ピエール・ロザンヴァロン『良き統治』

 副題は「大統領制化する民主主義」。18〜19世紀にかけて民主主義の中心は議会であり、立法権であると考えられていましたが、20世紀半ば以降、執行権(行政権)こそが実質的な政治を動かすものだという認識が強まり、政治の評価を執行権(行政権)のトップである大統領や首相の功績や優劣に求める傾向が強まっています。

 例えば、アメリカの政治を語るときでも、「オバマは〜だった」「トランプは〜だった」というように大統領を中心に語られることが多いと思います。

 「なぜ、民主主義の中心は立法権から執行権(行政権)に移行したのか?」、「執行権が中心になった時代の民主主義はいかにあるべきか?」というものが本書のテーマになります。

 著者は政治思想史や社会思想史などを専門とする人物で、さまざまな人物の考えや出来事から民主主義の変化を描き出していますが、同時に現在の民主主義に対する具体的な提言も行っており、「民主主義の危機」が叫ばれる中で、非常にタイムリーな本にもなっています。

 なお、冒頭に宇野重規によるわかりやすいまとめがあるので、本屋で手に取る機会があれば、まずそこを読むといいと思います。

 

 目次は以下の通り。

 

 

「良き統治」とは何か  (宇野重規

序 新しい民主主義への移行

I 執行権——その問題含みの歴史
1 法の聖別と執行権の格下げ
2 非人格性の崇拝とその変容
3 執行権の復権の時代
4 二つの誘惑

II 民主主義の大統領制
1 先駆的な経験——1848年とワイマール共和国
2 ドゴール的例外から大統領制化の普及へ
3 不可避的かつ問題含みの点
4 非自由主義の規制

III 被治者のものとなる民主主義
1 被治者と統治者の関係
2 理解可能性
3 統治責任
4 応答性

IV 信頼に基づく民主主義
1 良き統治者の諸相
2 真実を語ること
3 高潔さ

結論 第二段階の民主主義革命
訳者あとがき  (古城毅)

 

 本書の冒頭には「私たちの政治体制は民主主義的であるといえる。しかし、私たちは民主主義的に統治されていはない」(3p)との一文が置かれていますが、これが本書の出発点です。

 政治の中心は議会から大統領へと移行し、「統治」というものが政治の重要な要素になっているのに、民主主義はそれに対応できていないのです。

 

 18〜19世紀の思想家、例えばベッカリーアやベンサムは、法という一般性に基づく政治こそが正しいものであって、司法や行政に紛れ込む恣意性は古臭いもの、克服されるべきものだと考えていました。

 こうした態度はフランス革命時にも見られるもので、「法の祭典」が開かれ、人々は「法に万歳!」と熱狂的に叫びました(34p)。専制政治は個別的な権力として理解され、「自由は規則の一般性によって確保される」(35p)と考えられたのです。

 この結果、司法権は格下げされ、執行権は蔑視されました。ルソーは執行権は「一般性には属しえない」(38p)と考え、執行権に従属的な役割しか認めませんでしたが、こうした考えはジャコバン派に引き継がれ、ロベスピエール大臣たちを公安委員会の「単なる道具」と形容しました(41p)。

 

 法はその非人格性から支持されましたが、そうした中で権力を握ったのはナポレオン・ボナパルトという1人の人間でした。スタール夫人は「革命が始まって以来、固有名が皆の口に上るのは初めてだった」(49p)と述べていますが、突如として非人格性という理想は捨て去られたのです。

  この後、ナポレオンの失脚とともに再び非人格的な権力が支持されるようになり、19世紀は非人格的な政治を求める動きが続きます。

 

 しかし、20世紀になると、普通選挙の導入、第一次世界大戦の勃発、ケインズ主義による経済分野への政治の介入の拡大という3つの要因によって、執行権が復権してうくることになります。

