Of Monsters And Men / Fever Dream

 1stは最高だったんですが、変にスケール感を出そうとした2ndはまったくの凡作だったと個人的には思うOf Monsters And Menの3rdアルバム。

 今作も基本的にはある程度のスケール感を追求した曲が多いです。1曲目の"Alligator"なんかはドラムで変化をつけていて面白いのですが、基本的にこのバンドはスケール感のある曲は向かないと思います。売れてしまったのでスタジアムでも映えるような曲をやる必要が出てきたんでしょうが、このあたりはジレンマですよね。5曲目の"Vulture, Vulture"も6曲目の"Wild Roses"もいい曲だとは思うのですが、こういう曲なら何もOf Monsters And Menがやる必要はないんではないかと感じてしまうんですよね。

 そんな中、7曲目の"Stuck In Gravity"と8曲目の"Sleepwalker"は少し落ち着いた感じでいいと思いますし、特に"Sleepwalker"のメロディはいいと思います。ただ、やはりアレンジはちょっとゴテゴテしすぎている感もある。

 やはり、1stの"Sloom"みたいな曲がほしいんですよね。

 

 


Of Monsters and Men - Alligator (Lyric Video)

 

 

劉慈欣『三体』

 ケン・リュウ『折りたたみ北京』などによって紹介してきた現代中国SFの大本命が登場。三部作の第一作にあたる長編ですが、なにしろ中国では三部作の合計で2100万部を売ったそうです。

 タイトルの「三体」が物理学の「三体問題」から来ていることと、『折りたたみ北京』に収録されていた「円」という短編が組み込まれていくことくらいしか予備知識をもたずに読み始めたのですが、冒頭はいい意味で裏切られました。

 

 冒頭に描かれているのは文革で糾弾される科学者の姿。この部分はリアリズム的に描かれており、文革期の狂気をストレートに見せています(中国語版は政治的な配慮からかこの部分が冒頭ではなく中盤に配置されているとのこと)。

 父を文化大革命で殺された女性科学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)は、文革によって地方に追いやられ、失意の日々を過ごす中、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされるのですが、そこまではかなり政治的な匂いを感じさせます。

 

 ところが、ナノテク素材の研究者・汪淼(ワン・ミャオ)を主人公とする現代のパートになると、次々と起こる科学者の自殺、謎の会議、「三体」と呼ばれる謎のVRゲーム、史強(シー・チアン)という漫画的とも言っていい刑事と、エンタメ要素がてんこ盛りになります。

 そして、SFをの部分も、例えばイーガンのような理論に裏打ちされた驚きの展開というよりは、すごくスケールの大きな法螺話です。ただ、冒頭の文革のパートの影響もあって、その法螺話を読者に納得させます。

 この法螺話のスケールと、それを読者に納得させるすべにおいて、この小説は傑出していると言えるでしょう。

 三部作なので、最終的な評価に関しては何とも言えない部分もありますが、まずは面白いですし、とにかく続きが期待できます。

 

 

 

morningrain.hatenablog.com

『マーウェン』

 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『フォレスト・ガンプ』のロバート・ゼメキス監督が、ミニチュアのG.I.ジョーのホーギー大佐と5人のバービー人形がナチス親衛隊と戦うジオラマを作り、それを写真として発表し高い評価を得たマーク・ホーガンキャンプについて描いた作品になります。

 マークは女性のヒールを集める趣味があり、それを酒場で見知らぬ男たちに知られたことから、「変態」としてリンチを受け瀕死の重傷を負い、さらに記憶まで失ってしまいます。いわゆるヘイトクライムにあたりますが、このヘイトクライムによるPTSDに苦しむマークがミニチュア写真と周囲の女性との交流により、徐々に精神の健康を回復していく話になります。マークを演じるのはスティーヴ・カレルです。

 

 こうした要素を書くと感動の大作としてヒットしそうな気もしますが、まったくヒットしていません。僕も上映が終わっちゃう直前にこの映画に気づいて、今日見てきました。アメリカでもヒットしなかったようです。

 おそらく受けなかった理由は単純で、マークが変な男であり、その変さストレートに描いているからです。マークがつくるミニチュアはマークをモデルにしたホーギー大佐を女性たちが取り囲み、ホーギー大佐に好意を抱く女性たちがホーギー大佐のために戦います。しかも、女性たちはマークの周囲にいる女性をモデルとしています。

