北村亘編『現代官僚制の解剖』

 2019年に出版された青木栄一編著『文部科学省の解剖』は、過去に村松岐夫が中心となって行った官僚サーベイ村松サーベイ)を参考に、文部科学省の官僚に対して行ったサーベイによって文部科学省の官僚の実態を明らかにしようとしたものでした。

 本書は、それを受ける形で文部科学省以外の省庁(財務省経済産業省国土交通省厚生労働省文部科学省)にも対象を広げて行われたサーヴェイ・2019年調査(本書はヴェイ表記)をもとにして分析を行っています。

 執筆者では、北村亘、青木栄一、曽我謙悟、伊藤正次といったところが『文部科学省の解剖』とかぶっています。

 

 現代において完了に対してサーヴェイを行う難しさというものはあるのですが(松村サーベイは「行政エリート調査」と題されていましたが、現在ではこのタイトルではいろいろ警戒されてしまうでしょう)、やはり実際に調査をして見えてくるものはありますし、現代の日本の官僚が抱える問題も浮かび上がってきます。

 

 目次と執筆者は以下の通り。

はじめに:官僚意識調査から見た日本の行政──2019年調査から見えてきた日本の行政の変容(北村亘)
第1章 省庁再編後の日本の官僚制──2019年調査のコンテクスト(北村亘・小林悠太)
第2章 政策選好で見る官僚・政治家・有権者の関係(曽我謙悟)
第3章 官僚の目に映る「官邸主導」(伊藤正次)
第4章 政策実施と官僚の選好(本田哲也
第5章 なぜデジタル化は進まないか──公務員の意識に注目して(砂原庸介
第6章 2019年の中央官庁の地方自治観(北村亘)
第7章 官僚のパブリック・サービス・モチベーションと職務満足(柳至)
第8章 何が将来を悲観させるのか──リーダーシップ論からの接近(小林悠太)
第9章 官僚にワーク・ライフ・バランスをもたらすものは何か(青木栄一)
第10章 日本の官僚制はどこに向かうのか(北村亘)

 

 第1章は2000年代の統治機構改革を振り返り、日本の官僚制の特徴を指摘しています。

 2000年の地方分権一括法、01年の省庁再編は官僚の置かれた環境を大きく変えましたし、その前に行われた小選挙区比例代表並立制の導入を始めとする政治改革も政治家と官僚の関係を変えることになりました。

 

 かつて、官僚の類型として、国益を重視して政策決定を主導する古典的官僚(国士型官僚)、政治の意向を粛々と執行する政治的官僚(調整型官僚)、政治の意向の中で合理性を追求した執行をめざす合理的官僚(吏員型官僚)という類型が取り出されましたが、古典的官僚の存在する余地は小さくなっていると考えられます。

 官僚の権限が大きく削られたわけではあありませんが、さまざまな政策課題が浮上する中で組織のスリム化が進行したことによって官僚はその余裕を失ってきていると考えられます。

 

 第2章では、今回行われた官僚サーヴェイと東大谷口研・朝日調査による政治家の意識調査、有権者に対する調査を比較する形で、官僚・政治家・有権者の考えを分析しています。

 

 本章ではまず、調査をもとにして政治の対立軸を取り出します。取り出された因子1は防衛力強化や先制攻撃、プライバシーを侵害しうる政府の情報収集、原発継続に反対するというものです。国家への警戒を表していると言えるでしょう。因子2は同性婚を認めず、夫婦別姓に反対するという方向性で、社会的に保守的な志向を示していると言えます。

 

 分析結果は31p図2−2に示されています。

 因子1の軸を見ると、有権者と官僚は単峰型でほぼ左右対称です。強い国家を求める人と警戒する人がバランスよくいる形ですが、官僚のほうがやや強い国家志向の人が多いです。一方で政治家では2017年の衆議院候補者、2019年の参議院候補者とも分極型になっています。

 因子2については、有権者は保守的な人が少なく、政治家では非常にリベラルな人と中立的な人が多いです(非常にリベラルな人は落選候補者に多いので共産党の候補者などが多いと思われる(32p図2−3参照)。官僚もややリベラルと中立的な人が多いのですが、有権者に比べると保守的な人も目立ちます。

 省庁ごとに違いでは、経産省文科省が国家の権力行使にやや消極的でリベラル志向、財務省総務省厚労省国交省はやや強い国家志向で保守的という傾向が見られます(34p図2−4参照)。

 

 属性ごとの違いを見ると、有権者では男性よりも女性の方が、その他の地域出よりも東京圏、高卒以下よりも大卒以上、その他の職業よりも事務・技術職のほうが国家の権力行使に懐疑的になります。これと官僚の位置を比べてみると、官僚の位置は、男性・その他の地域・高卒以下・その他の職業の位置に近いです(36p図2−5参照)。

 官僚は、大卒以上で事務・技術職に近く、東京圏に住んでいるものが多いはずなので自らが属しているはずの属性とはややズレていることになります。

 

 政治家と官僚の分析では、拡張的財政か緊縮的財政かという対立軸も取り出せますが、拡張的な財政を主張する政党が多いのに対して、省庁では拡張的財政を主張するところはなく、特に財務省厚労省は慎重です(42p図2−8参照)。

 

