外山文子『タイ民主化と憲法改革』

 ここ数年、欧米ではポピュリズムの嵐が吹き荒れています。「ポピュリズム」がいかなるものかということに関してさまざまな議論がありますが、「法の支配」や「司法の独立」といった概念への攻撃がその特徴としてあげられることがあります。

 これはリベラル・デモクラシーを、国民の意志を反映するという「民主主義」要素と、エリート間の相互抑制を重視する「自由主義」要素の結合と考える見方からすると(この考えについては待鳥聡史『代議制民主主義』中公新書)が説明している)、ポピュリズムにおいては「民主主義」が肥大化して「自由主義」を圧迫していると見ることができるかもしれません(ハンガリーのオルバン政権やポーランドの与党「法と正義」などはその典型)。

 しかし、一方で途上国、あるいは新興の民主主義国では、政治化した司法が民主主義を抑え込むという展開も見られます。「アラブの春」で成立したムルシー(モルシ)政権を引きずり下ろしたエジプトや本書が取り上げるタイがそうです(この辺の経緯は鈴木恵美『エジプト革命』中公新書)が詳しい)。

 

 2001年にタックシン政権が成立して以降、タイの政治はタックシン派vs反タックシン派の図式で動いていきましたが、注目すべきは選挙で勝利したタックシン派を軍部と司法が引きずり下ろすという展開がつづいていることです。

 先ほどの図式でいえば、「自由主義」が「民主主義」を抑圧するような展開です。もちろんタイの司法を「自由主義」の保護者などとは言えませんが、この図式の逆転は興味深いと思います。

 また、路上の抗議運動にクーデターと政治が大混乱しているにもかかわらず、タイの経済は順調にまわっており、日系企業の一大集積地になっているというのも興味深い点です。

 本書は、90年代以降、数次にわたって形成されてきた憲法に注目し、タイの政治のメカニズムを分析しつつ、新興民主主義国に幅広く見られる「政治の司法化」についても考えさせる内容となっています。

 

 目次は以下の通り。

プロローグ 民主主義への不信感は民主主義の限界なのか?
序章 タイ民主化を問う意義
第1部 1990年代以降の憲法改革:契機と意図

第1章 二つの憲法―1997年憲法と2007年憲法
第2章 政治改革運動再考―タイ「立憲主義」とは何か
第2部 憲法改革と民選権力

第3章 憲法改革と執政権―タイ憲法における“国の基本政策方針”の政治的意味
第4章 憲法改革と立法権―抑え込まれるタイ立法権 選挙制度改革の分析)
第3部 憲法改革と非民選権力

第5章 憲法改革と汚職取締り―汚職の創造:法規定と政治家批判
第6章 憲法改革と司法権憲法裁判所と憲法に基づく独立機関の制度的問題
第7章 憲法改革と「非民選立法権―2007年憲法と上院 その新たなる使命
終章 タイ民主化憲法改革
エピローグ 2017年憲法を巡る攻防とタイ民主化の未来

 

 タイでは1950年代と70年代にクーデタが頻発しましたが、91年のクーデタをきっかけに92年に民主的な政権が成立すると、民主主義は安定するかと思われました。

 ところが、その後2006年、14年と2回のクーデタが起き、2014年以降軍事政権となっています。このような民主化の逆転がなぜ起きたのかということが本書が解明する1つのポイントです。

 

 もう1つのポイントが「政治の司法化」と呼ばれる現象です。これは政治の重要問題が司法の場に持ち込まれ、その結果として裁判所が活発な政治アクターとなるというものになります。

 政治の重要問題が司法の場に持ち込まれるというのはアメリカなどでも見られることなのですが、近年の新興民主主義国においては「立憲主義」の名の下に、司法が多数派を抑圧するという流れが見られます。そして、この司法による多数派の抑圧がもっとも先鋭的に見られる国の1つがタイと言えるでしょう。

 

 1991年のクーデタと92年の総選挙後、クーデタの主導者で議員ではないスチンダ−が首相になると、野党や学生から辞任を求める声が上がります。この運動が1992年5月流血事件に発展し、スチンダ−は退陣、首相は民選の下院議員に限られることになります。タイの民主主義体制はここに確立したかに見えました。

 ただし、タイでは政治家の汚職や選挙における「票買い」の問題も根強く指摘されており、政治家よりもテクノクラート出身の内閣が好まれる傾向もありました。

 

