岩谷將『盧溝橋事件から日中戦争へ』

 本書の「あとがき」を読むと、この本を書き上げるまでの著者の経験が普通ではなかったことがわかります。

 著者は2019年に中国で2ヶ月以上も拘束され、その後解放されました。そのため普通は恩師や同僚、編集者などが並ぶ謝辞において、安倍晋三元首相や菅義偉前首相、茂木敏充外務大臣といった名前が並んでいます。

 「軽井沢の別荘にて」みたいなことが書かれる最後の部分には、「競売にかけられるかもしれなかったまだローンの残る札幌の自宅にて」とあり、著者が大変な状況を切り抜けていたことがわかります。

 

 では、なぜ中国当局は著者を拘束したのでしょうか?

 その理由については本書に書かれているわけではありませんし、ひょっとしたら著者が防衛省防衛研究所教官を勤めていたことなどが影響したのかもしれませんが、本書の内容も現在の中国政府からするとやや都合の悪いものだったのかもしれません。

 

 本書は、日中のさまざまな史料をもとに、盧溝橋事件から近衛声明までの日中戦争が全面化するまでの流れを追っているのですが、本書から見えてくるのは中国側が日本の侵略に対して常に受け身であったわけではないということです。

 近年、上海事変における蔣介石の「自信」といったものは各所で指摘されてきましたが、本書ではそういった蔣介石の積極性が史料で裏付けられています。

 

 これが現在の中国政府にとってどれほど都合の悪いことなのかはわかりませんが、本書の第2章の注(110)では、公刊された史料では削除されている部分があることが指摘されており、やはり公的な史観からは外れるものなのでしょう。

 

 目次は以下の通りで、非常にシンプルな目次になっています。

 

はじめに

第1章 北平

第2章 上海

第3章 南京

おわりに

 

 第1章の北平では、1937年7月7日の夜に起きた発砲事件が、いかに日中両軍の衝突にまで拡大したかが史料をもとに再構成されています。

 ここの部分は非常に詳細で、詳しくは本書をお読みください。

 

 この第1章を読んでいくと、盧溝橋事件では日本軍と中国軍という2つの主体が衝突したというよりは、内部統制を欠いた2つのグループが次第に大きな戦闘に引き込まれていった印象を受けます。

 特に中国側は、蔣介石の他にも、現地軍の指揮官の宋哲元がいて、さらにその宋も配慮せざるを得ない排日世論があり、その排日の風潮に影響された兵士たちがいて、まったく一枚岩ではありません。

 

 一方、日本側も現地軍と軍の中央、さらには軍中央内部にもズレがあり、一枚岩ではない中国側の行動に一々反応してしまう形になっています。

 なにか明確な目的をもってイニシアティブを取ろうというのではなく、後手を踏みたくないという消極的な理由で戦闘が拡大していく様子が浮かび上がってきます。

 

 日中双方とも現地の情勢が落ち着いてくると、中央が相手側の攻勢を警戒してさらなる備えを準備していく感じで、後手を踏まないための警戒や決意が日中双方を泥沼に引き込んでいきます。

 また、蔣介石の宋哲元に対する不信も、結果的には戦争がエスカレートしていく要因になっています。

 

 第2章の上海になると、蔣介石のより積極的な姿勢が出てきます。

 日中の衝突に対してはイギリスなどが仲介する姿勢を示しますが、蔣介石は積極的な応戦をせざるを得ないと考えるようになっていきます。

 一方の日本は石原莞爾参謀本部作戦部長が対ソ戦を見据えて消極的であり、中国側に交渉を打診しますが、中国側は日本側の意思の統一が不十分であることを認識しており、蔣介石は日記に「倭の軍権はすべて前線の少壮軍人の手にあり、政府はそれを制止することができず、戦いなくてどうしようもない」(138p)と書いていました。

 

 7月末になると、蔣介石は上海でも先端が開かれることを予期し、むしろここで積極的な抗戦に出ることを考えます。華北の軍隊は中央の統制下にはない地方軍が主力でしたが、上海から南京にかけては中央軍が主力であり、陣地の構築なども進んでいました。

 日本側は上海では海軍の艦艇や陸戦隊が主体となっていましたが、しだいに政府中央も外交では難しいという認識になっていきます。

 8月13日に蔣介石は各国大使を招いていますが、これは外交交渉というよりは、中国は戦闘を望んでなく、戦闘が起こればそれは日本の責任であることを各国に伝えるためのものでした。

 

 この日、上海で小競り合いが始まりました。どちらが仕掛けたものかは不明ですが、張発奎が「我々はいわゆる『八一三事変』を始めた。我々が先に日本を攻撃したのであり、その逆ではない。〜我々はすでに抵抗すると決めた以上、我々の軍隊が上海においてイニシアチブを取らなければならないと考えた」(158p)と語っているように、このとき蔣介石は自らのイニシアチブで日本と戦うことを決意していました。

 蔣介石は北から南下する日本軍をどこかで迎え撃つのではなく、自分にとって有利な上海付近での速戦即決による勝利によって、日本と有利な条件で講話することを考えていたのです。

 さらに、上海付近には妻の宋美齢が中心となって整備した空軍もあり、それも蔣介石に自信をもたせました。

 

