マイケル・オンダーチェ『戦下の淡き光』

 1945年、うちの両親は、犯罪者かもしれない男ふたりの手に僕らをゆだねて姿を消した。

 

 これがこの小説の冒頭の一文です。この一文からもわかるようにオンダーチェの新作は非常にミステリーの要素が強いです。読み始めたときは、まずカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を思い出しました。

 語り手である主人公が過去を回想する形で物語が展開するのもカズオ・イシグロっぽくて、雰囲気としては似たものを感じます。

 

 ただし、物語の展開の仕方は随分違いますね。冒頭に示したように主人公のナサニエルと姉のレイチェルの前から両親が姿を消すことから物語は始まります。

 両親が子どもたちの世話を頼んだのは、主人公たちが「蛾」と呼ぶ謎の男で、そこに「ダーダー」と呼ばれる元ボクサーの男が加わります。

 まず主人公たちの前に立ちはだかるのが「「蛾」とは一体どんな男なのか?」という謎であり、次に「母は本当はどこに行ったのか?」という謎です。アジアに行くことになった父のもとに行ったはずだった母は、どうも父のもとには行っていないらしいのです。

 

 この謎だけでも物語を引っ張るのに十分ですが、さらに魅力となるのが1945年という時代設定です。

 戦争が終わった直後、まだ戦争における非日常が残っていましたし、社会には戦争によってできたさまざまな穴が空いた状態でした。そして、人々はドイツの備えるために非日常の任務についていた過去を持っていました。

 主人公と姉も、学生でありながら、蛾やダーダーに導かれるままに、冒険と言ってもいいような活動に参加していきます。このあたりの描写は非常に面白いですね。

 

 また、この「戦争と秘密」といったテーマは、著者の作品の中でもっとも有名な『イギリス人の患者』(『イングリッシュ・ペイシェント』の題名で映画化)にも通じるもので、オンダーチェを読んできた人にはおなじみだと思います。

 

 そして、主人公の少年時代を描いた第1部に続いて、その謎解きとも言える第2部があります。この構成はちょっとシャーロック・ホームズの長編っぽくもあるのですが、謎解きが目的ではないので、そこまで鮮やかな謎解きはありませんが、主人公の少年時代に周囲にいた人物が一体どんな人物だったのかということが明らかになります。

 そして、ラストのその一人との再会のシーンは見事です。自分の知らなかった自分の人生が明かされる瞬間でもあります。

 もともとオンダーチェは大好きな作家なのですが、この小説もいいですね。

 

 

『ホテル・ムンバイ』

 タイトルから「『ホテル・ルワンダ』のようなヒューマンドラマなのかな〜?」くらいにしか思っていなかったのですが、TwitterのTLで「傑作!」との声を聞いて見に行ってみたんですけど、確かにこれは面白い!近年でも出色の緊迫感を持った映画です。

 題材は2008年のムンバイ同時多発テロ。チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅、二カ所の五つ星ホテル(オベロイ・トライデントとタージマハル・ホテル)、ユダヤ教の礼拝所などがイスラーム過激派に襲撃されたテロ事件で、この中のタージマハル・ホテルが映画の舞台となります。

 

 ストーリーとしてはテロリストがホテルを占拠し、主人公のホテルのレストランで働く給仕や、客であるインド人のセレブな奥さんとアメリカ人の旦那とその赤ちゃんとベビーシッターらが、なんとかしてテロリストから隠れ、そして脱出しようとする話なんだけど、とにかく緊迫感があります。

 占拠されたホテルは密室なわけだけど、2008年というとスマートフォンなども普及し始めた頃で、携帯で連絡は取れるし、外からのニュースもスマートフォンなどで見ることができる。さらに犯人たちも黒幕と携帯で連絡を取りながら行動していて、この形態などでの連絡がピンチを救ったり、窮地を招いたりする。

 この構成は本当によくできていて、ありきたりのアクション映画では味わえない緊迫感を映画にもたらしています。ちょっとポール・グリーングラスの作品を思い出させます。

 

 また、この映画に緊迫感をもたらしているのがテロリストがほとんど少年と言ってもいいような人物たちであること。

 彼らはイスラーム過激派にスカウトされ、訓練を受け、そして携帯で黒幕から指示を受けながら犯行に及びます。「異教徒によって富を奪われた」と吹き込まれている彼らは冷酷な殺人鬼なのですが、同時にまったくプロフェッショナルではないので、一つひとつの行動に緊張感があり、そして思いがけぬ自体には動揺します。ここの描き方もうまいです。

 間延びしないように短く挟まれている人間ドラマの部分も印象的ですし、非常に良くできている映画だと思います。

 監督のアンソニー・マラスはこれが長編デビュー作とのことですが、注目すべき監督かもしれません。

 

 