 全体的に見ると、有権者は政治家を選び、官僚は選べないわけですが、政策的な距離でいうと政治家は必ずしも近くなく、官僚は必ずしも遠くないという結果になっています。

 ただし、それは上でも見たように官僚が一般の人々と同じ感覚を持っているということを意味するわけではありません。官僚が持つ属性からすると官僚は保守的だからです。

 また、政治家や官僚の間では財政という軸があるのに対して、有権者ではあまり見られずに、安全保障や原発などの軸が強いことが、選挙での争点と、政府の中での対立のズレを表しているのかもしれません。

 

 第3章は「官邸主導」について。第2次安倍政権になって官邸の力が強まったとされていますが、官僚はどのように認識しているのでしょうか。

 2019年調査では直接官邸主導についての評価を訊ねる質問はありませんでしたが、多くの官僚が首相官邸内閣官房内閣府の理解を得ることが重要だと考えています(59p図3−1参照)。一方で、政党の事前審査が重要だと考える官僚は少なく(60p図3−2参照)、党(自民党)よりも官邸の重要度が上がっていることがうかがえます。

 

 官僚OBの間では、官邸主導の動きを真っ向から否定する前川喜平のような人もいますし、「政治の復権」と捉える兼原信克のような人もいます。

 この辺りには温度差もありますが、指定職以上は「府省の内外から政治任用で東洋すべきである」との問には否定的な答えが多く(61p図3−3参照)、「大統領的首相」に対しては官僚の抵抗感は強いようです。

 

 第4章では官僚の政策実施についての選好を分析しています。官僚が政策を実施するときにどの主体(例えば地方自治体、独立行政法人NPOなど)を選好するのかという問題です。

 かつて、日本の官僚制の特徴として、組織内、組織外のリソースを最大限に使う「最大動員」が指摘されましたが、そのときに比べ、新公共経営(NPM)の考えが広がり、地方分権も進み、また官僚の自発的離職者も増えています(「いい機会があるのならば、できるだけ早くに退職したい」に対し、「強くそう思う」10.4%、「そう思う」23.9%と答えている(72p))。

 官僚の人的資源を考えれば、さらに最大動員を進めたいところですが、例えば、地方自治体にさらに実施を委ねれば、さらなる地方分権を求められるかもしれません。

 

 では、どのような実施主体を選好するかというと、これは省庁ごとに特徴が出ます。総務省文科省厚労省経産省地方自治体を選好する傾向があり、総務省文科省経産省は民間企業も選好しています。さらに文科省には独立行政法人への選好もあります。一方、国交省は地方支分部局を選好しています(79p表4−2参照)。

 総務省は通信政策を所管するため、文科省は近年の族議員の世代交代などから民間企業への選好が強いのだと思われます。

 個人で見ると、年齢が高いほど民間企業に否定的で、留学経験があると民間企業に肯定的になります。

 

 また、どのような主体の理解を得ることが重要化に関しては、文科省厚労省地方自治体と公社・公団・独立行政法人を重要視し、文科省はさらに大学などの専門家や有識者の理解も重視しています。一方、個人で見ると、留学経験があると地方自治体の理解を得ることの重要性は低下しています(85p表4−7参照)。

 

 第5章は行政のデジタル化について、「なぜ進まないか?」という問題が分析されています。

 

 2019年調査では「情報技術(ICT)の進展によって業務負担は大きく改善される」、「人工知能(AI)が導入されても自分の給与や待遇に影響ない」という質問があります。 

 ICTについての答えを見ると、意外にも年齢による影響はそれほどありません。年齢が高いほどICTに懐疑的というわけでもなく、そもそも「強くそう思う」と答えた割合は非常に少ないです(94p表5−1、95p図5−1参照)。

 省庁別に見ると経産省内閣府はICTで業務負担が改善されると見ている人が多く、財務省は少ないです(95p図5−2参照)。

 また、ICTで業務改善ができると考えている人ほど、業務量の増大に対処できているという傾向も見られます(98p図5−3参照)。

 一方で、AIに関連する質問についてはこれといった特徴が見られません。

 

 また、官僚は外部との調整を求められることが多いですが、外部の理解の重要性を感じている職員ほどICTで業務改善はできないと感じており、AIが導入されても自分の待遇は変わらないと感じている傾向があります(99p図5−4参照)。

 業務の効率性の重視とICTの関連についてはICTで業務が改善されないとする職員ほど効率性を重視しない傾向があります(100p図5−5参照)。

 さらに自分たちの業務が公務であるという動機づけ(PSM(パブリック・サービス・モチベーション))との関連では、明確な関連性は見出し難いですが、ICTについては否定的な回答をする者ほどPSMが高い傾向を見出すこともでき、AIについても機械への代替に否定的なほどPSMが高い傾向があります。

 

 デジタル化は効率化を改善させると予想されますが、官僚が重視する価値観には効率性以外にも公平性や必要性といったものもあります。デジタル化の推進には後者の価値観とどう折り合いをつけていくかも重要になるでしょう。

 

 第6章は地方自治体に対する評価について。

 まずは、地方自治体の仕事ぶりに対する評価ですが、総務省文科省厚労省が高く、財務省は否定的です(116p図6−3参照)。一方、職位による差はあまりありません(118p図6−6参照)。

 将来の関係を聞く質問では、厚労省総務省国交省の順で密接になると答えており、ここでも財務省は疎遠になるという傾向です(119p図6−7参照)。調査は2019年でコロナ以前ですが、厚労省自治体との連携を求めていたことがうかがえます。職位別に見ると、課長補佐級は疎遠になるという傾向です(120p図6−9参照)。

