羅芝賢・前田健太郎『権力を読み解く政治学』

 『番号を創る権力』の羅芝賢と『市民を雇わない国家』の前田健太郎による政治学の教科書。普段は教科書的な本はあまり読まないのですが、2010年代の社会科学においても屈指の面白さの本を書いた2人の共著となれば、これは読みたくなりますね。

 

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 で、読んだ感想ですが、かなりユニークな本であり教科書としての使い勝手などはわかりませんが、面白い内容であることは確かです。

 本書の、最近の教科書にしてはユニークな点は、序章の次の部分からも明らかでしょう。

 

 この教科書ではマルクスを正面から取り上げることにしました。それは、マルクスの思想が正しいと考えるからではなく、それを生み出した西洋社会を理解することが、日本をよりよく知ることにつながると考えたからです。

 20世紀以後の日本の政治学は、欧米の政治学の影響を強く受けてきました。その欧米の政治学者たちが常に論敵ととして念頭に置いたのが、マルクスです。だからこそ、現代の政治学を理解するうえでは、マルクスのいう階級や革命といった概念の意味を理解することが欠かせません。それを知ることで、日本を含み東アジアが、欧米の政治学を生み出した西洋社会とどのように異なるのかが見えてくるでしょう。(3p)

 

 このように「あえてマルクス」という宣言から始まる本書の前半部分(羅芝賢担当)は、集合行為論やゲーム理論などの「合理的な個人が生み出す秩序」を前提とせず、支配-被支配の権力関係が前面に押し出されています。

 第1章から「政治権力と暴力」と題されており、近年の政治学の教科書とは毛色が違うことがわかると思います。

 

 第Ⅲ部以降の後半(前田健太郎担当)は、扱われているテーマを見ると、いかにも政治学の教科書っぽいタイトルが並んでいますが、ここでもジェンダーの視点を多くいれるなど独特のひねりが効いています。

 

 大雑把な印象ではありますが、普段から人文書をよく読む人にとって、本書は特に面白いのではないかと思います。

 狭義の政治を分析するのではなく、その歴史や社会を含めた広義の政治がとり上げられており、政治を新たに捉え直す視点を得られる本になっています。 

 

序章
 第Ⅰ部 基本的な考え方
第1章 政治権力と暴力
第2章 国家
 第Ⅱ部 国民国家の成立──なぜ世界は1つになれないのか
第3章 国民を創る思想
第4章 国民経済の成立
第5章 軍事力と国家の拡大
第6章 制度と国家の安定
 第Ⅲ部 国民国家の民主主義──その理想と現実
第7章 民主主義の多様性
第8章 市民とは誰か
第9章 メディアと世論
第10章 集団と政治
第11章 選挙の戦略
第12章 政党と政党システム
第13章 政策決定
終章

 

 というわけで、第1章はいきなり暴力の話からで、ティモシー・パチラット『暴力のエスノグラフィー』が描く、暴力が隠蔽されている屠殺場の話から入っていきます。

 本書の紹介する議論によれば、「人間社会は、暴力が横行する世界から暴力を使わない世界へと変わってきたのではありません。むしろ、暴力をなるべく隠し、表面化させない世界へと変わってきたのです」(21p)。

 また、暴力だけではなく、社会のさまざまな矛盾や問題も権力によって隠蔽されることがあります。

 本書では、こうした隠蔽が多数決によってもなされるということをグレーバーの議論を用いながら論じています。

 

 第2章の「国家」でも、冒頭に掲げられた問いは「政治共同体か、暴力機構か」です。

 アリストテレスや社会契約論では、人間がよりよく生きるためには国家が必要だという議論がなされてきましたが、一方でジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』に見られるように、農業や国家は支配のための道具であるとの見方もあります。

 本書はこうした見方も取り入れながら、近代になって国家の権力が市民社会に浸透するようになり、国家の存在感が大きくなっていくことを指摘しています。

 

 近代国家を生み出した要因として、本書は思想、経済、軍事力、制度の4つの点に注目しています。

 

 第3章では思想がとり上げられていますが、その中心となるのがナショナリズムです。

 本書ではアンダーソンの議論を紹介しつつ、そのアンダーソンが「公定ナショナリズム」と捉えた明治以降の日本についても検討しています。

 ナショナリズムは国民を動員し、大規模な戦争を戦うことも可能にしましたが、その中でそれを支える存在として位置づけられたのが女性です。日本においても、「良妻賢母」の考えが庶民にまで広がるのは明治以降であり、ナショナリズムが抑圧的にはたらいた事例と言えます。

 

 第4章は経済です。ロックやアダム・スミスは所有権や市場を守るものとして国家を構想し、マルクスは資本主義を守護する存在として近代国会を位置づけました。

 マルクスは資本主義の矛盾は革命によって打破されると考えていましたが、実際には資本主義の矛盾は、マルクス主義的な革命以外にも、ファシズム社会民主主義といった方法で乗り越えることが模索されていきます。

 市場経済の拡大とそれを制限しようとする政治的な動きが同時に発生することをポランニーは「二重の運動」と呼びましたが、近年ではグローバル化をめぐってこの二重の運動が起こっているとも言えます。

 

 第5章は軍事力。アテネの民主主義以来、共同体のために戦うことと民主主義は密接に結びついてきました。また、ヨーロッパの近代国家を生み出した要因として戦争に注目する見方も一般化しています。チャールズ・ティリーが言うように「戦争が国家を作った」のです。

 ただし、戦争が国家を揺るがすこともあります。シーダ・スコッチポルによれば、王権が揺らぐのは戦争などによって軍事力が弱体化したときであり、フランス革命ロシア革命辛亥革命などはいずれもそうだといいます。

 

 また、大規模な戦争は一時的な出費にとどまらないのも特徴で、明治以降の日本は大きな戦争を経験するたびに財政規模を拡大させてきました。

 その内訳も、必ずしも軍事支出だけが拡大したわけでないのもポイントで、いわゆる総力戦を支えるための福祉国家が立ち上がってくることになるわけです。

 さらに本章では、国際政治や安全保障についても言及しています。

 