帶谷俊輔『国際連盟』

 副題は「国際機構の普遍性と地域性」。国際連盟の抱えていた問題を、第一次世界大戦後の中国に対する連盟のスタンスや、南米のチャコ紛争に対する連盟の関わりなどから探ろうとした本になります。

 

 国際連盟というと「失敗だった」というイメージが強いと思います。何といっても第2次世界大戦を防げなかったことは致命的ですし、満州事変への対処をはじめとして、紛争の防止や調停といった面でもあまり効果をあげていない印象があります。もちろん、篠原初枝『国際連盟』中公新書)などを読むと、連盟に寄せられた期待や連盟の果たしてきた役割はそれなりに見えてくるのですが、やはり「失敗した組織」という印象は拭えないと思います。

 

 ところが、国際連盟の失敗を乗り越えて作られたはずの国際連合ウクライナ危機などにおいて有効な対処を取れないのを見ると、結局、大国のルール違反に対して無力だという点では連盟も連合も無力なのだとも言いたくもなります。

 つまり、国際連盟の「失敗」はまだ乗り越えられてはおらず、国際連合もあおの「失敗」を抱えたままになっているのです。

 

 また、国際連盟の創設によって「国際政治」がヨーロッパ諸国以外にも開かれました。アメリカこそ不参加でしたが、日本は常任理事国となり、ラテンアメリカの多くの国が参加しました。

 ヨーロッパの大国同士の駆け引きに加えて、「ヨーロッパと非ヨーロッパ」、「大国と小国」とう新たな対立軸が生まれます。第二次世界大戦後、「ヨーロッパと非ヨーロッパ」という対立は「先進国と発展途上国」という対立に変わりましたが、それでも国際連盟が抱えた対立軸はいまだに生きていると言えます。

 本書は、あくまでも当時の連盟の問題点をとり上げていますが、こうした問題を見ていくことで現在の国際連合、そして国際政治の抱える問題点が見えてくる内容となっています。

 

 目次は以下の通り。

序章

第一章 国際連盟理事会改革における「普遍」と「地域」

第二章 中国問題と国際連盟――紛争の国際連盟提起と代表権問題

第三章 アジア太平洋地域の条約秩序と国際連盟――国際連盟と多国間枠組みの競合と包摂

第四章 ラテンアメリカ国際連盟――チャコ紛争における国際連盟と地域的枠組みの競合

第五章 国際連盟と地域機構の関係設定の試み

終章

 

 第1章では国際連盟の理事会改革がとり上げられています。

 連盟は当初、パリ講和会議と同じく米英仏伊日の5カ国を中心に形作られようとしていました。しかし、1920年の第一回連盟総会では早くもアルゼンチンや中国から不満が噴出します。

 このときに中国やラテンアメリカが持ち出したのが地域に配慮した非常任理事国の配分でした。いわゆる「分洲主義」と呼ばれるものですが、中国やラテンアメリカ諸国はヨーロッパの大国による支配に対抗するためにこの論理を用いたのです。

 ここで微妙になるのが非ヨーロッパの大国である日本の立場ですが、山東問題で中国と対立を抱えながらもアジアの代表として中国の立場を支持する態度をとっています。

 

 1922年の総会では、非常任理事国が6カ国に増え、その中身もブラジル、ベルギー、スペイン、ウルグアイスウェーデン、中国となり、ラテンアメリカから2カ国、アジアから日本を含めて2カ国が理事会に席を持つことになりました。

 しかし、地域を選出の基準や、あるいは選出の母体とすると、それだけ連盟は地域色を強めることになり、その普遍性は薄れる恐れがあります。

 この問題はドイツの連盟加盟と、ドイツの常任理事国入りが話題になるとさらに先鋭化していきます。1925年のロカルノ条約によって翌26年にドイツは国際連盟に加盟し、常任理事国となるわけですが、それに対して他国からも常任理事国入を求める声が上がったのです。

 特にブラジルは自らを米州の代表として常任理事国入りを強く求めましたが、イギリスの外相チェンバレンが「我々にとってヨーロッパの平和を維持し、世界のいずれかの地域でイギリスの利益を擁護するうえで、スウェーデンやブラジルが何の役に立つのか」(27p)と問いかけたように、主要国の関心はあくまでもヨーロッパに注がれていました。

 

 ブラジルは連盟が「普遍的」でならないとし、そのためにはヨーロッパ中心主義を克服し、南米の代表としてブラジルを常任理事国にするべきだと訴えますが、広い支持を得ることはできず、26年6月にブラジルは連盟を脱退します。

 結局は非常任理事国の増員に落ち着き、26年9月の総会における非常任理事国の選挙ではラテンアメリカからチリ、コロンビア、エルサルバドルの3カ国、アジアからも中国が再び選ばれ、地域的なバランスがとられますが、地域単位での非常員理事国の選出は地域主義を活性化させ、連盟の「普遍性」を揺るがす可能性もあるものでした。

