羅芝賢・前田健太郎『権力を読み解く政治学』

 『番号を創る権力』の羅芝賢と『市民を雇わない国家』の前田健太郎による政治学の教科書。普段は教科書的な本はあまり読まないのですが、2010年代の社会科学においても屈指の面白さの本を書いた2人の共著となれば、これは読みたくなりますね。

 

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 で、読んだ感想ですが、かなりユニークな本であり教科書としての使い勝手などはわかりませんが、面白い内容であることは確かです。

 本書の、最近の教科書にしてはユニークな点は、序章の次の部分からも明らかでしょう。

 

 この教科書ではマルクスを正面から取り上げることにしました。それは、マルクスの思想が正しいと考えるからではなく、それを生み出した西洋社会を理解することが、日本をよりよく知ることにつながると考えたからです。

 20世紀以後の日本の政治学は、欧米の政治学の影響を強く受けてきました。その欧米の政治学者たちが常に論敵ととして念頭に置いたのが、マルクスです。だからこそ、現代の政治学を理解するうえでは、マルクスのいう階級や革命といった概念の意味を理解することが欠かせません。それを知ることで、日本を含み東アジアが、欧米の政治学を生み出した西洋社会とどのように異なるのかが見えてくるでしょう。(3p)

 

 このように「あえてマルクス」という宣言から始まる本書の前半部分(羅芝賢担当)は、集合行為論やゲーム理論などの「合理的な個人が生み出す秩序」を前提とせず、支配-被支配の権力関係が前面に押し出されています。

 第1章から「政治権力と暴力」と題されており、近年の政治学の教科書とは毛色が違うことがわかると思います。

 

 第Ⅲ部以降の後半(前田健太郎担当)は、扱われているテーマを見ると、いかにも政治学の教科書っぽいタイトルが並んでいますが、ここでもジェンダーの視点を多くいれるなど独特のひねりが効いています。

 

 大雑把な印象ではありますが、普段から人文書をよく読む人にとって、本書は特に面白いのではないかと思います。

 狭義の政治を分析するのではなく、その歴史や社会を含めた広義の政治がとり上げられており、政治を新たに捉え直す視点を得られる本になっています。 

 

序章
 第Ⅰ部 基本的な考え方
第1章 政治権力と暴力
第2章 国家
 第Ⅱ部 国民国家の成立──なぜ世界は1つになれないのか
第3章 国民を創る思想
第4章 国民経済の成立
第5章 軍事力と国家の拡大
第6章 制度と国家の安定
 第Ⅲ部 国民国家の民主主義──その理想と現実
第7章 民主主義の多様性
第8章 市民とは誰か
第9章 メディアと世論
第10章 集団と政治
第11章 選挙の戦略
第12章 政党と政党システム
第13章 政策決定
終章

 

 というわけで、第1章はいきなり暴力の話からで、ティモシー・パチラット『暴力のエスノグラフィー』が描く、暴力が隠蔽されている屠殺場の話から入っていきます。

 本書の紹介する議論によれば、「人間社会は、暴力が横行する世界から暴力を使わない世界へと変わってきたのではありません。むしろ、暴力をなるべく隠し、表面化させない世界へと変わってきたのです」(21p)。

 また、暴力だけではなく、社会のさまざまな矛盾や問題も権力によって隠蔽されることがあります。

 本書では、こうした隠蔽が多数決によってもなされるということをグレーバーの議論を用いながら論じています。

 

 第2章の「国家」でも、冒頭に掲げられた問いは「政治共同体か、暴力機構か」です。

 アリストテレスや社会契約論では、人間がよりよく生きるためには国家が必要だという議論がなされてきましたが、一方でジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』に見られるように、農業や国家は支配のための道具であるとの見方もあります。

 本書はこうした見方も取り入れながら、近代になって国家の権力が市民社会に浸透するようになり、国家の存在感が大きくなっていくことを指摘しています。

 

 近代国家を生み出した要因として、本書は思想、経済、軍事力、制度の4つの点に注目しています。

 

