オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』

 去年、ノーベル文学賞を受賞したポーランドの女性作家オルガ・トカルチュクの小説が松籟社の<東欧の想像力〉シリーズから刊行。訳者の解説によると解説を執筆中に受賞の報を聞いたということで、まさにタイムリーな刊行になります。

 トカルチュクの小説に関しては、白水社の<エクス・リブリス>シリーズから出た『昼の家、夜の家』『逃亡派』を読んでいますが、個人的にはこの『プラヴィエクとそのほかの時代』が一番面白く読めました。

 

 本書も『昼の家、夜の家』と『逃亡派』同じく、断片とも言える短い小説が集まってできた長編小説になります。ただし、本書は他の2作とは違って、一貫してプラヴィエクという村が舞台になっていて、なおかつ、登場人物が特定の人物とその子孫に固定されているという点が大きな違いです。

 プラヴィエク(太古という意味がある)に住む、ゲノヴェファとクウォスカという2人の女性とその子孫が織りなす物語で、1914年の第一次世界大戦の勃発から始まり、第2次世界大戦後の社会主義の時代まで続いていきます。

 

 こう紹介すると、多くの人はいわゆる「サーガ」(フォークナーの作品とかガルシア・マルケスの『百年の孤独』みたいなもの)を想像するかもしれません。

 けれども、サーガというには感じはあまりないです。ゲノヴェファの夫のミハウは第一次世界大戦に従軍しますし、第二次世界大戦ではプラヴィエクの村が戦場になります。また、社会主義は領主のポピェルスキの生活を変えます。それでも、そうした歴史的な出来事はあくまでも後景にあり、人びとの運命を翻弄する感はありません。

 もちろん、人びとの生活は社会の変化とともに変えられていくのですが、著者が描きたいのは、歴史に翻弄される人物ではなく、プラヴィエクに根付いた人びとであり、その死とプラヴィエクの風化のようなものに思えます。

 

 そして、『昼の家、夜の家』や『逃亡派』と共通するのが、キリスト教信仰と土俗的な信仰が入り混じったような、ちょっと異端っぽい宗教的な世界観。ご存知のようにポーランドカトリックの国ですが、著者はそこに土俗的な信仰を混ぜて独特な世界観をつくっていきます。

 このあたりは同じ<東欧の想像力〉シリーズから出ているボスニアの作家イヴォ・アンドリッチ『宰相の象の物語』の中の「アニカの時代」を思い出しました(ちなみに本書でもすべての断章に「〇〇の時代」というタイトルが付いている)。

 ただ、『逃亡派』が思弁的過ぎたのに対して、本書はあくまでも人間の生活を描くことに主眼が置かれていて、そこが良い点だと思いました。

 

 

『パラサイト』

 カンヌのパルムドールを獲った話題作ですが、評判通り面白かったです。

 近年、『万引き家族』にしろ『家族を想うとき』にしろ、あるいは『ジョーカー』にしろ、格差社会を正面から取り上げた映画が多いですが、その中でもこの『パラサイト』のパンチ力はすごいですね。さすがポン・ジュノです。

 ポン・ジュノ+主演のソン・ガンホというと『グエムル』が思い起こされますが、『グエムル』と同じく今作も家族が活躍する映画です。ただし、カオスさが目立っていた印象のある『グエムル』に比べると、この『パラサイト』は、富裕層=高いところ、貧困層=低いところ、といった具合に一定の様式に従って撮られています。

 全体的に撮影が非常によく、特に舞台となる金持ちの家の撮り方は上手いです(広角で撮る画面からはちょっとパク・チャヌクっぽさも感じました)。

 

 ストーリーとしてはうだつが上がらず半地下の部屋で暮らしているソン・ガンホの一家が、長男が友人の伝手で金持ちの家の娘の家庭教師になったことから、一家でその家に家庭教師や運転手、お手伝いとして入り込んでいくというものです。

 このあたりは基本的にはコメディっぽくもあり、楽しんでみることができます。ただし、途中でそこから一歩深みに入っていくのがこの映画の見所です。

 

 同じ格差社会を描き、家族が犯罪的行為に手を染める『万引き家族』と比較すると、富裕層がきちんと描かれている点と、家族の絆が揺らいでいないという点が大きな違いです。

 特に後車に関しては、すでに家族が崩壊した後に構成された疑似家族を主役に据えた『万引き家族』と、落ちぶれて危ない橋を渡っても家族の絆は壊れていない『パラサイト』の違いは面白いと思います。これが日韓の違いなのか、それともポン・ジュノの家族に対するこだわりや信頼のせいなのかはわかりませんが、映画として大きな違いを生む要素なのは間違いないでしょう。

