ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』

 一言でいえば新自由主義批判の本ですが、新自由主義がいかに格差社会を生み出したか、というような批判ではなく、新自由主義が政治の語彙を経済の語彙に変えてしまい、それが政治を歪めているということを、フーコーの『生政治の誕生』における「統治」の概念を用いながら批判的に分析しています。
 

 と、書くと、読んだ人であれば稲葉振一郎『政治の理論』を思い出すかもしれません。
 稲葉振一郎の『政治の理論』でも、フーコーが『生政治の誕生』で打ち出した「統治」の概念をキーに現代社会における政治の変容が分析されていました。古代ギリシャのポリスなどで行われていた「政治」にかわって、近世になると政治の場に権力による「統治」が持ち込まれ、それによって社会問題を解決することが期待されるようになってきたというのです。


 ただ、違うのはこの本の著者のブラウンが「左翼」だということ。著者は自らを本の中でも「左翼」だと言っていますし、フーコーマルクス主義批判を批判しています(個人的には「政治」の世界を「経済」の言葉で語ろうとした嚆矢はマルクスではないのかな?とも思うのですが)。
 また、稲葉振一郎現代社会において市民間の平等を実現するための一つの手段として検討されているゲイリー・ベッカーの「人的資本」の概念も、この本では厳しい批判にさらされています。ブラウンにとっては、「人的資本」という言葉こそ政治と教育を大きく歪めるものなのです。


 このように書いていくと、この本がイデオロギー色の強い、左翼によるありがちな新自由主義批判の書に思えるかもしれませんが、所々に市場に対する硬直的な味方があるものの、その着眼点にはやはり面白いものがあります。
 この本の第一章ではオバマ大統領が政権二期目をスタートさせるにあたっての演説が引用されています。

老朽化するインフラを整えることは「アメリカ合州国よりもビジネスに向いている場所はどこにもないことを証明する」。住宅ローンを借りやすくして「責任の果たせる若い家族」が最初の家を買えば、「わたしたちの経済が成長する手助けになるだろう」。教育に投資すれば、十代の妊娠や暴力犯罪によって成長の足をひっぱられることが減り、「子どもたをよい職を得る道」に進めませ、「自力で中流階級」になることを可能にし、経済に競争力をつけるスキルを与えることになるだろう。学校には「大学や雇用者」と組んで「科学、技術、工学および数学 −今日の雇用者が求めるスキル− に特化した授業」を創設することにたいして、報酬を与えるべきである。移民法の改正によって、「熱心で希望あふれる移民の技能と才能を活用」するとともに、「職を創出し、わたしたちの経済を成長させる手助けをしていくれる、高いスキルをもった企業家や技術者」を惹きつけることになるだろう。(20p)

 
 引用はさらに続くのですが、これを見るとトランプ大統領などに比べてはるかに「正義」や「公正」に強い思いをもっているオバマ大統領の演説でさえも「経済」の言葉によって彩られていることがわかると思います。
 「何が正しい道なのか?」と問われたときに、現代の政治家の口から出てくるのは、まずは「成長」や「雇用」といったことなのです。
 もちろん、「まずは経済が大事なのだ」というのはその通りでもあって、これを否定することは出来ないとは思うのですが、それでも「市場」や「経済」の領域ではない部分までが、「市場」や「経済」の言葉で語られてしまっているというのが著者の問題意識です。


 このあたりはジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』あたりを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。ジェイコブズは世の中の倫理には「市場の倫理」と「統治の倫理」の2種類があり、それが混ざったり不適切なケースに適用されると腐敗や失敗が起きると考えましたが、この本の著者のブラウンはまさに現代社会では本来「統治の倫理」が適用されるべきところにまで「市場の倫理」が幅を利かせ、それが社会を蝕んでいると考えているのです(ただし、どちらかというと「市場の倫理」を推すジェイコブズとブラウンの立場はずいぶん違う)。


 こうした立場から、第4章では政治に頻繁に使われるようになった「ガバナンス」や「ベストプラクティス」といった言葉が俎上に上げられ批判されているわけですが、よりわかりやすいのは「シチズン・ユナイテッド対連邦選挙委員会」裁判の判決を取り上げた第5章の議論と、高等教育について論じた第6章の議論でしょう。


 「シチズン・ユナイテッド対連邦選挙委員会」裁判とは、スーパーPAC、すなわち候補本人の選挙運動の直接管轄外でその候補を支援するために組織される政治行動委員会への企業献金を政府が禁止していることにたいして、最高裁判所違憲判決を下した裁判のことです。著者は、「こうした禁止を言論の自由の縮小と呼び、企業=法人に政治的言論の無制限の権利をもつ人の地位を与えることによって、判決は、企業の金が選挙プロセスを飲み込んでしまうことを許可している」(172p)と批判しています。


 そして、著者が重視するのはこの判決の帰結だけはなく、この判決を構成するロジックです。
 判決は、基本的に「表現の自由」を重視するものなのですが、この判決を書いたケネディ判事は、言論を「民主主義」の中で機能するものではなく、「市場」において流通するものだと捉えています。
 「市場」に対する政府の規制は有害と考えられることが多いですが、同じようなロジックでケネディ判事は「言論市場」を政府が規制することの有害性を説きます。「言論」は一種の「資本」であり、それは「市場」において増殖し、流通していきます。そして有権者は自らの判断でそれを「消費」すればいいという考えなのです。
 著者はこうした経済的なロジックが政治の場に持ち込まれることが、自由民主主義の重要な構成要素、人民主権、自由な選挙、政治的自由、平等などを撹乱させていくといいます(198p)。


 第5章では、高等教育の変貌が批判されています。
 著者に言わせると、「戦間期に始まり1960年代に頂点に達するこの時代は、大衆に読み書きだけなく教養を与えることを約束した」(206p)が、その「教養」は「人的資本」という概念に取って代わられようとしているといいます。
 一部の私立のエリート大学はその名声とネットワークを売りにして生き残るでしょうが、公立大学の多くは就職のための職業訓練施設となりつつあるというのです。
 そうして、こうした変化によって失われるのが民主的な市民性(シティズンシップ)です。大学の教養教育は「公衆」を育てましたが、現在の大学教育が育むのは「人的資本」であり、大学教育もまた「経済」の言葉によって語られるようになっているのです。


 このように著者は、「政治分野を「経済」の言葉で語り規定しよう」という思想を新自由主義とみなし、一貫してこれを批判しています。
 個人的には著者の主張にはやや粗雑な部分がありますし、その「市場」に対する理解にもやや浅薄なところがあると思うのですが、「政治分野を「経済」の言葉で語り規定しよう」という傾向への注目には意義があると思いますし、現代の政治における一つの大きなポイントを指し示していると思います。
 

いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃
ウェンディ・ブラウン 中井 亜佐子
4622085690