 

 地方財施についての質問では、地方交付税、国庫補助負担金、国税の基幹税目の税源移譲のそれぞれの重要性について尋ねていますが、財務省はすべて軽視という傾向で、総務省文科省厚労省地方交付税と国庫補助負担金を重視、国交省地方交付税軽視で国庫補助負担金を重視といった傾向です(122p図6−10参照)。国税の税源移譲についてはいずれの省庁も低めで、総務省ではさえ低めということは、これ以上の税源移譲は進まないかもしれません。

 

 さらに本章では、設問への答えから省庁を4つにタイプ分けしています。地方自治体への実施依存度が高く信頼して権限移譲をおこな手も良いと考える省庁として厚労省地方自治体への実施依存度は高いが、権限移譲を行うのには反対な文科省国交省、実施依存度は低いが権限を移譲しても構わない経産省、実施依存度も低く権限移譲にも消極的な財務省と言う形になります(総務省もカテゴリー的には経産省のところに入る)(131p図6−16参照)。

 

 第7章は、第5章でも出てきたPSM(パブリック・サービス・モチベーション)について。

 日本の官僚の給与はそんなにいいものではなく、わざわざ官僚になった人には「公益に貢献したい」といった思いがある可能性が高いわけですが、そのあたりを分析しています。

 2019年調査には、「私にとって公益に貢献することは重要である」、「私は市民の平等な政治参加の機会があることはとても重要だと考える」、「私は他人の幸福を考えることはとても大切だと考える」、「私は社会のために犠牲を払う覚悟がある」といった質問があり、ここからPSMの高さを引き出しています。

 

 まず、省庁別に見るとPSM指標の値が高いのは経産省ですが、統計的には優位ではありません(140p図7−1参照)。

 また、職務満足度指標を見ると、文科省が高く、経産省厚労省と続き、財務省は低いです(143p図7−2参照)。

 PSMとの関連を見ると、PSMと職務満足度は相関しており、組織や組織のメンバーへの愛着である情緒的コミットメントとPSMも弱いながら相関しています。一方、離職意思との関係では職務満足度や情緒的コミットメントと離職意思は負の相関にありますが、PSMとの相関はありません(145p表7−6参照)。つまり、PSMだけでは官僚を引き止めることはできないということかもしれません。

 

 PSMとやりがい、職位は相関していますが(職位が高いほどPSMも高い)、職務満足度はやりがいだけではなく、ワーク・ライフ・バランスや幹部ヴィジョン(幹部に将来の明確なヴィジョンがあるかどうか)と相関しています(151p図7−3参照)。

 さきほどの離職意思についての分析を合わせて考えると、官僚の離職を防ぐにはワーク・ライフ・バランスや幹部ヴィジョンが重要となりそうです。

 

 第8章は「何が将来を悲観されるのか」と題されていますが、ここでは幹部のリーダーシップの問題がとり上げられています。

 2019年調査では、「幹部には組織の将来像に関する明確なヴィジョンがある」との問に対して、「そう思わない」「全くそう思わない」の回答が合わせて64.5%でした。中央省庁の幹部を対象とした調査にもかかわらずです(160p)。

 省庁別に見ると、幹部のリーダーシップを評価しているのは財務省経産省で、総務省厚労省文科省は低めです(163p図8−3参照)。職位別に見ると、局長・審議官級>課室長級>課長補佐級となっており、若手ほど幹部のリーダーシップに懐疑的です。

 本章の後半では、政策距離などを用いた分析も行われていますが、けっこう込み入っているのでここは実際に読んでみてください。

 

 第9章は官僚のワーク・ライフ・バランス。官僚の長時間労働が問題となっていますが、2019年調査では7割近くの官僚が「自分はワーク・ライフ・バランスがとれている」と答えています(183p図9−1参照)。睡眠時間についての質問でも最頻値は6時間(47.7%)で5時間と7時間が20%台前半で続きます(184p図9−2参照)。

 ただし、「業務の高度化や複雑化」「以前より部下への丁寧な説明が必要」といった回答が多い一方で、「部下との飲食は円滑な業務遂行のために必要」といった回答も多く、全体の回答からは過渡期であることも感じさせます(186−187p表9−1参照)。

 

 ワーク・ライフ・バランスの鍵としては分析の結果、上司の配慮などが関わっていることがわかりますが、「適切な昇進管理」とワーク・ライフ・バランスが負の相関となっており、現在の昇進の仕組みはワーク・ライフ・バランスの実現と合ってないともとれます(189p表9−3参照)。

 省庁別に見ると、ワーク・ライフ・バランスがいいのは総務省厚労省文科省の順で(厚労省が入るのが意外だと筆者も指摘している)、上司による仕事外の配慮は文科省が突出して高く、文科省の家族的な組織風土を表しているのかもしれません。職務満足度は経産省が高く、睡眠時間は財務省が長いです(191p表9−4参照)。

 

 また、この章では官僚の読書時間の少なさ(回答者の19.1%が1日あたり0分で41.7%が30分)や会食についての認識(職場の同僚との会食を最も重視しているのが文科省で、次いで国交省(195p図9−4参照))なども紹介しています。

 

 第10章はまとめですが、ここでは若い世代の官僚から「我々を職員と言ってほしい。あくまで粛々と業務をこなしているだけだ」(205−206p)という声があったというのが印象的ですね。