 マークがその世界観を嬉々としてヒロインに語り引かれるシーンがあるのですが、誰だって引かれるでしょう。

 

 ただ、変人を「ピュア」として描かないで、その変人さをそのまま描いているところがこの映画の面白さでもあり、良い点でもあると思います。ある意味でオタクをありのまま描いた映画と言えるかもしれません。

 また、映画ではミニチュアが動いて、マークの作る世界を再現するわけですが、そのCGは面白いです。動きの質感とかは実写ともアニメとも違う不思議な感じになっていて、おそらくゼメキスはこれがやりたかったんではないかと思います。

 あと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のファンにはサービシーンもあるので、それも楽しめると思います。

 

周燕飛『貧困専業主婦』

 表紙裏には「100グラム58円の豚肉をまとめ買いするためい自転車で30分走る」、「月100円の幼稚園のPTA会費をしぶる」などと書いてあり、タイトルからしても最近流行りの「貧困ルポ」の一種かと思う人もいるかも知れませんが、そうではありません。

 中国生まれの女性で、労働経済学や社会保障論などを専門とする労働政策研究・研修機構(JILPT)の主任研究員でもある著者が、JILPTの行った大規模調査などをもとにして現在の日本における専業主婦の以外な姿を明らかにした本になります。

 

 以前は「高収入男性の妻ほど就業率が低い」というダグラス・有沢の法則が知られていましたが、近年では、世帯収入が低いにもかかわらず専業主婦、あるいはもっとも高収入の世帯では専業主婦が少なくなるという現象が見られます(44p図2−3参照)。

 本書はこうした実態を明らかにしつつ、その理由と問題点、さらには対処法を探っています。この「専業主婦になる/ならない」というのは非常にデリケートな問題ですが、著者が専業主婦がほとんどいない中国社会で育ったということもあって、かなりドライに分析を進めています。そして、それがかえってこの問題のデリケートさを浮き彫りにするようなところもあって、そこが面白いと思います。

 

 まず、本書が書かれるきっかけは2011年にJILPTが行った「子育て世帯全国調査」の結果です。そこでは世帯所得が全世帯の所得の中央値の半分に達していない貧困世帯の割合(貧困率)が、共働き世帯の9%に対して専業主婦世帯が12%と上回っていたのです。ここからは余裕があるから妻が専業主婦になっているというわけではない実態がうかがえます。

 

 夫が雇用者である世帯に占める専業主婦世帯の割合は1980年から28ポイント下がって37%となっており、共働き世帯が増加していますが、それでも「専業主婦モデル」は根強くあります。

 家事と子育ての傍らでパートなどをする主婦を「準専業主婦」とすると、全体の63%を占め、6歳未満の子どものいる家庭では、専業主婦が51%、準専業主婦が23%となっており、キャリア主婦は4人に1人程度なのです(38p)。

 また、2014年時点4歳児と5歳児の幼稚園在籍率はそれぞれ51%と54%であり、半分以上の子どもは保育園ではなく幼稚園に通っているのです。

 

 しかし、バブル崩壊以降、男性の稼ぐ力は弱まってきています。現実にはまだ主流ともいえる専業主婦モデルですが、経済的には成り立ちにくくなっているのです。

 子育て世代に限れば、専業主婦率が最も高いのは世帯収入が最も低い階層であり、専業主婦率が最も低いのは世帯収入が最も高い階層です。さらに階層を10に分けた場合上から4つの階層で専業主婦率が低くなっています(47p図2−4参照)。もはや夫の稼ぎだけで高収入を得るのは難しいのです。

 

 本書のもととなった「子育て世帯全国調査」には自由記述欄があり、この本ではそうした声も紹介されています。

 36歳で1歳の孫がいる(!)という驚きのケースなどもありますが、専業主婦の中には自身や子どもの病気のために就労できないケース、待機児童の問題、そもそも保育園に子どもを預けること自体を考えたことがなかったというケースなどがあります(第3章参照)。

 

