帶谷俊輔『国際連盟』

 副題は「国際機構の普遍性と地域性」。国際連盟の抱えていた問題を、第一次世界大戦後の中国に対する連盟のスタンスや、南米のチャコ紛争に対する連盟の関わりなどから探ろうとした本になります。

 

 国際連盟というと「失敗だった」というイメージが強いと思います。何といっても第2次世界大戦を防げなかったことは致命的ですし、満州事変への対処をはじめとして、紛争の防止や調停といった面でもあまり効果をあげていない印象があります。もちろん、篠原初枝『国際連盟』中公新書)などを読むと、連盟に寄せられた期待や連盟の果たしてきた役割はそれなりに見えてくるのですが、やはり「失敗した組織」という印象は拭えないと思います。

 

 ところが、国際連盟の失敗を乗り越えて作られたはずの国際連合ウクライナ危機などにおいて有効な対処を取れないのを見ると、結局、大国のルール違反に対して無力だという点では連盟も連合も無力なのだとも言いたくもなります。

 つまり、国際連盟の「失敗」はまだ乗り越えられてはおらず、国際連合もあおの「失敗」を抱えたままになっているのです。

 

 また、国際連盟の創設によって「国際政治」がヨーロッパ諸国以外にも開かれました。アメリカこそ不参加でしたが、日本は常任理事国となり、ラテンアメリカの多くの国が参加しました。

 ヨーロッパの大国同士の駆け引きに加えて、「ヨーロッパと非ヨーロッパ」、「大国と小国」とう新たな対立軸が生まれます。第二次世界大戦後、「ヨーロッパと非ヨーロッパ」という対立は「先進国と発展途上国」という対立に変わりましたが、それでも国際連盟が抱えた対立軸はいまだに生きていると言えます。

 本書は、あくまでも当時の連盟の問題点をとり上げていますが、こうした問題を見ていくことで現在の国際連合、そして国際政治の抱える問題点が見えてくる内容となっています。

 

 目次は以下の通り。

序章

第一章 国際連盟理事会改革における「普遍」と「地域」

第二章 中国問題と国際連盟――紛争の国際連盟提起と代表権問題

第三章 アジア太平洋地域の条約秩序と国際連盟――国際連盟と多国間枠組みの競合と包摂

第四章 ラテンアメリカ国際連盟――チャコ紛争における国際連盟と地域的枠組みの競合

第五章 国際連盟と地域機構の関係設定の試み

終章

 

 第1章では国際連盟の理事会改革がとり上げられています。

 連盟は当初、パリ講和会議と同じく米英仏伊日の5カ国を中心に形作られようとしていました。しかし、1920年の第一回連盟総会では早くもアルゼンチンや中国から不満が噴出します。

 このときに中国やラテンアメリカが持ち出したのが地域に配慮した非常任理事国の配分でした。いわゆる「分洲主義」と呼ばれるものですが、中国やラテンアメリカ諸国はヨーロッパの大国による支配に対抗するためにこの論理を用いたのです。

 ここで微妙になるのが非ヨーロッパの大国である日本の立場ですが、山東問題で中国と対立を抱えながらもアジアの代表として中国の立場を支持する態度をとっています。

 

 1922年の総会では、非常任理事国が6カ国に増え、その中身もブラジル、ベルギー、スペイン、ウルグアイスウェーデン、中国となり、ラテンアメリカから2カ国、アジアから日本を含めて2カ国が理事会に席を持つことになりました。

 しかし、地域を選出の基準や、あるいは選出の母体とすると、それだけ連盟は地域色を強めることになり、その普遍性は薄れる恐れがあります。

 この問題はドイツの連盟加盟と、ドイツの常任理事国入りが話題になるとさらに先鋭化していきます。1925年のロカルノ条約によって翌26年にドイツは国際連盟に加盟し、常任理事国となるわけですが、それに対して他国からも常任理事国入を求める声が上がったのです。

 特にブラジルは自らを米州の代表として常任理事国入りを強く求めましたが、イギリスの外相チェンバレンが「我々にとってヨーロッパの平和を維持し、世界のいずれかの地域でイギリスの利益を擁護するうえで、スウェーデンやブラジルが何の役に立つのか」(27p)と問いかけたように、主要国の関心はあくまでもヨーロッパに注がれていました。

