チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』

 1978年に出版されて以来、ロングセラーとなっている韓国の小説です。

 今調べてみたら、赤川次郎の『セーラー服と機関銃』がこの年、村上春樹の『風の歌を聴け』が翌年の79年になります。

 70年代後半は、日本だと少しポップな感じの新しい文学が出てきた時代ということになるのでしょうが、韓国では79年に朴正煕暗殺事件、80年に光州事件ですから、まだまだ政治の時代という感じで、この小説も「虐げられた人びと」を正面から取り扱った作品になります。

 

 形式としては連作短編という形で、前半は何人かの登場人物が緩やかに結びついている感じですが。後半になると「こびと」とその家族の話に収斂していきます。

 また、前半は寓話的な感じもしますが、後半になればなるほどリアリズムが前面に出てきます。

 話としては全然違いますが、後半のこびとの長男のヨンスの理想主義的な生き方は、中学か高校のときに課題図書で読まされた立原正秋の『冬の旅』を思い出させました(それで立原正秋について調べてみたら、立原正秋朝鮮半島出身なんですね。全然知りませんでしたけど、なんか少し納得した)。

 

 この小説では当時の韓国の格差社会が描かれていますが、最初に舞台になっているのはソウルのスラムです。

 当時の政府はこうしたスラムの撤去を進めており、こびとの一家が住んでいた住居も取り壊されることになりました。

 政府は、一応、替わりに住む場所として再開発によってつくれたマンションも用意しているのですが、こびとをはじめ貧しい人々にはそこに入居するだけのお金が用意できません。

 結局、入居権を不動産業者に買い叩かれることになるわけです。

 

 こうした話に、父親から受験勉強を強いられているユノの話などが挟み込まれます。自分の希望とは違う専攻への進学を命じられ、どうしても勉強に身が入らずに自堕落な生活を送る姿などは、おそらく70年代後半の日本の青年とも重なるものがあるのでしょう。

 

 後半になると、舞台が工業都市のウンガン(訳者あとがきによると仁川がモデル)に移し、こびとの一家、特に長男のヨンスが物語の中心となります。

 「労働対資本」というはっきりとした対立軸が現れ、小説もリアリズムっぽくなっていきます。

 

 後半にも面白さはありますが、個人的にはやや寓話的に描かれている前半の方が好きですね。

 当時は出版物の検閲が厳しかったようで、連作短編というスタイルがとられたのもそのためだといいますが(打ち切りになっても長編ほど困らない)、おそらく前半の方がそうした検閲を意識して書かれているように思います。

 

 検閲に引っかからずにどうやって社会を告発するか? そのときに著者は「こびと」以外にも「せむし」や「いざり」といった差別用語を背負った人物を登場させ、そこに社会の矛盾を集めています。

 やや危うい書き方でもありますが、本書ではそれが作品に大きなパワーを与えていると言っていいでしょう。

 

 古めかしい部分もなくはないですが、ここから例えば、パク・ミンギュの『三美スーパースターズ』につながっていくのだな、とも感じられる小説ですね。

 

 

 

 

 

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