 そして、貧困は子どもにも影響を与えます。「食料を買えないことがあったかどうか」、「子どもの健康状態」、「育児放棄」などにおいて、貧困世帯は問題を抱えていることがわかります(74〜77p表4−1、4−2、4−3参照)。

 また、塾や習い事などにも格差があり、それが学力にもある程度反映されています。

 

 ただし、女性が専業主婦を選ぶ理由の最も大きなものは「子どものため」です。専業主婦の62.3%が「仮に自分が就業したら子どものしつけが行き届かなくなる」と考えています(94p図5−1参照)。

 多くの女性はいずれ働きたいと考えていますが、そのタイミングは子どもが6歳になった頃であり、そうなると希望する条件の職が見つからないという問題も出てきます。特に35歳以上の高齢出産だとこの傾向が強く(102p図5−5参照)、また、高学歴の女性ほど適職を見つけにくくなっています(104p図5−6参照)。

 このため、仕事を辞めたことを後悔する女性も多いです。ただし、全体で見ると「後悔している者は約4割、後悔していない物は約6割」(111p)といった状況で、皆が専業主婦になったことを後悔しているわけではありません。

 

 橘玲の本に『専業主婦は2億円損をする』というものがありますが、著者が計算したところ大卒に限れば、ずっと正社員だった場合に比べてそのくらいの差がつきます(109p図5−2参照)。

 このようなことから経済的にみれば専業主婦は支持されないのですが、実は日本では働く女性よりも専業主婦の方が「幸福」だと感じている割合が高いです。たとえ、世帯収入が500万円未満の世帯であっても専業主婦は働く女性より高幸福度の割合が高いのです( 500万未満の世帯の専業主婦の高幸福度が60.3%、働く女性は53.6%(117p図6−1参照)。

 世界59カ国の調査では専業主婦のほうが相対的な幸福度が高い国が35カ国で全体の6割、日本はニュージーランドに次いで専業主婦の相対的な幸福度が高い国となります(119p)。

 

  また、日米中韓の4カ国の分析では、中国人とアメリカ人の幸福度は本人の収入に依存しているのに対して、日本と韓国は世帯収入に依存しているといいます。

 さらに日本の働く女性世帯では夫の収入と本人の幸福度が比例しているのに対して、専業主婦世帯ではそれほど大きな差がありません(125p図6−3参照)。専業主婦の幸福度は子どもと一緒に過ごす時間や子どもの健康などと関係しており、やはり子育てが幸福度と関わっていることがうかがえます。

 実際、専業主婦でいる理由を尋ねたところ、「子育て」が理由の1位となっており(134p表7−1参照)、多くの人は自らの決断によって専業主婦になっていることがわかります。

 

  しかし、著者は疑義を呈します。例えば、「幸福である」と答えた専業主婦の中には抑うつ傾向の高い人もいて、この「幸福」が虚像である可能性もあります。特に貧困世帯では専業主婦の抑うつ傾向は高いです(138p表7−2参照)。

 また、待機児童の問題が働くことへの「あきらめ」を生んでいる可能性もあります。

 さらに、離婚がしにくい国ほど女性の就業率が低い(専業主婦率が高い)といったデータも紹介されています(165p図8−2)。

 

 この本の面白さ(人によっては抵抗を感じる部分)は、こうしたことを踏まえ、専業主婦を選ぶことは一種の非合理であり、リチャード・セイラーやキャス・サンスティーンの唱えるナッジ(人の選択を誘導するためのしくみ)を使って、就業継続へと誘導すべきだと主張している点です。

 著者の生まれた中国では「夫婦別居や子どもと離別をしてでも、中国人女性は自分の学業やキャリアを優先する傾向があり」(122p)ます。それもあって「仕事か?子育てか?」という難しい問題に対して、「長期的な損得をみれば仕事を取るべきだ」と明快に言ってみせ、就業の継続を妨げるさまざまな要素を取り除こうと主張するのです。

 

 このような割り切りに対して反発を感じる人もいるでしょうが、この割り切りから見えてくる「価値の問題」というのもあります。

 確かに日本の主婦は子育てにしろ家事にしろかなり高い水準のものを求められており、そうした「過剰」な要求をなくして(あるいは主婦自身があきらめて)、金銭的な価値を追求すべきだという考えはあるでしょう。