 第6章は制度ですが、制度には経路依存があり、それぞれの国を特徴づけていますが、同時にこうした経路依存があるからこそ、一定の安定性があります。

 民主主義についても経路依存性はあると考えられ、戦後の日本の民主主義が安定した要因として、戦前の民主主義の経験があげられます。

また、民主主義には格差を縮小する効果、平和をもたらす効果(「民主主義国家同士は戦争をしない」)があると言われますが、これについてはポピュリズムの台頭などでこれを危ぶむ声もあります。

 

 ここまでが羅芝賢担当の前半ですが、この大雑把な紹介でも本書の独自性というのはわかるのではないかと思います。

 では、続けて前田健太郎担当の後半です。

 

 まずは議院内閣制と大統領制という民主主義のスタイルの違いから始まり、レイプハルトの多数決型民主主義と合意型民主主義の話へと進んでいきますが、日本の状況を視野に入れながら議論を進めていっているのがポイントで、平成政治改革の意味や、合意型に分類される日本の民主主義におけるジェンダー的多様性のなさなどが検討されています。

 

 第8章は「市民とは誰か」と題されており、政治に参加できるメンバーの範囲の問題が検討されています。

 過去には、身分によって権利が制限されていた時代がありましたし、近代になって以降も女性に参政権が認められない時代が続きました。

 福祉国家が発展すると社会保障や教育を受ける権利を含む社会的市民権が出現しますが、こうした権利がどれほど保証されるかは国によって大きく異なっています。日本では社会保障が世帯を中心としており、女性が世帯を通じて保障を受ける面がありましたし、アメリカでは人種差別の意識が福祉国家の発展を妨げたとも言われます。

 また、外国人の権利の問題もあります。福祉の受給権をどれだけ認めるか、参政権を認めるかなど、日本も直面している問題です。さらに外国人の特権として沖縄の基地問題を指摘しているのも本章の特徴と言えるでしょう。

 

 第9章はメディアです。権力者がメディアを使って世間を操っているような見方もありますが。同時にメディアが弱者の声などを拾い上げて世論に影響を与えているというメディア多元主義の考えもあります。

 一方、日本には、記者クラブ制度のような権力者とメディアが結託しやすい構造もあり、政治家とメディアは庶民のことを何もわかってないエリート集団だという見方もあります。

 さらに本章ではマスメディアの影響力の問題や、インターネットとSNSの発展による分極化の問題もとり上げています。

 ネットによる分断は日本にもありますが、日本にはYahoo!というポータルサイトの存在があります。Yahoo!のようなニュースアグリゲーターを利用する人は検索サイトやSNSを利用する人よりも多様なメディアに接触すると言われており、「Yahoo!ニュースの記事に対する一般市民の信頼度は、配信元が全国紙である場合と個人や週刊誌である場合とで変わらないという驚くべき研究結果もあります(大森2023)」(250p、大森2023は大森翔子『メディア変革期の政治コミュニケーション』(勁草書房))。

 

 第10章では、民主主義とさまざまな団体の関係が検討されています。

 利益集団というと民主主義を歪めるものにもみられがちですが、何らかの団体は民主種の重要な要素であり、市民団体の活動こそが民主主義がうまくいく鍵でもあると言われてきました。

 労働組合も重要な団体で、20世紀には労働組合を政治に組み込もうとする動きが進みましたが、日本では冷戦構造の影響もあって、政治に対する影響力はヨーロッパほど大きくありません。

 また、社会運動についても、日本は欧米ほどの盛り上がりがないと言われています。政治的機会構造の考えによると、多党制の国(スウェーデンなど)や政党規律の弱い国(アメリカなど)では、社会運動が影響を与えるチャンネルが大きいですが、日本のように自民党の一党優位制のもとでは、影響を与えるチャンネルが少ないということになります。

 

 第11章は選挙です。選挙では政治家が公約を掲げて支持を訴え、有権者はその公約を見て投票先を決めるというモデルが想定されますが、実際の選挙はそのように説明できるものではありません。

 各政党は固定票のようなものを持っており、それを固めつつプラスアルファで浮動票を狙うような戦略をとりがちです。特にに日本では政治家の個人後援会が発達しており、政治家個人が固定票を固めていく戦略が取られています。

 こうした政治いあり方はアメリカのような政治的分断は生み出さないかもしれませんが、後援会を維持するのが難しい人、例えば女性が政治家になることを妨げているとも言えます。支持者への挨拶回りを繰り返し、夜の会合にも欠かさずに顔を出すというスタイルは家庭内のケア労働との両立が難しいからです。

 

 第12章は政党と政党システム。ここでも欧米の理論を紹介しつつ、その理論とは少しずれる日本の状況が分析されています。

 デュヴェルジェは二大政党制こそが最も自然な形だと考えましたが、そこから一党支配が誕生することを警戒していました。一方、サルトーリはそうではなく、左右の「反システム政党」が台頭し、中道勢力が没落することによって政党政治が機能不全に陥ると考えていました。

 これに対して戦前の日本は立憲政友会と立憲民政党の二大政党のもと、左右の過激な勢力の議会への進出は社会運動への弾圧などによって抑えられましたが、軍部による政治介入によって政党政治は崩壊しています。

 

 平成政治改革における小選挙区比例代表並立制の導入は二大政党制を目指したものでしたが、現在のところ野党の分裂が続いています。この理由の1つが、憲法と安全保障問題です。東アジアでの冷戦構造の存続がこうした状況をもたらして言えるとも言えます。

 最後にクォータ制にも触れていますが、政党の指導者に権限が集中する「寡頭制の鉄則」がクォータ制の導入にし関しては有利に働いているという逆説についての指摘は興味深いです。

 

 第13章は政策決定です。

 立法権は国会にあり、国会議員が法律を提案し、政策決定の主体になっているはずですが、現実はずいぶん違うのはご存知のとおりです。むしろ政策決定の主体は官僚にあると考える人も多いでしょう。実際、議員立法よりも内閣立法の数が多く、国会での審議も形骸化しています。

 ただし、内閣立法の裏には与党への根回しがあり、官僚が政治家の意思を無視して政策形成を行っているわけではありません。

 

 以上、気になったトピックを中心に紹介してきましたが、このまとめでも本書の独自性は伝わったのではないかと思います。

 いわゆる「政治学」を学んでいくうえで最適な導入なのかはわかりませんが、「政治」というものを鋭く切り取った内容になっており、読んでいても面白いですし、さらにあげられている文献から切り口をさらに深めていくことも可能でしょう。

