シェルドン・テイテルバウム 、エマヌエル・ロテム編『シオンズ・フィクション イスラエルSF傑作選』

 ここ最近、「グリオール」シリーズなどのSFを出している竹書房文庫から出たのが、この『シオンズ・フィクション イスラエルSF傑作選』。

 知られざるイスラエルのSFの世界を紹介するという意味では、中国SFを紹介したケン・リュウ『折りたたみ北京』『月の光』と似た感じですが、「イスラエル」というくくりだけではなく、「ユダヤ」というくくりもあるんで、収録された小説の言語はヘブライ語だけでなく、英語、そしてロシア語も含まれます(翻訳は英語版からのもの)。

 

 700ページを超えるボリュームでさまざまな作品が収録されていますが、意外と近年のイスラエルから想像するようなハイテクものは少ないですし、完全に宇宙を舞台にしたような作品もありません。編者の趣味かもしれませんが、「科学」の要素は抑えめですね。

 いかにもイスラエルっぽい作品としては、エルサレムに現れた死神と結婚するエレナ・ゴメル「エルサレムの死神」や、同居人が急にキリストのような人物になり驢馬が話し始めるニタイ・ベレツ「ろくでもない秋」などがあって、それぞれ面白いのですが、ここでは特に面白かった以下の3作品を紹介します。

 

・ ガイ・ハソン「完璧な娘」

 主人公は人の心の中を読めるテレパスの女性で、この小説の世界ではそうしたテレパスのための学校があります。そこでは死んだばかりの遺体からその人の過去を読み取る訓練が行われています。主人公はそこで自殺した自分と同年代のステファニーという女性の遺体と出会い、その過去の死に至るまでの過程を探っていくのです。 

 他人の秘密というものは、常に人の興味を引くものですが、それを知ることはときに自らの負担となります。人を死に至らしめたものとなればなおさらです。この「完璧な娘」はそうした他人の秘密に引き込まれていく危うさを臨場感をもって描いています。これは上手い小説だと思います。

 

・ サヴィヨン・ルーブレヒト「夜の似合う場所」

 主人公のジーラは長距離列車で移動中に謎の大災害のようなものに巻きおこまれます。それは天変地異のなのか謎の新兵器によるものなのかはわかりませんが、たまたまそのとき喫煙室にいたジーラは助かり、外の人々はほとんどミイラ化していました。

 生き残ったのはジーラと男と修道女と老人と赤ん坊と、あとからジーラたちの住む場所にやってきたポーランド人。他の人々が存在しない世界で、ジーラは自然と男ととともに過ごすようになり、赤ん坊を我が子のように育て始めます。

 この小説は終末世界の描き方も秀逸なのですが、つつましい共同生活がディストピア風味を帯びる最後が見事。終末世界でのディストピアというと、先日読んだケイト・ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』もそうですが、本作はクローンとかそういうことなしに、ディストピア的な風景が生まれるときを描き出しています。

 

・ ヤエル・フルマン「男の夢」

 男がある女性の夢を見ると、その女性が実際に隣に引き寄せられるという突拍子もない話です。ヤイルは妻のリナと暮らす真面目な男ですが、街でみかけたガリヤという女性が印象に残ったらしく、彼女(の裸)の夢を見ます。そしてそのたびにガリヤは強制的にヤイルの隣に引き寄せられてしまいます。

 もちろん、ガリヤの生活はむちゃくちゃになりますし、ヤイルは悪気のない男なのです罪の意識を感じています。そして寝るのが怖くなり夜に寝れなくなるのですが、そうなると朝や昼に寝てしまいガリヤにますます迷惑をかけます。そして、リナもガリヤにすまないと思っていますが、同時に夫に悪気がないこともわかっています。

 荒唐無稽な話ではあるのですが、個人的には現代の男女の問題についての優れた寓話だと思いました。男性は街で美人を見かけると思わず無意識に性的な目でも見てしまう。ところが、女性の側からすると性的に見られるのは迷惑でもあり、それが仕事などの面で障害となることもある。ただし、すべての女性が常に性的に見られたくないわけでもない。といった難しい状況をうまく表している作品だと思いました。

 余談ですが、イスラームはこの問題に対して「女性が性的に見られる可能性のある部分を隠す」という解決策を提示したのではないかと思っていますが、日本や欧米でそれが採用されるとは思いませんし、また、男女平等がもっと進めば逆にイケメンが意図せずして性的に見られて迷惑するようなケースも目立ってくるのでしょう。

 

 個人的は傑出して面白かったのは以上の3作品ですね。エヤル・テレルの「可能性世界」も面白いですが、熱心なSF読者だとさらに楽しめる作品という感じです。

 『折りたたみ北京』などに比べると収録作品の面白さのばらつきはあるように思えますが、作品のレベルはなかなか高いですし、それほどあからさまではないものの、ユダヤ人的な歴史観というか記憶観みたいなものを感じさせてくれる作品も多いです。それほどSF度は高くないので、普通の文学好きでも楽しめる1冊と言えるでしょう。

 

 