 

 ブラジルは連盟が「普遍的」でならないとし、そのためにはヨーロッパ中心主義を克服し、南米の代表としてブラジルを常任理事国にするべきだと訴えますが、広い支持を得ることはできず、26年6月にブラジルは連盟を脱退します。

 結局は非常任理事国の増員に落ち着き、26年9月の総会における非常任理事国の選挙ではラテンアメリカからチリ、コロンビア、エルサルバドルの3カ国、アジアからも中国が再び選ばれ、地域的なバランスがとられますが、地域単位での非常員理事国の選出は地域主義を活性化させ、連盟の「普遍性」を揺るがす可能性もあるものでした。

 

 第2章は中国の代表問題について。中国はアジアの大国であり国際連盟にも加盟していましたが、問題は中国を誰が代表するのかという問題でした。

 当初は北京政府がある程度安安定しており、中国の代表は北京政府の代表ということで問題がなかったのですが、国民政府による北伐が始まると、果たして中国の代表は北京政府であるべきか、国民政府であるべきかという問題が浮上するのです。

 

 中国代表は第一回の連盟の総会において山東問題を提起しようとします。21箇条の要求という2国間の取り決めて奪われた山東半島を新たにできた国際機関の場で取り戻そうと考えたのです。

 こうした中国の動きに対して、イギリスは日英同盟を意識しつつも日本側に立って中国の排外ボイコットの対象になることも恐れ、最終的には山東問題の連盟への提起を認める姿勢に傾いていきます。

 しかし、この決定は遅すぎで、山東問題をはじめとする中国に関する問題は、連盟ではなくアメリカが主導するワシントン会議で解決されることになります。

 

 1924年の第二次奉直戦争、25年の郭松齢事件、そして26年の北伐の開始と、中国は本格的に内戦状態に突入していきます。

 特に北伐は列強が権益を持つ上海に迫ってくると、「上海に迫る国民革命軍について話し合うべき相手が国民政府であるのに対して、連盟における代表権を保持しているのは北京政府」(56p)という状況が出現します。上海の問題についてイギリスが話し合いたいと思っても、連盟の場ではそれは無意味なのです。

  

 1927年、北伐をつづける国民革命軍と居留民保護のために派兵された日本軍の間で済南事件が起こります。国民政府はこれを連盟に訴えて解決しようと試みますが、ここでも問題となったのは、この時点で連盟において中国を代表しているのが北京政府だということでした。

 日本は上海の例を引きながら、国民政府が当事者である済南事件を連盟が取り扱うのは不適当であると主張します。一方、北京政府と国民政府が協調して連盟に提訴する道も探られましたが、結局うまくいかず、またイギリスなども連盟に代表権を持たない国民政府からの訴えを取り扱うことに否定的だったこともあり、この問題が連盟の場で扱われることはありませんでした。

 

  その後、1929年の中ソ紛争において中国は連盟提訴の構えを見せます。このときには国民政府が中国の統一を成し遂げ、連盟に代表を送っており、中国国内の分裂という問題はクリアーできていました。

 しかし、紛争相手のソ連が連盟に加盟していなかったことから、連盟事務局やイギリスはこの問題を連盟が取り上げることに否定的でした。ソ連が連盟の招請に応じるとは思えなかったからです。

 

 では、紛争相手が連盟加盟国であった場合どうなのか? その答えは1931年に勃発した満州事変で示されます。

 満州事変に関しては、中国の代表問題、相手国の加盟問題の双方をクリアーしており、中国の連盟提訴を阻む要件は残っていませんでした。日本は覚書の提出などによって中国の連盟提訴を阻もうとしますが、国際社会の賛同は得られなかったのです。

 日本の外交は連盟の「普遍性」の広がりについていくことができず、満洲事変後の外交において後手を踏み、ついには連盟脱退へとつながっていきます。

 