 また、最初にも述べたように、人文系や思想系の本が好きな人には入っていきやすい入門書になっています。

 

 

 

 

 

チョン・イヒョン『優しい暴力の時代』

 1972年生まれの韓国の女性作家の短編集。河出文庫に入ったのを機に読みましたが、面白いですね。

 「優しい暴力の時代」という興味を惹かれるタイトルがつけられていますが、まさにこの短編集で描かれている世界をよく表していると思います。

 

 「優しい暴力」の反対である「優しくない暴力」は80年代半ばくらいまでの韓国には吹き荒れていました。本書の訳者である斎藤真理子が訳した同じ河出文庫のチョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』では、むき出しの直接的な暴力が描かれていました。

 ところが、経済が成長し、民主化が進み、軍が民衆を弾圧するようなむき出しの暴力は鳴りを潜めました。

 でも、「暴力」は社会の中にあって、ふとした瞬間に顔を見せているというのが、本書が描く世界です。

 

 冒頭の「ミス・チョと亀と僕」は、父の恋人でもあったミス・チョことチョ・ウンジャさんと高齢者住宅で働く主人公の奇妙な関係を描いた作品で、ユーモラスでもあり、ちょっぴり切なくもあるという、パク・ミンギュを思い出すような作品になっています。

 

 つづく「何でもないこと」は妊娠してしまった女子高生と妊娠させてしまった男子高生のそれぞれの母親を描いた作品で、どうしようもなくなった世界の行き止まりのような光景が示されます。

 

 次の「私たちの中の天使」は、あるカップルが犯罪に手を染めようとする話なんですけど、経済的に余裕のないカップルの間のお金をめぐるやり取りだったり、感覚の違いが印象に残る作品です。

 

 「ずうっと、夏」は、日本人の父親と韓国人の母親の間に生まれた娘が主人公。日本に暮らしていたのですが、母親は日本語を話そうとせず、娘が通訳に駆り出されるような状況だったのですは、父親の異動で南国に引っ越すことになります。

 主人公はインターナショナルスクールで、「韓国語」を話すメイという女の子に出会うのですが…という話。意外に政治っぽい話です。

 

 「夜の大観覧車」は、中年女性の中の恋を描いた作品ですが、横浜への研修旅行が舞台になっているところが興味深い。韓国でも「ブルーライトヨコハマ」は広く知られているんですね。

 

 「引き出しの中の家」は、家探しをめぐるドタバタっぽい話ですけど、韓国の不動産をめぐるシビアな状況がわかる話。掘り出し物件を見つけた夫婦なのですが、本当に家を買って大丈夫なのか?という悩みと、内見できない部屋の謎という形で物語が進みます。

 

 「アンナ」は、主人公がラテンダンスのサークルで出会ったアンナという年下の女性の話。主人公は結婚して子どもができた後に、英語幼稚園で補助教員をしているアンナと再会します。

 英語幼稚園に入った息子は一言もしゃべらず、主人公はアンナから話を聞き出そうと会うようになりますが、そうした中で若い頃は目立たなかった格差の問題がせり出してくるという話です。これは巧い作品ですね。

 

 最後のボーナストラック的な位置づけで収録されているのが「三豊(サムプン)百貨店」。1995年に、営業中に建物が崩壊し、死者502名・行方不明者6名・負傷者937名という大惨事になった三豊百貨店崩壊事故を扱った作品です。

 著者に拠っても三豊百貨店は若い頃の思い出の場所だったようで、自伝的要素も入った作品になっています。

 高校時代の同窓生で、三豊百貨店の販売員をしているRとの交流を通じて、就職難や格差などの問題が扱われるとともに、韓国社会の矛盾として三豊百貨店の事故が描かれています。

 

 多くの引き出しのある作家で、各短編はそれぞれちがった特徴を持っていますが、作品の何処かに社会の矛盾が、ときにさりげなく、ときに鋭く描かれているのがこの短編集の特徴と言えるでしょう。

 

 

 

Beirut / Hadsel

 去年出たBeirutのニューアルバム。Beirutのファンであれば1曲目の"Hadsel"の感想の♪タラリラタラリラ♪というホーンの部分だけで満足できるのではないでしょうか? 僕は満足しました。

 

 アルバムタイトルの「Hadsel」はノルウェーのハドセル島という島の名前から来ているそうで、この島の教会のオルガンを使って作曲したそうです。

 そのために以前の「バルカンフォーク」と形容された音からすると落ち着いた感じかもしれませんが、基本的には郷愁を誘うようなBeirut節がそこかしこにあります。

 2曲目の"Arctic Forest"も3曲目の"So Many Plans"も、後半でホーンが入ってくると、「ああっBeirutだな」って感じですし、いつも通りではあると思います。

 オルガンというと静謐なイメージもあるかもしれませんが、9曲目の"January 18th"などはアップテンポな感じに仕上がっており、面白い曲です。

 

 あくまでも基本は今までのBeirutと変わっていないと思いますが、前作の「Gallipoli」に比べると、曲の質は揃っており、明らかにいい出来だと思います。

 


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Hadsel (AMIP-0339LP) [Analog]

Hadsel (AMIP-0339LP) [Analog]

  • アーティスト:Beirut
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デイン・ケネディ『脱植民地化』

 オックスフォード大学出版局のVery Short Introductionシリーズの1冊。ちょっと前に読み終わっていましたが、簡単にメモしておきたいと思います。

 

 タイトル通り、「脱植民地」をテーマにした入門書ですが、本書は「脱植民地化」を広い視点で捉え直しています。

 一般的に「脱植民地化」でイメージするのは第2次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立だと思いますが、本書では18世紀後半〜19世紀前半におけるアメリカ大陸における独立、20世紀前半の中東欧における独立、さらい1990年代のソ連崩壊に伴う独立なども視野に入れながら、アジア・アフリカ諸国の独立を検討しています。

 

 18世紀後半〜19世紀前半におけるアメリカ大陸における独立は大きな暴力を伴うものでしたし、20世紀前半の中東欧における独立は第一次世界大戦という巨大な暴力を背景にして成し遂げられました。

 

