います。

 まあ、なんだかんだでThe Raveonettesを聴き続けてきた自分にとってはうれしいリリースでした。

 

 下の曲はEverly Brothersの曲のカヴァー。


www.youtube.com

 

 

The Raveonettes Sing...

The Raveonettes Sing...

Amazon

 

ベン・アンセル『政治はなぜ失敗するのか』

 出版社は飛鳥新社で400ページ超えの本にもかかわらず定価が2273円+税で、みすず書房とかの本を買い慣れている人には「???」という感じなのですが、決して怪しい本ではありませんし、35歳の若さでオックスフォード大学の正教授になったという著者が、現代の政治がうまくいかない理由を実証と理論の両面から教えてくれる非常にためになる本です。

 監訳者は『大阪 大都市は国家を超えるか』『分裂と統合の日本政治』砂原庸介ですが、砂原庸介・稗田健志・多湖淳の教科書『政治学の第一歩』と同じように、本書も集合行為論をキーにさまざまな問題が論じられており、具体的なテーマを通じて政治学の理論も学べる形になっています。

 

 目次は以下の通り。

第1部 民主主義―「民意」などというものは存在しない
第2部 平等―権利の平等と結果の平等は互いを損なう
第3部 連帯―私たちが連帯を気にするのは、自分に必要なときだけ
第4部 セキュリティ―圧制のリスクを冒さずに無政府状態を脱することはできない
第5部 繁栄―さしあたり私たちを豊かにするものは、長い目で見れば私たちを貧しくする

 

 著者は本書で「政治学」ではなく「政治経済学」という言葉を使っています。

 「政治学」については対象が政治という以外に何か共通の方法論があるのか? という問題があるのですが、「政治経済学者は、利己的な個人の単純なモデルから始め、それらの個人がどのように相互作用し、互いを制約し合うかを見ていく」(18p)とのことで、経済学に近いスタンスをとっていることがわかります。

 

 それなら経済学でいいじゃないかと考える人もいるかも知れませんが、ここで問題になるのが集合行為問題です。

 本書の「はじめに」ではイギリスとアイスランドの間の「タラ戦争」がとり上げられています。海には私的な所有権が及びません。そこで漁業資源が獲ったもの勝ちになりやすく、いわゆる「共有地の悲劇」が起きます。

 そこで強制力を持った協定のようなものが必要であり、そこに「政治」が登場するというわけです。

 

 しかし、多くの人が納得する決定というのはなかなか難しいことです。そこに焦点を合わせたのが第1部です。

 民主主義では多数の意思が尊重されますが、選択肢が3つ以上になるとカオスが生まれる可能性があります。イギリスのBrexitでは、議員たちが「EUとの協定を結んでの離脱」「強引な離脱」「新たな国民投票」の三者に分かれて適切な決定ができずにメイ首相が辞任に追い込まれました。

 

 これは「コンドルセのパラドクス」として知られているもので、また、20世紀になってケネス・アローが「不可能性定理」という形で民主的な決定に必要だと思われる要件を十分に満たす決定方法がないことを証明しました。

 これを防ぐために順位をつけて投票するやり方や、投票のたびに最下位の選択肢を除外するやり方などが考えられますが、政治家たちがそうした手法を承認するとは限りません。実際にBrexitの際には著者らがこうした方法を提案したものの議員がそれを受け入れることはありませんでした。

 

 こうした中で、今まで民主主義国の政治がそれなりに上手くいっていたように思えるのは「左」と「右」の一元的な対立軸があったからです。

 例えば、一般的に富裕層は税金や公共の支出を低く抑えることを望み、貧困層は高くすることを望むと考えられます。このような「単峰性の選好」であれば、カオスは発生しないわけです。

 

