アダム・プシェヴォスキ『それでも選挙に行く理由』

 日本でも先日、衆議院議員の総選挙が行われ、その結果に満足した人も不満を覚えた人もいるでしょうが、冒頭の「日本語版によせて」の中で、著者は「選挙の最大の価値は、社会のあらゆる対立を暴力に頼ることなく、自由と平和のうちに処理する点にあるというものだ」(7p)と述べています。

 日本に住んでいると、この言葉にピンとこないかもしれませんが、著者は選挙の歴史や国際比較を通じて、この言葉に説得力を与えていきます。本書の帯にある「選挙とは「紙でできた石つぶて」である」との言葉も本書を最後まで読むと納得できるでしょう。

 

 著者は1940年にポーランドで生まれた比較政治学者で、1960年代にアメリカに留学して以来、主にアメリカの大学で教鞭をとっています。

 このポーランド生まれというところが、ありきたりな民主主義論とは違う、一風変わった民主主義と選挙についての考えのバックボーンにあるのかもしれません。

 

 目次は以下の通り。

第1章 序論
第1部 選挙の機能

第2章 政府を選ぶということ

第3章 所有権の保護

第4章 与党にとどまるための攻防

第5章 第1部の結論 選挙の本質とは
第2部 選挙に何を期待できるのか

第6章 第2部への序論

第7章 合理性

第8章 代表、アカウンタビリティ、政府のコントロール

第9章 経済パフォーマンス

第10章 経済的・社会的な平等

第11章 平和的な紛争処理

第12章 結論 

 

 近年、ポピュリズムが問題となり、民主政治の危機が叫ばれていますが、かつてのファシストと違って、ポピュリストは選挙で指導者を選ぶことに反対しているわけではありません。選挙はやはり重要な位置を占めているのです。

 

 歴史を紐解けば選挙による政権交代というのは珍しいもので、1788〜2008年にかけて選挙で政府が代わったのは544回、クーデタで代わったのは577回だといいます(21p)(ちなみに1788年はアメリカで歴史上初めて、すべての成年男子が選挙権を持って代表者を選ぶ国政レベルの選挙が行われた年)。

 そもそも中国とロシアの2つの大国を含む68カ国では選挙の結果として政権交代が起こったことはなく、歴史上ありふれたこととは言えないのです。

 

 著者は「選挙は次善の策である」と言います。「たしかに、個人としては他人の意志に屈しなければならない」ですし、「一定期間気に入らない政府のもとで暮らさざるを得ない人は少なくない」(33p)わけですが、それでも定期的な意思表示ができます。

 

 代表を選ぶやり方には、選挙以外にもくじ引きが考えられますが、著者は人びとの間に統治に関する能力の差があるためにくじ引きは退けられたと考えています。

 現在では、政党は登録制であることが多く、政治家も階層的に組織されており、政治家は何年もかけて有力な政治家となっていきます。また、選挙に勝つには資金力が必要であり、政治家になれるのはさまざまな面で選ばれた人々が中心になります。

 

 一方、投票する側に関しても、誰でも参加できる選挙というものは歴史的にずっと警戒されてきました。貧乏人が選挙に参加すれば少数派である金持ちから財産を奪うような政治がなされると考えられたからです。

 これに対して、一つの防波堤となっているのが「法の支配」です。ただし、「法の支配」といっても法律が支配できるわけはなく、支配するのはあくまでも人間である裁判官だと著者は言います。

 

 選挙においては現職が圧倒的に有利です。1788〜2008年までの2949回の選挙のうち、2315回、つまり79%の確率で現職が勝っています(69p)。

 与党現職は立法府の多数派を握っており、官僚機構を指揮できるために優位に立つことができます。さらに現職は支持の見返りとして政治的な優遇を与えることもできます。

 さらには選挙制度をいじったり、区割りを変更したり(ゲリマンダリング)、選挙運動を規制したり、メディアを統制したりすることもできるかもしれません。さらに最終手段としては不正もあります。選挙自体を歪めてしまうのです。

 

 こうした中で私たちは選挙に何を期待すべきなのか?