 

 第2章は中国の代表問題について。中国はアジアの大国であり国際連盟にも加盟していましたが、問題は中国を誰が代表するのかという問題でした。

 当初は北京政府がある程度安安定しており、中国の代表は北京政府の代表ということで問題がなかったのですが、国民政府による北伐が始まると、果たして中国の代表は北京政府であるべきか、国民政府であるべきかという問題が浮上するのです。

 

 中国代表は第一回の連盟の総会において山東問題を提起しようとします。21箇条の要求という2国間の取り決めて奪われた山東半島を新たにできた国際機関の場で取り戻そうと考えたのです。

 こうした中国の動きに対して、イギリスは日英同盟を意識しつつも日本側に立って中国の排外ボイコットの対象になることも恐れ、最終的には山東問題の連盟への提起を認める姿勢に傾いていきます。

 しかし、この決定は遅すぎで、山東問題をはじめとする中国に関する問題は、連盟ではなくアメリカが主導するワシントン会議で解決されることになります。

 

 1924年の第二次奉直戦争、25年の郭松齢事件、そして26年の北伐の開始と、中国は本格的に内戦状態に突入していきます。

 特に北伐は列強が権益を持つ上海に迫ってくると、「上海に迫る国民革命軍について話し合うべき相手が国民政府であるのに対して、連盟における代表権を保持しているのは北京政府」(56p)という状況が出現します。上海の問題についてイギリスが話し合いたいと思っても、連盟の場ではそれは無意味なのです。

  

 1927年、北伐をつづける国民革命軍と居留民保護のために派兵された日本軍の間で済南事件が起こります。国民政府はこれを連盟に訴えて解決しようと試みますが、ここでも問題となったのは、この時点で連盟において中国を代表しているのが北京政府だということでした。

 日本は上海の例を引きながら、国民政府が当事者である済南事件を連盟が取り扱うのは不適当であると主張します。一方、北京政府と国民政府が協調して連盟に提訴する道も探られましたが、結局うまくいかず、またイギリスなども連盟に代表権を持たない国民政府からの訴えを取り扱うことに否定的だったこともあり、この問題が連盟の場で扱われることはありませんでした。

 

  その後、1929年の中ソ紛争において中国は連盟提訴の構えを見せます。このときには国民政府が中国の統一を成し遂げ、連盟に代表を送っており、中国国内の分裂という問題はクリアーできていました。

 しかし、紛争相手のソ連が連盟に加盟していなかったことから、連盟事務局やイギリスはこの問題を連盟が取り上げることに否定的でした。ソ連が連盟の招請に応じるとは思えなかったからです。

 

 では、紛争相手が連盟加盟国であった場合どうなのか? その答えは1931年に勃発した満州事変で示されます。

 満州事変に関しては、中国の代表問題、相手国の加盟問題の双方をクリアーしており、中国の連盟提訴を阻む要件は残っていませんでした。日本は覚書の提出などによって中国の連盟提訴を阻もうとしますが、国際社会の賛同は得られなかったのです。

 日本の外交は連盟の「普遍性」の広がりについていくことができず、満洲事変後の外交において後手を踏み、ついには連盟脱退へとつながっていきます。

 

 第3章は国際連盟と多国間枠組の競合と包摂について。

 国際連盟規約には一見すると矛盾する以下の規約があります。

第20条【規約と両立しない国際約定】

1 聯盟国は、本規約の条項と両立せざる聯盟国相互間の義務又は了解が各自国の関する限り総て本条約により廃棄せらるべきものとなることを承認し、且つ今後本規約の条項と両立せざる一切の約定を締結せざるべきことを誓約す。
2 聯盟国と為る以前本規約の条項と両立せざる義務を負担したる聯盟国は、直ちにその義務の解除を得るの処置を執ることを要す。

第21条【局地的了解】

本規約は、仲裁裁判条約の如き国際約定または「モンロー」主義の如き一定の地域に関する了解にして平和の確保を目的とするものの効力に何等の影響なきものとす。

              http://itl.irkb.jp/iltrans/zLeagueOfNations.htmlより

 

 20条では「普遍性」を押し出して連盟規約と両立しない協定は結べないことになっているのに、21条では「地域」ごとの個別の取り決めを認めるような内容になっているのです。

 21条はアメリカを連盟に加盟させるために挿入されたものですが、アメリカの不参加が決まったあともこの条文は残りました。そこで、例えば、4カ国条約や9カ国条約、あるいは不戦条約などにおいても連盟との関係が問われることとなったのです。

 

 4カ国条約と9カ国条約については、アジア太平洋地域において連盟の代わりとなるものとして捉えられてきた面があり、両者の競合関係についてあまり検討されて履きませんでしたが、本章ではその競合関係を中ソ紛争や満州事変を題材に検討しています。