 ここからアンソニー・ダウンズは政党の政策も中央に集まってくると考えました。「左」であっても「右」であっても真ん中あたりの有権者を獲得することが勝負の鍵になるからです。実際、90〜00年代にはこの傾向があり、アメリカのクリントン政権やイギリスのブレア政権などは真ん中を取りに来た政権と言えるかもしれません。

 

 ところが、現在の政治では「分断」がキーワードになっています。

 この要因としては、政治家が活動するためには投票をする有権者だけではなく、その活動を支える熱心な支持者が必要であり、はっきりとしたイデオロギーを持っている人ほど熱心に活動するというものがあります。

 また、予備選挙が行われるところでは一般の有権者よりも偏った候補が選ばれる可能性が高くなります。

 さらに政治資金も重要で、多くの資金を提供する人々が政治家を自らの利益に沿う方向に引っ張っていくことも可能です。

 

 こうした中で、アメリカなどでは党派のアイデンティティが人々の自己イメージを規定するようになっており、敗者が負けを認めずに民主主義が危機に陥るということになりかねません。

 

 では、どうすれば民主主義の危機を回避できるのか?

 本書で特効薬が示されているわけではありませんが、台湾のオードリー・タンが開発した返信のできないネット上の意見表明のシステム(返信できないことで荒らし行為へのエスカレートを防げる)や予備選挙の廃止、義務投票制(オーストラリアでは貧困層投票率が上がり労働党の得票が上がった)、政治的起業家によるリフレーミング比例代表制の導入(不安定にはなるがさまざまな政策や政府支出に関心が払われるようになる)などをあげています。

 

 第2部のテーマは平等です。

 社会全体で見ると金持ちよりも貧乏人のほうが多いので、民主主義になると富裕層の財産が脅かされるようにも思えますが、実際にはそうなりません。ロシアの大富豪が殺されたり投獄されたりするのを見れば、むしろ民主主義国の方が金持ちの財産を守っていると言えるでしょう。

 それでも、所得の再分配によってフィンランド、フランス、ベルギーなどでは格差を40%以上縮小させています。一方、アメリカ、韓国、イスラエル、スイスでは約20%しか縮小させていません。この違いは政府の役割です。

 

 平等については、自由の平等と結果の平等という2つの考えがあり、国や時代によってどちらを重視するかは変わってきました。

 1980年代にアメリカでレーガンが、イギリスでサッチャーが登場するとこれらの国では結果の平等を重視する考えは退潮していきます。

 この根底には、富裕層に課税しすぎると彼らが勤労意欲を失うという考えもあるのですが、アメリカのように権力が分立していて議会の少数派が法案を阻止できる国では一度下がった税率をなかなか上げることができないラチェット効果が発生してしまい、これが格差の拡大に拍車をかけています。

 また、北欧などの国を見れば、必ずしも高税率が勤労意欲を減退させるものではないということもわかります。

 

 格差の拡大に対して、サエズやズックマンは億万長者の資産への課税を主張しています(エマニュエル・サエズ/ガブリエル・ズックマン『つくられた格差』も参照)。

 しかし、ラリー・サマーズはこの提案に反対しています。実際に影響力を行使しているのは億万長者よりも下の階層かもしれず、こうした政策は税逃れのためのロビー活動を活発化させるかもしれません。

 また、福祉が充実している福祉国家では資産格差が開きやすいことを指摘し(老後のために資産をつくる必要がない)、所得への課税のほうが重要だといいます。さらに、資産への課税は潜在的に投資への課税になる可能性があります。

 

 億万長者は税を逃れるために外国へ移住するかもしれません。そこでピケティはグローバルな規模の富裕税を提唱していますが、まさに集合行為問題となり、これを実現させるのは難しいでしょう(低い税率で富裕層を誘致する国が出ることを防ぐことは難しい)。

 

 富裕税に関しては、一般論として支持する人が多くても具体的な形をとると反対する人が多いという問題があります。

 例えば、「アメリカ人の52パーセントが金持ちの税金は少なすぎると考える一方、富裕層の税金負担をさらに減らすブッシュ減税に反対と答えた人は20パーセント未満だった」(157p)そうです。