 やはり、日本の官僚制は曲がり角に来ているというか、すでに曲がり角を過ぎており、今までとは違った官僚像、そして働き方が必要になってきているのだと感じました。

 

 この手の調査をやることは難しくなっており、本書の調査も対象人数や回収率などを見るとやはり大変だったのだと思います。

 ですから、本書は必ずしもすべての幹部官僚の声を拾えているわけではないのですが、それでも実際に出てきたデータというのは貴重だと思います。そうだろうな、と思う知見もあれば、厚労省のワーク・ライフ・バランスが良いなどの意外な知見もあります。

 青木栄一編著『文部科学省の解剖』が青木栄一『文部科学省』というまとめに結実したように、本書の調査からさらなる官僚制の研究が進展することを期待したいですね。

 

 

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『犬王』

 見終わった最初の感想は「これはクイーンであり、犬王はフレディ・マーキュリーだ」ということ。映画の中のかなりの時間をステージのシーンが占めているのですが、それがとにかく過剰。

 湯浅政明監督は、アニメならではのさまざまな効果を存分に使って作品を見せる監督ですが、今回はありとあるゆる演出方法が詰め込まれれている感じで、とにかく派手で華麗です。

 

 原作が同じ古川日出男、アニメーション制作がサイエンスSARU、この『犬王』も『平家物語』をとり上げているということで、当然ながらアニメの『平家物語』と比較したくなるのですが、『平家物語』の無常観を比較的淡白な絵で抒情的に表現していた『平家物語』に対して、こちらの『犬王』は時代が室町時代に下ったということもあって、さまざまな演出がごった煮のように使われています。

 浮世絵を思わせる、平面を並べて奥行きをつくる感じとか、盲目の友魚(ともな)(→友一→友有)の視界を表現しようとする効果、異形の犬王のダイナミックな動きなど、これでもかと凝った演出が繰り出されています。

 

 一方、このようにステージを中心とした演出に全振りしているので、ストーリー自体は比較的シンプルです。

 壇ノ浦の漁師の子だった友魚は、沈んでいた三種の神器の1つである草薙剣の呪いによって父を失い、自らは盲目となります。その後、友魚は友一という名の琵琶法師となって京の都で異形の犬王と出会い、ロックバンドのようなスタイルで犬王の舞(能楽)を盛り上げます。そして、この二人の挑戦がそのままストーリーになっています。

 草薙剣の行方とか、足利義満に認められるまで犬王の舞台を後援していた人物がいたのか? とか、いろいろとストーリーを発展させることはできたと思いますが、そのあたりは追求せずに、とにかくステージを見せます。

 

 ステージは荒唐無稽であるのですが、特に鯨をモチーフにしたステージはカッコいいですね。

 能に関しては、正直退屈というイメージしかなく、足利尊氏のころに能を見ていた観衆が興奮して舞台を破壊したとかいう話を聞いても、理解できないでいるのですが、室町時代の能はもっと派手で過激なものだったのかもしれません。

 その失われてしまった過激さを、今ある全ての材料で再現してみせたのが、この『犬王』という作品でしょう。

 

ファン・ジョンウン『年年歳歳』

 短編集『誰でもない』が面白かったファン・ジョンウンの長編で、韓国で2020年に「小説家50人が選ぶ今年の小説」にも選ばれているとのことです。

 この小説を書くことになったきっかけは、著者が順子(スンジャ)という女性に数多く会ったことだといいます。1940〜50年代は日本の植民地支配の影響もあって「子」が付く名前が多く、訳者あとがきによれば、ファン・ジョンウンは「困難なく順調に育ってほしい」という願望と「おとなしく人の言うことを聞く女の子ならば幸せになれるだろう」というが願望の2つが反映したものと見ています(182−183p)。

 そして、ファン・ジョンウンが1946年生まれのスンジャさんの避難(朝鮮戦争に伴うもの)の話を聞いたことがこの小説には反映されています。

 

 冒頭はイ・スンイルが次女のハン・セジンとともに北朝鮮との国境近くにある母方の祖父の墓を廃墓する話であり、ここからイ・スンイルの波乱の人生が語られていくように思えます。

 実際、「無名」という章では、イ・スンイルが小さい頃に両親を失い、途中まで自分がスンジャという名前だと思って暮らしていたこと(スンジャ(順子)だと思いこんでいたが、戸籍はスンイル(順一)だった)、ひどい境遇の中で、スンジャという名前を持つ同年代の少女と知り合ったことなどが書かれています。

 

 ただし、この小説はここまで書いてきたことから想像できるような大河ドラマではありません。

 確かに朝鮮戦争によって一時的に北朝鮮領になり、また韓国領になった地域で起きた悲劇とか、アメリカ人と結婚して米国に渡った叔母さんの話など、韓国史をたどるような展開もあるのですが、基本的にはイ・スンイルとその二人の娘であるハン・ヨンジンとハン・セジンの話が連作短編のように語られています。

 

 ちょうど、『誰でもない』に収録されている「ミョンシル」を思い起こさせるところがあります。「ミョンシル」は、老婦人が死んだ恋人のシリーの思い出を回想しながら、その思い出を書こうとする作品で、シリーは物語を書こうとしていたのですが、断片だけを書いて、きちんとした物語を書けないままに亡くなっています。そして、シリーのことを書こうとした主人公のミョンシルもなかなか書けないというものです。

 大河ドラマになりそうな題材は、連作短編といった形で、きれぎれの断片としてそこに置かれているのです。

 

