チョン・イヒョン『優しい暴力の時代』

 1972年生まれの韓国の女性作家の短編集。河出文庫に入ったのを機に読みましたが、面白いですね。

 「優しい暴力の時代」という興味を惹かれるタイトルがつけられていますが、まさにこの短編集で描かれている世界をよく表していると思います。

 

 「優しい暴力」の反対である「優しくない暴力」は80年代半ばくらいまでの韓国には吹き荒れていました。本書の訳者である斎藤真理子が訳した同じ河出文庫のチョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』では、むき出しの直接的な暴力が描かれていました。

 ところが、経済が成長し、民主化が進み、軍が民衆を弾圧するようなむき出しの暴力は鳴りを潜めました。

 でも、「暴力」は社会の中にあって、ふとした瞬間に顔を見せているというのが、本書が描く世界です。

 

 冒頭の「ミス・チョと亀と僕」は、父の恋人でもあったミス・チョことチョ・ウンジャさんと高齢者住宅で働く主人公の奇妙な関係を描いた作品で、ユーモラスでもあり、ちょっぴり切なくもあるという、パク・ミンギュを思い出すような作品になっています。

 

 つづく「何でもないこと」は妊娠してしまった女子高生と妊娠させてしまった男子高生のそれぞれの母親を描いた作品で、どうしようもなくなった世界の行き止まりのような光景が示されます。

 

 次の「私たちの中の天使」は、あるカップルが犯罪に手を染めようとする話なんですけど、経済的に余裕のないカップルの間のお金をめぐるやり取りだったり、感覚の違いが印象に残る作品です。

 

 「ずうっと、夏」は、日本人の父親と韓国人の母親の間に生まれた娘が主人公。日本に暮らしていたのですが、母親は日本語を話そうとせず、娘が通訳に駆り出されるような状況だったのですは、父親の異動で南国に引っ越すことになります。

 主人公はインターナショナルスクールで、「韓国語」を話すメイという女の子に出会うのですが…という話。意外に政治っぽい話です。

 

 「夜の大観覧車」は、中年女性の中の恋を描いた作品ですが、横浜への研修旅行が舞台になっているところが興味深い。韓国でも「ブルーライトヨコハマ」は広く知られているんですね。

 

 「引き出しの中の家」は、家探しをめぐるドタバタっぽい話ですけど、韓国の不動産をめぐるシビアな状況がわかる話。掘り出し物件を見つけた夫婦なのですが、本当に家を買って大丈夫なのか?という悩みと、内見できない部屋の謎という形で物語が進みます。

 

 「アンナ」は、主人公がラテンダンスのサークルで出会ったアンナという年下の女性の話。主人公は結婚して子どもができた後に、英語幼稚園で補助教員をしているアンナと再会します。

 英語幼稚園に入った息子は一言もしゃべらず、主人公はアンナから話を聞き出そうと会うようになりますが、そうした中で若い頃は目立たなかった格差の問題がせり出してくるという話です。これは巧い作品ですね。

 

 最後のボーナストラック的な位置づけで収録されているのが「三豊(サムプン)百貨店」。1995年に、営業中に建物が崩壊し、死者502名・行方不明者6名・負傷者937名という大惨事になった三豊百貨店崩壊事故を扱った作品です。

 著者に拠っても三豊百貨店は若い頃の思い出の場所だったようで、自伝的要素も入った作品になっています。

 高校時代の同窓生で、三豊百貨店の販売員をしているRとの交流を通じて、就職難や格差などの問題が扱われるとともに、韓国社会の矛盾として三豊百貨店の事故が描かれています。

 

 多くの引き出しのある作家で、各短編はそれぞれちがった特徴を持っていますが、作品の何処かに社会の矛盾が、ときにさりげなく、ときに鋭く描かれているのがこの短編集の特徴と言えるでしょう。