 具体的な形になると「自分が税金を取られすぎている」という思いに支配する傾向があるようなのです。

 さらに多くの人のメインとなる財産が住宅だというのも、相続税が不人気になる要因になっています。

 

 格差を縮小させるための方策として、本書ではロボット税、事前分配、教育への投資などが紹介されています。

 教育のコストを下げることは格差縮小のために必要だと言われていますが、高等教育に力を入れることは大卒にふさわしい職につけない「ミスマッチ」を生む可能性もあります。そして、この「ミスマッチ」な卒業生は民主主義への満足度が低く、政治家に対して不信感を抱き、過激な右派政党に投票する可能性が高いといいます。

 また、能力主義的な主張は学歴競争の勝者たちの自己正当化と自己弁護に陥ったしまい、再分配を妨げるかもしれません。

 

 著者は、ドイツを例に、経済的なスキルアップの道は大学教育に限らず、青少年の頃からの職業教育や、労働者の賃金が均一になる仕組みなどをあげています(ただし、著者もこのドイツの仕組みが簡単に他国に移植できないことは認識している)。

 

 第3部はのテーマは連帯です。

 この第3部の扉には「私たちが連帯を気にするのは、自分に必要なときだけ」という言葉が掲げられています。

 最初にとり上げられているのはオバマケアについてのものですが、客観的にみれば「ひどい」としか言いようのないアメリカの医療制度の改革でも、保険への加入を義務付けようとすると健康な人々から反発が上がります。将来、自分が医療の世話になるのはほぼ確実にもかかわらずです。

 

 病気になったり働けなくなったりしたときの生活の保障は、かつては家族に求めるしかありませんでした。それが、20世紀になって福祉国家がつくられ、先進国では生活の保障を国に求めることができるようになっています。

 しかし、国によってどの程度の福祉を受けられるのかというのは先進国の間でも大きな違いがありますし、国境を越えた保障は進んでいません。

 

 公的な連帯の発展は近代国家の発展と重なります。近代国家は戦争をする能力を拡大するために巨大化し、それとともに国民の日常生活に関与して、秩序や国民の教育や健康に責任を負うようになりました。

 そして、19世紀後半から社会保障制度が整備され始め、世界大戦と世界恐慌によって、増税社会保障の拡大が行われていくことになります。

 

 それでも連帯は簡単に維持できるものではありません。

 現役世代は将来給付を受けるにもかかわらず貧困層への給付は不当だと考えがちですし、アメリカではレーガンが「福祉の女王」という黒人女性への当てこすりを行ったこともあって、福祉制度が人種のレンズで見られるようになってしまっています。

 民族の多様性は連帯への支出を減らすことにつながっているという研究もあり、自分たちとは違う集団との連帯にはより困難が伴います。

 

 こうした中で注目を集めているのがユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)です。

 これは左派の反貧困活動家からリバタリアン右派のシリコンバレーの大物まで、おおよそありえないような連合を生み出しているアイディアです。

 UBIはすべての人に給付されるために「あいつだけがもらっている」といった考えを生み出すことがなく、また、本当に貧しい人を政府が選別する必要もありません。

 ただし、その財源は膨大なものになりますし、歴史のある福祉国家に比べて、UBIがずっと続く保証はありません。

 

 そうしたこともあって著者はUBIよりも普遍主義の福祉国家を推しています。貧困層だけではなく中産階級が手厚い福祉を受けられるような福祉国家が望ましいというのです。

 一方、アメリカで発達しているのは医療費や教育費などのさまざまな控除です。しかし、こうした控除の恩恵を受けるのはそれなりの税金を払っている富裕層であり、また当然ながら福祉国家の姿は見えにくくなります。

 

