2014年の雨傘運動、2019年の「逃亡犯条例」改正反対の巨大デモ、そして2020年の香港国家安全維持法(国安法)の制定による民主と自由の蒸発という大きな変化を経験した香港。その香港の大きな変動を政治学者でもある著者が分析した本。
香港返還からの中国と香港のそれぞれの動きを見ながら、さまざまな世論調査なども引用しつつ、いかに香港が「政治化」したか、そして香港を取り巻く情勢がいかに変わっていたのかを論じています。
目次は以下の通り。
序 章 香港政治危機はなぜ起きたか
第一章 中央政府の対香港政策――鄧小平の香港から,習近平の香港へ
第二章 香港市民の政治的覚醒――経済都市の変貌
第三章 「中港矛盾」の出現と激化――経済融合の効果と限界
第四章 民主化問題の展開――制度設計の意図と誤算
第五章 自由への脅威――多元的市民社会と一党支配の相克
第六章 加速する香港問題の「新冷戦化」――巻き込み,巻き込まれる国際社会と香港
終 章 「国安法」後の香港
第1章では、返還時の「一国二制度」が国安法制定によって「一国一制度」になるまでの流れが中国側の視点から描かれています。
香港返還にあたって鄧小平は「一国二制度」を導入することを決め、特にその経済的な部分については変えないことを約束しました。また、「港人治港(香港人による香港統治」と「高度の自治」も約束しましたが、この「港人治港」は鄧小平に言わせると「愛国者」による統治というもので、曖昧な部分を残したものでした。
一方、イギリスは「自治」を「民主化」と考えて民主化を進めますが、これに対して中国は反発し、中国とイギリスの以降がずれたまま返還を迎えることになります。
江沢民は基本的に相互不干渉の立場で香港に臨みました。92年に着任した最後の総督であるクリス・パッテンが民主化をさらに進めると中国側は強く反発しますが、97年の返還は平穏なもとで行われます。
ただし、この時期は香港経済にとっては受難の時期で、アジア通貨危機のあおりを受けて香港ドルは投機筋の攻撃を受け、また、97年冬には鳥インフルエンザの流行がありました。さらに2003年にはSARSによって打撃を受け、GDPは大幅なマイナスとなりました。
こうした中で法輪功取り締まりなどを目的に「二三条立法」と呼ばれる治安立法が試みられますが、03年7月1日には主催者発表で50万人規模の反対デモが起こり、条例は廃案に追い込まれました。
このデモは香港政策が大きく転換されるきっかけとなりました。江沢民に代わって最高指導者となった胡錦濤は、経済における「中港融合」を進め、大陸から香港への個人観光客を解禁しました。これによって香港の小売・観光業は大いに潤い、経済はV字回復しました。
一方で早期の普通選挙を却下し、不人気だった董建華行政長官を更迭するなど、香港政治に介入する姿勢を見せました。また、2017年に行政長官の普通選挙、2020年に立法会議員全面普通選挙化を可とするタイムスケジュールも示しました。
「中港融合」は香港経済を助けましたが、同時に中国人観光客による「爆買い」や不動産価格の高騰などの社会問題も生み、香港では「香港人」の意識が高まります。2012年には「国民教育」の必修化が若者らの座り込みで撤回されるなど、香港人の政治意識も高まってきます。
こうした中、行政長官選挙の候補者が事前に指名委員会で選ばれる方式になるということが判明すると、2014年9月には若者等による街頭の占拠運動が起こります。雨傘運動です。これに対して中央政府は、大陸への影響を抑え込みつつ、これを無視する形で運動を自然消滅に追い込みました。
しかし、雨傘運動の挫折後、若者たちは「香港独立」を掲げるようになります。こうなると中央政府もこれらの動きを座視せずに、「独立」を掲げる議員の出馬資格を剥奪したり、就任宣誓を拒んだ民主派議員を失職させました。
習近平指導部は、香港に対してかなり具体的な指示を出すようになっており、「香港が「中国の夢に『融入』し、香港の夢を実現する」(51p)ことを願うと発言しています。不干渉路線は破棄され、本土との一体化がはかられるようになったのです。
こうして香港の民主化運動が抑え込まれる中でまさかの盛り上がりを見せたのが2019年尾「逃亡犯条例」改正問題をめぐる運動です。
2015〜16年にかけて銅鑼湾書店の関係者が失踪し大陸で拘束を受けていたことが明らかになった事件の影響もあり、香港の人びとは「人身の自由」に不安をいだいていましたが、この「逃亡犯条例」の改正は、その「人身の自由」を骨抜きにするものだと捉えられ、民主化運動以上の支持を得たのです。