 ところが、速戦即決とはなりませんでした。中国側は上海周辺に精鋭の部隊が集結していましたが、当初投入された部隊の数やその連携は十分ではなく、海軍航空隊と艦船からの支援を受けた日本の海軍陸戦隊が持ちこたえます。そして、8月23日には陸軍の増援隊が到着します。

 

 ドイツ人の軍事顧問であったファルケンハウゼンが指摘したように、中国側は砲兵の適切な使い方ができておらず、また、期待された航空兵力もうまく活用できませんでした。

 同じくドイツ人の軍事顧問団の一人であったネヴィガーは「「中国軍の兵士はよくやっているが、いかんせん指揮官たちがお粗末すぎ」ると指摘し、また、「蔣介石の過ちはこれらの将官をすぐに処刑しなかったことだ」と述べて」(164p)います。

 

 一方、中国の防御陣地に対して、日本も小兵力の逐次投入によって苦戦しており、10月半ばまで戦況は膠着することになります。

 それでも陣地の縦深を欠き、他部隊との連携も不十分な中国側はしだいに犠牲を増やしていくになり、戦況は日本に傾いていきます。

 

 日本側では、相変わらず石原は消極的で、「上海が危険なら居留民を全部引揚げよ。損害は一億でも二億でも保障したらよい。戦争するより安価だ」(169p)という考えでしたが、政府では膺懲を強く押し出すことになり、派兵が進みます。

 結局、上海への3個師団の増派を受けて石原は辞任することになり、9月27日に関東軍参謀副長へと転出します。

 日本軍は主戦場を華中に転換することになり、第10軍が派遣されます。そして、南京攻略を探っていくことになるのです。

 

 第3章の南京では、和平交渉について詳しく書かれています。

 日本は駐華ドイツ大使のトラウトマンを仲介に和平交渉を進めようとします。ご存知のようにこの和平交渉は失敗しますが、本書を読むと、その理由として日中の条件の相違とともに、蔣介石の日本の履行能力への不信も見えてきます。

 蔣介石は、たとえ日本政府と合意に達したとしても、少壮派の軍人の侵略の意図は止まらないと見てましたし、満州国を承認したとしてもそこで日本の侵略は止まらないだろうと見ていたのです。

 そして、「中倭問題の解決は、ただ国際的な注意と各国を引き起こしてのみ可能である」(200p)と、犠牲を払ってでも国際的な干渉を得ることが必要だと考えていました。

 

 蔣介石は、九カ国条約会議、あるいはソ連の参戦を期待していましたが、そうした期待は空振りに終わり、その間にも戦局は不利になっていきます。

 当初はトラウトマンの仲介に否定的だった蔣介石でしたが、1937年12月になると、和平交渉を再検討することになります。戦局は不利になっていましたし、一時的な停戦だけでも中国にとっては有利になるという判断に傾いたのです、

 

 しかし、今まで和平交渉に前向きだった日本側が12月13日に南京を陥落させてしまいます。

 日本では「戦勝」ムードが高まり、蔣介石政権否認論が台頭します。12月8日の会議で一致した陸軍の見解は次のようなものでした。

 蔣は反省の色見えざらむものと認む、将来反省して来れば兎も角現在の様な態度にては応じられず。併し独逸大使迄には新情勢に応ずる態度条件を一応渡して置く必要あり。(213p)

 

 和平交渉に期待を抱いていた参謀本部の考えもあって交渉は続けられますが、和平の条件はさらに釣り上げられます。日本側の条件を見たトラウトマンは「気分が悪くなった」(219p)とのことですが、実際、中国の将来を日本に委ねるような内容になっていました。

 トラウトマンは後に、「日本が条件の変更を言い出した時に、ノイラートがすぐに仲介を拒否していれば、すべてはうまくいったであろうし、我々は道義に反する仕事に手を染めなくてもよかったのだ」(225p)と述べています。

 

 中国側にも和平に期待する声はありましたが、結局は足並みが揃わずに回答は先延ばしとなり、日本でも参謀本部と政府の間の意思疎通がうまくいかずに、政府内では議会が開かれる前に結論を出そうということになります。議会側の強硬姿勢に対応するためという内向きな理由で交渉の打ち切りへと動いていったのです。

 そして、1938年1月16日に「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明が出され、日中の衝突は長期戦になっていくのです。

 

 本書を読むと、偶発的な衝突を全面戦争に至らせた要因として、日中双方が機会主義的に動き、しかもその機会を見定めるべき主体が日中双方とも一枚岩ではなかったことが浮かび上がってきます。

 もちろん、国民からの圧力などにさらされていた蔣介石に比べると、日本側の迷走は統治機構の不全によるものであり、よりどうしようないとも言えますが、お互いに機会主義的に積極策に出ることはできるが、引くことを決断することはできないという形で、これによって戦争のエスカレートを防ぐチャンスがことごとくふいになっています。

 

 第1章の北平の部分はかなり細かい事象を追っていて、読むのにやや骨が折れるかもしれませんが、今後、日中戦争を考えていくうえでは欠かせない本でしょうし、著者の徹底した調査に圧倒される本ですね。