 アジア・アフリカ諸国の独立の背景にあるのも第2次世界大戦という巨大な暴力です。

 直接の戦場にはならなかったとしても、植民地で動員や収奪が行われ、日本支配下ベトナム、イギリス支配下のインドでは食糧を供出したことで飢饉が起こっています。

 戦争によるダメージは大きく、イギリスは植民地の再興だけでなくさらなる拡大も望んでいましたが(タイを占領する計画があったという)、戦後にもはやそのような力は残っていませんでした。

 それでもイギリスは帝国の復活に固執し、多くの開発プロジェクトに巨額の資金を投じ、それが本国の没落を早めたとの指摘もあります。

 

 植民地の復興を目指したヨーロッパの国々に対して、アメリカはフィリピンの独立を認めるなど植民地を手放す姿勢を見せましたが、フィリピンに軍事基地を設置する権利を獲得し、経済的にも緊密な結びつきを維持しました。

 

 フランスもイギリスも、それぞれ植民地の再編成や権利の付与などで植民地の人々を懐柔しようとしました。

 一方で、独立運動を押さえつける必要もあり、イギリスでは1948年に労働党政権のもとでイギリス史上初めて平時の兵役が導入されています。徴兵された兵士は植民地に送られ、イギリスの植民地からの撤退に伴い徴兵は終了しています。

 

 また、植民地からの動員も行われており、フランスは1945〜54年にかけてインドシナに50万人の軍事要員を配置しましたが、内訳はフランス人23万3000人、北アフリカ人12万3000人、西および中央アフリカ人6万人、外国部隊員7万3000人(ドイツ退役軍人多数を含む)だったといいます。そして、もっとも犠牲になったのはベトナム人でした(80p)。

 

 植民地のマイノリティを積極的に使ったのも特徴で、フランスはインドネシアクメール人を、オランダはインドネシアキリスト教徒のアンボン人を、イギリスはネパールのグルカ人や、ケニアのカンバ人、ナイジェリアのティブ人を植民地支配のために使いました。

 

 アジアでは、日本の軍事占領が引き起こした植民地支配の中断・動揺によって戦後にそれを継続するのは難しくなりました。オランダやフランスは弾圧によって独立運動を抑え込もうとしましたが失敗しています(イギリスは比較的巧妙に立ち回りましたが、例えばマレーシアではイギリスの政策によって保守的なマレー人スルタンの権力が温存されました)。

 

 一方、アフリカではそういった動揺は大きくなかったですが、それが故に一層激しい泥沼の闘争が続くことにもなりました。

 「フランスの不可分の領土」とされたアルジェリアでは、大量処刑や拷問などを使った「汚い戦争」が繰り広げられ、フランスの第四共和政の崩壊にもつながっていきます。

 イギリスもケニアのマウマウの反乱や、キプロスなどで過酷な弾圧を行い、キプロスではギリシア系とトルコ系の分断を生み出しました。

 1960年代にアフリカ各国の独立が進んだ後も、ポルトガルが植民地で過酷な弾圧を行い、植民地支配にしがみつきました。

 

 場合によっては激しい独立闘争を経ないで宗主国が植民地を手放すケースもあります。

 イギリスはインド支配の崩壊とともにスリランカを手放し、パレスチナでの統治が難しくあるとトランスヨルダンの信託統治をあきらめました。

 60〜70年代にかけては、戦略的・経済的理由から、マルタ、レソトボツワナスワジランド、バルバドス、グレナダセントルシアといった地域を手放しています。

 しかし、価値のあるセントヘレナジブラルタルフォークランド諸島は保持し続けました。

 

 独立した植民地が目指したのは国民国家ですが、それは同時にさまざまな問題を引き起こしました。独立した植民地の多くが文化的あるいは民族的に均質な人民を持っていなかったからです。

 

 ガーンディーに代表されるように、植民地闘争を担った人々には反植民地コスモポリタニズムとも言うべき特徴がありました。

 彼らは海外に留学したり、海外で仕事をしたりして、外の世界を知った上で独立運動に身を投じたのです。

 また、第2次世界大戦後は、共産主義トランスナショナルな思想が独立運動の後押しをしました。

 また、パン・アフリカ運動、パン・イスラム運動といった運動も独立運動を後押ししたトランスナショナルな思想です。

 

 しかし、独立した植民地のモデルになったのは国民国家でした。

 この背景には、アメリカ合衆国というモデルがあり、そのアメリカのウィルソンやフランクリン・ローズヴェルト民族自決を唱えたこと、特定の場所やコミュニティに結ぶついた主張のほうが力を持ったことなどが挙げられるといいます。

 

 しかし国民国家創設のための努力は地域、職業、言語、民族などの差異を増幅させてしまうことにもなりました。

 1945〜99年の間で国家間の戦争は25でしたが、内戦は127ありました。内戦の死者数は1620万人で、国家間の戦争で亡くなった330万人を大きく上回りました。

 

 このような国民国家創設の中で、インドとパキスタンは暴力が吹き荒れる中で分離し、植民者は逃げ出しました。ただし。パレスチナイスラエルでは入植者が逃げ出さずに支配者となりました。

 また、植民地支配の一端を担っていたマイノリティも大きな苦難に見舞われることになります。

 内戦は冷戦構造の中で強化されました。米ソの超大国は勢力の拡大のために対立する陣営を支援し、内戦をエスカレートさせました。

 

 米ソの両国は実質的な帝国としても存続し、特にソ連は東欧諸国の自律的な動きを制限し、周辺をソ連の中の「共和国」として支配しました。

 ここからソ連崩壊後の各共和国の独立を「脱植民地化」として捉えることができます。

 

 本書はあくまでも入門書であり、以上のようなことがざっくりと回てある感じなのですが、それでも「脱植民地化」という大きな問題について、考えるべきポイントや意外に知られていない部分に光を当ててくれる本です。

 

 

 

『夜明けのすべて』

 「カムカムエヴリバディ」の安子ちゃん(上白石萌音)とみのるさん(松村北斗)が主演ということでさわやかな恋愛ものを想像する人も多いでしょう。実際、映画の日ということもあって女子高生二人組とかも見に来ていました。

 

