デイン・ケネディ『脱植民地化』

 オックスフォード大学出版局のVery Short Introductionシリーズの1冊。ちょっと前に読み終わっていましたが、簡単にメモしておきたいと思います。

 

 タイトル通り、「脱植民地」をテーマにした入門書ですが、本書は「脱植民地化」を広い視点で捉え直しています。

 一般的に「脱植民地化」でイメージするのは第2次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立だと思いますが、本書では18世紀後半〜19世紀前半におけるアメリカ大陸における独立、20世紀前半の中東欧における独立、さらい1990年代のソ連崩壊に伴う独立なども視野に入れながら、アジア・アフリカ諸国の独立を検討しています。

 

 18世紀後半〜19世紀前半におけるアメリカ大陸における独立は大きな暴力を伴うものでしたし、20世紀前半の中東欧における独立は第一次世界大戦という巨大な暴力を背景にして成し遂げられました。

 

 アジア・アフリカ諸国の独立の背景にあるのも第2次世界大戦という巨大な暴力です。

 直接の戦場にはならなかったとしても、植民地で動員や収奪が行われ、日本支配下ベトナム、イギリス支配下のインドでは食糧を供出したことで飢饉が起こっています。

 戦争によるダメージは大きく、イギリスは植民地の再興だけでなくさらなる拡大も望んでいましたが(タイを占領する計画があったという)、戦後にもはやそのような力は残っていませんでした。

 それでもイギリスは帝国の復活に固執し、多くの開発プロジェクトに巨額の資金を投じ、それが本国の没落を早めたとの指摘もあります。

 

 植民地の復興を目指したヨーロッパの国々に対して、アメリカはフィリピンの独立を認めるなど植民地を手放す姿勢を見せましたが、フィリピンに軍事基地を設置する権利を獲得し、経済的にも緊密な結びつきを維持しました。

 

 フランスもイギリスも、それぞれ植民地の再編成や権利の付与などで植民地の人々を懐柔しようとしました。

 一方で、独立運動を押さえつける必要もあり、イギリスでは1948年に労働党政権のもとでイギリス史上初めて平時の兵役が導入されています。徴兵された兵士は植民地に送られ、イギリスの植民地からの撤退に伴い徴兵は終了しています。

 

 また、植民地からの動員も行われており、フランスは1945〜54年にかけてインドシナに50万人の軍事要員を配置しましたが、内訳はフランス人23万3000人、北アフリカ人12万3000人、西および中央アフリカ人6万人、外国部隊員7万3000人(ドイツ退役軍人多数を含む)だったといいます。そして、もっとも犠牲になったのはベトナム人でした(80p)。

 

 植民地のマイノリティを積極的に使ったのも特徴で、フランスはインドネシアクメール人を、オランダはインドネシアキリスト教徒のアンボン人を、イギリスはネパールのグルカ人や、ケニアのカンバ人、ナイジェリアのティブ人を植民地支配のために使いました。

 

 アジアでは、日本の軍事占領が引き起こした植民地支配の中断・動揺によって戦後にそれを継続するのは難しくなりました。オランダやフランスは弾圧によって独立運動を抑え込もうとしましたが失敗しています(イギリスは比較的巧妙に立ち回りましたが、例えばマレーシアではイギリスの政策によって保守的なマレー人スルタンの権力が温存されました)。

 

 一方、アフリカではそういった動揺は大きくなかったですが、それが故に一層激しい泥沼の闘争が続くことにもなりました。

 「フランスの不可分の領土」とされたアルジェリアでは、大量処刑や拷問などを使った「汚い戦争」が繰り広げられ、フランスの第四共和政の崩壊にもつながっていきます。

 イギリスもケニアのマウマウの反乱や、キプロスなどで過酷な弾圧を行い、キプロスではギリシア系とトルコ系の分断を生み出しました。

 1960年代にアフリカ各国の独立が進んだ後も、ポルトガルが植民地で過酷な弾圧を行い、植民地支配にしがみつきました。

 

 場合によっては激しい独立闘争を経ないで宗主国が植民地を手放すケースもあります。

 イギリスはインド支配の崩壊とともにスリランカを手放し、パレスチナでの統治が難しくあるとトランスヨルダンの信託統治をあきらめました。

 60〜70年代にかけては、戦略的・経済的理由から、マルタ、レソトボツワナスワジランド、バルバドス、グレナダセントルシアといった地域を手放しています。

 しかし、価値のあるセントヘレナジブラルタルフォークランド諸島は保持し続けました。

 

 独立した植民地が目指したのは国民国家ですが、それは同時にさまざまな問題を引き起こしました。独立した植民地の多くが文化的あるいは民族的に均質な人民を持っていなかったからです。

 

 ガーンディーに代表されるように、植民地闘争を担った人々には反植民地コスモポリタニズムとも言うべき特徴がありました。

 彼らは海外に留学したり、海外で仕事をしたりして、外の世界を知った上で独立運動に身を投じたのです。

 また、第2次世界大戦後は、共産主義トランスナショナルな思想が独立運動の後押しをしました。

 また、パン・アフリカ運動、パン・イスラム運動といった運動も独立運動を後押ししたトランスナショナルな思想です。

 

 しかし、独立した植民地のモデルになったのは国民国家でした。

 この背景には、アメリカ合衆国というモデルがあり、そのアメリカのウィルソンやフランクリン・ローズヴェルト民族自決を唱えたこと、特定の場所やコミュニティに結ぶついた主張のほうが力を持ったことなどが挙げられるといいます。

 

 しかし国民国家創設のための努力は地域、職業、言語、民族などの差異を増幅させてしまうことにもなりました。

 1945〜99年の間で国家間の戦争は25でしたが、内戦は127ありました。内戦の死者数は1620万人で、国家間の戦争で亡くなった330万人を大きく上回りました。

 

 このような国民国家創設の中で、インドとパキスタンは暴力が吹き荒れる中で分離し、植民者は逃げ出しました。ただし。パレスチナイスラエルでは入植者が逃げ出さずに支配者となりました。

 また、植民地支配の一端を担っていたマイノリティも大きな苦難に見舞われることになります。

 内戦は冷戦構造の中で強化されました。米ソの超大国は勢力の拡大のために対立する陣営を支援し、内戦をエスカレートさせました。

 

 米ソの両国は実質的な帝国としても存続し、特にソ連は東欧諸国の自律的な動きを制限し、周辺をソ連の中の「共和国」として支配しました。

 ここからソ連崩壊後の各共和国の独立を「脱植民地化」として捉えることができます。

 

 本書はあくまでも入門書であり、以上のようなことがざっくりと回てある感じなのですが、それでも「脱植民地化」という大きな問題について、考えるべきポイントや意外に知られていない部分に光を当ててくれる本です。