Travis / 10 Songs

 Travis、4年ぶりのニューアルバム。

 もはや新しい展開などを期待するようなキャリアではないですし、ファンも「昔のグッドメロディ」を求めているのでしょうが、ずばりそれに応える内容ですね。

 1曲目の"Waving At The Window"から、Travis節全開という感じで、「こういうの聴きたかった」感に応えています。

 2曲目の"The Only Thing"は女性ボーカルとの共演ですが、メロディはTravisですし、そんなに目立つ女性ボーカルでもないので、馴染んでます。5曲目の"A Million Hearts"は、ここ最近のTravisに見られるピアノをベースにした落ち着いた美しい曲ですね。

 そんな中で、今作で一番耳の残る曲で、なおかつ少し新しさも感じられるのが6曲目の"A Ghost"です。力強さとメロディの良さがあって、アレンジもいいと思います。

 後半は、8曲目の"Kissing In The Wind"〜"Nina's Song"〜ラストの"No Love Lost"とTravisらしいきれいなメロディの曲が続きます。

 と、何回もTravisという言葉で形容してきたように、まさにTravisならではのアルバムで、Travis好きなら是非チェックしましょうという感じです。

 


Travis - A Ghost (Official Video)

 

 

エマニュエル・サエズ/ガブリエル・ズックマン『つくられた格差』

 ピケティの共同研究者でもあるサエズとズックマンのこの本は、格差の原因を探るのではなく、格差を是正するための税制を探る内容になっています。序のタイトルが「民主的な税制を再建する」となっていますが、このタイトルがまさに本書の内容を示していると言えるでしょう。

 富裕層への最高税率が引き下げられたこと、法人税が引き下げられたことなどが格差の拡大に寄与しているということは多くの人が感じていることだと思いますが、同時に、富裕層への最高税率が引き上げられたら富裕層が海外へ逃げてしまう、法人税を引き上げたら企業が海外に逃げてします、経済成長にブレーキが掛かってしまうという考えも広がっています。そして、こうしたことを考えると結局は消費税(付加価値税)をあげていくしかないという議論の見られます。

 こうした考えに対して、本書は富裕層や企業からもっと税金を取るべきであり、それは可能であるという主張をしています。

 

 目次は以下の通り。

序 民主的な税制を再建する

第1章 アメリカの所得と税

第2章 ボストンからリッチモンド

第3章 不公平税制の確立

第4章 バミュランドへようこそ

第5章 悪循環

第6章 悪循環を止めるには

第7章 富裕層に課税する

第8章 ラッファー曲線の呪縛を乗り越える

第9章 将来可能な世界

最終章 いまこそ公平な税制を

 

 本書では基本的にアメリカの税制に焦点を合わせています。トランプ大統領が「大富豪」でありながら、ほとんど税金を払っていなかったことが話題になりましたが、アメリカでは大富豪の負担率が一般の労働者よりも低いような状況が生まれています。本書では、まずその原因を探るためにアメリカの税制を見ていきます。

 

 アメリカのGDPを成人人口で割ると、およそ7万5000ドルになります。さらにアメリカの人口を労働者階級(所得階層の下位50%)、中流階級(その上の40%)、上位中流階級(その上の9%)、富裕層(上位1%)に分けます。

 そうすると、労働者階級の課税・所得以転前の平均所得は1万8500ドル、中流階級は7万5000ドル、上位中流階級は22万ドル、富裕層は150万ドルになります。

 そして、アメリカでは1980年代以降、上位1%の所得が国民所得に占める割合が増える一方で下位50%の所得が占める割合は減っています(29p図1−1参照)。

 

 アメリカ人が払う主な税は個人所得税、給与税、資本税、消費税の4つです。個人所得税は累進の税ですが近年累進性は弱まっています。給与税は社会保障税などからなりますが、課税上限額があるのが特徴で高所得者に有利になります。消費税はさまざまな間接税。資本税には法人税、居住用・事業用の財産税、遺産税などが含まれます。

 これらの税金をどの階層がどのように支払っているのかを知るのは難しいのですが、著者らの分析によれば、アメリカの税負担は低所得者層でだいたい25%、上位中流階級で28%ほどに上がりますが、最上位400人になると23%にまで落ち込みます(39p図1−2参照)。

 

 このようになっている原因として、まず給与をもらっていれば給与税15.3%が差し引かかえること、さまざまな物品税や売上税があることがあげられます。アメリカでは統一的な付加価値税(日本でいうと消費税)がないために、ものには課税、サービスには非課税ということが多く、サービス消費の多い富裕層に有利になっています。

 個人所得税に関しては労働所得よりも資本所得を優遇する形になっており、株の配当に関しては20%しかかかりません。さらに近年の巨大IT企業では配当を出さないケースすも多いですが、そうなるとその創業者が支払うのは法人税くらいになりますし、その法人税はさまざまなやり方で支払いが圧縮されています。

 超富裕層に増税してもその効果は限られると考える人もいるかもしれませんが、所得最上位0.001%の負担率を現在の25%程度から50%に倍増させると、毎年1000億ドル以上の税収が生まれるそうです(48p)。

 

 アメリカの税の昔から累進性が弱かったわけではなく、1951〜63年まで所得税の最高限界税率は91%でした。

 アメリカでは憲法の問題もあって所得税の導入は遅れましたが、1913年に最高限界税率7%で導入された所得税は1917年にはそれが67%に引き上げられるなど、その累進性を急速に高めます。この背景には第一次世界大戦がありますが、それ以外にも「非民主的な富の集中」に批判が高まっていたことがあげられます。