 まったく恋愛要素が必要ないドラマにも恋愛要素を入れてくるのが日本の映画やドラマの問題点の1つですが、この『夜明けのすべて』は「普通は恋愛要素入れて盛り上げるだろ」という話でありながら、そうは安易に流れません。

 『ケイコ 目を澄ませて』の三宅唱監督が、あくまでも静かに恋愛抜きの人間の助け合いや支え合いを描き出しています。

 

 映画.comの作品情報は以下の通り。

 

PMS月経前症候群)のせいで月に1度イライラを抑えられなくなる藤沢さんは、会社の同僚・山添くんのある行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。転職してきたばかりなのにやる気がなさそうに見える山添くんだったが、そんな彼もまた、パニック障害を抱え生きがいも気力も失っていた。職場の人たちの理解に支えられながら過ごす中で、藤沢さんと山添くんの間には、恋人でも友達でもない同志のような特別な感情が芽生えはじめる。やがて2人は、自分の症状は改善されなくても相手を助けることはできるのではないかと考えるようになる。

 

 話としてはまさにこういう話です。

 藤沢さんと山添くんはそれぞれに自分の意志ではままならない障害を抱えていて、東京の下町の栗田科学という小さな企業に流れ着きます。

 藤沢さんは、すぐに職場にお菓子を買ってくるような気遣いをする人間なのですが、生理前のときになると自分の感情をコントロールできずにキレてしまいます。

 一方、山添くんはかなりのエリートであり、パニック障害がなければ一流企業でバリバリ働いていたはずの人間ですが、実は電車にも乗れないような状況です。

 

 こうした2人が惹かれ合うという設定はよくあると思います。

 他人の欠如を埋めようとするときこそ、自分の欠如を見ないですむときであり、ラカン的に言えば、それこそが「愛」という感じになるでしょう。

 

 ところが、本作は互いに相手の欠如に対して何かをしようとしながらも、それは欠如を埋めるといった情熱的なものではありませんし、自らの障害をそれによって忘れてしまうということもありません。

 あくまでも「この人の手助けが少しはできるんじゃないか?」というレベルにとどまっているのです。

 

 このレベルをキープし続けることは逆に難しそうでもあるのですが、本作では、上白石萌音松村北斗の演技と佇まい、三宅監督の演出が、このレベルのキープを成立させています。

 上白石萌音ナチュラルなおせっかい感とか、松村北斗の他人との距離を取ろうとして、でも取り切れない感じとかが非常によいです。

 

 また、シナリオ的にも主人公たちの周囲に家族を自殺で亡くした人を配置して、支えることの大切さと難しさを感じさせるような構成もうまかったと思います。

 見に来ていた女子高生とかがどう感じたのかはわかりませんが、いい映画だと思いました。

 

カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』

 著者のカン・ファギルは1986年生の韓国の女性作家で、同じ〈エクス・リブリス〉シリーズで短編集の『大丈夫な人』が出ています。

 『大丈夫な人』は「ホラー」といってもいいような作品が並んだ短編集で、血しぶきが飛ぶようなことはないものの、じわじわと精神的に追い詰められるような強さが描かれていました。

 

 そんなカン・ファギルの長編が、この『大仏ホテルの幽霊』です。

 出版社のホームページに載っている紹介文は以下の通り。

 

物語の舞台は、1950年代後半、朝鮮戦争の傷跡が生々しく残る、朝鮮初の西洋式「大仏ホテル」。朝鮮半島に外国人が押し寄せた時代に仁川に建てられた実在のホテルである。
アメリカ軍の無差別爆撃で家族を亡くしたチ・ヨンヒョンは仁川の港で泊まり客を大仏ホテルに案内する仕事をしていた。雇い主は同い歳のコ・ヨンジュだ。ヨンジュは苦労して英語を習得し、大仏ホテルの後身である中華楼での通訳を経て、再オープンした大仏ホテルの管理を任される一方で、アメリカ行きを虎視眈々と狙う。中華楼の料理人のルェ・イハンは、韓国人からヘイトの対象とされる華僑の一族のひとり。かつて栄華を誇った大仏ホテルも、今や中華楼三階の客室三室とホールだけの営業となった。悪霊に取り憑かれていると噂される大仏ホテルに、ある日、シャーリイ・ジャクスンがチェックイン。エミリー・ブロンテも姿を現し、運命の歯車が回りだす。
伝播する憎しみ、恨み、運命を変えたい人々、叶えたい想い……。スリリングな展開と繊細
な心理描写によって、韓国社会の通奏底音である「恨(ハン)」を描ききり、最後は大きな感動に包まれる、著者の新境地。

 

 大仏ホテルは1888年に日本人が朝鮮にやってくる西洋人を当て込んでつくったホテルで、宿泊業が衰退してからは中華料理店「中華楼」となり、現在はかつての暮らしを伝える展示館になっているといいます。

 この紹介を読むと、最初からこのホテルを舞台とした話が展開するのかと思いますが、この小説は作者自身も登場するメタフィクション的な構造になっています。

 

 この小説は著者が「ニコラ幼稚園」という小説を書きあぐねているところから始まります。「ニコラ幼稚園」は前述の『大丈夫な人』に所収されている短編ですが、ここではその小説が書けないという設定になっています。

 

 ここで登場するのが主人公の母親の友人であるボエおばさんであり、そのボエおばさんの母親のパク・ジウンです。

 そして、このパク・ジウンが大仏ホテル(このころはすでに大仏ホテルとしての営業は取りやめている)の話を語りだします。

 これをさらに作者はチ・ヨンヒョンの視点で語り直したものが、本書のメインとなる第2部になります。

 

 このホテルにシャーリイ・ジャクスンが逗留するようになるということで、ここまで読んできた人はポスト・モダン的な小説を想像すると思います。

 シャーリイ・ジャクスンはホラーや心理サスペンスなどを得意としたアメリカ人の女性作家ですが、韓国に元大仏ホテルに逗留したというのはフィクションで、シャーリイ・ジャクスンの描き方にしろ、コミュニケーションの取り方にしろ、それほどリアリティを追求しているとは思えません。 

 シャーリイ・ジャクスンやエミリー・ブロンテはホラー的な雰囲気を出すための道具的なものにも思えます。

 

 というわけで、本書はポスト・モダン的なホラーという感じでして、『大丈夫な人』の短編に比べてもそんなに怖くありません。

 