 ただし、著者は普遍主義が難しい分野があることも認めています。代表的なのはエリートの公立高等教育で、まず希望者を全員入学されることはできませんし、すべての学生がエリート養成機関に進んだら、そこから生み出されるのはエリートではありません。

 

 単純な能力主義に陥らないためアメリカではアファーマティブ・アクションが行われてきましたが、これは保守派の反対を受けて難しくなってきています。

 そこでカリフォルニアの州立大学(UC)では、カリフォルニア州の全高校の成績上位9%の学生が、必ずしも第一志望でなくても、システム内の大学への入学が認められるという方針を導入しました。同時に各高校で上位9%にも入学を認めるという政策(地域を考慮した入学資格(ELC))も打ち出しました。

 ELCで入学する生徒は入学者が少ない民族集団のものが多く、伝統的にエリート大学への進学率が低かった学校の生徒にチャンスを広げることに成功しました。

 もちろん、大学進学のためにより学力が低い学区に引っ越すというハックもありますが、それはそれで悪くないことなのかもしれません(学区ごとの学力差が平準化される)。

 

 第4部のテーマはセキュリティです。

 この第4部はコロナ禍におけるロックダウンの話から始まっています。日本では「自粛」で押し切られましたが、各国では政府が強制的に人々の活動を制限しました。

 このように国家は安全のために人々の自由を制限することがありますが、そのさじ加減はなかなか難しいものです。

 

 ホッブズは国家がなければ「万人の万人に対する闘争」が起こると考え、国家がない状況よりも圧制のほうがましだと考えました。

 マンサー・オルソンも統治者がもたらす安定を「定住する盗賊」の出現だとしましたが、「放浪する盗賊」がいる世界よりはましだと考えています。

 また、一定のルールを強制する存在があってこそ、私たちは見知らぬ人とも取引ができます。

 

 とは言っても絶対王政に対する警戒心は強く、イギリスやアメリカではなかなか警察組織が発展しなかったという歴史もありました。また、警察や刑務所も腐敗していることが多く、それでも警察の発展は我々のセキュリティを大いに高めることになります。

 

 ただし、私たちの守護者をどう抑制するのかという問題はいまだに未解決の問題です。

 BLM運動が盛り上がる前、2014年にミズーリ州ファーガソン市で10代のアフリカ系アメリカ人が白人警察官に射殺される事件が起きました。この調査の中でファーガソン市警は市政府や地元の裁判所と共謀して実質的なみかじめ料を徴収していたことが明らかになりました。

 司法省の報告書は、「多くの警官が一部の住人、特にファーガソンアフリカ系アメリカ人が大き地域の住民を、保護すべき有権者ではなく潜在的な犯罪者や収入源と見ていた」(268p)と指摘しています。

 

 無政府状態はもちろん問題で、ほぼ無政府状態ソマリアは隣国のエチオピアなどに比べれば危険なわけですが、シアド・バーレの独裁政権時代に比べれば、平均寿命も乳幼児死亡率も改善しているといいます。

 

 警察の暴走を防ぐテクノロジーとしてボディカメラの装着があります。警官の行動を常に録画することで、証拠の収集とともに警官が行動を自制することが期待できます。

 2012年にカリフォリニア州リアルトで行われ実験では、カメラを装着したシフトでは暴力を振るう件数は半分になったといいます。また、装着を経験した警官は装着していないときの暴力も減ったといいます。

 ただし、BLM運動が燃え上がるきっかけとなったジョージ・フロイド殺害事件では、同僚の警官はボディカメラを装着していました。

 また、テクノロジーが逆に市民を抑圧する手段に使われる可能性も十分にあるでしょう。

 

 セキュリティには当然、外国からの侵略を防ぐことも含まれますが、現在のところ、軍事同盟や核抑止などに頼っているような状況です。

 

 第5部のテーマは繁栄です。

 政治は経済成長の鍵にもなります。イギリスでは名誉革命を機に国王の権力が制限され、それが国家の財政規模を拡大させました。議会が君主の借入条件を恣意的に変更できない法律をつくったからです。

