「日本一飛行機に乗っている研究者ではないか?」と思わせるほどの仕事をこなし、最近では地経学研究所の所長ともなっている著者が経団連で行った連続セミナーをもとにした本。
「地経学」とは耳慣れない言葉ですが、近年になって地政学の一分野として生まれてきたもので、地政学と経済安全保障を組み合わせたものです。まだ、Amazonで検索すると勝手に「地政学」で検索されてしまうような状況で、日本ではこの本が嚆矢と言っていっていいかもしれません。
本書はそんな新しい学問分野を紹介しつつ、現在の世界情勢を概観したものですが、新しい学問の登場を紹介しながらも、そこにあるのが興奮というよりは憂鬱な感じなのが本書の、そして地経学の特徴と言えるかもしれません。
地経学とは、未来を切り開く新しい学問というよりは、政治的なリスクが高まる中での身を守るための知識といった性格が強く、こうした学問分野が求められる時代にこそ問題を感じるからです。
それでも「世の中が間違っている」と叫んでも始まらないわけで、本書はそんな今の時代に見通しを与える1つの地図となっています。
目次は以下の通り。
序章 地経学時代の経済安全保障
第一章 半導体をめぐる地経学
第二章 地経学からみたITとAI
第三章 地経学で考える宇宙の秩序
第四章 資源と地経学的パワー
第五章 経済制裁と地経学
終章 トランプ時代の地経学
序章、地経学は地政学と経済安全保障を組み合わせたものだと定義されていますが、興味深いのは経済安全保障は基本的に「守り」に重点を置いた考えだというところです。
効率性を考えれば自由貿易が最善なのですが、経済を武器化する国が出現するならば、それに備える必要があるわけです。
例えば、現在の世界ではレアアースについて中国が比較優位を持っていて中国から輸入するのが効率的なのですが、中国がレアアース輸出の規制を行う、あるいはその可能性があるなら、コストをかけて調達先の多様化や備蓄に取り組まなければならないです。
「もしかしたら」というリスクにどこまで備えるか? という点では災害対策に似たところがあるかもしれません。
第1章は半導体についてとり上げており、半導体の種類からTSMCの躍進の要因、先端半導体をつくるための技術を持つ国など基本的なところを押さえてくれています。
今のところ先端半導体とレガシー半導体で中国と棲み分けるのが比較優位的に正しいのでしょうが、アメリカが中国に対する先端半導体の供給をブロックするなら中国は自力で開発せざるを得ないし、中国がレガシー半導体を武器化するならアメリカや日本もレガシー半導体の供給を確保するための手を打つ必要があります。
ここでもリスクによって効率性が犠牲になる構図となっています。
第2章は、ITとAIをとり上げています。インターネットは世界を変え、欠かせない公共財となりましたが、その公共財を誰が維持管理するのかという問題は残っています。
例えば、海底ケーブルは誰もが利用できる情報のハイウェイのようなものですが、交換機での「傍受」の可能性などを考えると「誰がつくるのか?」ということが問題になり、「中国企業の機材を使っていいのか?」といった問題が出てきます。
ましてやスターリンクとなると、私企業により運営されており、しかもほぼイーロン・マスク1人の意向に左右される存在で自国の安全を委ねるわけにはきません。
かといって、各国が通信衛星を持つコストは膨大だし、宇宙空間にもそれだけの衛星を受け入れる余裕がありません。
「AI時代においてデータをどこで管理するか?」といった問題もそうですが、ここでも安全性と効率のジレンマが起きているわけです。
第3章は宇宙です。
宇宙に「地」はない、つまり地理的な要素はないじゃないかということは著者も最初に述べていますが、現在、人類が利用できる宇宙空間は限られており、実際に衛星軌道では混雑の問題も起こっています。
そのため、何らかの規制や割当などが必要なのですが、宇宙はグローバル・コモンズであり、その規制は難しいです。
本章で興味深いのが、「宇宙空間での人工衛星への攻撃などが直ちに戦争につながるのか?」ということを検討した部分です。
宇宙には領土の概念がないので、人工衛星への攻撃がすなわち戦争行為となるかというと微妙なところがあります。
ただし、だからこそ仕掛けやすいという面もあり、戦争の開始のきっかけが宇宙空間での人工衛星への攻撃といったことも十分にありえます。
あと、月などの天体の国家による所有は禁じられている一方で、民間企業による月面の所有に関しては特に規定がないというところも今後問題になりそうですね。
第4章は資源について。
資源があってもそれが武器化できるかどうかは状況によります。例えば、中東諸国には石油があり、その輸出を止めて圧力をかけることもできますが、輸出を止めたら彼らが必要なものも輸入できません。そのために、「石油を輸出しない」という武器を長期に渡って使うことは難しいです。
これについては消費の側を変えていく方法もあり、EUの脱炭素はそれ代表例となっています。
しかし、そのやり方は近年になって壁にぶち当たっています。まず、厳しい環境規制を中国が乗り越え安い製品を輸出してくることで欧州のメーカーが苦境に立たされていますし、ドイツなどは「脱炭素」「脱原発」「脱ロシア」の3つが同時に成り立たないトリレンマに悩まされ、最近は「脱炭素」にブレーキがかかる状況となっています。
第5章は経済制裁について。
著者は国連安保理のイラン制裁専門家パネルの委員を務め、しかもロシアから個人制裁を受けているなど、まさに制裁の「当事者」であり、この問題を語るに適した人物です。
経済制裁の種類とその限界、SWIFTの実際、経済制裁におけるアメリカの特権的地位など幅広く解説しています。
経済制裁には一定の効果がありますが、回避しようと思えばできることが多いですし、北朝鮮やロシアのように国民の不満が抑え込める国では効きが悪いです。
ただ、その中でも実行力があるのが基軸通貨のドルを擁するアメリカの2次制裁です。問題のある国と取引を行っている銀行に制裁を課すことで、制裁を行いたい国に圧力をかけることができます。
2023年12月からロシアに対する2次制裁が始まっており、これがどんな影響を与えるかが注目されます。
終章には、第2次トランプ政権について「リスペクトを求めて信頼を失う」とありますが、この表現は現在の中国に対しても使えそうです。
つくづく面倒な時代になってきたと感じますが、そんな時代に必要となるのがこの「地経学」ということなのでしょう。