 その後、タイでは1997年憲法が制定され、タックシン政権が登場し、2006年のクーデタを機に2007年憲法が制定されます。

 タックシンに関しては毀誉褒貶がありますが、最初に反タックシン運動を開始したのは1997年憲法による政治改革を主張した「人民民主主義のためのキャンペーン」と名乗るグループでした。その後、反タックシン運動は、人権運動家や大学生、労働者、NGOなどにも広がり、反タックシンのデモが繰り返されます。そして06年の軍のクーデタによってタックシンは追放され、2007年の憲法が制定されるのです。

 

 1997年憲法は強い政権を生み出すための制度設計を持っていました。選挙制度中選挙区制から小選挙区制400名と比例代表制100名に変更され、比例代表には5%の阻止条項が付きました。議員の所属政党の変更も難しくなり、大政党とその指導部に大きな力を与えるものとなっていました。

 一方、2007年憲法では、強力なタックシン政権への反省から、中選挙区制400名+比例代表制80名として比例代表制は全国を8区に分けました。不信任の提出のハードルも下げ、大政党を抑制する内容としたのです。

 また、上院に関したは、1997年憲法では200名全員が民選でしたが、2007年憲法では上院議員150名のうち約半数が任命議員になっています。

 

 一方で共通点もあります。「政治家は自らの権限に対して制約を課すような憲法改正を行うことはできない」(82p)との認識のもとで政治家は憲法起草過程から排除され、政治家の汚職取締にも力点が置かれました。この2つの憲法は、「ともに政治改革運動の精神を受け継ぐ憲法」(86p)なのです。

 

 その「政治改革運動とは何だったのか?」ということが分析されているのが第2章です。

 この運動を主導した法学者にアモーン・チャンタラソムブーンがいます。本書におけるキーパーソンの一人と言っていいでしょう。

 アモーンは議会制民主主義を批判する際に「国会独裁」という言葉をしばしば使い、「立憲主義」と対置させています。アモーンは以前のタイの議院内閣制は国王の選んだ内閣と、国民が選んだ国会による二元的統治であったが、国王の権力が制限されてからは国会で多数派となった政党が政府を樹立する一元的統治に変わったと考えています。

 この一元的統治というのは議院内閣制の性格からして妥当だと思われますが、政治家と有権者に根強い不信をもつアモーンはこれを問題視します。アモーンは特に地方の選挙区で当選した下院議員に不信感を持っており、「票買いの温床である地方が、より多くの人口を抱えることに苛立ちを感じて」(101p)いました。

 そこで、「立憲主義」によって下院議員と与党の権力を統制し、民主主義を国民全体の利益と調和するようなものにすべきだと考えるのです。

 一方でアモーンは首相のリーダーシップには期待しており、強い指導者やエリートによる上からの支配に関しては肯定的でした。 

 そして、国家権力を規制する機関として期待されたのが司法機関、あるいは準司法的な機関です。これらは実際にタイの憲法に取り入れられ、重要な役割を果たしていきます。

 

 こうした考えはアモーンだけのものではなくタイの他の法学者にも見られることで、憲法の起草過程に影響を与えました。1997年憲法と2007年憲法の起草過程において、内部の委員の中には「常に、1992年5月流血事件後の1991年憲法改正「前」の状態に戻そうとする意向が存在していた」(137p)のです。

 1997年憲法では憲法擁護規定が設けられ、2007年憲法ではそれに違反した政党に対して憲法裁判所が解散命令を出すことができるようになりました。さらに準司法的な役割を果たす独立機関も、一種の危機管理システムのような形で構築されました。人々の人権や公正さの確保よりも、大衆の暴走を止める役割が期待されたのです。

 

 第3章と第4章では憲法と執政権、憲法立法権の関係が分析されています。

 現在のタイの憲法の構成は「国王」「人権」「国の基本政策方針」「統治」「独立機関」となっています。この中で日本の憲法からは想像しにくいのが「国の基本政策方針」でしょう。日本国憲法にはそのような内容はないからです(あえて言えば平和主義か?)

