ラヴィーシュ・クマール『声を上げる自由』(作品社)

 解説を書かれている湊一樹氏よりご恵投いただきました。どうもありがとうございます。

 

 湊氏といえば、『「モディ化」するインド』(中公選書)でモディ政権のもとで進むインドの権威主義化を鋭く指摘していましたが、本書もモディ政権のもとで進む権威主義化、あるいはファシズム化といってもいいような実態を告発するものとなっています。

 

 著者のラヴィーシュ・クマールはインドのジャーナリストで、長年、インドのテレビ局NDTVの看板番組「プライム・タイム」でアンカーを務めていた人物です。2019年にはマグサイサイ賞を受賞するなど、その活動は国際的にも評価されてきました。

 しかし、NDTVが「反モディ」「反BJP」とみなされたこともあってクマールもさまざまな圧力を受け、2022年にNDTVがモディに近いアダニ・グループに買収されたことをきっかけに、NDTVを退職しました(その退職時の挨拶が第14章)。

 その後はYoutubeの自身のチャンネルなどを通じて活動しているとのことです。

 

 目次は以下の通り。

2024年版へのまえがき

2019年版へのまえがき

第1章 声を上げること

第2章 ロボ大衆と新しい民主主義の建設

第3章 恐怖支配の国家プロジェクト

第4章 モブが集まればヒトラーのドイツに

第5章 市民であること

第6章 生活に根づく聖人たち

第7章 私たちの恋愛のありかた

第8章 プライバシーの基本的権利

第9章 恐怖からの自由とは主流メディアからの自由

第10章 2019年に『1984年』を読みながら

第11章 独立記念日にご褒美のアイスクリームを

第12章 民主主義を前進させる市民ジャーナリズムの力

第13章 ガーンディーをめぐる?と真実

第14章 ジャーナリズムの「暗黒時代」

第15章 健全で責任ある自由なメディアのゆくえ

解説 ジャーナリズムを捨てたメディア 湊一樹

訳者あとがき

 

 「2024年版のまえがき」に「首相だけがこの国の唯一のニュースなのだとして、首相の言いなりのメディアすら首相の情報をほとんど持ってないというのはおかしくないだろうか」(10−11p)という記述がありますが、現在のインドではモーディー(本書は「モディ」ではなく「モーディー」表記、以下、モーディーで書きます)のことだけがニュースであり、同時にモーディーに関する情報は必ずしもオープンになっているわけではありません。

 ニュースがあたかもモーディーのプロモーションのようになってしまっているわけです。

 

 第1章では、著者が恐怖を克服して声を上げる重要性を訴えていますが、インドにおいて怖いのは警察などを使った政府による直接的な圧力というよりは、「IT部隊(セル)」と呼ばれる、オンライン上でモーディー政権のプロパガンダ活動を行う実働部隊です。

 これは著者に言わせれば、具体的な組織ではなく、社会に広がるメンタリティです。

 

 本書によれば、「IT部隊」はワッツアップ大学という独自の研究所を持ち、そこではネヘルー(ネルー)もガンディーも悪人とされ、ジャーナリストが誹謗中傷されています。

 かつてのモブは街頭の演説などに影響されたわけですが、現在のモブはネットで影響を受け、政府はこのモブに権力を外部委託するような形で反対派に圧力をかけています。

 そして、モブは宗教的な熱狂をまとっており、牝牛の屠殺や「ラヴ・ジハード」(イスラムの男性とヒンドゥーの女性の結婚)を問題視し、ムスリムや政府に反対する人々を二級市民扱いしようとするのです。

 

 第2章ではモーディーが自ら発信するフェイクニュースとそれを批判せずに報じる主要メディの問題から始まっています。

 著者はモーディーの信者のようになってしまった人々を「ロボ大衆」と批判していますが、こうした状況に加担しているのがメディアです。

 インドでは、業や個人がメディアに金を払って好意的なニュースを流してもらうペイドニュースというものがあり(湊一樹氏の解説も参照)、これに対処できる明文化された法律はありません。

 長いものと金に巻かれるメディア、メディアとネットに流通するフェイクニュースによって民主主義の基盤が揺らぐとともに、歴史の修正も行われているのです。

 

 第3章は、インドでおきた2つのジャーナリストへの襲撃事件へのスピーチが元になっています。

 日本でもネットで「マスゴミ」という言葉が流通しているように、マスコミやジャーナリズムに対する反発は強いですが、それが「モブ」による暴力にまで発展しているのが現在のインドです。

 

 2017年にバスィト・マリク記者はその名前からムスリムだと特定され襲撃され、同じ年には女性ジャーナリストのガウリ・ランケーシュが自宅前で殺害されました。

 ランケーシュの殺害の理由ははっきりしないのですが、これに講義する動きに対してヒンドゥーナショナリストを名乗るニキル・ダディーチはTwitterに「あばずれの犬死に子犬たちが鳴いている」と投稿しました。そして、問題はモーディー首相がダディーチをフォローしており、このツイートにも特に反応せずにスルーしたことです。