 

 最初にも述べたように、様式的に獲ってある分、前半はやや抑制された感じですが、だからこそラストの爆発力は圧巻で、素晴らしいインパクトを残します。高評価も納得の映画でした。

 

小川有美(編)宮本太郎・水島治郎・網谷龍介・杉田敦(著)『社会のためのデモクラシー』

 副題は「ヨーロッパの社会民主主義福祉国家」。なかなか豪華な執筆陣が並んでいる本ですが、篠原一が中心メンバーとなって始めたかわさき市民アカデミーで2014年に行われた講義をまとめたものになります。

 かわさき市民アカデミーが発行者となっているからかもしれませんが、価格が1300円+税と非常にリーズナブルなのも本書の特徴で、ヨーロッパの社会民主主義福祉国家について知りたい人にとっては格好の入門書です。

 また、網谷龍介が担当しているドイツの部分に関しては、日本ではあまり知られていないことも多く、勉強になります。

 

 目次は以下の通り。

 

第1章 ヨーロッパの社会民主主義福祉国家の資産からグローバル・リスク社会の試練へ(小川有美)
第2章 スウェーデン福祉国家は日本のモデルか?―その歴史と現在(宮本太郎)
第3章 オランダの雇用・福祉改革―小国社会のイノベーション(水島治郎)
第4章 オランダ福祉国家の影―移民と福祉・労働(水島治郎)
第5章 ドイツの社会民主主義政党と労働組合―市場を飼い馴らす二つの道?(網谷龍介)
第6章 ドイツの戦後レジーム―何がどうかわってきたか(網谷龍介)
補論 篠原政治学の目指したもの(杉田敦

 

 第1章は、本書の序章的に位置づけで、ヨーロッパの社会民主主義福祉国家についての歴史を簡単に説明した上で、社会民主主義福祉国家が直面している困難について解説しています。

 

 第2章はスウェーデンについて。スウェーデンが高福祉と経済成長をうまく両立させている仕組みが解説されています。

 スウェーデンの雇用政策はレーン・メイドナーモデルと呼ばれるもので、「同一労働同一賃金」の原則がとられています。このときに問題になるのが、例えば同じ金属加工産業でも大企業と零細企業では生産性が違うために、同じ仕事でも同じ賃金を払うのは難しいということです。この問題に対して、日本だったら零細企業の保護の方法を考えるところですが、スウェーデンではこれを仕方ないと割り切ります。そして、職業訓練などによって生産性の低い職場から生産性の高い職場へと労働者を移動させようとするのです。

 これは大企業にとっても悪くない制度で、「同一労働同一賃金」の原則ため、生産性の高い大企業でも賃金水準を一定程度に抑えられます。これがスウェーデンの輸出産業を支えているポイントでもあるのです。

 

 女性の就業促進についてもスウェーデンは進んだ国ですが、それを支えるのが行きつ戻りつつできる学習社会の形成です。スウェーデンには25・4ルールという「25歳以上で4年以上の育児経験・勤労経験がある人は優先的に大学に入ってください」という制度があり(48p)、高校から直接進学してくる人はむしろ少数派です。

 このような仕組みがキャリアの中断をそれほど大きな問題としないつくり上げているのでしょう。

 ただし、生産性の高い企業はIT化で人を雇わなくなりつつあり、職業訓練などを受けていて働いていない「潜在的失業」状況の人が労働人口の2割近くに達しているという問題もあります。

 

 第3章と第4章ではオランダについて論じられています。水島治郎『反転する福祉国家』を読んだ人であればおなじみの内容かもしれませんが、読んでいない人にはそのエッセンスがまとまっていて面白く読めると思います。

 オランダといえば、ワークシェアリングが普及し労働者が自分の労働時間を比較的自由にコントロールできる国であり、大麻安楽死の合法化などある意味で「リベラル」な政策が取られている国でもあります。

 しかし、一方でイスラム系移民の排斥を訴えるポピュリズム政党が他の欧米諸国に先駆けて大きな勢力となった国でもあります。この一見すると矛盾して見える現象が実は表裏行ったなのだということが示されています。

 また、労働者が労働時間をコントロールできるようになっても、男性のフルタイム志向、女性のパートタイム志向は少なくともオランダでは変わっていないという点も興味深いと思います(78p表3−1、表3−2参照)。

 

 第5章と第6章はドイツについてです。ただし、ドイツにとどまらずヨーロッパの社会民主主義の根本的な考え方についても解説されています。

 第5章の最初の部分では「社会権」がとり上げられています。日本国憲法だとこの社会権の中心に第25条の「生存権」の規定があり、国家が人びとの最低限の生活を保障することがその中心と考えられています。 