 遺産税に関しても1916年に導入され、1931〜35年にかけてその最高税率は70%、さらに81年までは70〜80%に引き上げられます。これほど高い税率をかけていたのはアメリカくらいなものです。

 ニューディール期には、2万5000ドル以上の所得に100%の税を課そうとする試みもありました。一定の金額以上を稼ぐ金持ちの存在を認めないといった方針が模索された時期もあったのです。

 結局、最高限界税率は80%台に落ち着きましたが、1930〜70年代にかけて、税は所得の格差を大きく縮める役割を果たしました。

 また、法人税の税率も高く、1951〜78年まで企業利益に対する法定税率は48〜52%でした。

 

 これが大きく変化したのはレーガン政権のときです。1986年に成立した税制改革で、最高限界税率は一気に28%にまで引き下げられました。これには民主党アル・ゴアジョン・ケリージョー・バイデンも賛成しています(80p)。

 この背景には所得税の租税回避策が横行していたことがあります。ただし、この租税回避作が横行するようになったのも81年にレーガンが大統領に就任してからでした。損失を出す企業に出資して税を回避するタック・シェルターの手法などが広がり、さまざまな租税回避行為が生まれ、租税回避産業ともいうべきものが誕生したのです。

 政府も次第に租税徴収の穴を塞がなくなり、租税回避をなくすために提案されたのが所得税の最高限界税率の引き下げでした。

 

 1995〜2017年にかけて法人税の税率は変わっておらず、アメリカ経済が成長したにも関わらず、法人税の税収の国民所得に対する割合は30%も減少しました(111p)。これはさまざまな租税回避策、特にタックスヘイブンを利用した租税回避策がとられるようになったからです。

 そして2017年にはトランプ大統領によって法人税の税率は35%から21%へと引き下げられました。もちろん、トランプならではの政策とも言えますが、フランスのマクロン大統領も2018〜22年にかけて法人税を33%から25%に引き下げると明言しています。日本でも安倍政権のもとで引き下げが行われましたし、今や世界は法人税の引き下げ競争を行っている状態なのです。

 

 アメリカの法人税収の下落は、まず60年代後半から70年代前半にかけて起きています。これはインフレが進み、企業収益は悪化したからです。さらに70年代後半〜80年代前半にかけて租税回避産業の誕生とともに法人税収はさらに落ち込みました(115p図4−1参照)。

 さらに90年代になると租税回避はさらに広まり、多国籍企業は利益移転を駆使して法人税の支払いを逃れるようになりました。ロゴ、商標、経営助言といった市場価格のない資産やサービスを使って会社の利益をうまく移転するようになったのです。

 アップルもグーグルもその他の大企業も、四大会計事務所(デロイト、アーンスト&ヤング、KPMG、プライスウォーターハウスクーパース)などを通じて、租税回避をするようになりました。

 これらの租税回避のためにはアイルランドバミューダ諸島などが利用されますが(本書ではまとめてバミュランドと呼んでいる)、2016年にそうした地域にアメリカの多国籍企業が計上した利益は、イギリス、日本、フランス、メキシコに計上した利益を上回っています(125p)。そしてこれらの租税回避策はアメリカの企業だけでなく、世界の多国籍企業が行っています。

 国民所得に対する法人税の割合が高いのはマルタやルクセンブルクといったタックスヘイブンとして知られる国であり、割合が低いのはアメリカやイタリアやドイツです(134p)。マルタやルクセンブルクの収入はゼロサム的な金銭移動によって成り立っているのです。

 

 こうした中で、資本への課税がますます減り、労働への課税がますます増える状況となっています。

 1940年代から80年代まで、資本所得に対する平均税率は40%を超えており、労働所得に対する平均税率は25%もなかったですが、資本への平均税率はトランプ税制改革のあとには26%になり、2018年に労働所得に対する税率が資本所得に対する税率を逆転しました(145p図5−5参照)。

 さらにアメリカでは医療保険も考慮に入れると労働への負担はさらに重いと言えます。 この保険料は労働にのみ課され、これを考慮に入れると労働所得に対する税率は37%にまで増えます(151p図5−2参照)。

 

 経済学では、資本には課税すべきではないという考えも根強くあります。資本は投資にまわって労働者の生産性を高めます。めぐりめぐって労働者のためになるというのです。一方、資本に課税するとその分賃金が低下するというのです。 

 しかし、歴史を振り返ると資本所得への税率が高かった1950〜80年代にかけては貯蓄や投資の水準が歴史的に見ても高い時代でした。同時に資本所得への税率の引き下げが貯蓄や投資を生んでいるとも言い難いのです。

 

 この悪循環を止めるために、まず法人税をなんとかしなければなりません。法人税に関しては、税率を上げれば企業は海外に移転してしまう、利益を移転させてしまうと考えられていますが、著者たちは適正な課税は可能だと考えています。

 現在、OECDの取り決めの一環として、すべての大企業に国別の利益や納税額の報告が義務付けられています。こうした情報を使って、ある企業が税率5%のタックスヘイブンA国で10億ドル、税率0%のタックスヘイブンB国で10億ドルの利益を得ていたら、その企業の母国政府はが、A国の利益に20%、B国の利益に25%の課税をすればいいというのです。