 第3章では思想がとり上げられていますが、その中心となるのがナショナリズムです。

 本書ではアンダーソンの議論を紹介しつつ、そのアンダーソンが「公定ナショナリズム」と捉えた明治以降の日本についても検討しています。

 ナショナリズムは国民を動員し、大規模な戦争を戦うことも可能にしましたが、その中でそれを支える存在として位置づけられたのが女性です。日本においても、「良妻賢母」の考えが庶民にまで広がるのは明治以降であり、ナショナリズムが抑圧的にはたらいた事例と言えます。

 

 第4章は経済です。ロックやアダム・スミスは所有権や市場を守るものとして国家を構想し、マルクスは資本主義を守護する存在として近代国会を位置づけました。

 マルクスは資本主義の矛盾は革命によって打破されると考えていましたが、実際には資本主義の矛盾は、マルクス主義的な革命以外にも、ファシズム社会民主主義といった方法で乗り越えることが模索されていきます。

 市場経済の拡大とそれを制限しようとする政治的な動きが同時に発生することをポランニーは「二重の運動」と呼びましたが、近年ではグローバル化をめぐってこの二重の運動が起こっているとも言えます。

 

 第5章は軍事力。アテネの民主主義以来、共同体のために戦うことと民主主義は密接に結びついてきました。また、ヨーロッパの近代国家を生み出した要因として戦争に注目する見方も一般化しています。チャールズ・ティリーが言うように「戦争が国家を作った」のです。

 ただし、戦争が国家を揺るがすこともあります。シーダ・スコッチポルによれば、王権が揺らぐのは戦争などによって軍事力が弱体化したときであり、フランス革命ロシア革命辛亥革命などはいずれもそうだといいます。

 

 また、大規模な戦争は一時的な出費にとどまらないのも特徴で、明治以降の日本は大きな戦争を経験するたびに財政規模を拡大させてきました。

 その内訳も、必ずしも軍事支出だけが拡大したわけでないのもポイントで、いわゆる総力戦を支えるための福祉国家が立ち上がってくることになるわけです。

 さらに本章では、国際政治や安全保障についても言及しています。

 

 第6章は制度ですが、制度には経路依存があり、それぞれの国を特徴づけていますが、同時にこうした経路依存があるからこそ、一定の安定性があります。

 民主主義についても経路依存性はあると考えられ、戦後の日本の民主主義が安定した要因として、戦前の民主主義の経験があげられます。

また、民主主義には格差を縮小する効果、平和をもたらす効果(「民主主義国家同士は戦争をしない」)があると言われますが、これについてはポピュリズムの台頭などでこれを危ぶむ声もあります。

 

 ここまでが羅芝賢担当の前半ですが、この大雑把な紹介でも本書の独自性というのはわかるのではないかと思います。

 では、続けて前田健太郎担当の後半です。

 

 まずは議院内閣制と大統領制という民主主義のスタイルの違いから始まり、レイプハルトの多数決型民主主義と合意型民主主義の話へと進んでいきますが、日本の状況を視野に入れながら議論を進めていっているのがポイントで、平成政治改革の意味や、合意型に分類される日本の民主主義におけるジェンダー的多様性のなさなどが検討されています。

 

 第8章は「市民とは誰か」と題されており、政治に参加できるメンバーの範囲の問題が検討されています。

 過去には、身分によって権利が制限されていた時代がありましたし、近代になって以降も女性に参政権が認められない時代が続きました。

 福祉国家が発展すると社会保障や教育を受ける権利を含む社会的市民権が出現しますが、こうした権利がどれほど保証されるかは国によって大きく異なっています。日本では社会保障が世帯を中心としており、女性が世帯を通じて保障を受ける面がありましたし、アメリカでは人種差別の意識が福祉国家の発展を妨げたとも言われます。

 また、外国人の権利の問題もあります。福祉の受給権をどれだけ認めるか、参政権を認めるかなど、日本も直面している問題です。さらに外国人の特権として沖縄の基地問題を指摘しているのも本章の特徴と言えるでしょう。

 

 第9章はメディアです。権力者がメディアを使って世間を操っているような見方もありますが。同時にメディアが弱者の声などを拾い上げて世論に影響を与えているというメディア多元主義の考えもあります。

 一方、日本には、記者クラブ制度のような権力者とメディアが結託しやすい構造もあり、政治家とメディアは庶民のことを何もわかってないエリート集団だという見方もあります。