 

 4カ国条約と9カ国条約によって、いわゆるワシントン体制が確立するわけですが、この体制には制度化された協議メカニズムが欠けており、連盟との相互補完関係もうまく築くことができないままになりました。

 一方、ヨーロッパでは1920年代後半に連盟と相互補完体制を築くかたちでロカルノ体制が成立します。ただし、アメリカ抜きという連盟の抱える問題は不戦条約の締結過程で問題となります。不戦条約は連盟と同じく普遍的枠組みであり、しかも多様な解釈の余地を残すものだったからです。

 アメリカのデイヴィッド・ハンター・ミラーは、不戦条約を「アメリカと連盟の間で結ばれた条約であると言っても過言ではない」(97p)と述べていますが、この条約が連盟とどのような関係を持つかという点に関して曖昧なままでした。

 

 フーヴァー政権は連盟に加盟しないことを表明しつつ、不戦条約による紛争調停の仕組みを整備しようと考えます。スティムソン国務長官は中ソ紛争に関して両国が不戦条約の加盟国であることを協調して調停委員会の設置を提案しました。

 この提案やイギリスや日本の協力が得られなかったこともあって頓挫しますが、連盟事務局には不戦条約が連盟に取って代わろうとしているのではないかという懸念が残りました。

 

 満州事変に際しても、解決のための枠組は連盟だけでなく、不戦条約や9カ国条約ということも考えられました。スティムソン国務長官関東軍の行動を「反乱(mutiny)」と捉えたことなどによって不戦条約の適用は見送られましたが、日本の撤兵が遅れるとアメリカの不満は募り、アメリカはオブザーヴァーとして連盟に参加することになります。

 連盟はアメリカの取り込みに成功しますが、イギリスや連盟自体も連盟の失敗や行き詰まりを懸念しており、イギリスは9カ国条約への移管なども検討しますが、うまくいかないまま時間が過ぎていきます。

 一方、日本では杉村陽太郎(「いだてん」も出てきた連盟事務次長兼政治部長を務めた人物)が連盟よりも9カ国条約がましな選択肢だと論じますが、基本的には連盟だけでなく不戦条約や9カ国条約もまとめて拒否し、国際的孤立を深めていくのです。

 

 第4章ではパラグアイボリビアの間に起こったチャコ紛争をとり上げています。知っている人は少ない紛争かと思いますが、ちょうど満州事変と同じ頃に地球の裏側で起きた紛争であり、連盟が取り扱おうとした紛争になります。

 アメリカ大陸に関しては、連盟ができる前から定期的に開催されるパン・アメリカ会議、常設機構のパン・アメリカ連合が存在しており、地域の枠組みは東アジアと違ってしっかりしていたといえます。 

 

 そんな中で、1928年12月にパラグアイボリビアの間で起こった国境紛争であるチャコ紛争においても、まずは地域の枠組みである米州仲裁調停会議で解決がはかられました。

 一方、1926年から南米の非常任理事国が増加したこともあり、連盟でもこの問題を取り扱おうという気運が高まります。このときはパラグアイボリビアの両国が米州仲裁調停会議の調停を受け入れたことから連盟の本格的な介入はなされませんでしたが、1932年に再び衝突が起こり紛争が激化すると、連盟の介入が問題となりました。

 当時、満州事変を抱えていた日本は地域の問題は地域で解決すべきとの立場をとりますが、ドラモンド連盟事務総長は連盟がチャコ紛争に関わらず南米に無関心であることは満州事変の審議に悪影響を及ぼすと考えていました。チャコ紛争をとり上げないことは連盟の普遍性を傷つける恐れがあったのです。

 

 アメリカは連盟の本格的な介入に否定的でしたが、地域的枠組みによる仲介が手詰まりとなると、連盟が本格的に仲介になりだしていきます。

 連盟のチャコ委員会は調査を行うとともに、戦争を終わらせるために両国への武器禁輸措置などを行おうとしますが、パラグアイが1936年に連盟を脱退し、連盟の工作は失敗に終わります。すでにブラジル、日本、ドイツが脱退しており、脱退という選択肢は特別のものではなくなっていたのです。

 結局、チャコ紛争は地域的枠組みのもとで1938年に終結します。連盟よりも地域的枠組みが物を言ったわけですが、連盟と地域的枠組みという重層性が粘り強い仲介を可能にしたと言えるかもしれません。「9カ国条約や不戦条約を全て連盟に一元的に統合した結果として、日本を包摂した全ての多国間枠組みが成立し得なくなったアジア太平洋地域と比較すれば、ラテンアメリカにおける多国間枠組みの多元性が解決に寄与したと言えるかもしれない」(167p)のです。

 