香港政府と中央政府は反対の声を無視してこれを強行しようとしましたが、6月9日には主催者発表109万人という返還後最大のデモが行われます。
香港政府は審議の一時停止で沈静化をはかりますが、6月16日には主催者発表で200万人規模のデモとなり、抗議運動はさまざまな形で展開していきました。中央政府もさまざまな手段で抑え込みにかかりますが、11月の区議会議員選挙では民主派が歴史的な大勝を収めました。
これが2020年の国安法制定につながるわけですが、第2章、第3章では、「なぜ香港がここまで政治化したのか?」という問題を見ていきます。
「香港人は金儲けにしか興味がない」と言われています。確かに1997〜2005年の調査を見ると市民の関心は経済問題に向いています。しかし、2010年頃から民生(社会)問題への関心がトップに立ち、2018年からは政治問題が急伸し、経済問題への関心は一番低くなっています(73p図1参照)。
香港人が政治的関心を持たない理由としては、そもそも市民の多くが国共内戦などから逃れてきた難民であった、英語が唯一の公用語という中で政治的な意見に関する意思疎通が難しかった、香港では国民党も共産党の非合法化されイギリスの手によって「脱政治化」が進められたことなどがあげられます。
しかし、返還とともに香港は「脱植民地化」され、人びとは次第に政治にも関心を向けるようになるのです。
ただし、中央政府は2003年の50万人デモの要因をあくまでも経済問題として捉え、「中港融合」による経済のテコ入れでこの不満に対処しました。
ところが、この50万人デモのあとに育った若者たちの政治意識やアイデンティティには大きな変化が見られました。自分を「中国人」・「香港人」・「香港の中国人」・「中国の香港人」のいずれで称するかを問う調査で、2008年の調査では18〜29歳の41.2%が「広義の中国人」(「中国人」+「香港の中国人」)だと答えたのに対して、2018年の調査で「広義の中国人」を選んだ18〜29歳はわずか3.1%です(30歳以上は40.8%。92p)。世代の入れ替わりとともに若者の意識が一変したのです。
この若者たちが中核となったのが雨傘運動です。非暴力、そしてインターネットを活用しながら行われた運動で、大きなインパクトを残しましたが、民主的な普通選挙の実現という目標を達成することはできませんでした。
この挫折を経て、若者の間にはさまざまな考えが生まれてきます。区議会議員選挙などにチャレンジしてコミュニティから変えていこうとする者がいる一方で、香港独立を唱える「本土派」も台頭しました。
香港における「本土」とは、もともとアジア経済危機後の香港の地元経済を表す意味の「本土経済」で多用されていましたが、次第に香港の文化を守るため用語、香港ナショナリズムの用語として転用されていきます。
彼らは今までのように中国の民主化を求めるようなことはせず、中国と香港は別だとした上で、民主派の非暴力などを批判しました。
この民主派の分裂は中央政府にとっては思い通りの展開でした。本土派などは過激化して衰退していくと思われたのです。
ところが、「逃亡犯条例」改正反対デモは香港に大同団結を生み出し、香港政府や中央政府も民主派と本土派を分断させることはできませんでした。
では、なぜここまで対中感情が悪化してしまったのか? それを解き明かすのが第3章です。
香港市民の中央政府に信任は、返還から10年ほどは高く、2010年頃から低下し、2014年に不信任が信任を上回っています(124p図1参照)。
2010年頃に何が起こったかというと、08〜09年のリーマンショックを受けて大陸からの個人観光客が解禁された時期です。
この個人観光客によって香港市民の経済的不満は収まりますが、民生への不満が高まってきます(129p図4図5参照)。買い物客の増加とともにインフレや粉ミルクなどの生活必需品の品不足などが生じました。さらに香港永住権を得るために香港で出産しようとする大陸人女性が増え、参加病床不足なども深刻になりました。
さらに不動産価格の高騰が、若者や低所得者層に大きな打撃となりました。
「中港融合」によって大きな利益を得たビジネスマンも多くいましたが、多くの庶民にとっては「開かれた」香港から大陸の人々がさまざまなものを奪っていき、一方、大陸側は相変わらず「閉じた」ままだという認識でした。
こうした中で、職能別選挙という業界ごとの利益を反映させるような選挙制度はますます民意を捉えられなくなっていきます。