 ところが、後半になると、韓国における華僑に対する差別や、朝鮮戦争に伴う住民同士の密告など、韓国の現代史の暗部がせり出してきます。 

 紹介文にもありますが、韓国の「恨(ハン)」というものがどのようなものであるかを教えてくるような展開であり、物語は一気にヘヴィーになります。

 

 ただ、本書はそれだけでは終わらずに、それをくぐり抜けた愛も描きます。

 『大丈夫な人』の作品群からは、このように温かさを感じるラストは想像していませんでした。紹介に「著者の新境地」とありますが、まさにそんな感じです。

 自分は『大丈夫な人』よりもこちらが好きですね。

 

 

 

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中田潤『ドイツ「緑の党」史』

 ヨーロッパの政治シーンにあって、日本の政治シーンではほぼ存在感がない政治勢力に「緑」があげられると思います。

 その「緑」の中でも、特にドイツの緑の党は以前から存在感を持っており、現在のショルツ政権では与党の一角を担っています。

 

 この緑の党の源流は? と言うと、70年代の新左翼の運動から生まれたエコロジー運動を思い起こす人が多いかもしれません。

 資本主義への批判の1つがエコロジー運動としても盛り上がり、それが政治組織となったというわけです。

 

 ところが、本書を読むと実際はもっと複雑な成り立ちをしていることがわかります。

 戦後西ドイツにおいて、「自然環境保全を主張することは、容易にナチズムによる「血と土」のイデオロギーにミスリードされる危険があり、〜とりわけナチズムの過去の断罪に積極的であった左派陣営にとって、自然保護運動との接触は、ある種のタブー」(8p)でした。

 こうした中で、エコロジーは単純に右派・左派では切り分けられない問題として存在し、そこに新左翼的な運動が合流していくことになります。

 

 本書は、このような複雑な緑の党の来歴を辿り、その担い手を明らかにしつつ、その来歴ゆえの党内対立を追っています。

 そこには右と左の対立には還元できないさまざまな動きがあり、非常に興味深い内容になっています。

 

 目次は以下の通り。

序章

第Ⅰ部 市民運動から連邦政党へ
第1章 前身としての環境保護市民運動――ニーダーザクセン州における原子力関連施
第2章 「緑のリスト・環境保護」の成立――環境保護市民運動からエコロジー政党へ 
第3章 抗議政党から綱領政党への転換
第4章 緑の勢力の結集

第5章 連邦政党緑の党の成立

第Ⅱ部 社会構成と地域的広がり
第6章 左派オルタナティブと各州での緑の運動

第7章 緑の党の社会構成

第Ⅲ部 混迷の時期
第8章 党内対立解消の試み――「左派フォーラム」と「出発派」

第9章 「原理派」の影響力喪失とベルリンの壁崩壊

結びにかえて――緑の党の現在

 

 現在、環境保護というと「左」が重視するテーマというイメージですが、歴史的に見れば必ずしもそうではありません。むしろ、保守主義こそが自然環境を守るという意識に結びつきやすいはずだと言えます。

 

 実際に、ドイツでは「第二次世界大戦前から存在する環境保護団体の多くは、自らの運動の理念と、ナチズムとの間に存在する一定程度の親和性を意識しており、自らの活動が結果的として(引用注:「的」は余計?)ナチズムに荷担することになったという歴史認識を有していた」(28p)のです。

 そのため、彼らは政治的運等とは距離を取り、比較的小さなサークルに閉じこもる傾向があったといいます。

 これが変化してくるのが60年代後半から70年代にかけてです。

 

 この変化のきっかけとなったのが、この時期に盛り上がってきた原子力関連施設に対する反対運動です。

 本書の第1章では、原子力関連施設が集まっていたニーダーザクセン州における反原発市民運動の中から、緑の党へとつながっていく運動が立ち上がってくる様子をみています。

 

 運動の当初はそれぞれの団体が非暴力的な抗議を行うというものでししたが、警察の過剰な暴力の行使や厳しい法的措置に対する反発が運動に新たな展開を模索させることになります。

 一方、警察や行政の中からも反省が生まれ、市民運動との連携などが意識されるようになっていきます。

 

 第2章では、こうした運動から政党結成への至る道が紹介されています。

 西ドイツでは1961〜83年まで連邦議会には3つの政党しか存在しない状況でした。この背景には小政党の議会進出を阻む5%条項の存在などがありましたが、それでも選挙にはおおよそ10〜34の政党が参加しており、必ずしも政治的な活動が不活発であったわけではありません。

 

 こうした状況に風穴を開けたのが緑の党です。第2章では緑の党の前身となった「緑のリスト・環境保護(GLU)」の成立の過程を追っています。

 ニーダーザクセン州に核燃料の再処理施設の建設が計画されたことに対する反対運動に参加した一人にカール・べダーマンがいました。

 べダーマンはニーダーザクセン州の職員でしたが、原子力政策については議会内に批判勢力がなく、既存の政党では変革は期待できないと考え、選挙を通じて変革を訴えようと、1977年にニーダーザクセン環境保護党(USP)を結成します。

 

 一方、1965年にヘッセン州で結成された独立ドイツ人行動共同体(AUD)も、のちに緑の党の代表になるハウスライターのもとで環境政党へと舵を切っていました。

 もともとAUDは東西両陣営から一定の距離を取る中立政策を掲げていた党でしたが、「中立かつナショナルな単位での社会的平等性に重きを置くドイツ」(71p)というAUDの考えはナチズムを想起させるものであり、急進右翼主義政党をみなされていました。

 こうした政策を掲げたAUDは1965年の連邦議会選挙で惨敗しますが、ハウスライターは党の立て直しのために環境保護を打ち出す作戦に切り換えます。

 

 ニーダーザクセン州では、他にも東ドイツから亡命してきたゲオルク・オットーも環境保護を訴える政党を構想していました。

 オットーは自由経済理論を信奉しており、べダーマンの考えとは距離があり、オットーは「緑のリスト・環境保護(GLU)」というグループを作ります。

 このGLUがヒルデスハイム軍議会選挙において1議席を獲得したことで、GLUとUSPの合同に向けた議論が持ち上がり、べダーマンを代表としてGLUの名前を使いつつ、綱領はUSPのものを引き継ぐという形で両党の合同がなります。