 ところが、史上初めて社会権を規定したとされるワイマール憲法には生存権のような「国民の権利」は書き込まれておらず、国が経済的自由を制限できること、そして労働者の参加・関与が書き込まれています。

 

 ヨーロッパの社会民主主義にはさまざまな源流があり、1つの綱領のようなものがあるわけではありませんが、共通する特徴の1つとして著者は「政治の優位」をあげています。これは市場のロジック、資本主義のロジックというものを政治の力によってコントロールしようという考えです。

 そして、それを実現させるためには民主的な国家が経済を計画・統制する方法と、労働者による自己決定という2つの道がありました。後者はいわゆる「ネオ・コーポラティズム」として制度化されていった国もあります。

 

 著者は社会民主主義を考えるときににも後者の側面が重要で、特に労働組合と政党の関係を見ることが重要だと言います。ヨーロッパで社会民主主義の考えが広まったのは「政党と労働組合がセットになっていた」(129p)ことが大きいのです。

 イギリスやスウェーデン労働組合と政党が1対1のセットになっている国で、フランスやイタリアでは労働組合が党派によって分裂しています。ドイツはというとドイツではカトリックプロテスタントいう宗派による分裂が起きました。特にカトリックの労働者はカトリック系・キリスト教系の独自の労働組合をつくり、選挙ではカトリックの政党に投票することが多かったのです。

 

 戦後はキリスト教民主党プロテスタントカトリックの垣根を超えた支持を集め、アデナウアーが長期政権を築きましたが、連邦制の西ドイツでは社会民主党も州政府単位では与党となり、1969〜82年にかけては国政も社会民主党中心の政権によって運営されます。

 こうした中で西ドイツの労使関係は基本的に安定したものでした。西ドイツの賃金をリードしたのは輸出産業で、輸出競争力を削がない範囲での賃上げがなされたのです。

 

 ところが、70年代になり、環境、移民問題などが政策テーマに浮上し、さらに新興国の追い上げなどもあって失業率が上昇していくると、今までの仕組みを変える必要が出ていきます。

 この問題に対応したのがシュレーダーです。彼は「政策的な原則がない」(143p)政治家で、労組の支持だけでは勝てなくなってきたことがわかっていました。

 そこで彼は当初、オランダをモデルに政労使の三者の合意を通じて改革を行おうとしますが、賃金について政府の介入を嫌った労組の反発によってこの路線は失敗します。戦後のドイツでは産業レベルでの話し合いが中心で国家規模の交渉があまりなかったのも失敗の一員だと考えられます。

 

 その後、シュレーダーは「アジェンダ2010」という改革パッケージを提案し、臨時の審議会をつくって改革を行っていきます。これは一種の構造改革路線で、これによってドイツの失業率は低下しました。

 この点、シュレーダーは成功したといえますが、同時に社会民主党は労働者の支持の一部を失いました。社会民主党の一部は分裂して東ドイツの旧共産党と合流して左翼党を結成しました。この左翼党が10%程度の支持を集め続けていることで、社会民主党キリスト教民主党議席数で上回ることは難しくなっています。

 

 このように、本書はヨーロッパの社会民主主義福祉国家の動向がよく分かる内容となっています。講義をもとにしたもので読みやすいと思いますし、何よりもこのメンツで1300円+税という価格設定はありがたいです。

 さらに補論では、このかわさき市民アカデミーの開設にかかわった篠原一の政治学についての解説もあり、お得な1冊と言えると思います。

 

 

松尾隆佑『ポスト政治の政治理論』

 面白く読みましたが、なかなか紹介の難しい本でもあります。

 まず、タイトルを見ても中身がわからない。これが「ポスト代議制の政治理論」とかであれば、「ああ、直接民主制その他を語った本なのか」と想像がつきますが、「ポスト政治」という言葉は一般の人にはわかりにくいです(「ポスト学校の教育理論」なら中身が想像できるが、「ポスト教育の教育理論」では想像できないのと同じ)。

 わかりにくいタイトルを補うのが副題ですが、この副題が「ステークホルダー・デモクラシーを編む」。これを読んでも多くの人はイメージが掴めないでしょう。自分もわかりませんでした。

 「ステークホルダー」という言葉は企業経営で使われる言葉で、多くの人が一度くらいは聞いたことがある言葉だと思います。ただ、それと「デモクラシー」の結びつきと言われてもいまいちピンとこないでしょう。

 