 第3章は国際連盟と多国間枠組の競合と包摂について。

 国際連盟規約には一見すると矛盾する以下の規約があります。

第20条【規約と両立しない国際約定】

1 聯盟国は、本規約の条項と両立せざる聯盟国相互間の義務又は了解が各自国の関する限り総て本条約により廃棄せらるべきものとなることを承認し、且つ今後本規約の条項と両立せざる一切の約定を締結せざるべきことを誓約す。
2 聯盟国と為る以前本規約の条項と両立せざる義務を負担したる聯盟国は、直ちにその義務の解除を得るの処置を執ることを要す。

第21条【局地的了解】

本規約は、仲裁裁判条約の如き国際約定または「モンロー」主義の如き一定の地域に関する了解にして平和の確保を目的とするものの効力に何等の影響なきものとす。

              http://itl.irkb.jp/iltrans/zLeagueOfNations.htmlより

 

 20条では「普遍性」を押し出して連盟規約と両立しない協定は結べないことになっているのに、21条では「地域」ごとの個別の取り決めを認めるような内容になっているのです。

 21条はアメリカを連盟に加盟させるために挿入されたものですが、アメリカの不参加が決まったあともこの条文は残りました。そこで、例えば、4カ国条約や9カ国条約、あるいは不戦条約などにおいても連盟との関係が問われることとなったのです。

 

 4カ国条約と9カ国条約については、アジア太平洋地域において連盟の代わりとなるものとして捉えられてきた面があり、両者の競合関係についてあまり検討されて履きませんでしたが、本章ではその競合関係を中ソ紛争や満州事変を題材に検討しています。

 

 4カ国条約と9カ国条約によって、いわゆるワシントン体制が確立するわけですが、この体制には制度化された協議メカニズムが欠けており、連盟との相互補完関係もうまく築くことができないままになりました。

 一方、ヨーロッパでは1920年代後半に連盟と相互補完体制を築くかたちでロカルノ体制が成立します。ただし、アメリカ抜きという連盟の抱える問題は不戦条約の締結過程で問題となります。不戦条約は連盟と同じく普遍的枠組みであり、しかも多様な解釈の余地を残すものだったからです。

 アメリカのデイヴィッド・ハンター・ミラーは、不戦条約を「アメリカと連盟の間で結ばれた条約であると言っても過言ではない」(97p)と述べていますが、この条約が連盟とどのような関係を持つかという点に関して曖昧なままでした。

 

 フーヴァー政権は連盟に加盟しないことを表明しつつ、不戦条約による紛争調停の仕組みを整備しようと考えます。スティムソン国務長官は中ソ紛争に関して両国が不戦条約の加盟国であることを協調して調停委員会の設置を提案しました。

 この提案やイギリスや日本の協力が得られなかったこともあって頓挫しますが、連盟事務局には不戦条約が連盟に取って代わろうとしているのではないかという懸念が残りました。

 

 満州事変に際しても、解決のための枠組は連盟だけでなく、不戦条約や9カ国条約ということも考えられました。スティムソン国務長官関東軍の行動を「反乱(mutiny)」と捉えたことなどによって不戦条約の適用は見送られましたが、日本の撤兵が遅れるとアメリカの不満は募り、アメリカはオブザーヴァーとして連盟に参加することになります。

 連盟はアメリカの取り込みに成功しますが、イギリスや連盟自体も連盟の失敗や行き詰まりを懸念しており、イギリスは9カ国条約への移管なども検討しますが、うまくいかないまま時間が過ぎていきます。

 一方、日本では杉村陽太郎(「いだてん」も出てきた連盟事務次長兼政治部長を務めた人物)が連盟よりも9カ国条約がましな選択肢だと論じますが、基本的には連盟だけでなく不戦条約や9カ国条約もまとめて拒否し、国際的孤立を深めていくのです。

 

 第4章ではパラグアイボリビアの間に起こったチャコ紛争をとり上げています。知っている人は少ない紛争かと思いますが、ちょうど満州事変と同じ頃に地球の裏側で起きた紛争であり、連盟が取り扱おうとした紛争になります。

 アメリカ大陸に関しては、連盟ができる前から定期的に開催されるパン・アメリカ会議、常設機構のパン・アメリカ連合が存在しており、地域の枠組みは東アジアと違ってしっかりしていたといえます。 