 1978年のニーダーザクセン州議会選挙において、GLUは15万7733票を獲得しますが、得票率は3.9%で5%の壁は突破できませんでした。しかし、GLUは消え去ることなく、勢力を拡大させていくことになります。

 

 第3章では、その後のGLUの拡大と変質が分析されています。

 1978年4月に、ニーダーザクセン州議会選挙に向けて開かれたペニッヒビュッテル党大会では、べダーマンの作成したエコロジー問題と経済成長至上主義批判をもとにした綱領をもとに加筆が行われました。

 ここで注目すべきは地域政党からの脱却と、「[ボン]基本法の枠内に置いて活動する」という一文が挿入され、さらに「軍拡競争への懸念」、「有期雇用の拡大とそれによって生み出される構造的な失業の増大への懸念」が書き込まれた点です(104−105p)。

 

 左派オルタナティブ勢力の流入により、彼らが関心を持つ軍拡と雇用問題が盛り込まれる一方、左派オルタナティブ勢力の行動を警戒する価値保守主義者たちの意向によりボン基本法の枠内でという一文が入れられたのです。

 また、それまで原子力、大気汚染といったバラバラの問題として認識されていたものが「エコロジー」という言葉のもとで統合されることになり、新たな社会秩序の模索も始まります。

 

 GLUに左派オルタナティブ勢力が流入することで、そうした党員の中からべダーマンへの批判の声があがります。

 結局、78年7月のリーベナウ党大会でべダーマンは失脚し、代わりにオットーが党代表となります。

 

 緑の勢力はさらに結集していくことになりますが、この過程を描いたのが第4章です。

 1979年、ECは初のヨーロッパ議会選挙を行うことを決定しますが、これが緑の勢力が結集する1つのきっかけになります。

 

 このころオットーは自らの構想について「保守的で、リベラルかつ社会主義的なエコロジー主義者」(145p)から構成される政党ということを述べていました。

 この「保守的」とは「価値保守主義」であり、人々の共同体の維持を重視する考えでした。また、「社会主義」は非マルクス主義的なものであり、オットーにとっては矛盾する考えではありませんでした。

 

 オットーはこうした考えをもとに、価値保守主義たちの「緑の行動・未来(GAZ)」やハウスライターのAUDとも協議を行います。

 一方、緑の勢力への左派オルタナティブ勢力の流入も続き、強い影響を持つようになっていました。

 そのせいもあって緑の勢力が1つの政党にまとまることはなかなか難しく、欧州議会選挙に対しては「その他の政治団体 緑の人々(緑の党)(SPV)」という形で臨むことになります。

 

 SPVの選挙綱領では、エコロジーの優位が冒頭に掲げられ、経済政策については市場原理主義でも東側のような社会主義でもない「第三の道」が打ち出されました。

 また、左派オルタナティブ的な政策である女性解放や社会的少数者の擁護、少数民族問題などが盛り込まれたのも特徴です。

 79年の欧州議会選挙では、SPVは89万票あまりを獲得し、得票率は3.23%。今回も5%の壁は突破できずに議席獲得はなりませんでしたが、ブレーメン州で4.75%を獲得するなど、既成政党を脅かしました。

 

 第5章では、連邦政府緑の党の成立過程がとり上げられています。

 79年の欧州議会選挙をきっかけに緑の党には多くの入党者が現れましたが、その多くは左派オルタナティブ・ミリューの影響を受けていました。

 こうした中で環境保護以外の政策をどうするか? 二重党籍を認めるか否かといったことが問題になっていきます。

 特に教条主義的な左翼勢力は二重党籍の容認によって緑の党に影響力を持とうとする一方、左派オルタナティブ勢力はそうした動きに反発しており、左派内部での対立もはらみながら結党に向けた動きが進みます。

 

 ハウスライターが教条主義的な左翼を抑えるために左派オルタナティブ勢力と協調する姿勢を見せたこともあり、1980年のザールブリュッケン党大会で採択された党綱領は、さまざまな思想のごった煮でありながら、以前よりも社会主義的な色彩を強めたものになりました。

 軍縮や妊娠中絶の合法化、労働時間の短縮など、左派オルタナティブ勢力の主張が盛り込まれていくことになります。

 

 当時の西ドイツの状況と緑の党の変化について、著者は次のように述べています。

 

 1960年代末とは異なり、1970年代末から1980年代という時代における西ドイツ社会の多数派にとって、社会民主主義とは区別される「社会主義」という理念が持つ価値は急激に輝きを失いつつあった。多くの人々は、現状をマネージメントする能力に長けたシュミット政権の中に「社会民主主義」を見出し、それに満足していた。こうした西ドイツ社会の現状があるからこそ、その現状に満足できない人々、とりわけ緑の党に結集していった左派勢力にとって「社会主義」が放つ最後の輝きは、魅力的なものであった。こうした左派勢力は、緑の党の中で理念化・言語化を目指して苦悩する協同主義を、「社会主義」を振りかざしながら大挙して押しつぶしていった事実を、党の成立期においては認識していなかった。結党期緑の党は、「協同主義」という新しい社会秩序理念を生み出す可能性を秘めていたが、それは実際には成し遂げられず、この時点での現実は右派。左派の対立として展開した。(211-212p)

 

 この引用にもあるように、緑の党では右派と左派の対立が展開され、1980年6月にドルトムントで行われた党大会では、ナチズム期にジャーナリストとして体制を賛美していたことなどを理由にハウスライターが党代表を追われます。

 この立役者でもあるオットー・シリーは、「緑の党は「左派的・社会主義的・進歩的」な政党であり、「市民的、既成権力、ファシズム的」な勢力と対置される」(215p)と主張し議論をリードしますが、「市民的」がネガティブに用いられているのがこの時代と緑の党の特徴を示しています。

 

 第6章では、緑の党に大きな影響を与えた左派オルタナティブ勢力とはどんなひとびとだったのか? という問題がとり上げられてます。

 これらの人々は1960年代末の学生運動に関わっていた人が多いのですが、こうした人々の中に、70年代になるとカフェ、ギャラリー、書店、託児所といったオルタナティブ・プロジェクトと呼ばれる活動に従事するようになった人々がいました。