 この「わからなさ」に関しては、第1章を読めばほぼ解消されると思います。このエントリーでもそこは紹介する予定です。

 ただし、この本の紹介しにくさは、第3章以降になると、どんどん話が大きくなっていくという部分にもあります。新しい政治的な問題解決方法を模索する本かと思いきや、実はこの社会全体の書き換えを狙うような本なのです。

 というわけで、どこまで紹介できるかわかりませんが、できるだけ内容がイメージできるように書いていきたいと思います。

 

 目次は以下の通り。

序文 なぜデモクラシーか
第1章 なぜステークホルダー・デモクラシーか
第2章 ステークホルダー分析―民主的統治主体の定位
第3章 ステークホールディング―主体化へ向けた基本権保障
第4章 マルチステークホルダー・プロセス―民主的統治への多回路化
第5章 ステークホルダーによる民主的統治
結語 織り成されるヴィジョン

 

 まずは「ポスト政治」という言葉ですが、これは政治が断片化する中で今までの政治が機能不全に陥っている状況を指しています。

 選挙への投票率が下がり、政党の党員も減っているような状況ですが、一方で、フェミニズムが今まで個人的な問題だとされていたことを政治化したように、大文字の政治が退潮し、小文字の政治が活性化するような状況が起きています。

 また、グローバル化により主権国家ではコントロールできない問題も増えており、政府の問題解決能力の限界も指摘されています。さらに冷戦の終焉はイデオロギー対立を終わらせ、政治における大きな対立軸は見出しにくくなっています。

 こうした中で、政治よりも統治(ガバナンス)重視する見方も広がっており、政治が「経営」に近づいている側面もあります。

 こうした状況が本書の想定する「ポスト政治」という状況です。

 

 この状況に対応するのが「ステークホルダー・デモクラシー」というわけですが、まず「ステークホルダーとは、株主、従業員、取引相手、消費者、地域社会、政府機関など、広く企業に対する利害関係主体を意味する語として1980年代なかば以降のアメリカで普及」(33−34p)した言葉になります。

 ステークホルダーのstakeはもともと「杭」を意味していた言葉で、アメリカの開拓民が杭を打って土地の所有権を主張したことから、権利主張者を「ステークホルダー」というようになりました。さらに「ステーク」は出資等に伴う、「持ち分」や「分け前」の意味も持っています(35p)。

 この言葉が、企業の株主以外の権利主張者(従業員や取引相手など)を指し示す言葉として定着したのです。

 

 政治における株主にあたる存在は有権者でしょうか?

 確かに会社の経営方針が株主の投票で決まるように、政治は有権者の投票によって決まります。

 しかし、有権者と政事的決定の影響を受けるものがズレることも考えられます。今年は地球温暖化問題でグレタ・トゥーンベリさんが話題となりました。地球温暖化において影響を受けるのは子どもたち将来世代ですが、子ども(さらにまだ生まれていない世代)は投票権を持っていません。

 他にも、東京の市部ではゴミ焼却場が市の端っこのほうに建設されることが多いですが、これについて、実際にゴミ焼却場が近くに立地する隣接の市の住民は立地の決定を行う首長や議員を選ぶ選挙に参加できません。

 つまり、世代なり居住地域なりによる政治単位の切り分けが問題解決の妨げとなっているケースも考えられるのです。

 このあたりについて、著者は次のように述べています。 

諸個人の利害がますます多様化・個別化している現代では、一元的な決定権力を前提とする政治システムは利益代表機能を低下させており、むしろ社会内に偏在する多元的な決定権力のそれぞれを、個別に民主化する制度枠組みが必要とされている。ステークホルダー・デモクラシーはこの課題に、民主的統御の主体を分野争点ごとに再構成するというアイデアによって解決を与えようとするものである。ステークホルダー・デモクラシーの視座からすれば、現代における代表性の「危機」は、政治過程が正しく分割されていないことを一因とする。」(46p)

 

 このステークホルダー・デモクラシーの考えは、国際政治の面で主張されており、テリー・マクドナルドは「グリーバル・ステークホルダー・デモクラシー」(GsD)の考えを提唱しています。世界全体での選挙や直接投票のない国際社会においては、従来のような主権国家だけではなく、政策課題ごとにNGOなどのさまざまな主体の参加が重要となるのです。

 

 つづく第2章では「誰がステークホルダーなのか?」という問題がとり上げられています。

 最初にあげられている例は原発の問題です。原発の運転や再稼働については、地元自治体の同意が必要とされてきました。ところが福島第一原発事故が明らかにしたのは、原発事故の影響は立地自治体のみには収まらないという現実です。原発が立地していない自治体の住民も長期避難を強いられることになりました。