 そして、イ・スンイルが韓国の過去を、ハン・ヨンジンとハン・セジンが韓国の今を、この3人が韓国の女性を語っています。

 ひたすら耐えてきたイ・スンイルの人生に比べれば、ハン・ヨンジンはデパートの布団売り場で成功を収めていますし、ハン・セジンは演劇などに取り組んだりしていますが、それでもうっすらとした抑圧を感じさせるような状況です。

 声高な主張はないかもしれませんが、結果として韓国の社会を改めて見つめ直すような内容になっています。

 個人的には、最後のハン・セジンがアメリカに行くエピソードの前にワンクッションあってもいいような気もしましたが、しっかりとした読後感を残す小説です。

 

 

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Kendrick Lamar / Mr. Morale & The Big Steppers

 Kendrick Lamarの5年ぶりのニューアルバム。「ザ・ビッグ・ステッパー」と「ミスター・モーラール」というタイトルの2枚組の構成という形になっています。 「DAMN.」がアルバム全体を通じてやや重苦しいムードがあったのに対して、今作はトラックもバラエティに富んでいますし、生の楽器を多用したトラックもいいと思います。相変わらず、Kendrick Lamarのラップもキレがあります。

 前半だと5曲目の"Father Time (feat. Sampha)"のラップはいいと思いますし、ほぼ放送禁止用語のみで男女の罵り合いが繰り広げられる"We Cry Together"もインパクトがありますね。

 

 後半は、暗めのピアノのトラックにどこか寂しさも漂うラップが乗っかる"Crown"、ダーク感じで押し通すかと思いきや、どこか高揚感も感じさせるような"Savior"がいいですね。

 

 さすがの出来ではあるのですは、個人的には「DAMN.」に比べると良いけど、「To Pimp A Butterfly」に比べるとインパクトは弱いといった感じでしょうか。まあ、歌詞がきちんと聞き取れるような英語力がないので、歌詞を含めてきちんと聞いている人だと、また評価は変わってくるのかもしれません。

 


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郝景芳『流浪蒼穹』

 短編「折りたたみ北京」や長編の『1984年に生まれて』で知られる郝景芳のデビュー作にして、本格的な火星SFとなっています。

 裏表紙に書かれた紹介は次のようになっています。

 

22世紀、地球とその開発基地があった火星のあいだで独立戦争が起き、そして火星の独立で終結した。火星暦35年、友好のために、火星の少年少女たちが使節「水星団」として地球に送られる。彼らは地球での5年にわたる華やかで享楽的な日々を経て、厳粛でひそやかな火星へと帰還するが、どちらの星にも馴染めず、アイデンティティを見いだせずにいた。なかでも火星の総督ハンスを祖父に持つ“火星のプリンセス"ロレインは、その出自ゆえに苦悩していた……。ケン・リュウ激賞、短篇「折りたたみ北京」で2016年ヒューゴー賞を受賞した著者が贈る、繊細な感情が美しい筆致で描かれる火星SF。

 

 主人公のロレインは火星に育ち、地球で5年間を過ごして火星に戻ってくるのですが、この小説が描くのは地球と火星という2つの世界の間で引き裂かれる若者たちの姿です。

 

 火星の社会はある意味で「健全」です。多くの人から推された総督のもとで厳しい火星の環境で生き残るためにガラスを使った都市が建設され、人々は「スタジオ」と呼ばれる組織に属して働いています。

 人々は強く管理されていますが、火星で生き残るために必要なことだと考えられていますし、何よりもそうした合理的なしくみが大きな科学技術の進歩を生み、地球を上回るテクノロジーをもっています。

 若者は「コンテスト」と呼ばれる、自らのアイディアを披露する機会に優秀な成績をおさめて、よりよい「スタジオ」で働くことを夢見ています。

 

 一方、地球には自由がありますが、それはコマーシャリズムに汚染された自由であり、金がものを言う世界です。

 人々は社会全体のことよりも、金儲けのことを考えており、科学技術では火星に遅れを取っています。

 

 火星の管理社会の様子だけを見ると、この小説はディストピア小説なのですが、単純にそうならないのは、主人公のロレインは火星の素晴らしい点も、地球のダメなところも受け止めている点です。

 ロレインにとって火星は故郷であり、誇るべきものをもった場所なのですが、地球の自由を知ってしまったあとでは、やはり何かがおかしい社会でもあります。

 地球にいった「水星団」のメンバーの中には、「火星のやり方は間違っている」と断じるものも出てくるのですが、ロレインはそこまでは割り切れないながらも、火星のやり方に疑念を持ち始めます。

 

 ここで多くの人が、「火星=(理想的な)社会主義国会」、「地球=資本主義国家」という図式を思い浮かべると思います。

 これは間違いではなく、おそらく作者もそのようにイメージしながら書いているのでしょうが、ポイントはこの小説の主眼が2つの世界の優劣を示すことではなく、2つの世界を知ってしまった人間の寄る辺のなさを描こうとしている点です。

 この感覚は、おそらく欧米や日本に留学した中国人学生の一部などにも見られるものなのではないでしょうか?