 タイでは1949年の憲法から「国の基本政策方針」が盛り込まれています。「独立および領土の維持」「教育の推進」などの内容ですが、タイでは憲法改正ごとにここにさまざまな要素が盛り込まれるようになっています(155表3−1参照)。

 特に1997年憲法と2007年憲法では、政治改革および行政改革に関する条文が多数追加されました。政治職者および公務員等の倫理基準の設定、政治発展計画の作成および実施を監視するための独立した政治発展評議会の設立など、具体的な政策を拘束するものも増えているのです。

 

 さらにこの「国の基本政策方針」は1991年憲法までは方針として掲げられているだけであり、「国を訴える権利を生じない」と法規範性および裁判規範性が否定されていましたが、1997年憲法ではこの「国を訴える権利を生じない」との文言が削除され、2007年憲法では「本章の規定は、国が国政において立法および政策を決定するための意志である」とされ、裁判規範性を生み出す余地を残しています(157p)。

 内閣の施政方針についても、「国の基本政策」と対照表を添付して公表することが義務付けられ(162p)、内閣の政策を憲法の枠内に拘束する力が加わることとなりました。さらに2007年憲法では立法または修正すべき法律の一覧表が添付されました(165p表3-3参照)。タイでは憲法が権力を制限するだけでなく、具体的な政策にもたがをはめているのです。これがタイの「立憲主義」です。

 

 立法府に関しては、選挙制度の改正によって多数派の形勢が困難にされ、また司法機関や独立機関による取締の対象とされました。選挙制度に関しては、前の部分で簡単に触れましたので、ここでは政党法と選挙法の変遷について紹介します。

 1981年政党法では政党の設立などに関しての規定があっただけですが、1998年政党法では政党の設立要件が厳格化され、資金面に関する政党への規制が強まりました。また、政党の解党事由が増加しています。

 2007年政党法では条文数が1998年政党法の1.5倍となり、党幹部の職務分担や任期についても法律で規定されるようになりました。政党名やイニシャルが過去に解党された政党と類似してはならないという規定も盛り込まれるなど、タックシン派の復活を阻止するような条項もあります。政党党首や幹部の党員や候補者に対する監督責任も増し、党首や幹部の責任を問いやすくなりました(解党しやすくなったことを意味する)。

 

 選挙法も2007年の改正で条文が1.5倍になりましたが、最大の特徴は密告の奨励です。選挙活動の禁止行為に抵触して有罪になった場合、密告者に違反者が支払った罰金の半額までが支払われます。また、有権者が投票と引き換えに利益を受け取ることは禁止されていますが、選挙前、選挙中、選挙後7日以内に選挙管理委員会に届け出れば罰則を受けません(200-201p)。

 こうした法により、2008年にはタックシン派の当時の与党・人民の力党が解党されており、党首および幹部も5年間の選挙権剥奪となりました。与党以外でもタイでは1999年から2012年上半期の間で、93政党が憲法裁判所から解党命令を受けており、政党および立法府はその活動を大きく制限されることとなりました。

 

 第5章では汚職の取締りに絞って分析されています。タイでは政治家の汚職が長年問題視されており、クーデタの理由にもなってきました。1991年憲法では、下院議員の被選挙権の行使を禁止する理由として、「異常に富裕または異常な資産増加」「資産負債虚偽申告」の2つが規定されています(217p)。

 こうした規定は1997年憲法でさらに精緻化され、2007年憲法ではさらに「政治職にある者は、新聞、ラジオ放送、テレビ放送または通信事業の所有者また株式の保有者となることはできない」とされ、さらに「直接的であるか間接的であるかを問わず、かかる事業を所有者または株式保有者と変わらない形で管理運営できる場合であってもならない」とされ(220p)、政治家がマスメディアの経営に携わることが禁止されました。しかもこの細かい規定は憲法に書き込まれているのです。

 

 政治家が自らの資産について報告することは権力をチェックする上でも必要なことですが、タイではその罰則が非常に重いのが特徴です。2007年憲法では5年間の政治職就任禁止、政党の役職への就任も禁止、事実上次の選挙に出馬できないことになっています。

 タックシン政権とタックシン派がつくったサマック政権は、ともにこの汚職取締りの規定によって打倒されており(サマック政権に関しては首相が料理番組の司会をしたことが憲法の兼業禁止の規定に違反するとされた)、「利益相反」という曖昧な規定によって政権は倒されています。

 

 第6章では司法権がとり上げられています。裁判所には多数の専制から少数派を守る役割があります。しかし、タイの裁判所は、少数派(エリート)が多数(議会の多数派)を抑圧する役割を果たしていると言えるかもしれません。