 こうなると問題になるのが、原発への賛否をどの範囲にまで求めるかということです。つまり、ステークホルダーの範囲をどうするのかということが問題になるのです。

 

 本書では権力(P)、利害関心(I)、関係性(C)という各概念から、ステークホルダーの範囲を定めようという「PICフレームワーク」というものを提案しています。

 ステークホルダーというと固定的になりやすく、それがその枠組から除外された人の反発を生みますが、本書では問題に対して上記のフレームワークを用いてステークホルダーの同定作業を進めていくことで、その問題をクリアーしようとしています。

 

 さらにこの章では、福島原発事故によって発生した放射性廃棄物処理の事例をとり上げて、ステークホルダー分析の必要性を意義を説いています。各県ごとに最終処分場建設を1箇所建設するという枠組みでは意見の集約は難しく、さまざまなステークホルダーを包摂するような意思決定の枠組みが必要なのです。

 ただし、この部分に関しては実際に「PICフレームワーク」を当てはめた分析をやってほしかったとも思います。 

 

 ここまでは、把握しやすい話だと思うのですが、本書はさらに「汎デモクラシー理論」ともいうべきものを展開していきます。

 このまとめのはじめの方で述べたように「ステークホルダー」 の「ステーク」には「持ち分」や「分け前」の意味もあります。第3章で検討されているのはこの問題です。

 

 デモクラシーにおいてはメンバーの権利が平等であることが重要です。しかし、現実には日々の仕事に追われて政治に参加する余裕を持たない人もいるでしょうし、障害を持っていて発言が難しいといったケースもあります。

 本書ではまず、「ある政治社会の構成員として正当に認められるべき地位・権利の保障」(143p)していくための原理として「ステークホールディング」という考えを用い、 個人の「自律」を目的に、さまざまな仕組みを考えています。

 

 本書では「国境は原則として開放されるべきである」(157p)といった思い切った主張もしており(もちろん「原則として」がポイントでさまざまなコストや問題は著者も認識している)、トービン税や航空券税を財源とした超国家的な枠組みも構想しています。

 そして、個人の「自律」のためにはさまざまな福祉だけではなく、ベーシックインカムや財産所有デモクラシーの構想なども検討しています。例えば、成人時に一律8万ドルの「ステーク」を政府が給付し、死亡時に利子を含めて払い戻させる(返還の余裕がない者は返さなくても良い)アッカーマンらが提案した「ステークホルダー・グラント」などがとり上げられています。

 

 また、本書では普遍的福祉の重要性を強調していますが、「それは、ステークがシティズンシップに伴う社会への「持ち分」かつ「掛け金」であり、したがって、特定の政治社会への帰属に基づく地位身分以外に何らの条件も問わずに配らなければならないから」(171p)です。「自らの手では賭けることのできない人の前にも、掛け金は置かれなければならない。掛け金を配らないことは、存在の否認を意味するからである」(171p)というのが著者の立場になります。

 

 さらに本書では親密圏の民主化といったことにも触れています。デモクラシーの原理を拡張していく場合、それをどこまで適用すべきかということが問題になりますが、著者は、子どもをはじめとする個人の自律を支援することによって、デモクラシーの範囲を広げていこうとしています。

 

 第4章では「市民社会民主化」を掲げ、企業にもデモクラシーを拡張する可能性を検討しています。

 一般的に「民主化」といえば「政府の民主化」が想定されますが、テリー・マクドナルドの「グリーバル・ステークホルダー・デモクラシー」(GsD)においては、政策ごとにステークホルダー共同体を組織して課題解決にあたることが想定されており、いわば「政府」に限らず「市民社会」全体の民主化が図られることになります。

 こうしたGsDの構想に対しては、政治的平等と政治的拘束性に欠けるとするエヴァ・エルマンの批判などもありますが(218−219p)、著者は政治的拘束性に対する批判を受け入れつつも、現代の脱領域的なガバナンスを考えれば、現在において政治的拘束性は保証されていないと考えています。

 

 現代社会において、脱領域的に行動するプレイヤーの1つが企業です。巨大な多国籍企業はときに政府を無視して行動し、政府の決定に影響を与えます。

 近年では政府においても企業においてもしばしば「ガバナンス」という言葉が使われるように、政府の運営を企業経営になぞらえるような言説も増えています・ウェンディ・ブラウンは『いかにして民主主義は失われていくのか』で、この経済的な言説の政治分野への進出を批判したわけですが、本書において著者は「デモクラシー」という政治用語を企業に適用しようとする逆転の発想に立っています。

 