 本書は、この感覚を非常に丁寧に描き出しています。

 

 小説としては、デビュー作ということもあって書きすぎな面もあります。2段組650ページ超というボリュームですが、おそらく100ページくらい減らしてもこの物語は描けたのではないかと思われます。

 ただし、たびたびカミュが引用されるような饒舌さこそが、若者の特徴だとも言えるわけで、著者としては必要な長さだったのでしょう。

 主人公たちとともに曲がりくねった道を行くというところに本書の面白さがあるのかもしれません。

 

 

リン・ハント『人権を創造する』

 タイトルからして面白そうだなと思っていた本ですが、今年になって11年ぶりに重版されたのを機に読んでみました。

 

 「人権」というのは、今生きている人間にとって欠かせないものだと認識されていながら、ある時代になるまでは影も形もなかったという不思議なものです。

 中学の公民や高校の政治経済の授業では、社会契約説の思想家たちの、「たとえ国家がなかったとしても、すべての人間には一定の権利・自然権があるはずでしょ」という考えが、「人権」という考えに発展し、アメリカ独立革命フランス革命で政府設立の目的の基礎として吸えられた、といった形で説明していますが、そもそも社会契約説が登場する前には「すべての人間には一定の権利があるはずでしょ」という議論は受け入れられなかったと思うのです。

 

 こうした謎に1つの答えを与えてくれるのが本書です。

 人権というと、どうしても法的な議論が思い起こされますが、本書が注目するのは「共感」という感情であり、18世紀に流行した書簡体小説です。

 人間が他者に共感し、その身体の不可侵性などを感じるようになったからこそ、「人権」という考えが成立し得たというのです。

 政治史→文化史という流れはよく見ますが、文化史→政治史という流れを指摘しつつ、その後の人権の発展にも目を配った面白い本です。

 

 目次は以下の通り。

序 章――「われわれはこれらの真理を自明なものと考える」
第一章 「感情の噴出」――小説を読むことと平等を想像すること
第二章 「彼らは同族なのだ」――拷問を廃止する
第三章 「彼らは偉大な手本をしめした」――権利を宣言する
第四章 「それはきりがありません」――人権宣言の結果
第五章 「人間性という柔らかい力」――なぜ人権は失敗したが,長い目で見れば成功したのか

付録 三つの宣言――一七七六年,一七八九年,一九四八年

 

 アメリカ独立宣言には、「われわれはこれらの真理を自明なものと考える。つまり、あらゆる人間は平等に創造されていること、彼らはその創造主によっていくつかの譲渡しえない権利をあたえられていること、そしてこれらの権利には生命、自由、そして幸福の追求がふくまれていること、がそれである」とあります。

 しかし、この文章を書いたトマス・ジェファソンは奴隷の所有者ですし、同じように普遍的な人権をうたった人権宣言を出したフランスにおいても、女性の権利などは退けられました。

 

 今からだと普遍性をうたっていながら多くの問題を抱えていたということになりますが、逆に、それだけの偏見を抱えていながら、どうして「すべての人間の権利」といったことが言えたのか? という問いも出てきます。

 そして、この一見するとちぐはぐな様子の中に、著者は感情のはたらきを見るのです。

 

 ルソーと言えば『社会契約論』の著者であり、フランス革命にも影響を与えたことで有名ですが、『社会契約論』を出す前年に『ジュリまたは新エロイーズ』というベストセラー小説を出しています。

 この小説はジュリという貴族の女性の主人公が平民出の男との恋をあきらめ、父の意向に従って年長の男と結婚し、かつての恋人と再開して愛を誓うが不幸にしていなくなってしまうという話で、これを書簡体小説という形式で書き上げています。

 いわゆる身分によって引き裂かれる恋人を描いたものであり、ありきたりのストーリーにも思えますが、当時はこれが人々の間に猛烈な感情を呼び起こしました。

 人々は主人公のジュリに共感し、自らの感情をジュリに重ね合わせたのです。

 

 このスタイルはルソーの独創ではなく、サミュエル・リチャードソンによる『パミラ』、『クラリッサ』という先行作がありました。

 『パミラ』も『クラリッサ』も女性が主人公であり、その女性たちが望まない結婚を強いられそうになったり、貞操の危機に陥ったり、悲劇的な最期を遂げたりします。

 この女性主人公たちに男性を含めた多くの人々が感情移入し、女性主人公との一体感をいだきました。

 主人公の内面を吐露する書簡体小説というスタイルが、当時の人々に今までにはなかったような感情をもたらしたのです。

 

 これらの作品はすべて若い女性が主人公で、現在から見ると古臭い話にも思えますが、当時の「男女の読者はともに、女性たちがそれだけの意志、それだけの個性をみせたがゆえに、これらの登場人物と自分を同一視した」(54p)と言います。「彼らが、彼女たちのように、その悲劇的な死にもかかわらずクラリッサやジュリのようにさえ、なりたかった」(54p)のです。

 こうした小説を通じて、人々はあらゆる人間は(女性でさえも)、自律を望んでいることを知ったのです。

 

 奴隷制廃止論者もこうした動きを利用しようとし、「解放された奴隷に、ときとして虚構もまじえた小説的な自伝を書き、芽生えつつある奴隷制廃止運動への支持者を獲得するように勧めた」(62p)のです。

 

 1762年、ルソーが『社会契約論』を出版した年にカラス事件が起きています。

 これはジャン・カラスという64歳のプロテスタントが息子をカトリックに改宗させないために殺害したとして処刑された事件で、ヴォルテールがこの事件に疑問を持ったこともあって冤罪事件だったことが明らかになりました。