 一方、あまりに市場価値的なものを重視すれば「子育て」の質が下がり、家族や社会の中でも問題が起きてくるかもしれません。もちろん、こうした問題に関しては公的部門が対処すべきだという声もあるでしょうが、現在の日本の貧弱な公的部門の有り様をみれば、現在主婦が担っている機能を公的部門が肩代わりできるとも思えません。自分の子どものことも含めて「自己利益」を考えれば、専業主婦という選択が「非合理」だとも言い難いでしょう(もちろん、夫も妻もパート的に仕事をして子育てを二人でするというオランダ的な選択肢もありえるけど)。

 

 専業主婦の実態を明らかにした本としても興味深いですが、著者が明快な立場をとっていることによって、日本の社会や家族に関する価値観をいろいろと考えされられる内容となっており、そこも面白いです。

 

 

クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと』

 ナチ・ドイツによるユダヤ人の虐殺について、多くの人はアウシュビッツ−ビルケナウに代表される絶滅収容所による殺害という印象が強いと思います。

 そこでは、工場における分業のような形で毒ガスによる虐殺が行われ、多くのドイツ人が自らの職務を果たすことで虐殺が完成しました。アレントはそうした官僚的な虐殺者としてアイヒマンを描き出し、それに「悪の陳腐さ」という言葉を与えました(実はアイヒマンは筋金入りの反ユダヤ主義者が法廷での「平凡さ」は演技だった可能性が高い。野口雅弘『忖度と官僚制の政治学』参照)。

 

 しかし、ユダヤ人の虐殺はガス室のみで行われたのではありません。ホロコーストの犠牲者およそ600万人のうち、20〜25%が射殺によるものであり、20%と考えてもおよそ120万人と相当な数を占めています。

 こうした射殺を行った部隊としてラインハルト・ハイドリヒ率いる特別行動部隊(アインザッツグルッペン)が有名ですが、他にも警察大隊などがこの任務に関わっており、本書がとり上げている第101警察大隊もそうした部隊の1つです。

 

 戦場のおいては様々な残虐行為が起こります。「兵士たちは暴力に慣れ、人命を奪うことに無感覚になり、味方の死傷者に憤慨し、陰険で見たところ怪物のような敵の頑強さに苛立っていたから、時々感情を爆発させ、またときには、最初の機会に敵に復讐しようと残忍な決意を固めた」(260p)からです。

 しかし、本書がとり上げている第101警察大隊は多くの隊員が戦闘を経験していませんでしたし、生死を賭けた敵に遭遇したこともありませんでした。それでも、彼らは少なくとも38000人を殺害し、45200人のユダヤ人を絶滅収容所へと送りました。

 「普通の人びと」であったはずの彼らになぜこのような行為が可能だったのか? というのが本書のテーマになります。

 

 実はこの第101警察大隊は非常に興味深い存在です。この部隊に関しては1960年代に司法尋問が行われており、500人弱の隊員のうち210名の調書があり、著者はこの中の125名分の調書を詳細に分析しています。

 この大隊はハンブルクからポーランドへ送られており、大部分はハンブルク出身者で、それに周辺地域やルクセンブルク人が少数混じっていました。

 隊長はヴィルヘルム・トラップ少佐・彼は50代で第一次世界大戦に従軍経験があり、勲章を授けられたこともありました。

 その他の下士官に関してはナチ党員もいましたが、隊員の大部分は労働者階級の出身で、平均年齢は39歳と、軍務につくには年を取りすぎていると思われる人びとでした。世代的にいってナチによる教育の影響を強く受けたとは言い難い世代です。

 

 さらに興味深いのは1942年の7月にポーランドのユゼフフ村において、この部隊に最初のユダヤ人射殺の命令(働くことのできる男性は強制収容所に送り、残った女性、子供、老人はその場で射殺)が上から下った時に、隊長のトラップ少佐は目に涙を浮かべ、「隊員のうち年配の者で、与えられた任務に耐えられそうにないものは、任務から外れてもよい」(26p)と言ったのです。

 このような中で、小隊長のブッフマン(裁判の記録を利用した関係で仮名となっている)もそうした行動には参加したくないと訴え、護送の任務に回され、さらに10〜12人の隊員がトラップ少佐の呼びかけに応じる形で任務から外れました。