 企業の民主化というと労組の経営参加が思い浮かびますが、ここで登場するのがステークホルダー理論です。

 もともとステークホルダー理論は、株主以外の利害関係者に配慮した経営を考える中で生み出されましたが、この利害関係者に権利があると考えれば、「私企業の事業目的は、ステークホルダーとの対話を通じて単なる利潤追求とは異なった形に再定義され、その限りで公共的意味を帯びることになる」(237−238p)のです。

 これはずいぶん思い切った考えにも見えますが、経営学の世界でもステークホルダー理論は支持されており、「企業経営を非政治的な活動と捉えるのは、経営に対する一つの見方でしかなく、翻って政治に対する一つの(狭い)解釈でしかない」(240p)というのが著者の主張になります。

 

 企業の民主化のために、著者は「労使代表だけでなく消費者・債権者・地域代表・公益代表など主要ステークホルダーを交えた「ステークホルダー役員会(stakeholder board)」の設置を義務づけ、経営上の意思決定過程を統制させることが望ましい」(242p)と考えています。

 さらにステークホルダー役員会に包摂できなかったステークホルダーについては、国連の「グローバル・コンパクト」のようなネットワークを通じて、企業の外部からはたらきかける方法を提案しています。

 

 他にも消費行動を政治参加の1つとして見る考えなどを紹介し、次のように述べていまます。

 政治的消費がどれほどの実効性を持ちうるかについては、懐疑的な姿勢にとどまる人が支配的だと思われる。自らの一票が国政を動かすことはないと知りながら投票所におもむく人は多いのに対して、自らの買い物が微々たる力しか持たないと知りつつも、食品企業を望ましい方向に導くための選択を志してスーパーマーケットを闊歩する人は、ずっと少ない。たが、一票の実効性を疑うシニシズムが批判されやすいのに対し、購買投票の実効性を疑問に付すシニシズムは受け入れられやすい状況は、不思議なものだと言わなければならない。市民であることと消費者であることを切り離してしまうなら、市民としての責任を投票所で果たしたと自負する人びとが、スーパーマーケットでは同じ責任を果たさずにいることが許されてしまうだろう。本書の理解では、そこにこそ政治からの遊離を見いい出せる。(253−254p)

 

  第5章ではステークホルダー・デモクラシーのモデルを提示しようとしています。

 ステークホルダー・デモクラシーでは国家の意思決定する「大政治」だけでなく、さまざまなレベルでの「小政治」も重視されます。こうした「小政治」の試行の1つとして、近年ではくじ引きなどによって選ばれた市民による「ミニ・パブリックス」なども試みられていますが、著者は異なる利害関心をもつ自律した主体感による集合的な意思決定という側面を重視しているために、こうしたミニ・パブリックスの試みなどには否定的です。

 

 さまざまな課題についてステークホルダーによる話し合いが行われる中で、議会の役割は「政策形成(立法)よりも監視に求められることになるだろう」(277p)と著者は述べています。「社会の全体を代表する議会は、ステークホルダー委員会による政策形成を前提にして、その内容と長短を広く社会一般の観点から吟味・評価し、正統化する機能を持つ」(277−278p)のです。

 

 さらに本書では司法の分野にもステークホルダーの考えを取り入れようとしています。

 デモクラシーにおける治者と被治者の同一性や被影響原理を重視するならば、複数の主体間で何らかの紛争が生じた場合の解決は、当事者間での交渉か、そこに重要なステークホルダーを交えた協議によって図られるのが理想となるはずである。第三者による権威的調停は、自己決定の原理に違背するものであるから、本書が前提とするデモクラシーの理念からは容易に導けない。(290p)

  このあたりを読むと本書のラディカルな姿勢が実感できるでしょう。本書では加害者の処罰よりも原状回復・補償を重視する犯罪損害賠償論、修復的司法、裁判外紛争解決(ADR)などの道を示すことで、できるだけ当事者間での紛争解決が志向されています。

 

  結語において「異なる文脈に応じて複数のデモスに帰属することで、諸個人が多元的な集合的意思決定の機会に参加できるようになることは、ポスト政治期において減退しつづける政治的有効性感覚を再び取り戻させるのみならず、断片化した個々別々の政治と私たちが向き合っていくための新たな様式を指し示すであろう」(309p)とありますが、これは本書の端的なまとめになっていると思います。

 国政に対する無関心が一定程度広まる一方で、フェミニズムが「個人的なことは政治的なことである」と言うように、今まで私的な問題だと思われていたものにも「政治」を発見するような動きがあります。