 さらに本章ではマスメディアの影響力の問題や、インターネットとSNSの発展による分極化の問題もとり上げています。

 ネットによる分断は日本にもありますが、日本にはYahoo!というポータルサイトの存在があります。Yahoo!のようなニュースアグリゲーターを利用する人は検索サイトやSNSを利用する人よりも多様なメディアに接触すると言われており、「Yahoo!ニュースの記事に対する一般市民の信頼度は、配信元が全国紙である場合と個人や週刊誌である場合とで変わらないという驚くべき研究結果もあります(大森2023)」(250p、大森2023は大森翔子『メディア変革期の政治コミュニケーション』(勁草書房))。

 

 第10章では、民主主義とさまざまな団体の関係が検討されています。

 利益集団というと民主主義を歪めるものにもみられがちですが、何らかの団体は民主種の重要な要素であり、市民団体の活動こそが民主主義がうまくいく鍵でもあると言われてきました。

 労働組合も重要な団体で、20世紀には労働組合を政治に組み込もうとする動きが進みましたが、日本では冷戦構造の影響もあって、政治に対する影響力はヨーロッパほど大きくありません。

 また、社会運動についても、日本は欧米ほどの盛り上がりがないと言われています。政治的機会構造の考えによると、多党制の国(スウェーデンなど)や政党規律の弱い国(アメリカなど)では、社会運動が影響を与えるチャンネルが大きいですが、日本のように自民党の一党優位制のもとでは、影響を与えるチャンネルが少ないということになります。

 

 第11章は選挙です。選挙では政治家が公約を掲げて支持を訴え、有権者はその公約を見て投票先を決めるというモデルが想定されますが、実際の選挙はそのように説明できるものではありません。

 各政党は固定票のようなものを持っており、それを固めつつプラスアルファで浮動票を狙うような戦略をとりがちです。特にに日本では政治家の個人後援会が発達しており、政治家個人が固定票を固めていく戦略が取られています。

 こうした政治いあり方はアメリカのような政治的分断は生み出さないかもしれませんが、後援会を維持するのが難しい人、例えば女性が政治家になることを妨げているとも言えます。支持者への挨拶回りを繰り返し、夜の会合にも欠かさずに顔を出すというスタイルは家庭内のケア労働との両立が難しいからです。

 

 第12章は政党と政党システム。ここでも欧米の理論を紹介しつつ、その理論とは少しずれる日本の状況が分析されています。

 デュヴェルジェは二大政党制こそが最も自然な形だと考えましたが、そこから一党支配が誕生することを警戒していました。一方、サルトーリはそうではなく、左右の「反システム政党」が台頭し、中道勢力が没落することによって政党政治が機能不全に陥ると考えていました。

 これに対して戦前の日本は立憲政友会と立憲民政党の二大政党のもと、左右の過激な勢力の議会への進出は社会運動への弾圧などによって抑えられましたが、軍部による政治介入によって政党政治は崩壊しています。

 

 平成政治改革における小選挙区比例代表並立制の導入は二大政党制を目指したものでしたが、現在のところ野党の分裂が続いています。この理由の1つが、憲法と安全保障問題です。東アジアでの冷戦構造の存続がこうした状況をもたらして言えるとも言えます。

 最後にクォータ制にも触れていますが、政党の指導者に権限が集中する「寡頭制の鉄則」がクォータ制の導入にし関しては有利に働いているという逆説についての指摘は興味深いです。

 

 第13章は政策決定です。

 立法権は国会にあり、国会議員が法律を提案し、政策決定の主体になっているはずですが、現実はずいぶん違うのはご存知のとおりです。むしろ政策決定の主体は官僚にあると考える人も多いでしょう。実際、議員立法よりも内閣立法の数が多く、国会での審議も形骸化しています。

 ただし、内閣立法の裏には与党への根回しがあり、官僚が政治家の意思を無視して政策形成を行っているわけではありません。

 

 以上、気になったトピックを中心に紹介してきましたが、このまとめでも本書の独自性は伝わったのではないかと思います。

 いわゆる「政治学」を学んでいくうえで最適な導入なのかはわかりませんが、「政治」というものを鋭く切り取った内容になっており、読んでいても面白いですし、さらにあげられている文献から切り口をさらに深めていくことも可能でしょう。

 また、最初にも述べたように、人文系や思想系の本が好きな人には入っていきやすい入門書になっています。