 特に経済分野への政治の介入は、政府が経済を中心にさまざまな分野に関して「調整」することを期待することとなり、法も執行権が産出するものとなっていきます。「一般性の概念と一体になった立法権力と、個別性の概念と一体となった執行権力との間の旧来の区分は、このような状況で完全に消滅した」(76−77p)のです。

 

 ただし、この執行権を民主主義にうまく組み込めませんでした。行政部門には合理性と効率性が求められましたが、当時は「ボス」によるに政治が批判されていた時代でもあり、同時に行政部門からの党派性の追放が叫ばれました。行政部門はそうした党派争いから距離を取ることが求められたのです。

 カール・シュミットは執行権を称揚し、自由主義的な民主主義を否定しました。テクノクラート的、あるはい決断主義的な執行権のあり方が求められるようになり、執行権における民主主義は大統領制化という形で実現されることになります。

 

 著者は、「民主主義の大統領制化=人格化の動きは、20世紀最後の数十年の政治活動を特徴づけた」(99p)と述べます。普通選挙によって、執行権の長を選ぶことが民主主義の明白な特徴となったのです。

  トクヴィルは「大統領から選挙を取ってみなさい。憲法上、彼にはもはや何も残らないだろう」(105p)と述べましたが、いつの間にか大統領選挙こそが民主主義の中核のような形になっていったのです。

 

 民主主義の大統領制化に関して、ワイマール期のドイツについてもウェーバーなどをとり上げながら検討していますが、著者の母国でもあり、本書でも中心的にとり上げられているフランスを例に取れば、やはりドゴールがポイントとなります(ちなみに本書ではアメリカの大統領は例外として捉えられている(125−126p)。

 ドゴールは議会は「特殊な諸利害の代理人を集結」(127p)させているとし、一方で執行権こそが一般意志と国の統一性を代表する役割を果たすと主張しました。そして、ドゴール以降は、この執行権を有する国家元首は選挙によって選ばれ、政党を超越し、一般意志と国の統一性を代表するものとして制度化されていくのです。

 そして、この選挙による大統領制は独立を果たしたアフリカ諸国やラテンアメリカ諸国に広がっていくことになります。

 

 ドゴールは自ら社会を体現しようとしましたが、後継者は徐々にそうしたスケール感を失っていきます。「それゆえ、ドゴール以降の第五共和政を名付けるのに、人々は「天才なきカエサル主義」という言葉を使うことができた。かくして大統領制化=人格化の政治形態と社会を体現することとの間に溝ができ、その溝は広がり続けているのである」(137p)というわけです。

 

 こうした大統領制化は民主主義的な要請に応えるものでもあります。まず、大統領は議会よりも責任を帰属化させやすいという面があります。また、革命の機運が交代するとともに、新しい大統領に社会的な期待がかけられるようになりました。さらに民主主義の大統領制化=人格化は制度や決定過程をより理解可能なものとする要請に応えるものでもあります。

 この大統領の正当性は選挙に依っているのですが、この選挙が万能というわけではありません。例えば、次のような問題があります。

 良き候補者は有権者を魅了できないといけない。良き候補者にとって重要なのは、魅力を放ち、親しみやすさを表現し、雑多に構成された人たちを集めることである。つまり少なくとも部分的には矛盾する公約の言葉を重ね、多くの言葉を操ることが重要となってくる。〜一方、統治する場合、選択の公表が迫られ、あまりに長時間、さまざまな選択肢を検討することは難しくなる。統治するということは、政治の言葉が織りなそうとする計算された曖昧さのベールを定期的に引き裂く決定をするということである。つまり、こうした不一致は構造的に失望を引き起こし、政治世界に対する拒絶を生むものである。(143−144p)

 

 他にも大統領は有権者と類似した存在なのか、卓越した存在なのかという緊張関係も引き受けます。

 こうした中で選ばれた大統領は、唯一無二の地位を得ることとなり、非自由主義的な傾向を助長します。選挙で選ばれた大統領こそが他の権力に比べて正当性を持つと理解されやすいからです。

 