 有権者集団が大きくなれば個人の一票は限りなく軽くなり、「個人の視点からすれば、選挙結果はコインを指ではじいた結果のようなもので、行動と結果の間に因果関係がない」(108p)ことになります。

 それでも著者は、次のように述べます。

 選挙の価値とは、「統治者と非統治者の双方が選挙を『意思表示』手続きであると認識し、指令伝達であるとみなし、政府はその指令を当然のこととして実施する」ことができていれば十分なのである。

 私たちが選挙を評価するのは、一人ひとりが何をするにも自由であるという、私たちが本来望むものの次に良いものだからである。誰もが、やりたくないことをやれと命令されたり、やりたいことの実行を禁じられるのは好きではないが、それでも私たちは統治されなければならない。そして、すべての人が同時に統治者にはなれないので、せめてもの次善の策は、誰によってどのように統治されるかを選択することができ、好ましくない政府を排除する権利を持つことなのである。これが、選挙が可能にすることである。(109p)

 

 選挙によって合理的な政策が実現されるのかどうは不明なところがあります。

 まず、誰にとっても合理的な選択というのはないかもしれませんし、熟議を重ねることで合理的な結論に至ることができるとしてもすべての選挙でそれを期待できるわけではありません。

 「共通の利益」「共通の善」を強調することはナショナリズムを鼓舞するだけになるかもしれません。また、陪審の結論と違って選挙結果が正しかったかどうかを後から判定することも困難です。しかも、選挙で争われる争点は1つではありません。

 

 選挙の争点が1つではないこと、また、政治を取り巻く環境が刻々と変化することから、選挙で選ばれた代表者は必ずしも選挙で掲げた公約を忠実に実行するわけではなくなります。

 有権者は代表者のとった政策が有権者にとって良いものだったどうかを判断する必要があり、代表者にはそのためにアカウンタビリティが課せられます。

 

 現在、有権者の多くは経済的な利益を望んでいます。そのため選挙で選ばれた政府は経済的繁栄のための政策を追求すると考えられます。

 ただし、貧しい国では有権者が消費を求めるために投資が進みにくく、独裁の方が経済成長に有利であるとの議論もあります。

 このように選挙が経済的なパフォーマンスを高めるのかどうかはよくわからないところですが、少なくとも民主主義体制では社会保障制度をいきなり撤回するようなことは起こらないと考えられます。ある意味で、社会の安定をもたらすものと言えるでしょう。

 

 普通選挙は平等を促進することが期待されます。貧しい多数派は格差を縮小するような政策を望むだろうと考えられるからです。

 しかし、データを見てみると所得が不平等である程度は政治体制が違ってもそれほど差がありません。また、民主体制の国でもすでに不平等のレベルが高い国では、かえって再分配が少なくなる傾向もあります(142p)。

 貧乏人はなぜか金持ちから財産を奪い取ろうとしないわけですが、これにはさまざまな要因が考えられます。例えば、金持ちのほうが再分配によって失うものが多いので政治に金をかけて熱心に働きかけるということもあるでしょう。

 

 このように選挙が多くの問題を自動的に解決するわけではありませんし、負けた側には不満が残ります。それでも民主主義がうまくいっている国では、敗者は退場し、勝者が統治者となります。

 著者は「投票は「力こぶ」をつくることと同じ、つまり、起こりうる戦争の勝率を予測できることに匹敵する」(155p)と述べています。実際に内戦をしなくても、投票の数で各勢力の戦力が予測できるのです。

 このために選挙を行うことは暴力的な紛争の頻度を下げることに繋がります。まさに「投票用紙は「紙でできた石つぶて」」(157p)なのです。

 

 このように本書で展開される選挙と民主主義の話はかなり独特なものだと思います。

 多くの論者は民主主義のさまざまな良い面をアピールしようとしますが、プシェヴォスキは「平和的な政権交代の可能性」という1点を推している感じです。

 民主主義を前提として選挙を考えると、「もっと国民の意思をきめ細かく吸い上げられないものか?」とか「もっと有権者の啓蒙が進むようなしくみはできないものか?」などと、いろいろなことを思ってしまいますが、そうした中でこのシンプルな主張には力強さがあると思いますし、改めて何が重要なのかということを考えさせる内容になっています。