 つまり、どうしてもユダヤ人の射殺を行いたくない者については、それを拒否する機会があったのです。

 

 それでも、隊員の多くはうつ伏せにされたユダヤ人たちを背後からライフル銃で撃っていきました。途中、この仕事には耐えられないと何人かの隊員が抜けました。その一人は次のように語っています。

 射殺は私にとってひどく嫌悪感を催すものでしたから、私は四番目の男を撃ち損じてしまいました。私はもはや、正確に狙いをつけることができなくなっていたのです。私は突然吐き気を催し、射殺場から逃げ出しました。いや、これは正確な言い方ではなかったようです。私は、もはや正確に狙いをできなかったのではなく、むしろ四番目にはわざと撃ち損じたのです。私は森のなかに逃げ込み、胃液を吐き出し、木にもたれて坐り込んでしましました。(122p) 

 

 また、強引としか言えない合理化を行う隊員もいました。

 私は努力し、子供たちだけは撃てるようになったのです。母親たちは自分の子供の手を引いていました。そこで私の隣の男が母親を撃ち、私が彼女の子供を撃ったのです。なぜなら私は、母親がいなければ結局その子供も生きてはゆけないのだと、自分で自分を納得させたからです。いうなら、母親なしに生きてゆけない子供たちを苦しみから解放(release)することは、私の良心に適うことだと思われたのです。(128−129p)

 

 しかし、結局ユゼフフの村では少なく見積もっても1500人のユダヤ人が射殺されたと考えられています。多くの隊員にとって気の進まない任務でしたが、彼らはやり遂げました。その後も彼らはユダヤ人を射殺し、あるいは貨物列車に詰め込んで絶滅収容所へと送っています。

 絶滅収容所へとユダヤ人を送る任務を行った隊員の一人は「彼らはひどくやつれはて、すでに半ば餓死しているように見えました」(181p)という証言を残しています。

 

 こうした隊員の行動に対して、「当時のドイツ人はナチの反ユダヤ主義イデオロギーに染まっていたからだ」という見方もあるかもしれません。事実、本書と同じ第101警察大隊をとり上げたゴールドハーゲン『ヒトラーの自発的死刑執行人たち』では、そうした見方がとられています。

 しかし、50ページ以上の「あとがき」で著者が詳細に反論しているように、ゴールドハーゲンの議論は乱暴であり、人びとを虐殺行為へと向かわせた理由を説明しているとは思えません。

 

 著者は500人近い隊員のうち、最初に任務から外れることを申し出た者が12人ほどだったことについて、急な命令でじっくりと考える時間がなかったこととともに、次のような心理状態を指摘してます。

 大量虐殺について考察する上で、時間の欠如と同じくらい重要なことは、順応への圧力であった。 ー それは軍服を着た兵士と僚友との根本的な一体感であり、一歩前に出ることによって集団から自分が切り離されたくないという強い衝動である。大隊は最近になって兵力を定員にまで満たしたところであったので、隊員の多くはお互いをよく知らなかった。戦友の絆はまだ充分に強められていなかったのである。にもかかわらず、あの朝ユゼフフで一歩前に出ることは、戦友を置き去りにすることを意味した。そして同時に、自分が「あまりに軟弱」ないし「臆病」であることを認めることを意味した。一人の警官が強調したように、誰が、結集した軍団の前で、「あえて面子を失う」ようなことをできたろうか。(126-127p)

 

 隊員の中にはサディズム的な資質を発揮して虐殺に加担した者もいましたが、多くはこのように、気は進まないが仲間から外れることを恐れて虐殺に加担しました。

 本書の最後に置かれた「普通の人びと」という章では、スタンフォードでのフィリップ・ジンバルドーの監獄実験を引き合いに出しながら、こうした心理が分析されていいます。この実験では看守役となったメンバーのうち約1/3が新しいタイプの嫌がらせを発明して冷酷に振る舞い、残りの多くが規則に従って囚人を虐待し、20%以下の小グループが囚人にバツを与えなかったといいます。