 もちろん、多国籍企業が本社をタックスヘイブンに移す可能性もありますが、実際はなかなか難しいと言います。

 また、タックスヘイブンに本社がある企業に対しては、国ごとの販売利益を算出してそれに課税するという手もあります。実際、アメリカの国内では州の法人税の徴収に関してそのような方法がとられています。

 さらに法人税の最低税率を25%に設定して、各国がそれを守るという方法も考えられます。一見すると実現は難しそうですが、アメリカとEUが合意すれば、世界の企業利益の75%をカバーできると言います(190p)。

 

 本書では、租税回避策が抑制されていれば、課税対象所得の弾力性は低い(税率が上がればすぐに労働時間を減らすというわけではない)と考え、富裕層に対する限界最高税率を75%程度にしたときに税収が最大になると試算しています(この場合の富裕層とは上位1%、2019年だと年間所得が50万ドル(1ドル=105円で5250万円)を超える人々(202p)。

 これは最高限界税率で、所得の75%が税として差し引かれるわけではありません。平均税率にすると60%ほどになると本書では試算しています。

 

 しかし、これを実現するにはまず租税回避策を防がなければなりません。そこで著者らは租税回避産業を規制する公衆保護局の設置を提案しています。金融産業を消費者金融保護局が規制するように、税務関連サービスを公衆保護局が規制するのです。

 これによって租税回避のみを目的とする商取引を禁止し、また、タックスヘイブンに対しては制裁を課すべきだとしています。

 さらに、キャピタルゲインを含むあらゆる所得を累進所得税の対象とします。今までは資産の購入価格を当局が把握していなかったため、キャピタルゲイン課税には難しさがありましたが、現在の政府が把握している情報を使えば適切な課税は可能だと言います。

 

 それに加えて、企業の法人税と個人の所得税を統合する必要があると言います。現在でもオーストラリアやカナダはそうだと言いますが、法人税と個人の所得税を結合し、株主が企業利益の分配を受けるときに、株主が払った所得税額から会社が払った法人税額を控除するのです。

 これによって企業が法人税を回避しようとするインセンティブを劇的に低下させることができます。法人税を圧縮すれば、株主が払う税金は増えるからです。また、法人化による税逃れを防ぐこともできます。

 このやり方は企業活動のグローバル化とともに難しくなったと考えられていますが、筆者らは国際協力によって十分可能だと考えています。

 

 ただし、これだけでも富裕層への平均税率60%の課税は実現しません。。富裕層の中には莫大な資産を持ちながら課税対象所得が少ない人がいるからです。例えば、ジェフ・ベゾスウォーレン・バフェットがそうです。

 彼らから税を取るには彼らの資産に課税する富裕税の導入が必要です。例えば、5000万ドルを超える財産に2%、10億ドルを超える財産に3.5%の富裕税を課すことで、超富裕層からも60%以上の税を取ることが可能になります(221p図7−3参照)。

 未公開株など、評価の難しいものも多いですが、そうしたものは税務当局が現物で納める選択肢を与え、現物で納付されたらそれを市場で売却するという方法も考えられると言います。 

 

  ただし、やはり60%という税率は高すぎて経済成長を阻害すると考える人もいるでしょう。ラッファー曲線がいい加減なものだと思っていても、高税率がかえって税収を減らす可能性を心配する向きはあると思います。

 しかし、著者らは100%近い最高限界税率も可だと考えています。税収を増やす目的としてではなく、格差を縮小させる目的のために、こうした手段は有効だと言うのです。実際、1930後半〜70年代前半にかけて、非常に高い(平均78%)の最高限界税率が課せられていましたが、この時代には上位1%の所得のシェアは減少しました(231p)。

 アメリカの憲法制定に関わったジェームズ・マディソンは過剰な富の集中は戦争と同じくらい有害だと考えており、民主主義を破壊すると考えていました。

 

 富裕層に増税すれば経済成長が止まり、結局は労働者も貧しくなるという議論もありますが、著者はアメリカとフランスを比較しながらそれを否定しています。

 アメリカはフランスに比べて成人一人あたりの国民所得を比べると30%ほど高いですが、それはアメリカのほうが生産性が高いからではなく、労働時間が長いからです。現在の国民総生産を労働時間で割ってみると、アメリカもフランスも75ドル前後でほぼ同じです(243−244p)。

 ところが、所得階層の下位50%を比較すると平均所得はフランスのほうが11%高くなっています。金銭レベルだけを見てもフランス人のほうがよい暮らしをしているのです。ちなみにこれは課税や移転前の所得であり、社会保障制度は関係ありません。ここから、アメリカの労働者階級が苦境に陥っている要因は、技術の変化やグローバル化だけではないことがわかります(フランスの労働者も同じ問題に直面しているはず)。

 また、アメリカは先進国の中で唯一平均余命が短くなっている国で、そこからもアメリカのやり方に問題があることがうかがえます。

 

 一方、再分配がしっかりとできるならば、税において累進性は重要ではないという指摘もあります。実際、IMF世界銀行のアドバイスでも付加価値税(日本の消費税)の増税が推奨されてきました。

 しかし、著者らはこのやり方は適当ではないと言います。政策には政府への信頼が必要であり、富裕層よりも貧困層に多く課税しているような状況ではその信頼は維持できないと言うのです。