 こうした状況に対して、政治を分割して偏在させるというのが本書の戦略と言えるかもしれません。トランプ大統領に負けた民主党に対して「民主党や反トランプ派はメディアを通じて(性的少数派の人々が)男性用、女性用どっちのトイレを使うべきか、そんな議論ばかりしているように見えた」という批判がありましたが(例えば、金成隆一『ルポ トランプ王国2』(36p))、本書によれば大統領選とは別にLGBTのトイレ問題について話し合うステークホルダー委員会をつくることが解決の手段ということになるでしょうか。

 

  また、一見するとかなり雑多な内容が詰め込まれているかのようにも見えますが、例えば第3章の議論なども第3章を読んでいたときには踏み込み過ぎなように思えますが、第5章の司法を当事者の話し合いに委ねていく方向性などを見ると、このシステムが成員間の経済的な平等を前提にしたものであることもわかってきますし、かなり考えられた内容だということもわかってきます。

 博論を元にした本なのですが、まさかここまで包括的な政治理論の本だったとは読む前は想像していませんでした。

 

 その上であえて言うならば、この理論が「動く」可能性をもう少し見せてほしかった気もします。本書は城のように立派な建築物ですが、『ハウルの動く城』ではないですけど、部分的にしろ動くところも見たかったです。

 もちろん、本書の内容の実現可能性が薄いからダメだというのは、「社会契約が歴史的に存在しなかったら社会契約論に意味がない」というのと同じで、意義のある批判ではないと思います。本書はあくまでも規範を語っている本だからです。

 それでも、ステークホルダー・デモクラシーの導入にそれほど大きなハードルがなく、その適用によって改善が見込める部分などを指摘していると、より説得力が出たと思います。その意味で、第2章の放射性廃棄物処理の事例でもう少し具体的な分析があっても良かったのではないかと思います。

 

 あと、企業にデモクラシーを求める場合に問題になるのはそのコストでしょう。ロナルド・H・コース『企業・市場・法』によれば、なぜすべて市場取引で済ませるのではなく、企業という組織を作るのかというと、それは取引費用を節約するためです。しかし、デモクラシー導入のコストが大きくなれば企業を作るメリットは減少します。そうなると、プロジェクトのたびに人が集められるような「ギグ」的なものが主流になってくるかもしれません。

 それが一概に悪い変化なのかどうかはわからない部分もありますが、企業をなくして事業を個人同士の細かい契約に分解していくことで、ステークホルダー共同体を逃れるような行為がなされる可能性はあると思います。

 

 最後に少し、本書を読んで感じた問題点を書きましたが、前にも述べたように本書は近年には珍しく「すべてを論じようとしている」スケールの大きな本であり、経済的な言葉によって政治が語られるようになっている風潮の中での、「政治理論の逆襲」ともいうべき本かもしれません。新説な本とはいえないかもしれませんが、格闘する価値のある本だと思います。

 

 

『カツベン!』

 この正月に知り合いからチケットをもらったので見に行こうと思ったら、立川は夜遅くの回しかなく、昭島Movixまで行って見てきました。日曜なので観客は15人もいないくらいでけっこう厳しいですね。

 監督は周防正行無声映画活動弁士を描いたコメディ映画になります。

 

 主人公の成田凌はニセ活動弁士として泥棒の片棒を担いでいるような生活をしていますが、仕事をしくじったことをきっかけに、金を持って逃げ、青木屋という映画館に流れ着きます。そこの館主は渡辺えり子竹中直人。そこに金を負うかつての仲間も現れてということで、基本的にはドタバタコメディ的な作品です。

 ただ、笑いの部分もドラマの部分もどちらもちょっと弱い。面白いし笑える部分のあるんだけど、もっと笑わせてほしかったし、ドラマとしてももう少し先を読ませないような展開があってもいいように思えました。

 

 ただし、役者に関しては主演の成田凌もヒロインの黒島結菜も良かった。

 特に成田凌は、今まで見ていたはずなのにあんまり印象がなかったんだけど、活動弁士としての語りもうまかったですし、良い演技だったと思います。黒島結菜は昔の格好をすると本当にきれい。あと、ライバル映画館の娘役が井上真央だといことが最後までわからなかった…。

 あと、チャップリンの映画もかかるのかと思ったら、最後までかからずで、やはり権利問題とかで難しかったのかな、と思いました。

 

 

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』

 別にスター・ウォーズのファンというわけではないので見るのが遅れましたが、なんだかんだ言って今まで全部見てきているので(エピソード4と5はTV)、完結編も見ておこうということで見に行ってきました。

 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』よりは面白かったと思います。前作で導入された余計に思われた要素(ローズとかベニチオ・デル・トロとか)をうまく取り除いて、観客がストレスを溜めないような流れになっていました。