 この大統領という統治者と被治者の関係は複雑です。立法に関しては、人民は国民投票などを通じて自らも立法者として振る舞える可能性がありますが、自分自身で統治することはできません。「被治者と統治者の間には一種の構造的な非対称性が存在している」(177p)のです。

 「社会はつねに多様であるのに対して、執行権は、それが法的に有効となる条件とは関係なく、その性質上つねに一つ」(179p)なのです。 

 

 こうした中で、著者は統治の民主的な質を高めるためには、「理解可能性」、「統治責任」、「応答性」の3つが必要であると訴えています。 

 まずは「理解可能性」からです。ここではアカウンタビリティから議論を始めています。アカウンタビリティは議会に対する会計報告と監査から始まり、フランス革命後の人権宣言には「社会はあらゆる公共機関にその行政の会計報告を請求する権利がある」(197p)と述べています。

 また、議会活動の公開も進みましたが、だからといって「理解可能性」が高まったとは言い難い面もあります。政治の「可視化」は進みましたが、だからといって決定過程や政策に対する理解が深まったとは言い難く、ルイ14世のように指導者の私生活は公開されても、実際の政策決定の過程はまったくわからないという状況に戻りつつあるかのようです。

 

 しかし、「理解不可能性はおのずから幻滅と拒否を生む。欧州連合の諸組織ほど、このことを雄弁に物語っているものはない」(211p)と著者が述べるように、理解可能性の後退は大きな不満を生みます。欧州連合の場合は、その非人格性が理解不可能性を高めているわけですが、人格性を全面に出して「理解可能性」を表面的に高めたとしても問題が解決するわけではありません。そして、理解可能性の後退は陰謀論を招きます。

 スノーデンやウィキリークスのような暴露も重要ですが、同時にそうした暴露を分析して解釈する能力が重要であり、メディアや市民団体、知識人などにそれが求められています。

 

 次に「統治責任」について。統治責任とは積極的な権力行使の代償ともいうべきものであり、被治者と統治者の関係を構築する主要な要素です。

 統治責任には、権力を保持し、問題があったら辞職するという形の責任と、被治者に対する説明責任があります。

 ただし、誰に責任を帰属させるのか? という問題は、決定過程の不透明化と統治構造の複雑化によってますます難しくなっています。また、責任を問うもの世論がその存在感を増し、「いまや実質的な存在となった」(245p)わけですが、この世論は混沌としており、著者は「組織された市民社会として世論を構成することが必要だ」(247p)と考えています。

 

 最後に「応答性」ですが、まず、19世紀以降、「市民の意志表明が、選挙という形式的な表明へと徐々に後退し」、「政党が職業化」した状況があります(253p)。

 こうした中で、市民と政治のつながりをいかに構築するかが課題となるわけですが、こうしたつながりを担っていた労働組合なども衰えており、統治者たちは「街頭と世論調査にしか向き合わないように」(270p)なっています。

 この市民と政治がつながる回路が弱まったことが、置き去りにされた者たちを代表するというポピュリズムの台頭を招いています。

 民主主義は相互作用であり、さまざまな多様性を取り入れる必要があります。著者はこのために公的討論のためのしくみを構想しています(本書では具体的に展開されてはいませんが)。

 

 第4部では良き統治者像を探っています。歴史上、有徳な君主という中世のモデル、 純粋な選良モデル、カエサル的な期限を持つ人民の体現者モデル、マックス・ウェーバーの天職による政治家モデルなどが存在しましたが、著者は「信頼のおける人間」という統治者増を提案しています(280p)。

 歴史的なモデルに関しての詳しい説明は本書に譲りますが、フランス革命期に表れた純粋な選良モデルにおいて、立候補という行為に貴族主義的な匂いが嗅ぎつけられ、立候補が禁止されたというのは興味深いですね(286p)。

 

 著者は、「被治者と統治者の間の民主主義的な関係の再構築は、何よりもまず、今日極めて劣化している信頼関係の立て直しから始まる」(297p)と述べています。かつてのように「代表」という面から統治者を捉えることは難しくなっており、それを埋め合わせるためにも信頼が重要だというのです。