 また、付加価値税は所得ではなく消費に課税されます。低所得者ほど所得のすべてを消費に回すわけで、付加価値税は逆進的だと言えます。さらに、金融・教育・医療という現代経済の三大分野が非課税になっていることが多く(日本でもそうですね)、これらはアメリカの格差を拡大させている原因でもあります。また、給与税だけでは、資本所得を捕まえることはできません。

 これらを踏まえて著者らは次のように述べています。

 付加価値税や給与税にはこのような限界があり、格差が拡大しているこの時代に社会制度の資金をまかなう役割など果たせない。この二つの税がヨーロッパで人気を博していた戦後数十年は、格差が過去最低水準にあった時代でもあった。だがもはやそんな時代は過ぎ、これらの税は時代遅れになっている。税制にイノベーションを起こす必要がある。(272p)

 

 その上で、最後に著者らはすべての所得に課税する国民所得税を提唱しています。労働所得と資本所得のすべてに同じ形で課税するのです。これは一律6%ほどで構いませんが、この国民所得税と累進性の所得税法人税、富裕税によって国民所得の10%ほどの税収を生み出し、すべての国民に医療と教育を提供することが可能だとしています(278p図9−2参照)。

 

 このように本書は、「税」という1つのものから大きな社会転換を狙った本になります。ある種の無責任さから、社会政策の財源に関して「金持ちと大企業から取ればよい」という考えが披露されることがありますが、本書はそうした考えをきっちりと詰めた上で提示しています。

 また、税制というのは「財源」の問題だけでなく、「社会のあり方」の問題なんだという点を主張している点も刺激的です。例えば、財政学者の井手英策は消費税の増税社会保障の充実によって「誰もが生きやすい社会」の確立を目指しているわけですが(例えば井手英策『幸福の増税論』岩波新書)参照)、本書からするとそれでは不十分ということになります。 

  著者らの提唱する税制の実現性に関しては判断できないところもありますが、税による社会変革の道をかなり具体的に示している本であり、「格差は問題なのはわかった。じゃあどうするの?」という問いに答える内容になっています。

  

Anjimile / Giver Taker

 ボストンを拠点に中心に活動しているアフリカ系アメリカ人のシンガーソングライターAnjimile(すいませんが読み方はよくわからない)のデビューアルバム。ちょっとググったところによるとトランスジェンダーの人でもあるらしいです。

 黒人の音楽というとなんとなく、派手であったり、ダンサブルなものを想像しがちですが、このAnjimileの音楽は非常に内省的な印象を受けます。

 静謐さを感じさせるようなきれいなメロディは、ちょっとSufjan Stevensの静かな曲を思い起こさせます。4曲目の"1978"あたりは特にSufjanっぽいですね。そして、ときにこの静謐さが神々しい感じにまでなっていて、アルバムのタイトルにもなっている"Giver Taker"は宗教的な雰囲気をたたえている曲ですね。

 ただし、Sufjanに比べると、リズム的な面白さもあって、それがアルバム全体の良いアクセントになっています。1曲目の"Your Tree"や6曲目の"Maker"あたりには独特のグルーヴ感があって聴かせます。

 とにかく、なかなか良いアーティストだと思うので、以下のPVでも見てみてください。

 


Anjimile - Maker (Acoustic)

 

 

善教将大『日本における政治への信頼と不信』

 今年はコロナ問題に明け暮れた感じでしたが、3〜7月頃の緊急事態宣言からその解除、さらに「Go To Travel」をめぐるを見ながら感じたのが、日本のおける政府に対する信頼の低さ。

 各国では危機の高まりとともに政治指導者に対する支持があがる傾向がありましたが、日本ではそうはなりませんでした。日本政府の対応が後手後手だったにしろ、感染者数や死亡者数を見れば、それほどひどい対応だったわけではないはずですが、それでも政府を結束して支えようという動きは起こりませんでした(これは東日本大震災のときもそうだったと思う)。

 

 そんな感じで日本における政府や政治に対する不信感の問題が気になったので手にとって見たのがこの本。上記の関心とは少しずれますが、日本における政治不信とはいかなるもので、どのような展開を見せているのかということを分析した本になります。

 著者は、大阪都構想住民投票に関して鋭く分析しサントリー学芸賞を受賞した『維新支持の分析』を書いた人物ですが、本書でも興味深い問と、それに答えるためのさまざまな工夫が張り巡らされています。

 

 目次は以下の通り。

序章 本書の目的と構成
第Ⅰ部 政治への信頼の構造と動態
 第1章 政治への信頼概念の検討
 第2章 政治への信頼の操作的定義
 第3章 政治への信頼の推移と構造
第Ⅱ部 信頼低下の帰結
 第4章 信頼と政党支持
 第5章 信頼と投票行動
 第6章 信頼と政策選好
 第7章 信頼と政治的逸脱
第Ⅲ部 信頼の変動要因
 第8章 政治的事件の発覚と信頼
 第9章 変動要因の分解:加齢・世代・時勢
 第10章 社会変動,価値変動,そして信頼の低下
終章 日本の政治文化と代議制民主主義

 