 第5章では連盟と地域機構の関係というやや抽象的な問題が扱われています。

 連盟は当初、普遍的な機構を目指してスタートしており、当然ながら地域機構に優越する存在となろうとするわけですが、実際には水平的な協調をはかっていくことになります。

 詳しい内容は割愛しますが、日本が連盟を脱退したあとにイタリアが提案した連盟改革案に対して反応しているところなどは興味深いです。イタリアの提案をきっかけに理事会の地域的分割が議論の対象となるのですが、これに対して杉村陽太郎は、加盟国を欧州アフリカ、米州、アジアの3つに分類し、小国は地域の問題のみ、常任理事国は全ての問題に関与できるような改革を提案し、この改革が実現した場合の連盟への日本の復帰を示唆しています。これが日本政府の意思だったわけではないでしょうが、杉村は満州事変おける連盟の失敗の原因をヨーロッパの小国の対日批判にあると考えていたのです。

 そして、こうした地域主義に対する反省も踏まえて、国際連合憲章の第8章には地域機構に対する国連の統制が規定されることになります。

  この国際連盟国際連合の連続性に関しては終章でも言及があり、国際連合が連盟を反面教師にしただけではなく、連盟での経験をもとに作られた組織だということが見えてくると思います。

 

 このように国際連盟の可能性と抱えていた問題を改めて分析してみせた内容となっています。

 日本からの視点では、どうしても満州事変の対応に集中してしまいますが、それ以前の中国問題、そしてチャコ紛争という地球の裏側での出来事と比較検討することで、満州事変における連盟の動きの背景が改めてよくわかります。

 また、普遍的な国際機関と地域的な国際機関の関係をいかに考えるべきなのかというのは現在にも持ち越されている問題であり、この問題を考える上でも多くの材料を提供していくれています。

 

 1冊の本としてみると、第5章や終章で国際連盟の終わりまで触れてくれると、より自分を含めた一般的な読者にとってはありがたいですが、日本史畑の人にも世界史畑の人にも読んで得るものがあると思いますし、連盟の動きだけでなく、当時の外交の様子というものについてもイメージが湧くような内容になっていると思います。

 

 

ピョン・ヘヨン『モンスーン』

 白水社の<エクス・リブリス>シリーズの1冊ですが、<エクス・リブリス>でも前回配本がハン・ガン『回復する人間』で今作も韓国の女性作家の短篇集。韓国文学は本当に勢いがありますね。

 ハン・ガンと同じく、この『モンスーン』の作者のピョン・ヘヨンも1970年代の生まれ女性ですが、読んだ印象はずいぶん違います。この短篇集から受ける印象はずばりカフカですね。

 

 収録作品は以下の通り。

 

モンスーン
観光バスに乗られますか?
ウサギの墓
散策
同一の昼食
クリーム色のソファの部屋
カンヅメ工場
夜の求愛
少年易老

  

 この中で、最後に置かれた「少年易老」だけは少し違う部分もあるのですが、他の作品が描くのはカフカ的な世界です。

 「観光バスに乗られますか?」はSとKという二人の会社員が上司から頼まれた重い荷物を運ぶ物語です。中身のわからない重い荷物を上司の指示にしたがって運んでいくのですが、二人はどんどんと見知らぬ田舎へと迷い込んでいきます。

 「ウサギの墓」はある都市の情報を集めるという仕事をするためにまた別のある都市に派遣されてきた男の話。その都市にはかつてペットとしてブームになったウサギが捨てられ野生化しています。主人公の男はそのウサギを拾い、仕事を続けていくのですが、その仕事は謎なままです。

 「同一の昼食」は大学でコピーを取る仕事をしている男の話。彼は毎日同じ電車に乗って職場に行き、同じ食堂の同じ場所で日替わりランチを食べ続けているのですが、ある日、行きの電車で事件が起こります。

 このあたりの作品は、設定からもわかるようにいかにもカフカ的です。

 

 「散策」と「カンヅメ工場」はちょっとホラー風味もあります。特に「散策」は全編に渡ってどこかしら不気味な雰囲気が漂っていて黒沢清の映画を思い出させます。

 「カンヅメ工場」では、終業後に工場長が行っていたカンヅメづくりが一つの謎となっていて、こちらは特に不気味さを感じさせるような文体ではないのですが、やはりホラーの要素があります。

 その他、「モンスーン」にも「夜の求愛」にも「クリーム色のソファの部屋」もどこかしらブラックな雰囲気があり、特に「夜の求愛」では不条理さを感じさせるような要素が盛り込まれています。

 

 一方、「少年易老」では、主人公を不条理な世界に突き放すのではなく、もう少し寄り添った形になっています。少年同士の友情とも言い難いような交流を描いた作品ですが、不条理な世界であっても主人公を生きさせようとする著者の意思がうかがえます。

 「あとがき」によるとこの作品はセウォル号の事故を受けて書き直されたとのことですが、それもあるのか少しだけ優しさの感じさせる作品となっています。

 