 

 そのために必要なのが「真実を語ること」です。

 ヒトラーにしろ、あるいはトランプにしろ政治家が陰謀論的な世界観を語り続けることの危険性は広く知られていることですが、「政治において「真実を語ること」とは何なのか?」というのは難しい問題だと思います。

 本書でも、それほどクリアに論じられているとは思えないのですが、政治の世界におけるモノローグへの批判の部分で出てくるイギリスとフランスを対比した次の部分は面白いと思いました。

 イギリスの伝統では、演説は一般的に即興でなされなければならず、発言者は要点を記したメモに頼ることが許されるだけであった。〜演壇が存在せず各自がその場で発言するため、発言は率直な性格を保つことができ、その結果、討論はしばしば真の議論をもたらすこととなった。これとは全く異なるのがフランスの経験であった。ここでは革命以来、演説原稿の使用が重んじられたが、それは本質的な理由と形式的な理由による。書かれたものへの好みはまず、それが概念上優越しているという啓蒙思想から継承された見方と結びついていた。〜古代のレトリックへの批判に基づいた考察に、文書のおかげで、演説を議場の内部から外へ出すことが可能になるという民主主義の議論が加わった。それは強い仲間意識やジェントルマンのクラブを作ろうとする考えを特徴とするイギリスの議院の機能の仕方を批判する一つの方法であった。〜(フランスでは)大きな書見台があるおかげで、彼は自分の原稿をゆっくり広げることができた。それゆえ、繰り返されることになるのはモノローグであった。(318−319p)

 ベンサムはこのようなフランスの議会のあり方を批判しましたが、著者もまた、議論がモノローグの羅列となることを批判しています。これによって「市民は受動的市民という立場に閉じ込められてしまう」(321p)のです。

 

 もう1つ統治者に求められる資質が「高潔さ」です。「高潔な人物とは、一つの職務に集中し、己の役職に精魂を傾ける人物、その役職と完全に同一化し、個人的な利得をそこから引き出さないような人物である」(325p)と述べられていますが、それを被治者が確かめるのはなかなか困難です。

 そこで透明性が求められます。「人々は、権力が明確に何をなすべきかがわからないため、いまや権力がどのようであるべきかを気にかける」(328p)のです。ただし、「この枠組みにおいては道徳的嫌悪が政治的判断を形成する決定的変数」(328p)となるのです。

 そのため、あまりに透明性が追求され、それが目的化するとかえって不信を招き寄せう可能性もあります。また透明性の追求のために被治者のプライバシーが犠牲になるのも問題です。

 著者は政治家の財産状況を監視したり、汚職を取り締まる機関の設置とともに、腐敗で有罪となった議院に「民主的不適格の刑」(被選挙権の長期間の停止など)を課すことも考えられると述べています(347p)。

 

 以上が、自分なりの本書のまとめですが、本書の大きな魅力はこのまとめではほぼ捨象した過去の政治思想や社会思想のピックアップにあります。自分のような思想史に関する素養のないものではまとめられるようなものではないので、その部分についてはぜひ本書を読んでほしいと思います。

 

 最後に、本書の民主主義の大統領制化に対するスタンスですが、これはちょっと複雑なのかもしれません。

 はじめのうちは、政治の人格化に関して警戒を示す考えなどが数多く紹介されているために、著者も政治の人格化に反対なのかと思いますが、後半では統治者の資質に議論が及ぶように、政治の人格化を受け入れているように思えます。

 多くの政党を比較するよりも、数人の大統領候補を比較するほうが簡単でわかりやすいことです。著者は、それが良いのかは別にして、現代の民主主義では「わかりやすさ」も必要であり、民主主義の大統領制化を止めようとするよりは、それを改良してより良い大統領制、つまりタイトルの「良き統治」の実現を目指すほうが現実的だと考えているのでしょう。

 何か明確な処方箋が示されているわけではないですが、現代の民主主義を考える上で多くのヒントを与えてくれる本です。