また、中国が香港に置いて「愛国」教育を行ったことが、かえって香港の若者の香港ナショナリズムを高めたという見方もありますし、「中港融合」によって中国のニュースが身近に伝えられるようになると、中国の人権派弁護士などへの弾圧が中国の悪い印象を強化したという面もあります。
こうしたさまざまな要因が、若者に「香港人」としてのアイデンティティをもたせることになったと考えられます。
香港の民主化運動は中央政府に潰されることになるわけですが、それはいかなる制度のもとで行われ、いかなる問題を抱えていたのかということを分析したのが第4章です。
香港の民主化の特徴は民主化が進む最中に主権がイギリスから中国に交代したことです。1980年代に始まった香港の民主化は、97年の香港返還をまたいで行われました。
1979年、マレー・マクルホース総督が北京を訪れますが、ここでイギリスは鄧小平が97年に香港を回収する意図を持っていることを確認します。これまで香港の民主化は中国を刺激するとして回避されていきましたが、返還が現実になったことで中国要因はむしろ民主化を促進するものとなりました。
1989年6月に天安門事件が起こると、中国と欧米の対立は深まりますが、事件前の2月に発表された基本法における、行政長官と立法会を将来普通選挙化するという部分はなくなりませんでした。イギリスは香港の動揺を抑えるためには民主化が必要だと訴え、返還時の普通選挙議席数を15から20議席に上積みさせることにも成功しています。
しかし、92年に着任したパッテンはさらなる民主化を推し進め、北京の反発を呼びました。パッテンは立法評議会の選挙の民主化を進めますが、これに対して北京は返還とともに立法評議会を解散させることとします。
パッテンによる民主化は、かえって北京に対するフリーハンドを与えることになったとも言えるのです。
では、中国が目指す政治とはどのようなものだったのか?
まず、あげられるのが「行政主導」です。これは、香港の統治制度がもともとそうだったということもあるのですが、行政長官の人事は北京の意向が通りやすく、また、中国の「民主集中制」と通じるものがあったからです。
2009年に全人代委員長の呉邦国は「絶対に西側の複数政党制・三権分立・二院制などをやらない」(192p)と述べたそうですが、共産党政権にとって権力分立は複数政党制と同じように悪いものなのです。
北京は政党の影響力も可能な限り排除しようとしました。行政長官が政党員であれば在任中は離党することが求められ、一種の「超然内閣」が求められました。
また、職能別選挙を導入し、その各枠の有権者資格を細かくコントロールすることで都合のいい議員を選べる余地をつくり、さらにその枠を財界に傾斜配分しています。
選挙制度に関してはパッテンが導入した小選挙区制を退け、「最大剰余方式」の比例代表制で足切り条項もなしという小政党に有利な制度を導入しました。これは民主派が大規模な政党をつくって力を得ることを阻止するためでした。こうした制度によって香港はほぼ1人1政党という状況になります。
このように北京は政党、特に大規模政党を徹底的に排除する仕組みをつくり上げましたが、その結果、返還から16年間(2013年まで)で法案成立率が55.6%という、「行政主導」とは言えない状況が出現します。
行政長官が率いる政党が存在せず、しかも小党分立が続く中で、立法会をコントロールすることは難しかったのです。
さまざまな紆余曲折があったものの、2005年頃からしばらくは香港と中国の間がうまくいっており、2007年の行政長官選挙では現職の曽蔭権(ドナルド・ツァン)に民主派の梁家傑(アラン・リョン)が挑戦し、曽が勝利するという競争的な選挙になりました。
これを受けて、北京は香港市民は現実的な選択をするだろうとして2017年の行政長官選挙を普通選挙で行うのも可としました。基本法の最終目標である普通選挙実現の日程が示されたのです。
しかし、先に述べたように北京はあくまでも候補者を自らで選定する姿勢を崩さず、それが雨傘運動につながっていきます。
これに対して、北京は民主派の議員の資格取消(DQ)を行うことで民主派を抑圧していくことになります。
第5章では香港における「自由」がとり上げられています。
香港は返還前から「民主はないが、自由はある体制」(244p)と言われてきました。フリーダム・ハウスの調査でも「政治的権利」は低いものの、表現の自由・集会と結社の自由・法の支配と言った「市民的自由」では先進国並みと評価されてきました。