 第101警察大隊においても、「ユダヤ人狩り」に志願し、熱狂的な殺戮者となったた隊員、命じられると射殺を行うが自らはその機会を求めない多数派、射殺を忌避したり拒否した小グループに分かれました。

 第101警察大隊の行動はある種の普遍的な集団心理でも説明できるのです。

 

 さらに虐殺が親衛隊に訓練されたソビエト領土内の外人部隊であるトラヴニキと共同で行われるようになると、第101警察大隊の隊員の負担は軽くなりました。銃殺などの汚れ仕事はトラヴニキに回されたからです。

 さらにアルコールが彼らを助けました。アルコールを飲まない警官の一人は次のように証言しています。

他の戦友のほとんどは、大勢のユダヤ人を射殺したからがぶ飲みしたのです。というのは、こうした生活は素面ではまったく耐えられないものだったからです。(143p)

 

 そして、何度もユダヤ人の射殺を繰り返すに連れ、隊員たちの感覚も鈍っていきます。警官の一人は次のようなおぞましいジョークを紹介しています。

 昼食のテーブルについていたとき、幾人かの戦友が作戦中してきたことについてジョークを飛ばしていました。彼らの話から、私は彼らが作戦を終了してきたばかりだと推測できました。私は特にひどい話だなと思い出すのですが、隊員の一人が、俺達は今「殺されたユダヤ人の頭」を食べているんだぜと言ったのです。(210p)

 

 こうした雰囲気になると、小規模の射殺やユダヤ人狩りにおいて志願者を募るのは容易でした。そして、射殺に抵抗を覚えるものは指揮官から物理的に離れた位置にいることによってこうした任務から逃れたのです。

 

 その後、ドイツの形勢が不利になるに連れ、第101警察大隊の任務もパルチザンとの戦いなどへと変化し、多くの者は敗戦とともにドイツへと戻りました。

 隊長のトラップ少佐はポーランド人殺害の嫌疑で訴追されて死刑判決を受けましたが、多くの隊員はハンブルクでそれぞれの職業へと戻り、60年代になって司法尋問の対象となり、何人かが有罪判決を受けました。

 

 最後の方で著者は隊員たちの心理について次のように述べています。

 列を乱すことによって、撃たない隊員は「汚れ仕事」を彼らの戦友に委ねることになったということである。個々人はユダヤ人を撃つ命令を受けなかったとしても、大隊としては撃たねばならなかったのだから、射殺を拒絶することは、組織として為さねばならない不快な義務の持ち分を拒絶することだったのである。それは結果的に、仲間に対して自己中心的な行動をとることを意味した。撃たなかった者たちは、孤立、拒絶、追放の危険を冒すことにあった ー 非順応者は、堅固に組織された部隊のなかで、きわめて不快な生活を送る覚悟をしなければならなかったのである。しかも部隊は敵意に満ちた住民に取り囲まれた外国に駐留しているのだから、個々人には、支持や社会的関係を求めて帰るところはなかった。(297p)

 

 このように、まさに「普通の人びと」がいかにしてユダヤ人の虐殺を実行するに至ったのかを明らかにしたのがこの本です。心理過程を明らかにするだけでなく、実際の虐殺の様子も再現しようとしていますので、ユダヤ人がポーランドにおいてどのように殺されていったのかを知ることも出来ます。

 

 この本を読むと、ホロコーストという近代以降もっともおぞましいと思われる出来事の一翼が、まさにタイトルにある「普通の人びと」の上述のようなよくある集団心理によって担われていたことがわかります。

 この本の中には、ユダヤ人の射殺という任務に嫌悪感を持っている人物も登場しますし、心理的な負担を感じている者もいます。ただ、それでも第101警察大隊が他の警察大隊、例えば、ナチ化された若者を中心に徹底的な教化と訓練を受けた300番代の警察大隊に劣らない数のユダヤ人を殺害しているという事実(370p参照)はには恐ろしいものがあります。

 ユダヤ人の虐殺について考えるだけでなく、人間の集団心理を正しく恐れるためにも広く読まれるべき本だと思います。

 

 