 「フォースはいつの間にか修行で身につく第六感のようなものではなく血統に裏付けられた超能力になってしまったのだなぁ」とは感じましたけど、ラストもまあ無難かなと思います。

 

 ただ、『最後のジェダイ』が今までのスター・ウォーズの流れのいくつかをひっくり返すような挑戦をしようとしていたのに対して、今作はそういった挑戦はないです。『最後のジェダイ』が120点を狙って60点くらいしか取れなかった映画だとすると、今作は85点くらいを狙って70点くらいを取ってきたような映画に思えました。

 

 こうやってジョージ・ルーカスが抜けたシリーズを見終わると、やはりルーカスの才能の1つがキャラの創造にあったことがよくわかります。

 映画史に残るキャラであるダース・ベイダーはもちろんのことハン・ソロ、チューバッカ、ヨーダ、イウォーク、ジャバ・ザ・ハットと、とにかく最初のシリーズのキャラは魅力的だった。あとはキャラじゃないけどデス・スターデス・スターのラスボス感とかも半端なかったですよね。

 

 一方、今シリーズが生み出した魅力のあるキャラというのはカイロ・レンくらいで、他は基本的に失敗していたと思います。フィンなんかもハン・ソロ的な魅力を発揮するのかな? と思いましたが、脚本の混乱もあってなんだかよくわからないままに終わりましたし。

 新シリーズを始めるにあたって、本当に必要だったのは主人公を女性にするとかそういう話ではなくて、デス・スターの代わりになるようなラスボスを考えるべきだったのではないかというのが、今シリーズを見終わっての感想ですね。

 

テッド・チャン『息吹』

 テッド・チャンの『あなたの人生の物語』以来17年ぶりの作品集。

 すでに各所方面で絶賛されているので改めて詳しく書く必要もないかと思うほどですが、やはりテッド・チャンは優れた作家だと認識させられる作品集です。

 前作の『あなたの人生の物語』に比べると、中編とも言える「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」が「あなたの人生の物語」ほどではないので1冊の本のインパクトとしては見劣りしますが、「息吹」、「偽りのない事実、偽りのない気持ち」、「不安は自由のめまい」といった作品は素晴らしいですね。

 

 ケン・リュウが出てきたときに、同じ中国系ということもあって何かとテッド・チャンと比較されましたが、この『息吹』を読むと、中国とアメリカという2つの社会を知り、その違いを考えるケン・リュウと、そういった社会的なテーマには興味を持たずにより普遍的な哲学的テーマに関心を集中させるテッド・チャンという違いが改めて見えてきます(テッド・チャンは中国人の両親のもとアメリカで生まれ、英語で育った)。

 

 「息吹」は架空の世界の仕組みを探求する話なのですが、その仕組みの探求の面白さはもちろん、その結果、世界の有限性を知ってしまった悲しみとも諦念とも、あるいは覚悟と言えるようなものが描かれており、読み手の情緒を揺さぶります。

 

 「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は新しいテクノロジーが人の認識や行動をどう変えるかという話なのですが、新たなライフログ検索装置の普及と、未開民族への文字の普及が並行して語られます。

 もし自分の行動がすべて記録され、簡単に検索できるようになったらどうでしょうか? よくある友人間や恋人同士の記憶違いなどもなくなるはずです。また、訴訟においてもより正確な判断がなされるようになるでしょう。しかし、同時に嫌な記憶を抑圧して忘れる、都合のいいように解釈するといったこともできなくなるかもしれません。

 そうした問題を文字の導入と重ね合わせたのがこの作品で、新しいメディアの登場が人間にもたらす変化を重層的に描いています。

 

 「不安は自由のめまい」は、量子力学多世界解釈を使って、「もしあのとき違う選択をしていたら?」という多くの人が知りたいことを実際に知ることができたらどうなるか? ということを描いた作品。 

 この作品では、選択によって分岐した世界の自分と一定期間対話できる装置が売られており、これを使って違った選択の結果をある程度知ることができます。

 「あのとき恋人と別れていなかったらどうだったのか?」「あのとき転職したらどうだったのか?」、こういったことを考える人は多いと思います。けれども、人間は違った選択のその先を知ることができないので、選択を受け入れるしかないわけです。

 ところが、もう一つの選択の結果を知ることができれば、それは違ってくるでしょう。しかも、この装置は別の選択の結果を知ることができるだけで、選択をやり直せるわけではないのです。

 この作品では、そうした装置の登場がもたらす人々への影響を、それによって悩みを抱えてしまった自助グループの人々と、一攫千金話から描き抱しています。

 

 他にも「商人と錬金術師の門」、「オムファロス」といった作品の面白かったですし、待たせただけあってハイレベルな作品集となっています。