 こうした活動は学生なども惹きつけ、また、社会民主党から離れた人々も集めていきます。さらにはフェミニズム運動も左派オルタナティブ運動の一翼を担いました。

 

 この第6章の章末には、緑の党において重要な役割を果たしたバルドゥール・シュプリングマンがとり上げられています。

 シュプリングマンは、農本主義的な立場から戦前戦中はナチスの運動にも参加し、戦後は有機農業などを通じて新左翼的な流れにも接近したという興味深い人物です。

 日本でも戦前、農本主義者と右翼が結びつきましたが、シュプリングマンは戦後も農本主義的な立場を棄てず農場を経営しました。そして、「非暴力・平和」を掲げて、良心的兵役拒否者が自らの農場で市民的奉仕活動ができるように運動を続けて、ついに当局にそれを認めさせています。

 

 第7章では、緑の党を支持した人が具体的にどんな人々であったかを明らかにしようとしています。
 ここでは、ハノーファーの選挙区の推薦人名簿の住所を地図にプロットすることで、彼らがかなり狭い範囲に固まって住んでおり、それは生活コミュニティであったり、今で言うシェアハウスに集う若者だったことを明らかにしています。

 この部分は研究手法的にも面白いですね。

 

 全体とし見ると、他の既成政党に比べて女性の党員が多く、職業的には公務員、特に教員が多いのが特徴で、GLUの郡支部をみると支部長が教員で、その教え子が創設メンバーといったケースが多数存在するそうです。

 また、緑の党はさまざまな立場の人を取り込みましたが、移民系の住民については取り込めていませんでした。

 

 第8章では緑の党の党内対立とその解消の試みがとり上げられています。

 緑の党は80年代に入っても勢力を伸ばし、1985年にはヘッセン州において緑の党が政権に参加することとなりますが、現実に政権入りが見えてくると、現体制を否定し既成政党との妥協を拒否する「原理派」と、連立を肯定し、体制を内側から変えていこうとする「現実派」の対立が激しくなります。

 

 こうした対立を抱えながらも、1987年の連邦議会選挙において緑の党は得票率8.3%、獲得議席44という大躍進を遂げます。これには前年のチェルノブイリ原発事故が大きく影響しています。

 ただし、この大勝利も党内対立の解消をもたらしませんでした。1987年11月には、党地方議員や活動家が緑の党連邦議会議員団会議の議場を占拠して、党の統一を訴える事件も起きています。

 

 それでもこの対立は党内だけでは解決できず、この局面が転換するのはドイツ統一という問題がせり出してきてからのことになります。この時期の緑の党を分析しているのが第9章です。

 

 まず、本章の前半で緑の党の次のような性格が示されています。

 

 緑の党の一般党員にとって、議員・党執行部といった党エリートは、あくまで一般党員によって形成された政策合意を、議会や世論といった公共空間に伝達する「メディア」にすぎず、またそのメディアは、党大衆からの供給を通して、交代し続けるべきものであった。緑の党は、こうした理念に基づき、党エリートが職業政治家集団へ変質していくことに対して、常に厳しい目を向けており、またそれを防ぐため様々な制度的措置を講じていた。その業務量を考えれば職業生活との両立は事実上不可能であったにもかかわらず、党中央執行部の構成員に対する報酬の支払いはなかったこと、議員職と党執行部職の兼職の禁止、ローテーション制、命令的委任(imperatives Mandat)といった制度は、こうした職業政治家・専門家集団による党支配を防止するという意図から導入されていた。(330p)

 

 しかし、上記のような理念を導入するには党員がかなりの時間を割いて党運営に関わる必要があります。

 緑の党の理念が想定するんは、熟議に恒常的にエネルギーを割くことができるハーバーマス的な「市民」であり、多くの党員にとっては負担が重いものでした。

 

 結果として、緑の党では党内闘争が続くのですが、それを大きく揺さぶったのが東ドイツでの体制崩壊です。

 緑の党の理念にナショナリズムは不要であり、ドイツの統一問題についても深くコミットしてこなかったのですが、再統一の機運が急速に高まるにつれて対応を迫られます。

 とりあえず左派は二国家体制を維持しようとしたものの、1990年3月の東ドイツ人民議会選挙で可能な限り早い統一を求める勢力が勝利すると、二国家体制論は放棄されます。

 

 この流れの中で「現実派」と「出発派」と呼ばれるグループは左派色の一掃を図ろうとしますが、それも失敗し、緑の党からは離島者が相次ぎます。

 結果、1990年12月の連邦議会選挙では得票率4.8%にとどまり、5%条項によって緑の党連邦議会でのすべての議席を失いました(なお、東ドイツでは東ドイツ緑の党と同盟90の政党連合が議席を獲得)。

 

 本書の記述は基本的にここで終わっているのですが、「結びにかえて」で興味深いエピソードが紹介されています。

 著者らが2015年に再生エネルギーを使ったエネルギー協同組合があるブランデンブルク州のフェルトハイムを調査に訪れたところ、現地の職員から「アキエさんも来た」と言われキョトンとしていると、「日本人なのに、日本のファーストレディを知らないのか?」と言われたそうです(355p)。

 

 その後、著者は安倍昭恵氏がスピリチュアリズム国粋主義に傾倒していたことを知り、彼女にはある種の一貫性があると考えるようになったといいます。

 日本では環境保護は左派のイシューだと思われがちですが、戦前には右翼の農本主義者がいましたし、ドイツの緑の党には近代科学技術文明への批判的な態度から自然への回帰や自然との共存という思想に至った人々も流れ込んでいました。

 緑の党のメンバーの大部分はスピリチュアリズムには共鳴せず、社会のさらなる近代化や民主化、環境に優しいテクノロジーによってエコロジー問題を解決しようという方向に向かいましたが、本書が指摘する緑の党の源流の雑多さというのは非常に興味深いと思います。

 

 本書は緑の党の来歴や西ドイツの戦後政治を考える上でももちろん興味深いのですが、さらに政党そのものの運営の問題や、日本の戦後にあり得たかもしれない「保守」「革新」ではない第三の道の可能性などを考える上でも興味深い内容を含んでいます(日本のおける「協同主義」に関しては三木武夫が唱えていた(竹内桂『三木武夫と戦後政治』参照)。

 

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