 

 そんな中で、1928年12月にパラグアイボリビアの間で起こった国境紛争であるチャコ紛争においても、まずは地域の枠組みである米州仲裁調停会議で解決がはかられました。

 一方、1926年から南米の非常任理事国が増加したこともあり、連盟でもこの問題を取り扱おうという気運が高まります。このときはパラグアイボリビアの両国が米州仲裁調停会議の調停を受け入れたことから連盟の本格的な介入はなされませんでしたが、1932年に再び衝突が起こり紛争が激化すると、連盟の介入が問題となりました。

 当時、満州事変を抱えていた日本は地域の問題は地域で解決すべきとの立場をとりますが、ドラモンド連盟事務総長は連盟がチャコ紛争に関わらず南米に無関心であることは満州事変の審議に悪影響を及ぼすと考えていました。チャコ紛争をとり上げないことは連盟の普遍性を傷つける恐れがあったのです。

 

 アメリカは連盟の本格的な介入に否定的でしたが、地域的枠組みによる仲介が手詰まりとなると、連盟が本格的に仲介になりだしていきます。

 連盟のチャコ委員会は調査を行うとともに、戦争を終わらせるために両国への武器禁輸措置などを行おうとしますが、パラグアイが1936年に連盟を脱退し、連盟の工作は失敗に終わります。すでにブラジル、日本、ドイツが脱退しており、脱退という選択肢は特別のものではなくなっていたのです。

 結局、チャコ紛争は地域的枠組みのもとで1938年に終結します。連盟よりも地域的枠組みが物を言ったわけですが、連盟と地域的枠組みという重層性が粘り強い仲介を可能にしたと言えるかもしれません。「9カ国条約や不戦条約を全て連盟に一元的に統合した結果として、日本を包摂した全ての多国間枠組みが成立し得なくなったアジア太平洋地域と比較すれば、ラテンアメリカにおける多国間枠組みの多元性が解決に寄与したと言えるかもしれない」(167p)のです。

 

 第5章では連盟と地域機構の関係というやや抽象的な問題が扱われています。

 連盟は当初、普遍的な機構を目指してスタートしており、当然ながら地域機構に優越する存在となろうとするわけですが、実際には水平的な協調をはかっていくことになります。

 詳しい内容は割愛しますが、日本が連盟を脱退したあとにイタリアが提案した連盟改革案に対して反応しているところなどは興味深いです。イタリアの提案をきっかけに理事会の地域的分割が議論の対象となるのですが、これに対して杉村陽太郎は、加盟国を欧州アフリカ、米州、アジアの3つに分類し、小国は地域の問題のみ、常任理事国は全ての問題に関与できるような改革を提案し、この改革が実現した場合の連盟への日本の復帰を示唆しています。これが日本政府の意思だったわけではないでしょうが、杉村は満州事変おける連盟の失敗の原因をヨーロッパの小国の対日批判にあると考えていたのです。

 そして、こうした地域主義に対する反省も踏まえて、国際連合憲章の第8章には地域機構に対する国連の統制が規定されることになります。

  この国際連盟国際連合の連続性に関しては終章でも言及があり、国際連合が連盟を反面教師にしただけではなく、連盟での経験をもとに作られた組織だということが見えてくると思います。

 

 このように国際連盟の可能性と抱えていた問題を改めて分析してみせた内容となっています。

 日本からの視点では、どうしても満州事変の対応に集中してしまいますが、それ以前の中国問題、そしてチャコ紛争という地球の裏側での出来事と比較検討することで、満州事変における連盟の動きの背景が改めてよくわかります。

 また、普遍的な国際機関と地域的な国際機関の関係をいかに考えるべきなのかというのは現在にも持ち越されている問題であり、この問題を考える上でも多くの材料を提供していくれています。

 

 1冊の本としてみると、第5章や終章で国際連盟の終わりまで触れてくれると、より自分を含めた一般的な読者にとってはありがたいですが、日本史畑の人にも世界史畑の人にも読んで得るものがあると思いますし、連盟の動きだけでなく、当時の外交の様子というものについてもイメージが湧くような内容になっていると思います。