 

 また、経済成長には長期的な視点が必要です。手にした富を戦争や無駄なイベントなどで消費することも可能ですし、将来の成長のための投資に回すこともできます。

 ここで、再び登場するのが集合行為問題です。長期的には投資が国を豊かにすることがわかっていても、個人は今の時点での減税を望むかもしれませんし、二酸化炭素の排出削減が将来のために必要だと思っていても、自分だけはエネルギーを使い続けて大丈夫だと考えるかもしれません。あるいは理論的には自由貿易が繁栄をもたらすとわかっていても保護貿易が支持されます。

 

 この集合行為問題の解決策として、オルソンはただ乗りをしようとするメンバーへの制裁や集団に貢献した者への報酬をあげていますが、同時にだれがそれを監視し制裁や報酬を与えるのか? という問題が残るといいます。

 オルソンは集団が目標を達成するためには少なくとも1人のメンバーが十分に大きな資金を持っているか裕福でなければならないと考えました。例えば、NATOアメリカがこの同盟から大きな利益を得ていたために、他のメンバーはただ乗りすることができました。

 

 個人よりも政府のほうが長期的な視点に立てそうですが、民主主義国家において選挙で選ばれる政治家は自分の任期を考えて短期的な視点で行動するかもしれません。

 本書では石油からの収益を長期的に管理するノルウェーの仕組みなどが紹介されていますが、長期的な視点を維持し続けるには相当な工夫が必要になります。

 

 「おわりに」で著者は「「なぜ政治は失敗するのか」に答えると、政治が失敗するのは政治がなくてもやっていけると私たちが思い込んでいるときだ」(367p)と述べています。

 集合行為問題は政治によって必ず解決できるわけではありませんが、政治がなければ解決できないのです。テクノロジーも市場もこれらの問題を解決できるわけではありません。

 政治は常にうまくいくわけではありませんが、常に失敗するわけでもないのです。

 

 このように本書は集合行為問題をキーに政治が直面するさまざまな課題を明らかにしています。

 このまとめでは紹介しきれませんでしたが、非常に豊富な事例がとり上げられており、例えばアセモグル&ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』 や『自由の命運』などを思い起こさせる感じになっています。

 「政治」というものを考え直すためにも良い1冊だと言えるでしょう。価格からしても非常にお買い得。

 

 

  

椎名林檎 / 放生会

 椎名林檎のニューアルバム、とは言ってもリリースされたのもDLしたのも結構前ですね。

 今作の特徴は女性アーティストととのコラボで、PufumeののっちやAI、宇多田ヒカル新しい学校のリーダーズなどと組んでいます。

 やはり椎名林檎も昔のようなエモさはなくなっているわけで、そこをゲストで補っている感じですね。

 また、サウンドも相変わらずの絢爛さですが、そのサウンドにやや椎名林檎のボーカルが負けている感じもあり、そのあたりはやや物足りなさもあります。

 

 ただ、AIやのっちはその絢爛なサウンドに負けていないので、AIと組んだ"生者の行進”やのっちと組んだ"初KO勝ち"はいいですね(のっちがこんな椎名林檎風に歌えるとは知らなかった)。

 あとは良かったのはサウンドがそれほど豪華絢爛ではない"さらば純情"ですね。このくらい素直にメロディを聴かせる曲がもっとあってもいいんじゃないでしょうか。

 

 というわけで、次のアルバムではもう少しサウンドを落ち着かせてもいいんじゃないですかね。

 若い頃に比べると声がずいぶんと落ち着いてしまったので、それに合わせて変わっていったほうがいい気がします。

 


www.youtube.com

 

 

放生会 (通常盤)

放生会 (通常盤)

  • アーティスト:椎名林檎
  • ユニバーサル ミュージック
Amazon