 1990年代から世界的に政治への信頼低下が起きていますが、特に日本は一時期「政治不信」という言葉が広く使われていたように、国際的に見ても政治への信頼は低いです。しかし、だからといって代議制の崩壊といった事態は起こっていません。人々は代議制に代わる意思表示の方法を求めて街に繰り出しているわけでもありません。

 これはなぜなのか? というのが本書の大きな問です。

 さらにその上で、「政治への信頼とはどのような意識であり、またそれはどのように推移しているのか」、「政治への信頼が低下することの帰結はなにか」、「政治への信頼の変動要因は何か」という問題を解き明かそうとしています。

 

 まず、本書では政治への信頼を認知と感情の2つに大別します。

 政治には、特定の政治家や政党への信頼というものと、政治システム全体への信頼といったものがあります。例えば、自民党政治に不信感を抱いたからといって、不信感を持った大部分の人が選挙にいかなくなるわけではないでしょう。与野党逆転を目指して投票所に熱心に足を運ぶ有権者も多いはずです。この場合、首相や与党議員に不信感を持っていても政治システム自体は信頼しているわけです。

 

 本書では、特定の政治家や政党への信頼を「認知的な信頼」、政治システム全体への信頼を「感情的な信頼」と分類します。

 ここでいう「認知」は「態度が向けられる対象への知覚や認識に基づくもの」で、「感情」は「好き嫌いや怒り、悲しみといった態度」です(40p)。この「感情」を政治システム全体への態度と結びつける方法は直観的にわかりにくいものがありますが、感情には自己同一化や帰属も含まれます。「政治システムへの一般支持とは、言い換えればシステムへの帰属であり」(43p)、その感情こそが代議制というシステムを支えているというわけなのです。

 

 では、この2つの信頼をどう見分けるのか?

 もちろん、それを見分けるような質問を作ればいいわけですが、それでは過去の推移はわかりません。そこで本書では既存の調査の質問からそれを取り出します。

 具体的には、政治家の汚職や不正行為に対する認識を尋ねる質問から認知的な信頼を、代議制などの政治制度に関する質問から感情的な信頼を取り出しています。

 前者は、例えば、「国会議員ついてどうお考えですか。大ざっぱに行って当選したら国民のことをかんげなくなると思いますか、それともそうは思いませんか」「日本の政党や政治家は派閥の争いや汚職問題に明け暮れして、国民生活をなおざりにしていると思いますか」といった質問(57p)であり、後者は「政党があるからこそ、庶民の声が政治に反映するようなる」「選挙があるからこそ、庶民の声が政治に反映するようなる」といった質問(58p)です。

 

 本書では1976年からのデータを扱っていますが、その推移を見ると1990年代に認知的な不信が高まっています(69p図3−1参照)。政治家の行動に対する不信感が強まっているのです。

 一方、感情的な信頼に関しては、認知的な信頼に比べてそのレベルは高いです。政党や国会に対する信頼感はやや薄れている傾向があるものの、選挙に対する信頼は93年に一度大きく低下した後に回復しており、認知的な信頼ほど大きな動きは見られません(70p図3−2参照)。

 また、両者の変化の動きは基本的には独立していると考えられます(認知的な信頼が薄れると自動的に感情的な信頼も薄れるというわけではない)。「少なくとも日本では、政治への信頼と不信が同時に抱かれている」(81p)のです。

 

 これを踏まえて第2部では政治への信頼の低下が何をもたらすのかが検討されています。

 まず、政党支持との関連ですが、多くの人が予想するのが「政治への信頼低下→無党派層の増加」という流れでしょう。ただし、日本では無党派層は必ずしも無関心層ではなく、単純に政治から退出しているわけではありません。

 実際にデータを分析していると認知的な信頼と相関しているのは自民党への支持です。日本では長年自民党が政権を担当していたこともあって、90年代の認知的な信頼の低下は自民党への支持の低下と結びついています。

 つまり、認知的な支持の低下は支持政党の有無というよりはその方向性(どの党を支持するか)と結びついているのです。

 

 次に政治への信頼の低下と投票行動の関係が検討されています。ここでも単純に予想されるのは「政治への信頼低下→棄権」という流れです。

 しかし、今までの研究では政治への信頼と投票への参加の間に関連があるとは言えないという形になっています。そこで本書では認知的な信頼の低下は投票参加の低下をもたらさずに、感情的な信頼の低下が投票参加の低下をもたらすのではないかという仮説を立てて、分析しています。

 

 まず、70年代80年代はロッキード事件なども起こり、政治不信が高まった時期でしたが、特に投票参加率の低下は起きていません。しかし、80年代のデータからは感情的な信頼の低下が投票参加率の低下と関係していることがわかります。

 ただし、93年の調査では特に認知的な信頼、感情的な信頼ともに投票参加率との相関は見られず、95年、96年の調査では認知的な信頼、感情的な信頼ともに投票参加率と相関しています。ただし、どちらかというと認知的な信頼は政党の支持、感情的な信頼は投票の有無と関連する傾向にあります(118p図5−7参照)。

 2003年のデータでも認知的な信頼は政党の支持、感情的な信頼は投票の有無と関連する傾向ですが、認知的な信頼が低いと民主党に投票するという傾向があります。これはやはり自民党政治への不満の現れと見るべきでしょう。