 カフカ的と書きましたが、固有名詞などを避けてかなり抽象化していながら、それでも韓国社会の特徴というのが色濃く出ているのが、このピョン・ヘヨンの面白さでしょう。

 さすがに『回復する人間』のような凄味はないですが、韓国社会の病理(これは日本やその他の先進国に共通するものでありつつ、やはり韓国独自の現れ方がある)を浮き上がらせるような内容になっており、面白いと思います。

 

 

Common / Let Love

 Commonの12枚目のアルバム。相変わらずの安定感という感じで、気持ちよく聴ける1枚に仕上がっています。

 前作の「Black America Again」は、トランプ政権の誕生を受けて、それに対するプロテストというイメージも強かったですが、今回はアルバムタイトルに「Love」がつけられているだけでなく、"Good Morning Love"、”HER Love”、”Forever Your Love"、"God Is Love"といった曲名が並んでおり、「Love」が全面に押し出されています。

 

 アルバム全体の印象も非常にピースフルな感じで、4曲目の"Hercules"など少し強めの曲もありますが、HIPHOPのアルバムとしてはかなり穏やかな部類に入るのではないかと思います(ラップの英語まではちゃんと聞き取れていないので、激しいことを言っている曲もあるのかもしれませんが)。

 先行シングルの”HER Love”も基本的に静かな曲ですし(”HER”は女性の事ではなく、Hip-Hop in its Essence is Real(ヒップホップの本質は真実)の頭文字をとったものとんのこと)、いわゆる派手な曲はないです。

 それでもアルバムを通して聴かせてしまうところがCommonの円熟味といったところなのかもしれません。

 


Common - Good Morning Love feat. Samora Pinderhughes

 

 

マンサー・オルソン『集合行為論』

 集団と集合財(公共財)の関係を論じた古典的著作。やはり読んでおくべきかと思って読んでみました。

 ただ、O・E・ウィリアムソン『市場と企業組織』を読んだときにも思いましたけど、完全に古典というわけでもない少し古めの本を読むと、文脈や著者は想定している論敵の理論といったものがわからずに、内容を掴むのがやや難しいですよね。

 というわけで、以下では「なるほど」と思った部分を簡単に紹介します。

 

 目次は以下の通り。

序 章

第1章 集団と組織の理論的考察

第2章 集団規模と集団行動

第3章 労働組合と経済的自由

第4章 国家と階級の伝統理論

第5章 伝統的な圧力団体論

第6章 「副産物」理論と「特殊利益」理論

1971年版の補遺

 

 本書が問題としている1つのポイントは、集合財の獲得を目指す集団において、小集団では構成員の共通の利益は達成されやすいが,大集団では達成されにくいというものです。小集団であれば、共通目標についての合意ができればその達成は容易なのですが、大集団においては何らかの強制などがないと、その達成は難しいのです。

 著者は国家を例にあげて次のように述べています。 

 愛国心のエネルギー、民族的イデオロギーの訴え、共通文化の絆、および法と秩序体系の不可欠性にもかかわらず、現代史におけるどの主要国家も自発的な納税あるいは分担金で自らを維持することはできなかった。(12p)

 

 なぜこのようなことが起こるのかというと、大規模組織では支え手が多いために、1人が共通目標を達成するために努力することをやめたとしても、変わらないからです。

 大規模組織において、費用を負担する人が一人いなくなっても、別の一人の費用負担者の負担を著しく増大しないであろう。だから、合理的人間は、たとえかれらが組織から離脱しても、そのことによって他者の同様の行動がひきおこされる、などと信じることはない。(11−12p)

 

 経済学ではいわゆる「フリーライダー」として問題にされており、本書でもフリーライダーという用語は登場しています。

 公共財は非排除性をもっていて、協力しなかった人の利用を防止することは難しです。例えば、公園は脱税者の利用を排除することは難しいです。そこで、何らかの工夫が必要になるわけです。

 

 以前の理論では大集団を家族のような小集団から説明しようと試みてきましたが、この小集団と大集団の間には決定的な違いがあるというのが本書の主張です。 

  小集団においては、「たとえ集合財供給の全費用を支払わなければならないとしても、供給された場合の方が、されない場合よりも改善される成員が存在する」(29p)ため、黙っていても集合財供給される場合があります。例えば、狭いオフィスで喘息持ちの人が加湿器を自腹で買って持ち込むようなケースなどを考えれば良いかもしれません。