これには、もともとイギリスが危機の際を除けば植民地の内部の問題に関心を持たなかったこと、植民地当局が自らの機能を限定し、華人社会への介入を控えたこと、冷戦下で中国を怒らせるような行動が手控えられたことなどの背景があります。
このように植民地当局が「小さな政府」を志向する中で、香港では宗教団体や慈善団体などの中間組織が教育や組織で大きな役割を果たすことになります。
一方、香港はイギリスの植民地であったことで国連の諸人権条約の効力が及びました。また、冷静下の香港では、共産党と国民党の対立などを起こさせないために法治が進みます。香港政庁はセンシティブな決定を裁判所に委ねるようになったのです。
返還後、中国は共産党組織をつくり、低所得者層にさまざまなサービスを行うことなどによって市民の取り込みをはかります。同時に財界やメディアも押さえました。
しかし、香港の財界も一枚岩ではないですし、もともと大陸から逃げてきた者も多く、完全に取り込めたわけではありません、親中メディアは商業的には成功しませんでした。さらに中国ではさまざまな規制をかけてるネットも香港では自由に見ることができるため、Facebookのユーザーは香港の総人口の60%を超えるといいます(276p)。
こうした香港の自由・市民社会・法治は「下からの抵抗運動のインフラ」(278p)ともなりました。規制のかかっていないネット空間もあって、中国本土では考えられないような抵抗の足場ができたのです。
しかし、中国側から見ると民主化運動を抑え込むためにはこれらの基盤を破壊する必要があるということも意味します。
中央政府は香港のメディアを弾圧し、民主化運動の運動家に対して厳罰を課し、さらには国安法で自由そのものを圧殺しようとしています。ソフトパワー、あるいはシャープ・パワーと呼ばれる情報操作などで香港を変えようとしましたが、結局はハード・パワーで変えることを選択したのです。
第6章では香港問題と国際社会の関係について論じています。
香港は中国の一部ですが、同時に西洋化された価値観に基づく国際的ネットワークを持っています。こうしたこともあって諸外国(特に先進諸国)は香港を中国とは別の場所として捉えます。一方、中国にとって香港問題はあくまでも内政です。
こうしたズレが米中「新冷戦」とも言うべき状況の中で、さらに厄介な問題を生んでいるのが現在の香港の状況です。アメリカは中国の異質性を示すものとして香港の人権状況などをとり上げ、それに対して中国は香港の民主化運動の背後に外国勢力の影響を見ています。
また、香港の問題に対してアメリカがどこまでの制裁を課すのかもポイントです。香港ドルはドルとのペッグ制をとっていますが、アメリカがドルの供給を妨害する措置を取ればペッグ制は崩壊し、香港経済は大打撃を受けると考えられます。
終章では国安法制定後の香港の行方についてです。
国安法は、国家分裂、国家政権転覆、テロ活動、外国との結託という4つの行為を取り締まっていますが、その対象はかなり広く、平和的な民主活動であっても逮捕される可能性があります。
国安法は香港社会に巨大な萎縮効果をもたらしており、表現の自由、学問の自由と言ったものも失われつつあります。さらに行政長官選挙、選挙委員会選挙、立法会議員選挙のいずれにおいても候補者が立候補できるかどうかは政府の一存で決定されるようになり、民主化も大きく後退しました。
こうした中で、今まで親中派と考えられており、北京も香港統治の頼りとしてきた財界と中央政府の関係にも変化の兆しがあります。北京には財界中心の統治が不動産価格の高騰などを通じて香港社会の不安定化をもたらしたとの認識もありますし、香港の財界人には「脱出」という手段もちらついていることでしょう。
左派系労組などが影響力を拡大し、「中国式」の統治がますます進むという未来も考えられます。
長いまとめになりましたが、これでも相当端折ってあります。本書はまさに現在の香港の政治危機を総合的に論じたもので、これだけのものがタイムリーに出てきたことはすごいことだと思います。
ただし、当然ではあるのですが、本書を読んだから香港の今後について何か活路が見えてくるというものでもありません。本書では香港が政治化した原因がさまざま指摘されていますが、原因がわかったからといって現在の危機を解消する方法が見つかるわけではないのです。
そういったことから「面白かった」という感想は持ちにくいのですが、それでも現在の東アジア情勢を考える上で広く読めれるべき本であることは間違いないです。