 インドでは、「モブ」の暴力や暴言を政府が黙認しているような状況があります。

 

 第5章ではインドにおける歴史修正主義と民主主義の問題がとり上げられていますが、個人的に注目したいのは著者の次の主張。

 個人としては、どんな政治家や政党に忠誠を誓おうが自由である。党員になることも何ら問題にはならない。しかし、市民であるという自覚があるなら、それを市民に相応しい行動によって示すべきである。先入観を持たずに公正に回答を求めるのは、市民の仕事だ。これは、組織に対するいかなる義務にも優先する。何らかの政党や宗教団体、文化団体の手先として行動すれば、それは民主主義を破壊することになる。投票によって特定の政党を権力の座に就かせたなら、そのあとは一歩退いて、再び公正に振る舞うことが市民としての責任である。(123p)

 

 これは市民は政党の党員などにはならず、あくまでも公正な審判者として振る舞うべきだと説いた吉野作造の考えに近いです。これに対して、トクヴィルやアーレントは市民が政党をはじめとする組織にコミットすることがデモクラシーを強くすると考えました。

 個人的にはずっとトクヴィルやアーレントの考えが正しいのではないかと思ってきましたが、近年になってファンダム以外の組織が成立しにくくなっている印象もあり、このあたりは改めて考えてみたいところですね。

 

 第6章から第11章にかけては比較的短い論説やエッセイが並びます。

 第6章ではインドのメディアにおける占いの氾濫、第7章ではインドの恋愛についてのものです。

 第7章は、インドの若者がデートする場所がなかなかないという嘆きから始まりますが、次第に恋愛におけるカーストや宗教の壁、そして、名誉殺人とも言われる親や世間の意に沿わない恋愛を殺人で阻止する行為の問題へと筆を進めています。

 

 第10章「2019年に『1984年』を読みながら」では、2019年にインドで設立されたクリーン・ザ・ネーション(CTN)という団体が紹介されています。

 CTNは2019年2月14日、インドのジャンム・カシミール州プルワマ(本書では第9章ではプルヴァーマー、第10章でプルワーマーと表記揺れが見られる。以下プルワーマーで表記)地区で発生した自爆テロ事件の翌日に結成された団体です。

 管理者のほとんどが20代のITの専門家で、名前の通り「反インド的分子の一掃」を掲げて活動しています。

 

 やっていることは、「反インド的分子」に関する情報をフェイスブックで集め、「反インド的分子」を職場や大学などから追い出すことです。実際、大学の助教授が停職になったり、カシュミール出身の学生が停学になったりしました。

 この団体への政府の関与は不明ですが、現在のインドでは「ネット自警団」(本書の言い方ではITセル)が、まるでビッグブラザーの意思を忖度するかのように「反インド的分子」の摘発にいそしんでいるのです。

 

 第12章はマグサイサイ賞授賞式に先立って行われた講演です。

 主要メディアが政府に追従する中で、市民ジャーナリズムに期待を寄せた文章ですが、現在のインドの困難は、その市民ジャーナリズムが政府だけではなく、別の「市民」とも戦う必要があることです。

 

 今日、市民ジャーナリストであるためには、国家だけでなく国家の言いなりになる市民とも戦わなければなりません。そのため、私はいまこのような話をしています。国家の意志を補完しようと行動してきた市民は、国家と同程度、あるいはそれ以上の困難です。こうした市民は、自ら残虐行為を引き受けます。国家には大きな制約があって、自分たちでなければ実行できないと考えているのです。主流メディアもソーシャルメディアも、それがネットであれ現実であれ、市民をモブのなかに置くことで孤立させ、黙らせ、脅迫するというプロセスに加担しています。(216p)

 

 日本でも川口のクルド人に対する排外主義などでは、なにか確固たる思想があるというよりは「暴れたい」という思いを持った人が参加している印象がありますが、インドではより大規模に「残虐行為を引き受けたい人」に政府がお墨付きを与えるような構図があるのかもしれません。

 

 第15章ではインドのメディアの状況が嘆かれています。

 ずっとインドのメディアは金がないから視聴ポイントを稼ぐために手段を選ばずに番組をつくるしかなかったと言われてきましたが、ムケーシュ・アンバーニーやガウタム・アダニといった大富豪がメディアを買収して質の高い番組がつくられるようになったかというとそうではありません。

 主要メディアには政府広告が流れていることも合って、「御用メディア」と化しており、政府への批判的視点などは期待できない状況だといいます。

 

 現在のインドの政治状況などの文脈を知っていないとややわかりにくい面もあるので、前掲の『「モディ化」するインド』(中公選書)などを読んでからのほうがわかりやすいかもしれませんが、インドの状況と、インドだけに限らないこれからのジャーナリズムについて考える上で非常に有益な本だと思います。

 

 「アラブの春」やネパールやバングラデシュの政変に見られるように、ときには政府を倒してしまうこともあるSNSですが、同時に本書が描くインドのように少数派を抑圧する道具になることもあります。

 本書はSNS時代におけるジャーナリズムの難しさと、小さな可能性を教えてくれる本でもありますね。