 このような状況について著者は以下のように叙述しています。

 欲求度最大の成員、すなわち、集合財の最大量を自分で供給しようとする成員は、集合財供給の負担を不釣合なほど多く引き受ける。欲求度の低い成員は、定義によって、かれが供給する集合財の量からの便益を欲求度の高い成員よりも少なく獲得する。したがって、さらに多くの集合財を供給しようとする誘因をかれはもたない。いったん欲求度の低い成員が欲求度最大成員から、無料で、集合財のある量を獲得するや、かれは自分で購入した場合よりも多くを持つことになる。そして、かれは自らの費用で集合財を獲得する誘因をもはや有しない、共通の利益を有する小さな集団においては、したがって、欲求度の低い成員による欲求度の高い成員の「搾取」という驚くべき傾向が存在する。(30−31p)

 

  しかし、大集団ではそうもいきません。大規模な集団には自らの利益を促進することを妨げる以下のような理由があるのです。

 第一に、集団が大きくなればなるほど、集団利益に適うように行為する個人の受け取る全集団便益中の割当てはより小さくなり、集団志向行為に対する報酬は不十分になり、かくしてその集団は集合財の最適供給には至らないであろう。第二に、集団が大きくなればなるほど、当該集団のどの小さな部分単位も、ましてどの個人もそのごく小量を供給する費用の負担に見合うほどの便益を集合財の獲得から得る見込みは乏しい。というのは、各個人あるいは集団成員のどの(絶対的に)小さな部分単位にも与えられる総便益中の分け前が少なくなるからである。換言すれば、集団が大きくなればなるほど、集合財の獲得に役立つかもしれない寡占的相互作用が起こる可能性はより小さくなるのである。第三に、集団の成員数が多くなればなるほど、組織化費用は高くなり、そして、その集合財をともかくも供給する前に越えなければならない障害物はより高くなる。これらの理由のために、集団が大きくなればなるほど、いっそう集合財の最適供給は難しくなるであろう。とりわけ大きな集団は、強制あるいは別個の外部からの誘因がない場合、最低量の集合財さえ進んで供給しないであろう。(41−42p)

 こうしたことを踏まえて、第1章の最後で、著者は「ゆえに、大きな結社の存在は、小集団の存在を説明するのと同一の要因からは説明できないように思われる」と結論づけています。

 

 第2章の冒頭では小集団の有効性を会議を例にとって説明しています。参加者が多ければ多いほど、会議に対して努力する人は減っていきます。別に自分が貢献しようがしまいが結果は変わらないと予想されるからです。

 ですから、大きな組織であっても意思決定などで用いられるのは小集団です。ジョン・ジェーズムの研究によれば、「「活動する」部分集団の平均的規模は6.5人であり、一方、「活動しない」部分集団の平均規模は14人」(64p)とのことです。

 この傾向は現代の企業統治についてもうまく説明しています。株主が多い上場企業では経営陣の自律性が高く、少数の株主に支配されている企業では経営陣の従属性が高いです。株主の数が多ければその組織化は難しく、小集団である経営陣をコントロールすることは難しくなるのです。

 

 第3章で検討されているのは労働組合です。労働組合は小規模なものから始まりましたが、現在多くの労働組合は大規模な組織となっています。

 組合の要求する高賃金や労働条件の改善を集合財と考えるならば、小規模な組織のほうが成員の努力を引き出しやすく、実際そのことから労働組合はしばらくは小規模な組織にとどまっていました。

 しかし、同業他社の賃金水準を考慮しない賃上げはその企業の業績低迷に繋がりますし、小規模の組織に対してならば企業側もスト破りの要員を確保しやすいです。こうしたことによって労働組合は結合し大規模化する誘因を与えられます。

 

 こうして労働組合は大規模化し全国レベルの組織になったのですが、これを可能にしたのがユニオン・ショップやクローズド・ショップといった仕組みでした。大規模な組織は集合財を獲得するために成員の協力を得ることが難しくなりますが、それを強制的な仕組みをつくることによって防ぎ、組織の大規模化を可能にしたのです。

 また、労働組合は互助共済活動を行うことによって組合員を引きつけました。他にもレクリエーションプログラムなどが提供されましたが、小規模な集団ほどの効果は得られてはいません。

 

  本章ではアメリカの労働組合の歴史をたどっているのですが、20世紀なかばの労働組合のあり方についてのつぎのような文章があります。

 労働者の90パーセント以上が組合の会合に出席しようとせず、また組合の仕事に参加しようともしない。だが、90パーセントを越える労働者が組合所属と組合への相当額の会費の支払いを強制することに賛成投票する。(99p)

 

  組合員の多くは組合の力が自分たちの利益になっていることを意識しているわけですが、同時に他の誰かがやってくれればそれにこしたことはないと考えてもいるわけです。いわゆるフリーライダーの問題が現れていると言えるでしょう。

 そして、著者はこれを政府サービスのために増税に賛成しながら、同時に個人としてはできるだけ節税に努める市民の姿と重ね合わせています。

 