 まず、1997年憲法で導入された憲法裁判所ですが、「政党決議または政党規則の合憲性審査」「下院議員または上院議員の資格審査」「政治家および高官が提出した資産負債報告書の審理裁定」など(255−256p)、憲法裁判所というネーミングからは想像がつきにくいような権限を持っています。また先述のように政党に解党を命令することもできます。

 1997年憲法では、この他にも選挙委員会、国家汚職防止取締委員会などが独立機関として政治を監視する権限を持っています。

 さらに2007年憲法ではこうした機関の権限が強化され、人事権も強まりました。

 

 しかも、1997年憲法と2007年憲法には、「国王を元首とする民主主義政体または国の形態を変える憲法改正動議はできない」という規定があり(263p)、民選政権が憲法改正を行うのは困難です。憲法改正をしようとすれば、憲法裁判所から解党を命じられるかもしれず、民選政権が司法や独立機関の権限を抑制することが難しくなっています。

 1997年憲法はタックシン政権成立前に制定されていますが、著者は「1997年憲法起草を担った知識人らが、将来「問題だ」と感じる民選政権を打倒しうる道具を用意していた可能性は高い」(272p)と分析しています。「タイでは、独立機関パッケージによる行き過ぎた法の支配が、「法による独裁」となり、議会制民主主義を破壊しかねないという逆説的な状況となっている」(273p)のです。

 

 第7章では上院がとり上げられています。1997年憲法では上院が民選になりましたが、2007年憲法では上院は「半民選、半任命制」に移行しました。一般的には以前の制度への「半先祖返り」(277p)であると認識されています。

 しかし、それだけではないと著者は言います。上院の任命制の議員の選考は裁判所および独立機関が独占して行っており、公務員経験者、軍に近い人物などが選ばれる傾向にあります。2007年憲法で上院にも法案提出権が認められるようになっており、先ほどの任命過程と併せて考えれば、司法機関が立法にも影響力を行使できる状況となっていると言えるでしょう。

 前述のサマック首相が兼職で失職に追いやられた裁判の原告は選挙委員会と30名の上院議員であり、上院議員が司法と結託して民選政権を打倒する構図が浮かび上がります。2007年憲法の任命上院議員は以前の官選上院議員よりも民主主義にとってより危険な存在だと著者は分析しています。

 

 では、こうした民主主義の後退をタイの人々はどのようにみているのか?

 終章ではタイの研究所が2001年から2014年にかけて実施したタイ国民の意識調査が紹介されています(308−310p)。タイ全国で見ると、2010年には軍事政権やテクノクラート政府に対する不支持が高まり、民主主義に対する支持があがりましたが、2014年には逆に軍事政権やテクノクラート政府への不支持が減り、民主主義に対する支持が減っています、地域別に見るとバンコクや北部で民主主義への支持の低下が目立ちます。

 

 1990年代の民主化運動では中間層がその担い手とされましたが、90年代後半〜00年代にかけてのタイの中間層は民主主義を守ろうと動いたわけではなく、「メディアの顧客」(319p)とも言える受け身の存在であり、一連の憲法改正を担ったのは軍や保守派の知識人、そして国王とその周辺でした(国王がイニシアティブをとったのではないにせよ、一連の憲法改正で国王の地位は強化された)。

 著者は「タイでは、国王、軍、官僚が長く権力を掌握してきた。タイ式「立憲主義」や「法の支配」は、旧政治勢力復権のための、現代的手段として生み出された装置なのではないだろうか」(326p)と述べています。

 

 さらにエピローグでは2017年憲法の制定過程と内容に関しても簡単に触れられています。この憲法は非民選首相を認めており、タイの政治は1991年憲法の状態まで戻ってしまったとも言えます。

 

 本書は以上のような興味深い内容を扱っています。ここ30年ほどのタイの政治の変化を憲法の内容を中心に立法、行政、司法とった分野ごとに見ていくスタイルなので、ややわかりにくく感じる面もあるでしょうが、「憲法」という民主主義の土台となるはずのものが、逆に民主主義を圧迫している状況を、憲法の変遷から精緻に描き出しています。

 タイの政治、あるいは新興国の政治に興味がある人にとってはもちろん興味深い内容だと思いますが、戦前の日本政治に興味がある人などにとっても、独立機関による政党政治の妨害という点で戦前の日本の制度と通じる面があり、興味深く読めるのではないでしょうか。

 また、「政治の司法化」は、例えばお隣の韓国などでも観察できる現象であり、本書はその1つのかなり極端なあり方を見せてくれています。