 全体を通して、感情的な信頼の低下が投票参加率の低下をもたらす傾向が見られましたが、感情的な信頼の低下が緩やかなのに対して、投票率は急速に下がっています。投票率の低下の要因を政治不信だけに求めることはできず、他の要因も大きいと見るべきでしょう。

 

  続いて政治への信頼と政策との関係が分析されています。

 80年代のデータを見ると、認知的な信頼が高いほど、政治改革を支持しなくなり、社会福祉の充実を支持しなくなり、小さな政府を支持せず、防衛力の強化を支持しています。つまり、ときの自民党政権に満足していたということなのでしょう。一方、感情的な信頼に関しては、それが高いほど、政治改革を支持し、社会福祉の充実を支持し、女性の参画を支持する傾向が見られます。これは政治改革や女性の参画が代議制をより良くするとの考えからかもしれません(133p表6−1、表6−2参照)。

 90年代は過渡期という感じなのですが、00年代になると、例えば、イラクへの自衛隊派遣は認知的な信頼が高ければ支持、郵政民営化は感情的な信頼が高いと支持といった傾向が見られます(142p表6−5)。イラクへの自衛隊派遣は自民党支持と結びつき、郵政民営化に関しては政治改革の一環として捉えられていた可能性があります。また、夫婦別姓に関しても感情的な信頼が高いと支持する傾向が見られます。

 

 さらに本書では政治への信頼と政治的逸脱の関係も分析しています。

 政治的逸脱の代表例はデモやボイコットですが、近年の日本ではそうした行動に参加する人は少なくなっています。政治への信頼との関係でも、03年の調査で認知的信頼が高いとデモや集会へ参加しにくくなるということが見いだせるくらいです(156p表7−2参照)。

 一方、政策の受容に関しては、例えば電気の節約を求められた場合に、感情的な信頼が高いほど消極的な協力(仕方なく協力する)が強まる傾向が見られます。

 

 第3部では「何が政治への信頼を変動させるか?」という問題がとり上げられています。

 最初に分析の俎上に載せられるのがロッキード事件です。ロッキード事件は教科書にも載っている有名な事件で、当時の人々に大きな影響を与えたと考えられます。政治的な信頼を大きく揺るがした事件とも考えられます。

 単純に言ってロッキード事件は政治への信頼、特に認知的な信頼を低下させそうですが、それを見分けるのはなかなか難しく、本書ではかなり込み入った方法でそれを取り出そうとしています(詳しくは本書の第8章を読んでください)。

 結果としては、ロッキード事件は認知的な信頼の低下をもたらしたが、感情的な信頼に関してはそれほど低下をもたらさなかったということになります。

 

 つづく第9章では、変動要因として加齢、世代、時勢の3つをあげて検討しています。

 加齢とは年齢とともに政治に対する態度が変化していくことです。例えば、若者よりも高齢者のほうが政治的な関心が高い、年齢を重ねると保守的になると言ったことは加齢の影響だと考えられますし、「団塊の世代は革新的だ」というのは世代の影響を見ていることになります。また、人々の属性やパーソナリティにかかわらず、その時代ごとに共通する特性があれば、それが時勢です。

 ただし、この加齢と世代と時勢を切り分けるのは難しいです。例えば、1968年に20歳だった団塊の世代のある人物が、20歳のときは共産党支持だったけど、17年後の1985年には自民党支持になっていた場合、それは加齢なのか、時勢なのか、それとも世代的な何かがあるのかを見分けるのは難しいです。その識別方法については本書の第9章第3節をお読みください。

 

 分析によると、認知的な信頼に対する影響が大きいのは時勢です。一方、感情的な信頼に影響しているのは世代です。第一戦後世代(1929〜43年生まれ)、団塊世代(1944〜53年生まれ)、新人類世代(1954〜68年生まれ)、団塊ジュニア以降(1969年生まれ以降)と感情的な信頼は世代を経るごとに低下する傾向があります。

 認知的な信頼に関して時勢効果が大きいということで回復させることが可能です。実際に認知的な信頼は90年代に比べて00年代になるとやや上がっています。

 一方、感情的な信頼は世代に従って徐々に低下傾向にあるので、これは回復させるのは容易ではないかもしれません。現在のところ、感情的な信頼はまだ高レベルにあるので問題は顕在化していませんが、いずれ大きな問題となる可能性はあります。

 

 この分析を受けて、本書では「なぜ世代間の信頼の相違をもたらしているのか?」という問題を検討しています。

 これについての著者の分析は、イングルハートの言う20世紀後半に起こった価値観の脱物質主義化に対して、日本では公的領域からの退却を含む「私的な脱物質主義化」が起こったからだというものです。

 物質的な欲求がある程度満たされ、人々の問題関心は「自己実現」に移っていきます。欧米ではこの自己実現の手段として政治参加への意識が高まりますが、日本ではそうはなりませんでした。日本でも自己実現は求められましたが、それは私的な領域の中での自己実現でした。本書では、この「私的」なものの対極として「公的」なものではなく、「集団」や「伝統」を想定しており、この「集団」や「伝統」からの撤退が、代議制民主主義に対する信頼の低下をもたらしたというのです。

 