 ここから著者は「論理的に首尾一貫させるならば、「(非組合員を含む全労働者の)労働権」という根拠のみに基づいてユニオン・ショップ制に反対する人は、1890年代にクヌート・ヴィクセルによって提出された課税への「全員一致の同意」という考え方にも賛成しなければならない」(103p)と議論を進めています。

 強制を悪だと考えたヴィクセルは政府支出のほとんどすべての支出に全員一致の投票を要求しました。ずいぶんと荒唐無稽な話だと思う人が多いでしょうが、それが荒唐無稽ならばユニオン・ショップ制もごくごく当たり前に受け入れられるべき議論だとも言えるのです。

 

 第4章では、マルクスの理論などに触れて、先程の大規模組織のことを念頭に置きながら「階級を構成する個人が合理的に行為しようとすれば、階級志向的行為はむしろ営まれないであろう」(132p)と述べています。

 ブルジョアにしろプロレタリアートにしろ、もし自分たちの階級が支配的になったら、自分がそうした運動に参加したどうかにかかわらずその便益を受けられるわけで、わざわざ自らを危険に晒す必要はないのです。

 

  第5章と第6章では圧力団体を扱っていますが、やや専門的な議論を踏まえてのものが多いことと、力が尽きてきたので割愛します。

 

 それまでの先行研究を論じた部分など、現在の一般的読者からするとややわかりにくい議論もありますが、いくつか引用した部分に見られるように、組織や政治に関して重要で興味深いことを述べている本だと思います。

 

 

ハン・ガン『回復する人間』

 

ほとんどの人たちは一生のあいだ、色や形を大きく変えずに生きていく。けれどもある人たちは何度にも渡って自分の体を取り替える。(「エウロパ」87p) 

 

もちろんあたしはまだ人が信じられないし、この世界も信じていないよ。だけど、自分自身を信じないことに比べたらそんな幻滅は何でもないと思う。(「エウロパ」89p)

 

 『ギリシャ語の時間』が素晴らしかったハン・ガンの短篇集。「明るくなる前に」、「回復する人間」、「エウロパ」、「フンザ」、「青い石」、「左手」、「火とかげ」の7篇を収録しています。

 どれも良いのですが、特に冒頭からの3作、「明るくなる前に」、「回復する人間」、「エウロパ」には凄味がある。韓国文学という枠を超えて世界文学の文学史においても相当なレベルにある作品だと思います。

 

 普段はここから各短篇の簡単な紹介に移るのですが、この短篇集に関してはあまり知識を持たずに読んだほうがより楽しめるでしょう。

 「左手」が自分のコントロールを離れて勝手に動き出すという「左手」を除けば、特に奇抜なアイディアがあるわけではありませんし、最後にどんでん返しがあるわけでもありません。登場人物たちは多くは都会の中で孤独を感じている人物であり、自らの病気や怪我、肉親の死といったものが描かれています。ですから、ハン・ガンが持っている手札は比較的平凡なはずなのです。 

 

 ところが、この手札のめくられ方が凄い。読み進めていく中で何度も思わず声を上げたくなるような文章があります。ありがちかと思われた物語は、人間の内面に深く深く入っていくのです。

 例えば、表題作の「回復する人間」は鍼灸治療に失敗し両足首に火傷を負った女性が主人公です。「あなたは〜」と呼びかける文体は独特ですが、この設定で「回復する人間」というタイトルだと、ある程度小説を読んでいる人ならば、それなりに筋が想像できるでしょう。

 

 しかし、物語は思ったよりも深く、そして辛辣でもあります。この深さと辛辣さが凄味を生み出しています。

 この比較的どこにでもありそうな物語を語りながら、いつの間にか凄い境地に到達するというところは、ウィリアム・トレヴァーの小説を思い出させます。

 文体などは違うのですが、ハン・ガンもトレヴァーも、平凡に見える人間の内面に隠された執念、そしてその執念がもたらす痛みを描くのが抜群に上手いです。

 先程述べたように、この短篇集は前知識なしで読んだほうがより「驚き」があると思うので、最後にハン・ガンの辛辣さを物語る一節を紹介して終わりにしたいと思います。

 

 あなたは深夜、彼女の部屋で尋ねた。私ほんとにわからない。みんなどうしてこんなふうに社会通念の中だけで生きていけるのか、そんな生き方にどうしてがまんできるのかが。あなたに背中を向けて化粧を落としていた彼女の顔が、鏡の中でひらりと暗くなった。鏡越しにあなたと目を合わせて、彼女は答えた。あんたはそう思うのね。でも、そうできてよかったと思う人もいるんじゃないの。社会通念の後ろに隠れることができてよかったって。(「回復する人間」47p)

 

 

 

 

 この『回復する人間』が響いた人は、ウィリアム・トレヴァーの『聖母の贈り物』に収録された「マティルダイングランド」と『ふたつの人生』に収録された「ツルゲーネフを読む声」も気に入るのではないかと思います。

 

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