 ヴォルテールは当初、宗教的な偏狭さを「人権」という言葉を用いて批判しましたが、さらに共犯者を自白させるために当たり前のように行われていた拷問をはじめとする司法手続きに疑問を持ち、拷問の廃止を主張していくことになります。

 

 18世紀になるまで、死刑は見世物として行われていましたし、鞭打ちや焼きごて、八つ裂きや火刑といった刑罰も当たり前のように行われていました。刑罰の中心は人前での加虐であり、より重大な犯罪にはより残虐な刑が加えられるのが当たり前でした。

 

 ところが、18世紀後半になると拷問や残虐な刑罰を問題視する動きが起こります。

 きっかけの1つは1764年に刊行されたチェーザレ・ベッカリーアによる『犯罪と刑罰』で、ベッカリーアは拷問や残虐な刑罰だけではなく死刑そのものにも反対しました。

 それまで拷問や残虐な刑罰に疑問をいだいていなかった人々も、2,30年ほどでこうした行為を間違ったものだと考えるようになっていきます。

 「身体は、18世紀をとおしてより独立し、より自制的になり、より個性化するにつれて、より積極的な勝を獲得し」(80p)、身体の侵害に対して否定的な反応を引き起こすようになったのです。

 

 同じ頃、舞台では1回立ち見席がなくなって座席が設置されるようになり、フランスの住宅においては個人が「寝室」を持つようになりました。肖像画も大量に書かれるようになるなど、「個人」やそのスペースを尊重するような動きが起こっていきました。

 

 こうした中で苦痛を公開の見世物とすることは急速に支持を失います。

 「伝統的な理解においては、身体の苦痛は個々の囚人に全面的に帰属するものではなかった。それらの苦痛は、共同体の救済というより高次の宗教的・政治的目的をもっていた」(93p)はずなのですが、苦痛は個人のものとされ、そして人々はそれを嫌悪し始めるのです。拷問についても同じです。

 

 こうした他者への「共感」が人権の誕生を用意するわけですが、その人権は「宣言」という形をとることになります。権利が「人間自身の本性から生じたのだということを、後世の人びとに向けて文書化」(118p)する必要があったのです。

 

 アメリカにおいてはイギリスからの独立が普遍的な権利を要請しました。

 当時の人の多くはイギリス人の歴史的に基礎づけられた個別的な権利について議論していましたが、独立をするとなればそのイギリスから切り離されることになります。一種の「自然状態」になるわけであり、人々はホッブズやロックのいう普遍的な権利に注目することとなったのです。

 そしてヴァージニア権利章典で書き込まれた人々の普遍的な権利と、具体的にあげられた自由(出版の自由や宗教上の違憲の自由など)が、独立宣言や合衆国憲法へとつながっていくのです。

 そして、アメリカの動きはイギリスにも影響を与え、イギリスでも普遍的な権利が議論されるようになりました。 

 

 フランスでは、1614年以来となる三部会の招集をきっかけに革命が起こるのですが、この招集のきっかけはアメリカ独立戦争にフランス側が植民地側に立って参戦したことによる財政の悪化でした。

 フランスでは革命の進行とともに普遍的な権利を宣言する動きが起き、それはあっという間に人権宣言へと結実します。この宣言では、特定の集団を明記せずに、「人間」「各人」「あらゆる市民」といった言葉で普遍的な権利を位置づけました。

 

 起草者たちは想定していなかったことかもしれませんが、これが奴隷や女性といったそれまで政治的な地位を持っていなかった人々の権利の問題を呼び起こします。

 そして、エドマンド・バークの激ししい批判を呼び起こしながらも、「人間の権利」という言葉はヨーロッパに広がっていくことになりました。

 

 そして、「あらゆる市民」の範囲は拡大していきます。フランスでは、まずは「非カトリック」の権利が問題になり、さらにユダヤ人の権利が問題になります。

 フランスでは投票資格として、「当地の3日分の労賃に等しい直接税を払っていること」、「召使いでないこと」などを規定しましたが(156p)、女性と奴隷を除外することは前提でした。 

 

 1790年の3月、フランスの議員たちは植民地を人権宣言から切り離すことを決めますが、ハイチの白人農園主から代表者を出す要求がなされ、さらにハイチの自由黒人やムラートも声を上げます。

 結局、有色自由人の権利を認める方向に動いていくのですが、そうなると今度は奴隷制の廃止が議論にのぼるようになります。植民地での反乱もあり、1794年にはフランスは全植民地で奴隷を廃止することとしました。

 ナポレオンによって植民地の奴隷制は復活しますが、それでも「人間の権利」という考えは奴隷制の維持を難しくしたのです。

 

 こうした中でも女性の政治的権利について気にかけた者は少数でしたが、それでも1792年に離婚の権利が認められ(ただし1816年に復活した王政がこの権利を廃棄)、財産の相続権も獲得します。

 女性の政治参加が認められなかったのは、女性が「フランス革命以前には明白に独立した政治的カテゴリーを構成していなかった」(180p)からです。 

 女性は夫である男性を通じて意思が表示されると考えられており、わずかな議員が財産を持つ未亡人に投票権を与えても良いと考えていただけでした。

 オランプ・ドゥ・グージュは『女性の権利の宣言』を書きましたが、彼女は「自然に反する存在」(男のような女」)としてギロチンにかけられ」(183p)ています。

 