 しかし、代議制民主主義を守るために「伝統」(具体的に言えば「共同体の復活」や「地縁の再生」など)を復活させるべきだという議論の実現可能性は薄いです。

 そこで、著者は終章で、日本の市民文化が弱いことを認めながら、次のような展望を述べています。

 有権者の志向性という点では、たしかに日本の政治文化を市民文化だということができないが、評価の軸からいえば、日本のそれはまぎれもなく「市民文化」である。日本人は政治に対する認知的な不信を抱きながらも、その背後では代議制に対する信頼を抱き続けている。言い換えれば日本の有権者は、代議制という政治システムを維持するために必要な信頼という資源を与えながら、日本の政治を改良する資源としての認知的な不信を表明し続けている。それはたしかに矛盾する行動なのかもしれないが、この矛盾があるからこそ、代議制という政治システムの維持と発展は可能になっているのではないだろうか。(238−239p)

 

 このように本書は実証的な分析中心の本なのですが、「日本では政治不信が高まっているのに代議制の危機が起こらないのはなぜか?」という興味深い問いを中心に、さまざまな問題を掘り進め、最終的には政治に対する1つの見方を提示するという興味深い内容になっています(「新しい見方」と書かなかったのは、個人的にこの「評価」を軸にした政治への関わりというのは吉野作造の民主主義観とにていると思ったから)。

 分析に関しては難解な部分もありますが、1章ごとの問いが明確なので、わからなかったら問いと小括を中心に読んでいっても本書が行おうとしていることはわかると思います(あと、「感情的な信頼」というネーミングの直観的なわかりにくさはありますが)。

 日本の民主主義の今までとこれからを考える上で非常に興味深い知見を与えてくれる本と言えるでしょう。

 

 

 

『スパイの妻 劇場版』

 冒頭の蒼井優の初登場シーンは本当に見事で、戦前の神戸の街の撮り方も加わって、最初は素晴らしく格調の高い映画だと感じましたが、途中からB級映画的なテイストも加わってくるのが黒沢清ならではですね。

 

 蒼井優演じる聡子は貿易商を営む福原優作(高橋一生)の妻で、日中戦争のさなかの1940年であっても非常に裕福な暮らしを送っています。優作は映画好きで西洋的な暮らしに親しんでいる人物で、夫婦仲も良好です。

 ところが、優作が甥の文雄と満州に行って帰ってきて以来、優作の様子がおかしくなり、優作と聡子のかつてからの知り合いである東出昌大演じる憲兵隊の隊長(これがまたハマり役)も優作の身辺を探っていることを知ります。

 

 最初は受け身の聡子ですが、背景に女性の影を感じてから能動的に動き出します。このやや過剰とも言える行動を蒼井優が見事に演じています。夫の秘密を追う姿勢は次第に狂気と言っていい感じにもなってくるのですが、この加速具合が見事です。 

 そして、「家庭の幸福」(太宰治が諸悪の根源と言ったもの)とそれを守るためには世間に従うべきだという聡子の考えと、自らの「コスモポリタン」だという優作の考えが激突するシーンがあるのですが、ここもまた見事。政治哲学とかの授業でも見せてもいいかもしれません。

 

 ただ、ずっと高尚な歴史ドラマが続くかというとそうでもなくて、聡子の見る夢とかはB級テイストですし、妙なホラーテイストが入ったりしますし、憲兵隊本部の考証のいい加減さとかもきっと確信犯的なのだと思いますが、歴史ドラマから意図的に距離をとっているようなところもあります。

 おそらく、もっと隙のない作品にすることもできるのでしょうけど、そこであえて映画的な絵面の面白さをとっているところが黒沢清ならではなんだと思います。ちょっと、ブライアン・デ・パルマとかを思い出しました。

 

 もっとも、この映画は濱口竜介と野原位の脚本も良くできていて、黒沢清の作品にたまに見られる「ルーズすぎ」な感じを上手く回避しています。

 「だれが狂ってるのか?」ということを常に問い続けるような脚本になっており、画面だけでなくストーリーでも最後まで緊迫感をもたせます。

 先程述べた憲兵隊の本部のシーンをはじめとして少し変なところもあるのですが、それも含めてザ・黒沢清ワールドを堪能できる作品ですね。

 

Doves / The Universal Want

 今年アルバムをリリースしたBadly Drawn Boyも懐かしかったけど、このDovesも懐かしい!00年代に活躍したマンチェスター出身の3人組で、2009年以来のアルバムリリースのなりますね。

 というわけでメンバーももう50代だと思うのですが、1曲目の"Carousels"から若々しい!

 これがシングルですが、凝ったドラムに疾走感のあるギターで、00年代に活躍した頃のDovesが帰ってきた感じですね。

 ここから2曲目の"I Will Not Hide"、3曲目の"Broken Eyes"と勢いのある曲が続きますし、決してうまくはないですけど、渋さのあるおっさんボイスもいいですね。

 Dovesらしい、つぶつぶ感のあるギターも健在ですが、特に6曲目の"Prisoners"はいまどきこんな古臭いギターソロを入れてくるバンドはあるのか?と思うほどなんですけど、そこがゾクゾクする部分。

 また、もともとはSub SubというダンスユニットをやっていただけあってダンサブルさがあるのもDovesの特徴で、8曲目の"Mother Silverlake"はそんな曲ですね。

 全然枯れたりしていないので、Dovesが好きだった人は間違いなく楽しめる1枚ですね。

 


Doves - Carousels