ハーラン・エリスン『愛なんてセックスの書き間違い』

 『世界の中心で愛を叫んだけもの』、『死の鳥』などの作品で知られるハーラン・エリスンの非SF作品を集めた短編集。

 収録作品は以下の通り。

第四戒なし
孤独痛
ガキの遊びじゃない
ラジオDJジャッキー
ジェニーはおまえのものでもおれのものでもない
クールに行こう
ジルチの女
人殺しになった少年
盲鳥よ、盲鳥、近寄ってくるな!
パンキーとイェール大出の男たち
教訓を呪い、知識を称える

 

 国書刊行会の<未来の文学>シリーズの1冊となりますが、このシリーズっぽい作品は、ちょっとサイコホラーっぽさのある冒頭の「第四戒なし」くらいでしょうか。

 他は基本的に想像力が発揮されたというよりは現実を描いた作品であり、SFを期待する人は肩透かしを食うかもしれません。

 

 ただし、エリスンの作品を期待した人ならば、その期待にはいかんなく答えている作品集となっています。エリスンといえば、なんと言ってもその華麗でかっこいい文体ですが、それはこの作品集でも十二分に発揮されています。

 

 例えば、「クールに行こう」の冒頭は次のように始まります。

 むかしむかし、デリー・メイラーはクールだった。だがそれも過ぎ去ったこと、今じゃあいつが歩くところには、ひょろっとした黒い影ができているだけだった。あいつにとっては、夜ですら静まりかえっていた。頭の中ではブー・ドゥーという音も鳴り響いていなかった。すっかり野暮ったくなって、襟を立てていたんだ。

 男のクールさはどうやったら吹っ飛ぶか?

 それに必要なのは、細かいことがたくさん揃ったコンポ。たとえば、瞳がとびっきり緑色で剃刀のように細く、ちっちゃなガキが「おねえちゃん、中国人?」とたずねそうな女のようなもんかな。(177p)

  この饒舌さがエリスンであり、こういったかっこいい饒舌というのはここ最近の文学作品ではなかなか見られないものですよね。

 ちなみに、この「クールに行こう」と「ラジオDJジャッキー」はジャズをテーマとした小説で、饒舌な語りを続けながらもオチも決まっています。

 

 そんな中で一番読ませるのが「ジェニーはおまえのものでもおれのものでもない」。解説で若島正アメリカの三大堕胎小説としてドライザー『アメリカの悲劇』、バース『旅路の果て』、ブローティガン『愛のゆくえ』をあげ、本作はそれに匹敵する出来だと述べていますが、その評価も納得です。

 ここで描かれるのは、中絶がまだ合法化される前のアメリカにおいて、世間知らずの女の堕胎の世話をすることになった男のはないですが、

 この国では、すぐに思いつくどんな犯罪よりも凶悪で、しかも処罰されないのが一つある。それは他人の話を真に受けるという犯罪だ。(109p)

 とのこの言葉に見られるような上から目線の苛立ちが、堕胎手術を通して変化していくさまを見事に語っています。

 

 他にも「堕落」としかいいようなのない様をとことんまで描き出しつつ、でも結局自分(作者)も堕落しているのでは? と感じさせるような構成になっている「パンキーとイェール大出の男たち」も上手いですね。

 文体を自在に操るエリスンの芸を楽しむ作品集であると同時に、作家としてのエリスンの孤独やモチベーションのようなものも感じられる作品集ですね。

 

 

Big Thief / U.F.O.F.

 インディーフォーク界の注目バンドで、この3rdアルバムは名門の4ADからリリースされています。

 アルバムを聞くのは今回が初めてでしたが、確かにこれは良いアルバム。この手のインディーフォークのアルバムはどうしても途中でだれてしまいやすいのですが、まずはボーカルの女性、エイドリアン・レンカーの声がいい。普通の歌い方から、4曲目の"From"でちらっと見せる力強さ、11曲目の"Jenni"で聴かせるようなやや幻想的な感じまで非常に表現力があります。

 あとはギターも良いです。1曲目の"Contact"ではいきなり、静寂を破るような形で強い音を聴かせ、他の曲でも派手さはないもののメリハリがあります。

 そして、やはり曲のメロディもなかなか良い。強いインパクトがあるわけではないですが、どの曲も非常に聴きやすく、耳に残ります。

  大好きなジャンルというわけではありませんが、これは良いアルバムだと思います。

 

 


Big Thief - UFOF (Official Audio)