 その後の人権は順調に発展したとは言えませんでした。

 ナポレオンは征服地で宗教的少数派の権利を擁護しましたが、フランスでは言論の自由を制限しましたし、自由を求めた植民地の人々を弾圧しました。

 ナポレオンは各国のナショナリズムを活性化させ、「民族」という言葉が政治的に重要な意味を持ったことで少数派の民族の権利が制限されるようになりました。

 

 人権の前提として人間の同一性がありますが、「男が女にたいして、白人が黒人にたいして、あるいはキリスト教徒がユダヤ教徒にたいして自分たちの優越性を維持しようとするなら、差別はより堅固な根拠をもたなければ」(201p)なりませんでした。

 そこでより悪質な性差別や人種主義、反ユダヤ主義も登場することになったのです。

 

 19世紀には社会主義も盛り上がりを見せましたが、社会主義者の多くは人権に懐疑的でした。

 カール・マルクスは、人間に必要なのは宗教からの自由なのに人間の権利は宗教的な自由を保障し、財産からの自由が必要なのに自分の財産への権利を承認したというのです。

 社会民主主義者は人権を重要視しましたが、革命を目指す人々は人権をブルジョア国家の道具と見ていました。

 

 人権が再び脚光を浴びるのは、2つの世界大戦後、特に第二次世界大戦後です。ユダヤ人の虐殺を含む多くの蛮行は、多くの人々の衝撃を与え、できたばかりの国連憲章にも人権が書き込まれることになりました。

 大国からの抵抗はありましたが、ラテンアメリカやアジアの国々の要求やアメリカ国内のさまざまな団体からの声もあり、1948年には世界人権宣言が承認されました。

 世界人権宣言が出されたからといって世界中で人権が守られるようになったわけではありませんが、こうした宣言は「「もはや容認できない」ものの感覚を引き出し、それがまた違反をいっそう容認できないものとするのに寄与した」(231p)のです。

 

 このように、本書は18世紀に人権がいかに誕生し、そしてそれがどのように定着した(あるいは定着しつつある)のかを論じています。

 インパクトがあるのは、人権が書簡体小説などを読んだ人々の「共感」から生まれたという部分だとは思いますが、その後の展開もフォローしてあり、法学的ではない人権論としても非常に面白いと思います。

 

 政治哲学などの議論ですと、どうしても何らかの堅固な基礎の上に「権利」や「正義」といったものが構築されていくわけですが、本書はそれとは一味違った「正義」の道筋を示しているようにも思えます。

 

 

『シン・ウルトラマン』

 いろいろと賛否両論あるみたいですが、個人的には面白かったです。

 なんといっても山本耕史メフィラス星人は最高ではないですか。ここ最近の実写のキャラの中ではピカイチと言ってもいいくらいで、「私の好きな言葉です」のセリフといい、このキャスティングといい、これだけで本作は成功したと言い切れるのではないかというレベル。

 主人公の神永=ウルトラマンを演じる斎藤工も宇宙人っぽさが出ていてよかったと思いますが、映画開始後すぐにウルトラマンと融合し、その後は宇宙人っぽく行動するために、歴代ウルトラマンの主人公的なヒーローっぽさはないですね。

 賛否のある長澤まさみの描き方ですが、これは完全にミサトさん的なキャラで、アニメでそれなりの尺をつかって造形したミサトさんという人物を、実写の2時間位でつくり上げようとしたところにやや無理が生じたのかな、とは思いました。個人的にはそんなに気になるレベルではありませんでしたが。

 

 実は初代のウルトラマンは全部ちゃんと見たことがなく(セブンや「帰ってきた」やエースやタロウ、レオは小学生時代に再放送で見てて、特に「帰ってきた」とエースは熱心に見たけど、初代は小学校時代に再放送していなかった)、どのくらいTVシリーズをなぞっているのかはわからないのですが、怪獣(本作では「禍威獣」)中心ではなく。宇宙人(外星人)中心に上手くストーリーをまとめていると思います。

 バルタン星人とかレッドキングとかゴモラとか、おなじみの面々は出ないのですが、やはりメフィラス星人が効いています。

 

 そして、あんまり書くとネタバレになりますが、少し劉慈欣『三体Ⅱ 黒暗森林』を思い出させるところがありますね。

 ウルトラマンに登場する宇宙人たちの多くがなぜ敵対的なのか? という問いに対して、『三体Ⅱ』の「暗黒森林理論」は1つの答えになりうるものです。

 

 『シン・ゴジラ』からの流れとしては、当然政治への言及も期待されるわけで、いまいちポジションははっきりしないものの政府の重要人物として竹野内豊が出てきたりもするのですが、『シン・ゴジラ』における虚構は基本的にゴジラだけだったのに対して、今作では禍威獣、外星人、ウルトラマンといった形で虚構が多いですし、科特隊(本作では禍特対)も巨災対よりも虚構性の強い組織なので、『シン・ゴジラ』ほどの政治ドラマ的な面白さはないですね。

 また、ラストに関してもヤシオリ作戦ほどのビジュアル的なインパクトは用意できなかったので、そこは弱いかなと思います。

 

 でも、『シン・ゴジラ』における長谷川博己石原さとみの関係性よりは、今作の斎藤工長澤まさみの関係性のほうがきちんとしているので、人間ドラマとしての良さはあると思います。

 あと、禍特対の室長を演じた田中哲司、担当大臣を演じた岩松了もいいですね。班長西島秀俊も含めて、このあたりの上司たちの人間っぽさもまた、山本耕史斎藤工の宇宙人っぽさを引き立てていてよかったと思います。